フェザータッチ・オペレーション
<24>





目の覚めるような青空を、霧笛の上げた黒煙が突き刺す。
大型船が繋がれた港は、出航の賑わいで活気に溢れていた。 船に積み込まれる荷物がずらりと並び、船員が忙しなく行き来している。
何せ大陸をぐるりと回り込み、寄港を繰り返し、遥か遠い極東の果てを目指す大規模な長距離船だ。 長い船旅に供えた準備には、それなりの時間が必要になる。
その期間を極端に縮小させたのは、東の大陸随一と称される、この船の持主たる大商人のひと声であった。
充分余裕のあった滞在期間が突然短縮され、船員は大いに慌てる。 不平や不満は、上乗せされた賃金で抑え込まれ、休む暇さえ惜しんで駆け足での作業が行われていた。











菊は、昔から大人しい子供であった。頑固な所もあるけれど、静かで、穏やかで、控え目だ。 そして強く自分の意見を主張する事無く、素直で、反論をしない。 少なくとも、王耀が見てきた菊はずっとそうであった。
だからそんな菊が一緒に欧州に行きたいと主張を見せた時は、随分と驚いたものだ。
欧州までは遠く、大人でも大変な負担のある船旅である。 幼く、もともと身体があまり丈夫でないお前には無理だから…そう諭しても、頑として折れない。 拗ねて、強請って、籠って、ストライキまで起こす弟に、結局兄は承知をした。
王耀は、そこまでして菊が欧州へ行きたがる理由が全く分からなかった。
菊は普段から家に閉じ籠る事が多く、他者との関わりが非常に少ない。 突然こうして外に出たがるには、矢張りそれなりの理由があるのだろうとは思う。 しかし友人や知人さえも限られている菊と、今まで全く接点の無かった欧州を繋げる何かが、 どうしても思い当たらない。
だから単純に、兄と慕う自分と離れるのが嫌なのだと結論付けた。
普段は素っ気ない態度しか見せない癖に、実はそれこそが寂しさの裏返しだったのか。 大人びた横顔の裏腹には、いじらしい子供心があったのか。そう思うと、可愛くて可愛くてたまらなかった。
そんな菊を、仕方ないとは言え、体の大事の為とはいえ、欧州に独り残して去るのは、断腸の思いであった。
菊を頼んだ相手は、王耀の知る中、恐らく欧州で最も信頼できる人物の一人であろう。 しかし、菊は扱い難い面や、少々変わった所もある。 そんな幼子を、環境も習慣も全く違う家に預け、心配するなと言う方が無理な話だ。
だから急いで祖国へ戻った。 生じた問題を必死で処理し、寝る間も休む間も惜しみ、追い立てられるように欧州に迎えに来た。 寂しくはないだろうか、心細くはないだろうか、嫌な思いをしていないだろうか、身体を壊してはいないだろうか。 逸る気持ちを何とか抑え、大陸を駆け、海を渡って、飛ぶようにして漸く大切な弟の元へと戻って来たのだ。
そんな王耀に、菊は信じられない行動に出た。
兄と共に居るよりもこの家の人間と居る方が良いと主張し、帰国を嫌がり、 事もあろうか欧州で知り合った子供と共に、兄から逃げ出そうとする。
人見知りが激しくて、兄以外にはなかなか懐かなかったあの菊が? 聞き分けが良くて、兄の言いつけをきちんと守るあの菊が? 最後に別れた時だって、兄から離れるのをあんなにも惜しんでいたあの菊が?
冗談じゃない。我の大切な菊は、あの西洋の餓鬼共に誑かされ、騙され、そそのかされたに違いない。 嗚呼、やっぱり世間知らずだったこの弟を、たった一人で異国の地に置いていくべきではなかったのだ。 もともと菊は押しに弱く、誘われれば断れない、流されやすい所がある。恐らくそこに付け込まれたのであろう。 うっかり心を許して油断をした隙に、純粋な菊は欧州の奴らに毒されてしまったね。王耀は心底後悔した。
でも、大丈夫。これからはこの兄がついている。
これ以上欧州の奴らに毒されないよう、兄が菊の側にいるよ。 我は幼い頃からずっと菊を見守っていた。菊のことは誰よりも理解している。 この兄よりも菊を分かる奴なんて、この世の中にはいないはず。 菊の幸せを誰よりも願い、何よりも大切にしているのは、家族である自分以外にあり得ない。
だから安心して、菊は我の言う事を聞いていれば良いあるね。





