フェザータッチ・オペレーション
<22>





最初に気がついたのは、三人を起こしに来たローデリヒであった。
朝、なかなか起きて来ないフェリシアーノの様子を見に、彼の子供部屋をノックしたのだが、 ベッドの中はもぬけの殻である。ならば、とルートヴィッヒの部屋のドアをノックした。 寂しがりやのフェリシアーノが、ルートヴィッヒのベットに入り込む事は珍しくない。 しかしそちらのベットにも、二人の姿は見当たらなかった。
やれやれと溜息をついたローデリヒは、最後に菊の部屋の扉を叩いた。 恐らく名残を惜しんで三人で一緒に寝たのであろう…そんな妥当な判断は、 しかし菊の空になったベットを見て打ち消される。
おかしいですね。気が付かなかっただけで、三人とももう先に起きていて、どこかに居るのでしょうか。 それにしては朝食を食べに来ないし、姿も見えません。
途中出会ったエリザベータにも助けを借り、更に使用人にも手伝わせて、三人の姿を捜索する。 リビング、屋根裏、裏庭、屋敷の前、近くにある公園…それでも見つからない子供達の姿。
そこで、漸く異変に気が付いた。





「おいおい、マジかよ…」
ローデリヒの連絡に、急遽出先から帰って来たギルベルトは、誰も居ない菊の部屋を眺めて片眉をつり上げる。
きちんと整頓された子供部屋。ぐるりと見回した所、以前菊に選ばせて与えた旅行鞄が見当たらない。 ルートヴィッヒの部屋も同様、フェリシアーノもまたお気に入りの鞄が部屋の中から無くなっている。
「ったく、なに考えているんだ、あの馬鹿共は」
額に手を当てて天井を見上げる。 三人そろって駆け落ちか?痛む頭に、激怒する王耀の顔が浮かんだ。
小さな子供だ、いくらなんでも夜中に外出することは無かろう。そうなると早朝か。 しかし、ギルベルトも今朝は早い時間に屋敷を出たが、その時にはそんな気配は感じられなかった。 どちらにしても、幼子の足ではそう遠くへも行けるとも思えないが。
「気になる情報もあります」
屋敷の外を探した使用人から聞いた話だが、街中で旅行鞄を持った三人の子供を見かけた人がいたらしい。
問題はその見かけたという場所だ。はあ?とギルベルトは声を上げた。
「まさかあいつら…」
その呟きに、ローデリヒも眉根を寄せて指先で眼鏡を押し上げる。 この屋敷から見て、彼らを見たという場所、そしてその延長上にあるものは。
「その、まさかかもしれませんね」
「でもここからは、結構距離がありますよ」
いつもは馬車か車で向かっている。歩いて行けない距離ではないが、子供の足では些か厳しいだろう。
だが、あり得なくは無い。ギルベルトはわしわしと自分の髪をかき回した。
「とりあえず、行ってみる」
お前らは念の為、もう一度近辺を探せ。それから王耀を頼むぞ。
そう言い残すと、コートの袖に腕を通しながら、ギルベルトは身を翻した。
















