フェザータッチ・オペレーション
<23>





中心都市から離れた港町。
少し前まで、ここは極小さな田舎町であった。 しかし昨今では遠方、特に東の大陸からの大型船の利用が年々増加している。 それに担って急速に開発が進み、今や海の玄関口として、新興都市の賑わいを見せていた。
多国籍な人間が集まる所以、自然港町特有の、異国情緒溢れる独特の街並みが随所に見られる。 様々な国を意識し、しかし何処の国にも当てはまらない、 無国籍でエスニックで洒落た建築物が多いのも港町の特徴だろう。
その一角に新築されたこのホテルも、そんな特徴を持つ建物のひとつであった。 ゆったりと造られたフロントのデザインは、オリエンタルをイメージしているらしい。 設置されたテーブルや壁を彩る絵画、置物なども、それに倣ったものが施されている。 東の大陸からの利用客が多いのは、こちらでは物珍しいそれらに、祖国の懐かしさを感じる為かも知れない。
その片隅にて。
無表情に立ちはだかるのは、厳めしい顔をした東洋人の男。 その前にはギルベルトとエリザベータ、更に一歩下がった所からローデリヒが対峙する。
だから。目の前の男を、形の良いアーモンド形の目が、きりりと睨みつけた。
「せめて王耀氏と会わせて下さいって言っているでしょ」
気丈なエリザベータの声に、男は機械的に首を横に振る。
彼は仕事で不在だ、ホテルに帰る時刻も判らず、自分は連絡が取れない、 連絡はこちらからする、だからもう帰れ。
先程から、これの繰り返しだ。一向に埒が明かない。





あれから。
ささやかな抵抗を終えた三人が帰還すると、待ち構えていた王耀は、即座に菊を連れてホテルへと移動した。
エリザベータやローデリヒが間に入り、必死で弁明をしたのだが、彼は全く聞く耳を持たない。 宿泊先さえ告げる事無く屋敷を去り、翌日代理人が残されたままだった菊の荷物を引き取りに来ると、 それ以後の音沙汰はぴたりと止まった。
何せ、王耀の怒りは凄まじい。
あんなに素直で、大人しくて、聞き分けの良かった菊がこんな事をするなんて。 この家に預けたのは、間違いだったね。我から離れている間に、菊は悪い子になってしまったあるよ。
散々喚き、怒り、罵り、憤り、言いたい事だけ言い残すと、後はもう問答無用の態である。 こちらが口を挟む余地さえ与えないので、話し合いも何もあったもんじゃない。 何とか連絡を入れるも、それらは悉く受け流され、更には仲介を置くまでに距離を取り、 不審と警戒を露わにしていた。
四方八方に手を回し、何とかこのホテルの宿泊を突き止めはした。 しかし面会に足を運んでも、こうして完全に拒絶される始末である。





それにしても、こりゃちっと異常だな。 前々から、何となく菊が彼を少々煩いと感じているような節は見受けられていた。 まあつまり、こういう訳か。
ちっと舌打ちするギルベルトの隣、ふるふるとエリザベータが握った拳を震わせている。 おいおい、俺は寧ろこっちの方が怖いぞ。
ちらりとあちらを振り返る。 ロビーの端には、心配そうにこちらの押し問答を窺うルートヴィッヒとフェリシアーノがいた。 辛そうに唇を噛締める顔と、今にも泣き出しそうな顔。それにひっそりと溜息をついた。
「おい。本当に今、王耀は不在なんだな」
頷く男。
「嘘ではありませんね」
棘を含んだローデリヒの声に、もう一度頷く。何処へ行ったのですか、その質問には判らないとの答え。 濁す言葉は流石にもう聞き飽きた。
ならばと、ギルベルトとローデリヒは目配せする。
おう、ギルベルトは隣のエリザベータに視線をやり、そして子供達の方へと顎で示した。 物言いたげな顔をしたものの、こちらの意図は伝わったらしい。 視線を残しながらその場を離れると、そのままルートヴィッヒとフェリシアーノの元へと向かった。
女性らしいしなやかな背中が、子供達からこちらの遣り取りが見えない位置に、さり気なく立ちはだかる。 それを横目に確認すると、ギルベルトは数枚の紙幣を取り出し、男の胸ポケットに差し込んだ。
「少しの間で良い」
男はぎょっと身を竦めた。収められた紙幣を取りだそうとするが、 それを抑え込むようにもう数枚を捩じり込む。
「別れの挨拶をするだけだ」
菊に直接会わせてくれ。 約束する、あんたがまずくなるような事は何もしねえよ。
しかし男は、強張った顔で首を振った。 忙しなく視線を動かし、もう直ぐホテルに到着する予定なので、とてもそんな時間が無い…と早口でぼそぼそと告げる。 どうやら、余程王耀を恐れているらしい。
ふうとローデリヒは溜息をついた。
「我々は、もうここには来ません」
ええ、非常に残念ですが。 なので貴方から何かを聞いたとて、我々は何も出来ません。 眼鏡を押し上げながら、誰に告げる事のない口調でそう前振りをして。
「残念です。せめてどの部屋に泊まっているか、知りたかったですね」
まあ、もう我々がこのホテルに来る事は無いので、今更知ってもどうしようもありませんが。 でもせめて、花や手紙ぐらいは贈りたかったです。
ギルベルトに向かって声を掛け、しかしその視線を男へと流す。 指の間から覗くラベンダー色の視線に、男は落ち着き無い仕草で俯いて、極小さな声で三ケタの数字を呟いた。 にやりとギルベルトは笑う。
「出国の船に乗るまでに、間に合わせねえとな」
あー、いつまでに届ければいいかな。空々しい呟きに男がぼそりと数字を零す。
それに二人はぎょっとした。