停車した車から降りると、後部のドアを開いて、王耀は手を差し出した。
「さあ、菊」
港についたね、出てくるあるよ。
しかしいつまでも反応のない様子に、ふうと王耀は息をつき、腰を屈めて中を覗き込んだ。 後部座席に積み込んだ風呂敷包みの荷物の隣、小さな弟はぴくりとも動かない。 向こうの窓へと顔を向け、ちんまりとした後頭部をこちらへ向けたまま、車から降りる気配を見せなかった。
小さな膝の上に乗せた革製のトランクケースは、王耀の見覚えのない物だった。 しっかりした作りのそれには、菊の名前が彫られたネームプレートが下げられている。 恐らく、バイルシュミットが与えた物であろう。
「菊、行くあるよ」
腕を伸ばし、無理矢理車から引っ張り出すと、小さな体を抱き上げた。
「ほら、見るよろし」
港に停泊する大型船を誇らしげに示す。王耀が乗って来た最新式の船だ。 これに乗れば、随分と帰国の時間を短縮できる。最初に訪欧した際、菊は長期に渡る船旅で身体を壊した。 その負担を少しでも和らげようと、王耀が急遽準備させたものである。
「この船なら、あっという間に家に帰る事が出来るね」
家に着いたら、お前の好きな点心を、お腹いっぱい食べさせてあげるよ。
しかし腕の中のおぼこ顔は、むっつりと不満そうに眉間に皺を寄せたまま、俯いた視線を上げようとしない。 バイルシュミットの屋敷を離れ、二人でホテルに泊まるようになってから、ずっとこの調子だ。
「菊…まだ拗ねているあるか」
いつまでもそんな態度でいると、いい加減にーにも怒るよ。
腕の中の頑ななどんぐりを掌で宥めながら、やってきた男に慣れた調子で指示を出す。 客船ではなく、王耀の手掛ける事業で所有する商船だ。 後は持ち主である王耀と菊さえ乗り込めば、直ぐ様出港でき手筈になっている。
王耀から命を受けた男は軽く頷き、座席に置いたままになっていた菊の風呂敷包みとトランクを取り出した。 そのまま船へと持ち運ぼうとすると、途端に腕の中、菊がじたばたと暴れ出す。
慌てる王耀の腕から強引に降りると、菊は男へと走り寄り、ひしとトランクにしがみ付いた。 どうやらどうしても他人には触られたくないらしい。 余程その鞄が大切なのか、それとも中に大事なものが入っているのか。 最も昔から、菊は自分の持ち物を他人に任せる事をよしとしない所があった。
「…自分で持つあるか?」
小さな背中に尋ねるも、答えは無し。 仕方無い、王耀は困惑顔の男にトランクを置くように命じ、先にその他の荷物を運ぶように伝えた。
トランクを抱くようにしゃがみ込む隣に、王耀は膝をつく。本当にもう、どうしちゃったね、菊。
「お前がそんな態度だと、にーにが困るある」
兄だけではない。こうしてこの船を出港させる為に働いた人員、全てがそうだ。 お前が船に乗らないと、出港の準備に携わった沢山の人が困ってしまうあるよ。 皆が菊を待っているある。
他者に迷惑をかける事を嫌う菊にとって、この言葉が効果的である事を王耀は知っていた。 案の定、丸まった小さな背中がもぞりと動き、ちらりとこちらを窺う。 それににっこりと笑いかけると、ほら、と手を差し出した。
「菊は良い子だから、にーにの言う事を聞けるあるね?」
僅かな逡巡の後、小さな手が重なる。
渋々の態で立ち上がると、俯いたまま鞄を持ち直した。 それを確認すると、王耀は手を引いて船へと向かって歩き出す。
「大丈夫、帰国したら兄妹達にも会えるよ」
家族一緒の昔と同じ生活に戻ってしまえば、寂しさだって直ぐに忘れてしまうね。 親しくなった人達との別れは確かに辛いけれど、それも時間が経てば薄れるある。 大丈夫、寂しく無いように、菊にはにーにがずっと一緒にいるね。
宥めるように声を掛け、かんかんと音を立てながら鉄製の長い階段を昇り切り、二人は揺れる船へと乗り込んだ。 待ち構えていた船員に頷くと、速やかに出港の合図が成される。
陸と船を繋げる懸け橋が仕舞われ、がらがらと錨が上がり、エンジンの振動が船全体を震わせる。 高らかに鳴り響く霧笛の音に、王耀は港へと視線を遣った。 ホストファミリーであったバイルシュミットには、後日十二分であろう謝礼と手紙が届くように手配している。 さあ、もうこの地に用はない。
「菊、中に入るあるね」
今日は少し寒いある。お前は体が丈夫じゃないから、あまり潮風に当たっていると風邪をひいてしまうよ。 そのまま奥へと向かおうと促すが。
「…菊?」
立ち尽くしたままあちらを振り仰ぐ様子に、王耀は首を傾けた。
まんまるに瞠られる黒い瞳。 それに映るのは、向こうの道からすごいスピードでやって来る、見覚えのある自動車。
やや乱暴な運転で港に停まると、勢い付けて降りてくる複数の人影に、菊は息を飲み込んだ。