身の回りの物を詰め込んだ革の鞄は重たい。 引き摺るように右手で持って、左手に持ち直し、歩いては休み、 休んでは歩き…それを繰り返しながら三人は並んで足を運ぶ。
幾度となく通った道なので、迷う事は無い。 しかしいつもは車や馬車に乗ってあっと言う間だと思っていたが、実は自分が思う以上に長い距離があったようだ。 これからの事を考えて、出来るだけ沢山の諸々を詰め込んだ自分の荷物の重さが、今は少々恨めしかった。
だけど泣き言は言わない。ルートヴィッヒは黙々と前を睨みつけるように、 フェリシアーノは鼻歌交じりに何処か楽しそうに、菊はただ表情を崩す事無く石畳を踏みしめる。
屋敷を出た時に立ち込めていた朝靄は、既ににすっかり消えた。 夜が明けたばかりの薄暗さのあった街は、気付けば人が行き交い活気に溢れ、見上げると空に昇った太陽が眩しい。
そうして、思っていたよりもずっとずっと時間が掛かってしまったが、漸く三人は目指す場所へと到着した。
足を止めて見上げるのは、街の中心にある大きな駅。
ターミナルとなっているこの街の駅は、かなりの広さと大きさがあった。 沢山の人でざわめき、幾つも連なる線路とホームは、 子供の視線の高さからでは、まるで迷路のように複雑で入り組んで見える。
圧倒されるようなそこを、だがフェリシアーノは慣れた調子で進んだ。 ルートヴィッヒと菊はその後ろに続く。
何せ、三人の中で一番汽車に乗り慣れているのは、定期的に兄の元へと訪問しているフェリシアーノだ。 乗る汽車も、ホームも、乗り換え駅も、いつも全く同じもの。 だから迷う事無く、常と同じ奥へと一直線に向かう。 フェリシアーノはこのホーム以外の乗車を知らない。 汽車に乗る時はここからなのだと、深く考える事無く思い込んでいた。
いつものそこには、既に汽車が停車していた。それに、にこにこ顔で菊とルートヴィッヒを手招きをする。 誘いのままに、子供達は荷物を抱えながら、停車していた汽車へと乗り込んだ。
狭い乗車口から車両に入ると、一番手前にあった向かい合わせの四人掛け席に、三人は飛び乗るように腰を下ろす。
ローデリヒやギルベルトが、いつも決められた指定席に連れて来ていたなんて、勿論子供達が知る由も無い。 見晴しの良い窓際を争うように陣取って、無邪気にはしゃいで外を覗き込む。
汽笛が鳴る。がたんと発車した振動に、座席に座った小さな体が揺れる。
動き出した車窓の眺めにきゃあきゃあと声を上げ、普段は決してしないけど、シートの上によじ登り、 窓に身を乗り出して遠ざかる街を見送った。
発車間際に飛び込んだ一人には、誰も気付かなかった。





だって、三人で一緒にいられなくなるのだ。
だけど、三人で一緒にいたいのだ。
だから、三人で一緒にいることができる場所へ行くのだ。


子供達にとって、三人だけで旅立つまだ見ないその先の世界は、とてつもない希望と幸せに満ち溢れて見えた。
そして、三人がいつまでも一緒にいられるという願いが叶う事を、信じて疑わなかった。