「ありゃ、怖がっているんだよ」
怒りというよりも焦りだな。俺たちに弟を取られるんじゃないかって、心配をしているんだよ。
菊に対する執着も強さは、最初に紹介されていた時から気付いていた。 その上彼は、もともと欧州人を毛嫌いしているきらいもある。 この頑なな態度は、その相乗効果なのだろう。
「それでも、この対応はちょっと酷いんじゃない?」
「全くです」
腕を組んでぽこぽこと怒るエリザベータに、ローデリヒも同意する。 流石にこれは、長い期間共に生活をしていた、ホストファミリー相手に対する対応では無かろう。
「しかも、出国が明日とは…」
「あまりにも突然過ぎますっ」
そこまでして、私達と菊ちゃんを会わせたくないって言うの?おかしいわよ、絶対。
「菊ちゃん、その事は知っているのかしら」
あの子、変に聞き分けが良い所があるから。 ぽつりとエリザベータは呟きに、ギルベルトは軽く肩を竦めた。
王耀も、最初に菊と対面をした際、聞き分けの良い子供だとこちらに紹介していた。 しかしギルベルトは、菊が聞き分けが良いとはそれ程思わなかった。
確かに従順に見えなくもないが、実際は結構な頑固者で、しっかりとした自我を持っている。 嫌だと表に出す時もあれば、拗ねる素振りも見せたし、時には拒絶や反抗だってしていた。 それが普通だ。子供である、当たり前の反応だろう。
菊は決して聞き分けが良い訳ではない。自分の意見が聞き入れられない事を悟り、 内に抑え、自分の言葉を飲み込んで、諦念していただけなのだ。 あの兄は、それを何処まで理解出来ているのであろう。
ギルベルトは後ろからついて来る、ルートヴィッヒとフェリシアーノを振り返った。 随分と落ち込んだ二人の様子に溜息をつく。 これほどまでに王耀の強硬な態度を引き出したのは自分達なのだと、彼らなりに自覚があるのだ。
元々、菊を迎えに来た際、王耀はすぐさま屋敷を引き払うつもりであった。 それを、ギルベルトを始め、ローデリヒとエリザベータが何とか説得し、宥め、引き止めた。 最初は拒絶していた王耀も、引き払う準備が出来るまではと渋々認めたのである。
彼らの努力と王耀の信用を裏切ったのは、自分達の犯した行動だ。
「ま、こうなっちまったもんは仕方ねえよ」
お前らもいつまでも落ち込んじゃねえよ。おずおずと顔を上げる子供二人に、ギルベルトはにかりと笑った。
軽い口調ではあるが、今回の事で王耀とバイルシュミットの仕事に亀裂が入ったのは間違い無い。 東洋への足掛かりであった太いパイプラインを失うのは痛手であったが、既に気持ちは切り替えている。
「…あれか」
小脇に抱えた茶封筒を持ち替え、ギルベルトは見上げる。
向かったのは出口ではなかった。 広い敷地を贅沢に使ったこのホテルは、建物沿いに造られた遊歩道を抜けると、広い庭園へと繋がる。 そこへ至るまでの手前を折れたこちら側、 煉瓦造りの屈強そうな壁を仰ぐと、客室の窓が連なっているのが見えた。
三階の、いち、にい、さん…恐らくはあの窓か、男が告げた番号の部屋は。
「菊ちゃん、聞こえる?」
ねえ、返事をして、 菊ちゃん。 密やかにエリザベータは声をかけるが、流石に硝子の内側までは届かないらしい。
「…仕方がないわね」
荒い鼻息で彼女が手を掛けたのは、直ぐそこに植えられていた太い樫の木。 葉を茂らせた大木は、客室の窓の近くまで、しっかりとした枝葉を伸ばしていた。
「おいこら、お前っ」
「何を考えているんですか、エリザベータっ」
袖を捲り上げる彼女に、ギルベルトとローデリヒが、慌てて声を張り上げる。 エリザベータは両の掌を擦り合わせながら。
「ほら、あそこの枝の乗れば、部屋の窓まで近付けますよ」
「ほらじゃねえよ、馬鹿っ」
「馬鹿って何よ、喧嘩売ってんの?」
「おやめなさい、貴方は女性なのですよっ」
あの高さまで登るつもりですか、しかもそのスカート姿で。
ぽこぽこと声を上げるローデリヒの横、はあーっとギルベルトは大仰に溜息をついた。
「坊ちゃん、この馬鹿を押さえてろ」
ついでにちょっとあっちを見張っとけ。スーツの上着を脱いで、投げるようにばさりとエリザベータに渡す。 指先でタイを緩めると、足元に転がる小石を幾つか拾って。
「ルッツ、フェリシアーノちゃん」
ギルベルトはくい、と顎で示した。
呼ばれ、二人は顔を見合わせる。そして、きりりとした顔で頷いた。

