「きくーっ」





幼い悲痛な叫び声に、菊は持っていたトランクから手を離した。
しっかりと握り締められていた兄の手を振り切り、ゆらゆらと揺れる船の上、 危なっかしい足取りで甲板を走り抜け、その手摺りへとしがみ付く。 首を伸ばして鉄棒と鉄棒の間から見下ろす小さな顔に、走り寄る彼らは直ぐに気がついた。
「あそこっ、菊ちゃーんっ」
ひらめくスカートの裾も構わず、長い髪を振り乱したまま、いち早く見つけたエリザベータが声を上げる。 その隣でローデリヒが彼女を支え、数歩後ろからギルベルトが大きく手を振った。
ホテルの窓越しに別れを告げた後、バイルシュミットは翌日出港の船を全て調べたのだ。 せめて船出ぐらいはきちんと見送りたい、そう思ってこの船を漸く突き止めた。 しかし念の為に早めにやって来たとはいえ、 まさかこんなにも出港予定の時間を繰り上げるとまでは予想出来なかった。
「きく、きく、きくー」
三人の大人よりも先んじて駆け抜けるのは、ルートヴィッヒとフェリシアーノだ。 何度も名を呼ぶフェリシアーノの声には、零れる涙が滲んでいる。 その手には、野の花で作られたささやかな花束が握られていた。 お別れに菊に渡したいと、フェリシアーノが用意したものである。
でも、もう届かない。
「きくーっ」
船の上から手を振って応えようとするが、鉄の柵が邪魔をして、思うように伸ばせない。 ならばとその上から身を乗り出そうと、手摺りの上に手を掛けるが。
「駄目あるよっ」
飛び上がって上に乗り上げようとする小さな体を、慌てて王耀が抱き留める。 既に船は動き出している。足元不安定な船上でそんな事をしたら、海へと落ちてしまうではないか。
手摺りから距離を取ろうと引き離した所で、腕の中の小さな体が猛烈に暴れ出した。 じたばたと渾身の力で抵抗する菊に、思わずバランスを崩し、王耀は菊を抱いたままその場に腰を落とす。
「菊、どうしたねっ」
何するあるか。
厳しい兄の叱咤に、しかし菊はひるまない。 拘束する腕の中、小さな拳を振り上げてぽかぽかぽかぽか、子供なりの精一杯の力で兄の胸を叩く。 その力は決して痛い物ではないが、これ程までに拒絶の意思を示した事のない菊のそれに、王耀は呆気に取られた。 ぽかんとする兄を、菊は涙で潤んだ黒目がちの瞳できっと睨み、震える唇を噛締める。
そして振り切るように腕から逃れると、再び船の手摺りにしがみ付き、狭いその隙間から顔を覗かせた。 見下ろすと直ぐ下、船体に並んでルートヴィッヒとフェリシアーノが並んで走っている。
拡がり、ゆっくりと速度をつける船。菊は出していた顔を引っ込め、そして少しずれた場所からもう一度顔を出す。 もう一度、もう一度…繰り返す内に一番端、一番後ろまで来てしまう。もうこれ以上先へは行けない。
「きく、きくーっ」
泣きながら名前を呼び続けるフェリシアーノの隣、息を荒げながらルートヴィッヒは手を伸ばす。 それに菊も手を差し伸べた。
小さな手。どんなに差し伸べても届かない距離。判っているけれど、それでもせずにはいられない。
拡がる二人の指先までの空間。離れる、遠くなる、小さくなる…。
わずかに開いた菊の唇が、わなわなと慄いた。 寄せられた眉の下、見開かれた漆黒の瞳がくしゃりと歪んだ。