「それから、あそこに座っている、三人分もだ」
「ん…わがっだ」
「とりあえず、終点まで」

















街を、平原を、川を、森を、車窓越しに見送りながら。
規則的な振動は、疲れた体に心地好い。 いつもよりも早起きして、重い荷物を持って、長い道のりを歩いた小さな体は、自然眠気に誘われる。
まあるい三つの頭が、それぞれの角度にうつらうつらと船を漕ぎ、夢と現の行ったり来たりを繰り返す。 窓から差し込む柔らかい陽光が、ふわふわと暖かかった。
そして、かたんとした振動とざわめきに目を覚ました。
どうやら、幾つ目かの停車駅に到着したらしい。時間の調整の為に、暫しここで停車待ちをするようだ。 好奇心のままに、三人は車窓を全開にし、横並びに小さな頭を窓縁から覗かせる。
大きな駅のホームには、人がごった返していた。 同じ様に窓から乗り出す乗客に、ランチの販売をする声が投げられている。そうか、そんな時間なのだ。 ちらりと隣を見ると、車窓から延びた手が、ランチの包みとコインを交換する様子が見えた。
フェリシアーノはヴェー…と声を上げて、小さなお腹に手を当てる。くうと音を立てる虫の音に眉尻を下げた。 そう言えば、早朝にこっそりと屋敷を抜け出してきたので、三人とも朝食を摂っていない。
以前、ギルベルトと共に汽車に乗った時は、ああして窓越しに購入したサンドウィッチを皆で食べたっけ。 初めて口にした汽車でのランチに、菊は随分と興奮して、あっという間に食べてしまい、 その余りの早さに一緒に食べて居た皆を驚かせた。 帰りの汽車では、お土産に持たせてくれたタルト・オ・マンが美味しくて、食べきるのが勿体無くって、 わざとゆっくり味わって食べた。そんな回想に、空腹が更なる主張を始める。
当然ながら、三人ともお金は持っていない。菊は言わずもがな、ルートヴィッヒも、フェリシアーノも。
どうだい、買うかい?掛けられた販売の声に、三人はおずおずと目配せをするが、誰も返事が出来ない。 それに気を止める事さえ無く、若いランチ売りの少年は、そのままあちらへと行ってしまった。
やがて、汽笛が鳴った。
がたんと伝わる発車の振動。遠ざかる駅と、そしてランチ売り。 後ろ髪引かれるように、車窓の向こう側へと視線を送り、空腹を訴えるお腹をさすり、 しょんぼりと椅子の上で俯く。
そんな三人の目の前に。
「これ、どうぞ」
ひょいと差し出されたのは、先程のランチ売りの物と同じであろう包みが三つ。 思いがけないそれに、子供達は目をまんまるくする。
顔を上げると、柔らかい印象を持つ青年が、こちらに優しげに笑いかけていた。
「え、えっと…さっきの駅で、間違って買い過ぎちゃったんですよ」
全っ然遠慮なんかする必要はないですよ。ほら、皆で食べて下さい。
見知らぬ人からの突然の好意に、三人はきょとりと目を見合わせる。 人の良さそうにえへへと笑う彼に、悪意は全く見えない。
ルートヴィッヒは困惑顔をしたが、それよりも先に飛びついたのはフェリシアーノだ。 きゃあと声を上げると、彼の手から包みを受け取り、早速かさかさと開く。 そして覗いたサンドウィッチを、大口を開けてぱくりとおいしそうに頬張った。 空腹続きの中、漸く口に出来た食べ物に、蕩けるような笑顔になる。
広がるパンとチーズの香りに、ルートヴィッヒのお腹もくうと音を立てる。しかし戸惑いは消えない。 彷徨う視線の先、菊がシートからひょこりと立ち上がった。
そして青年の前に姿勢を正すと、ぺこりと丁寧に頭を下げ、彼の手にあった残りのサンドウィッチを二つ、 小さな右の手と左の手で受け取る。もう一度頭を下げると、二つの内の一つを、ルートヴィッヒに差し出した。
ルートヴィッヒは眉間に皺を寄せ、受け取ったそれと、菊と、青年を見比べる。 青年は軽く頷いて見せた。
「本当に遠慮しないでいいですから。さ、食べて下さい」
シートに座り直した菊も、ぱくりとサンドウィッチに齧り付いた。 それを見届けてから、漸くルートヴィッヒは包みを開く。 ハムとチーズを挟んだそれを一口、ふわりとライ麦の香りが広がった。
一度口にしてしまえば、後は夢中になって貪るばかり。 その様子を微笑ましげに見届けていた青年が、そっとその場を立ち去った事にさえ気づかない。
勿論、彼が隣の車両に戻った際に交わした会話など、全く知らぬ事だった。





「あれで良かったですか」
「ああ、礼を言う」
「いえいえ、僕は貴方が買ったものを渡しただけですから」











汽車は走る。長い線路を、かたかたと振動を伝えて。
車両の中を探検したり、シートの上に寝転がったり、背凭れに身を乗り出したり、 そんな今までした事のないようなあれこれにも挑戦する。
何せ、諌めるエリザベータも、厳しいローデリヒも、怖いギルベルトも居ない。 注意する人も、監視する人も、叱る人も、怒る人も不在という状況は、もしかすると初めてではなかろうか。 そんな解放感と、緊張と、冒険に、三人はやや浮かれていた。
時折、横の通路を制服姿の車掌が通り過ぎて行く。 乗車客に切符の確認をしているのだが、ちらりと視線は向けられるものの、三人の元へは決してやってこない。
その不自然さに、子供達は誰も気付かなかった。