兄と二人で過ごすには、充分過ぎる広さを有したホテルの一室。ふかふかしたソファに腰を下ろし、 菊は王耀から与えられた書物に目を通していた。
菊は本が好きだ。 昔から本を与えておけば、退屈せずに、黙々と読書に集中する子供だった。王耀もそれを知っている。 だからこれも、兄としての配慮なのだろう。
しかし、今の菊は読書に集中出来なかった。 一生懸命文章を追いかけるのだが、視線は印刷された文字の上を滑るだけで、頭の中には何も入ってこない。
屋敷から引き取られ、ホテルへと移転してからこちら、菊は殆ど部屋から出る事が無かった。 食事は部屋に運ばれ、扉の前には王耀から付けられた護衛が立ち、必要最低限でしか外出は許されない。 軟禁状態と言っても良かろう。
兄は帰国を早める為、必要な業務を消化すべく奔走している。 ホテルに帰ってくる時間はまちまちだ。 深夜になる時もあれば、夕方に帰り、そのまま直ぐに外出する時もある。 その間、この広い部屋で、菊は殆ど一人きりで過ごしていた。
一人は慣れている。故郷に居た時は、殆ど一人ぼっちだった。それが寂しいとは思わない。 一人きりの空間は気使いも必要無く、気楽でさえあった。
しかし、バイルシュミットの屋敷では、殆ど一人になる事が無かった。
気が付けば、ルートヴィッヒがそっと隣にいて、フェリシアーノが笑顔でこちらに手を伸ばし、 エリザベータが優しく見守り、ローデリヒがさり気なく気を配り、振り返ればギルベルトがそこにいる。
最初は彼らの距離感に馴染めなかった。 しかし、それが当たり前になってしまったのは、いつ頃からだろう。
手にあった本を伏せ、ソファの上、抱えた膝に顔を埋める。
ぎゅっと胸の奥が痛い。こんな感情は知らなかった。でもきっと、これが「寂しい」という気持ちなのだろう。
兄は何も言わない。大丈夫、菊はにーにの言う事を聞いていればいいあるね。 そう言って宥めるだけ。こちらの問いかけには、何一つ答えをくれない。
屋敷に置いていた菊の荷物は全て整理をし、既に一部は船へと積み込まれたようだ。 恐らく、出国が近いのであろう。もう直ぐここを離れるのだ。
皆と別れの挨拶も出来ないまま、ここを離れ、帰らなくてはいけないのだ。