ぱちりと目の覚めたルートヴィッヒは、手の甲で目を擦りながら身を起こした。
どうやら、気付かない内に二人掛けのシートに横になっていたらしい。 顔を上げると向かい側のシートには、隣り合わせに座っていた菊とフェリシアーノが、 折り重なるような寝苦しい姿勢で凭れ合いながら、それでも健やかな寝息を立てている。
それをじいっと見つめ、そしてシートから降りると、そおっと顔を寄せて、小作りな菊の顔を覗き込む。 ぐっすりと良く眠っているらしい。その下には、涎を垂らしたフェリシアーノの顔もあった。
ころりと横向きに目を閉じる菊の黒い髪を、ルートヴィッヒは雛鳥に触れるような慎重さで、さらりと撫でた。
真っ直ぐで癖の無い髪は、指の間をするりとすり抜ける。 自分とは全く違ったその触り心地に、きゅっと唇を引き締めた。





はた、と菊は目を開いた。
瞬きを繰り返し、そしてすぐ目の前にある薄い空の色の瞳に気が付く。
交じり合う、黒と青の瞳。夢見心地の闇色の瞳が、やがて現実に戻ってくると、もそりと体を起こした。
膝の上には、フェリシアーノが小さな頭を乗せている。 そのフェリシアーノの体ごともぞもぞと身を寄せて、菊は自分の隣にスペースを空けた。
そして、子供一人分程開けた座席のシートを、ぽん、と軽く叩いて示す。
その意図を読み取ると、ルートヴィッヒはほんのり頬を赤くしたまま、菊の隣、わざわざ空けたスペースに入り込む。 子供とはいえ、二人掛けシートに三人で座るのはやや狭い。それでも何とか並んで座る事が出来た。
肩の触れる距離から、菊とルートヴィッヒは目を合わせる。
言葉もなく、ただ見つめることしかできないルートヴィッヒに、菊は手を伸ばし、 その柔らかい金の髪をそっと撫でた。





ふっと目を開けたフェリシアーノは、横を向いていた身体をころりと転がし、仰向けになる。
見上げると、こちらを見下ろす菊と、その隣のルートヴィッヒの顔。 こちらに注がれた二人の視線に、ほにゃりと笑って欠伸をした。
丸まって眠っていた身体をうんと伸ばし、ぴょこりと起き上がると、狭いシートにも関わらず、 更に引っ付こうと菊へと身を寄せる。二人が傍にいるのが、嬉しくて堪らず、笑顔に小花を散らせる。
にこにこと笑い、二人を見て、そして、ヴェ、と声を上げた。 小さな手をぱたぱたさせて示す先に、ルートヴィッヒと菊も顔を向け、差し込む光に思わず目を細める。
車窓から見えるのは、まるでこの世のものとは思えないような、鮮やかな夕焼けの色。 真っ赤に焼けた空と風景の彩りに、三人は瞬きを繰り返した。























汽車が停車する。
駅に停まるのは、もうこれで何度目だろう。太陽はもうとっくに姿を消して、闇色の空には星が光っていた。
後ろのシートに座っていた人が、荷物を手に三人の横をすり抜けて行く。 通路を挟んだあちらのシートに座っていた人は、もうとっくの前に下車していた。
しん、と静まり返った車内。薄暗い電灯の明かりが、物悲しさを醸し出している。 首を伸ばして見回すと、どうやら車両の中に残っているのは、自分達だけになってしまったようである。
がしゃん、と連結の扉が開いた。その音にびくりと顔を上げる。
姿を見せたのは、制服を着て眼鏡をかけた、長身の車掌だ。 こちらの姿を認めると、一度ちらりと窓の向こうを見遣り、そして子供達の前に立つ。 その威圧感に、子供達は小さな体を固くした。
「終点だっぺ」
この汽車は、これから車両庫へ向かうらしい。ここでもう終わりなのだ。
三人は重い荷物を手にすると、慌てて汽車から降りた。 一番後ろのフェリシアーノが乗車口から降りたのを見送ると、無愛想な車掌は「ん」と軽く頷く。 振り仰ぐ子供達を見下ろし、ちらりと向こうの駅待合室へと視線をやって。
「気ぃづけてな」
手に持っていた灯の付いたカンテラをくるりと回し、運転士に合図をする。 汽笛が鳴り、発車し、線路の向こうへと姿を消す汽車を、三人は呆然と見送った。
そして、互いを見遣る。
さて、これからどうしよう。閑散とした駅に、三人は途方に暮れる。
ここは、何処だろう。ぐるりと周囲を見回せど、人の姿も見当たらない。 ぽつり、ぽつりとしたガス灯の光が風に煽られ、三人の影がゆうらりと揺れる。
とりあえず、三人は駅を出た。 目の前に広がるのは、見た事の無い街並み。人気のないひっそりとしたそこに、何処からか犬の遠吠えが聞こえる。 フェリシアーノは、きゅっと菊の袖を握りしめた。
全く知らない駅、知らない町。行き場も判らず立ち尽くす三人は、ここで初めて不安を覚えた。
今までは、常に頼る誰かが傍に居た。エリザベータであったり、ローデリヒ、ギルベルト、王耀であったり。 彼らはこちらの知らない事を何でも知っていて、彼らについて行けば何も困る事は無くて、 不安も心配も感じた事は無かった。
だけど今、そんな頼れる誰かはここにはいない。
くう、と誰かのお腹が鳴った。三人とも、今日はランチを食べたきり、それ以外は何も口にしていない。 視線を交わし合うと、またお腹が鳴る音。これは誰のだろう。 ヴェ、とフェリシアーノが泣きだしそうな声を上げる。菊は顔を背け、ルートヴィッヒも辛そうに俯いた。
菊は自分の鞄を地面に置くと、ぱくんと開いた。 ごそごそと中を探り、そして一番底にあった硝子の小瓶を取り出す。
入っているのは、三粒の金平糖。
その昔、菊の屋敷に来た客人がくれた、大切な最後の三粒。今、菊が持っている、唯一の食べ物だ。
蓋を取り、桃色と黄色と白色の星粒がころりと菊の掌に転がった。 その掌を、フェリシアーノに差し出す。
ぱあっと笑顔になりながら、フェリシアーノは一番手前にあった桃色の星粒を手に取った。 ぱくりと口に放り込む。広がる甘みに、ヴェ、ヴェ、と声を上げる。
続いてその手を差し出され、ルートヴィッヒは黄色の粒を手に取った。 ぽい、と口の中に放り投げるのを見届けて、残った白を菊は口に入れる。
素朴な甘み。でもそれは、あっと言う間に溶けて、消えて、無くなってしまう。
小さな金平糖の一粒なんて、空腹をごまかせる力もない。寧ろ、逆に強調する結果となってしまう。 力の入らない身体に泣きべそをかきながら、フェリシアーノはぺたりとその場に座り込んだ。
お腹が空いた。知らない場所。寒い。疲れた。犬の遠吠え。静かな夜の街。街灯に揺らめく影。暗い闇色の空。
押し寄せるような不安感に、お腹の奥がきゅうっとなる。 どうすればいいのか。何処に行けばいいのか。何をすればいいのか。どうしよう。どうしよう。どうしよう。
幼い子供の頭の中は、ぐるぐると渦を巻くだけ。
ただ、こうして立ち尽くす事しかできない。