かつん、と音がした。


はっと顔を上げる。
菊は首を伸ばし、音のあった方へと視線を向ける。 じいっと探るように窺っていると、もう一度、かつん、と窓が鳴った。
何か小さなものが、窓硝子に当たる音。間違い無い。 抱きしめていた膝を開放し、深く腰掛けていたソファからもそもそと足を下ろす。
そのまま、ぱたぱたと窓に走り寄り、閉じられていたカーテンを、音を立てて開くと。


「よお」


窓の外、にやりと笑うギルベルトの姿に、菊は大きく目を瞠る。
そしてその隣には。
「きくーっ」
大きな木の枝にしがみついたフェリシアーノと、同じく木の幹に身を預けてこちらを窺うルートヴィッヒ。 飛び込んできた彼らの姿に、菊は忙しなく瞬きをした。
窓枠にちょこんと乗せていた顎を引いて、一旦姿を消す。 そして慌てた動きで、奥にあった椅子を、ずるずると窓際に引き寄せた。 よいしょと不器用にその上に乗ると、顔しか覗けなかった高さから、胸半分が見えるまでになる。
ぱたんと窓を開いた。窓枠に掴まりながら、菊は身を乗り出す。 きく、きく、きく。泣き出しそうな声で、フェリシアーノは何度もその名を呼んだ。 必死になって小さな手を伸ばそうとするが。
「あぶねっ」
ふらつく小さな体を、ギルベルトの腕が支えた。 その後ろから、そおっとルートヴィッヒも太い枝へと身体を移動させ、距離を縮める。 守るようにその小さな背中に手を添えながら。
「下に、エリザベータと坊ちゃんも来ているぜ」
示されて首を伸ばす。 ひょいと覗き込んだ小さな顔に、窓の下にいるエリザベータとローデリヒが手を振った。菊も手を振って応える。
「これを、お前に渡しておこうと思ってな」
今の王耀の様子じゃ、頼んでもお前の手元まで届きそうにねえからな。
差し出したのは大きめの茶封筒。菊は精一杯窓から身を乗り出し、何とかそれを受け取った。 きちんと封のされている封筒の中には、何やら厚みのある紙の様なものが入っているらしい。
「おまえと一緒にいた間、すっげえ楽しかったぜ」
フェリシアーノとルートヴィッヒは頷く。菊もこっくりと頷いた。へへっとギルベルトは笑う。 何処か照れたようなそれに、菊は目を細めた。
「もっと、一緒に居たかったな」
屋敷で一緒に過ごした皆、そう思っている。 じいっと見つめてくるギルベルト、ルートヴィッヒ、フェリシアーノ、それぞれに菊は視線を配る。 きく、きく。べそべそと泣き声が上がる。
良いか、菊。ギルベルトの落ち着いた声に、菊は面を上げた。
「お前は国に帰るけど、でも、それで終わりじゃねえぞ」
確かに、互いの住む場所は遠く、容易に会える距離ではない。
だけど。
「俺達はまた会うぞ、絶対にな」
そうだろ。にやりとした笑みは、不遜なまでに自信に満ちていた。 菊はきゅっと唇を噛締める。そして、大きく頷いた。
ぼろぼろとフェリシアーノは泣きながら菊の名を呼び、ルートヴィッヒは身を乗り出して手を伸ばす。 それに菊も、窓枠から身を乗り出し、小さな指先を必死に差し伸べるのだが。
「ギルベルトっ」
下から掛けられる、密やかな呼び声。 どうやら、王耀が乗っているらしい車が、ホテルに到着した様子らしい。 ちっとギルベルトは舌打ちをした。











きっちりと閉じられた窓に、しゃっと音を立てて隙間もないようにカーテンを締める。 窓辺に寄せて台にしていた椅子も、ずりずり引き摺って、元あった場所へと移動させた。 これで何も、おかしな所は無い筈だ。ふう、と菊は小さく息をつく。
そして、改めてギルベルトから受け取った茶封筒を眺めた。
何だろう、小首を傾け、くるりと巻き付けていた封の紐を指先で摘む。 くるくると巻き付けてあったそれを解き、開いた口に手を差し入れ、中に収められていたものを、そっと引き出した。





中には、何枚もあった。
大きく引き伸ばされた物、小さいサイズの物、全ての物。


それは皆で一緒に屋敷にて撮影をした、セピア色の写真であった。








お兄さんは心配性
2011.02.25







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