汽車に乗れば、何とかなると思った。
三人が一緒なら、何とかなると思った。
逃げ出してしまえば、何とかなると思った。


でも…。











かつり、と足音がした。
背後、駅の中からのそれに、何気なくルートヴィッヒは振り返り、そして大きく目を瞠る。 その不自然さに、菊とフェリシアーノも振り返った。
逆光に浮かぶシルエットに目を凝らす。
見下ろしてくる特徴的な赤い瞳が、からかうように細まった。





「ったく…何やってんだよ」





ぽかんと見上げる三人に、溜息をひとつ。
「馬鹿だな、お前等」
呆れた声。半眼で見遣る目には、しかし予想していた怒りは感じられない。
佇む三人の前、ギルベルトはしゃがみ込んで、視線の高さを合わせる。
「自分達だけで、どうにか出来ると思ったか」
三人の顔をそれぞれ覗き込む。涙で濡れた顔。眉間に皺を寄せた顔。唇を噛みしめた顔。 全てを捨てる決心をした筈だった幼子の顔に浮かぶのは、どうしようもないもどかしさと、悲しさと、やるせなさ。
フェリシアーノちゃん。呼ばれ、泣き顔を上げる。
「逃げようって言い出したのはフェリシアーノちゃんか?」
こくりと頷く。 声楽の練習でも、勉強の時も、叱られた時も。最初に根を上げて逃げ出すのは、いつもフェリシアーノだ。
「逃げて、何か解決したか?」
ややあって、ふるふるとフェリシアーノは首を横に振る。
屋敷からこうして逃げ出したけど、結局何もできなかった。今回だけじゃない。 声楽だって、勉強だって、叱られた時だって。逃げたとしても、結局後回しになるだけで、何も変わらなかった。
逃げてどうにかなる事もあるだろう。 しかし世の中の大部分はそうじゃない、根本的な解決には至らない場合が殆どなのだ。
小さな頭に、ギルベルトはそっと手を乗せた。 その感触に、ぐしゃぐしゃと顔を崩し、フェリシアーノはギルベルトの首に抱きつく。
ルッツ。静かな声に、ぴくりとルートヴィッヒは肩を震わせる。
「悔しいか」
どうにかしたいのに、何もできない自分自分が悔しいか。問いかけに、暫しの間を置いて大きく頷く。
「だったら強くなれ」
何もできなかった自分の無力さを知ったなら、何でも出来ように強くなれ。 言っただろ、俺が知る事は全てお前に教えてやる。何事にも、何者にも惑わされない位に、強くなってみろ。
わしわしと頭を撫で回され、その勢いに、溜めていた涙がぼろりとこぼれる。 すん、と鼻を啜るその頭を抱え込むようにして、フェリシアーノとは反対側の肩口に押しつけさせる。
「…菊」
噛みしめるように呼ばれ、菊は顔を上げた。 相変わらず表情の映さないその面に、ギルベルトはわざとらしい顰め面を見せる。
「お前はもう少し、自分の考えている事をちゃんと口にしろ」
文化か何かは知らねえが、それが通用するのはお前の国だけだ。 我慢して、我慢して、自分の内に貯め込んで。 そして最後に勝手に爆発させて突飛な行動に出ても、周りは何も判らねえよ。
「お前の口は、食う為だけに在る訳じゃねえだろ」
ぴんとその小さな唇を指先で弾く。痛くは無い衝撃に、菊はきゅっと目を瞑った。
むう、と唇を抑えて睨みつけるが、その仮面のような表情が、ぼろりと崩れる。 幼子らしいその一瞬に、ギルベルトはくしゃりと笑った。
ほらよ。両手の塞がった状態で軽く顎をしゃくって見せると、菊はおずおずと歩み寄り、 フェリシアーノとルートヴィッヒの間、ギルベルトの胸元にそっと寄り添う。
そして実に控え目な仕草で、その胸元、スーツの襟をきゅっと握って縋った。











ゆらり、街灯に揺らめく三人の影。
べそをかき、震え、縋る小さな背中達を、ずっとギルベルトは宥めていた。








ネバーランドは何処にもないけれど
2011.02.16







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