「――――――っ」


迸るのは、声にならない叫び声。
胸の奥から絞り出す、切なくも悲痛な叫び。普段の落ち着きをかなぐり捨て、 菊は無我夢中で手摺りから腕を伸ばし、必死になって身を乗り出した。
しかし船は加速する。 涙でぐしゃぐしゃになりながら、声を上げ、背伸びして、拡がる空間を埋めようと、届かない腕をそれでも伸ばす。
桟橋が途切れる。離れてしまう。小さくなってしまう。見えなくなってしまう。
「菊っ」
ぐらりと揺れる前のめりの体に、今度こそ渾身の力で、王耀はその小さな体を引き寄せた。 しっかりと腕に抱きしめたまま、甲板に二人の体が倒れ込む。
「何をしているねっ」
船から落ちる所だったあるよ。息を切らせて声を荒げる王耀は、腕の中で丸まったまま震える小さな体を起こす。 向けられたのは、ぐしゃぐしゃになった涙顔。ひっく、ひっく、と肩を上下させながら、 隠そうともしないあけすけな泣き顔に、王耀は言葉を詰まらせた。 果たして、今までこんな菊の表情を、自分は見た事があっただろうか。
「きくー」
船上から姿の消えた菊に、声の限りにフェリシアーノは叫んだ。 途端、勢いに後押しされて足元がつんのめる。 あっと思った瞬間、手に持っていた花束を散らしながら、前にべしゃりと転がった。
「フェリシアーノっ」
うつ伏せに倒れたフェリシアーノに、ローデリヒが駆け寄る。 ぶつけたおでこを真っ赤にして、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして、えぐえぐと泣きじゃっくりを上げて、 それでも更に船を追いかける為に立ち上がろうとするが。
「やめなさい、フェリシアーノ」
もう危険です。じたばたともがく体を、何とか押し止める。 見上げる向こうには、桟橋の終点と、水平線と、遠くなる船と、そして追いかけ続けるもう一つの小さな背中。
「ルートヴィッヒっ」
真っ赤になったいたいけな目から零れる涙を、ぐいと腕で拭った。 そのまま桟橋の果てへと向かう速度は、何処までも落ちない。
届かないけれど、遠いけれど、行ってしまうけれど、それでも、走って、走って、走って、走って。
「―――っこの、馬鹿野郎っ」
桟橋の先から海へと飛び込む幼い身体に、ギルベルトは上着を脱ぎ捨てながら声を上げる。
「ルーイ君っ」
ざばりと飛び上がる水しぶき。エリザベータが悲鳴を上げた。











どぷん、と耳に鈍く響く水音。
音と光の鈍い世界に圧迫され、ぎゅっと目を閉じる。力を抜くと身体が浮上する感覚が判った。
水中から顔を出すと、大きく深呼吸する。しかし思うように呼吸が出来ず、ばしゃばしゃと水面で喘いだ。
苦しい、苦しい。こんなにも苦しいのに。


どうして、離ればなれになってしまうんだろう。

















甲板の上に蹲る背中に、王耀は掛ける言葉を失う。
丸まり、小刻みに震え、時折呼吸が上手く出来ずに咳き込みながら嗚咽する子供の姿は、見ている方が辛くなる。 宥めようと手を伸ばすが、しかし肩に触れる直前で留まり、代わりに小さく吐息を洩らした。
暫くは、一人にさせておいた方が良いだろう。 そう判断して上げた視線の先には、菊の荷物の入ったトランクケースが横倒しに転がっていた。
船室へ運んでおこうと手を掛けて、鞄を閉じたその隙間から、何かが覗いている事に気が付いた。 どうやら中の物が少しはみ出した状態で、うっかり鞄を閉じてしまっていたらしい。
それをきちんと収めようと、王耀はトランクの蓋を一度開いた。 覗いていたのは、一番上に収まっていた大きめの茶封筒の角であったらしい。 開いた封から、中のそれが少しだけ覗いていた。
何気なくそれに手を掛け、王耀は大きく目を瞠る。
それは、幾枚にもに渡って撮影された、菊とバイルシュミットの家族との写真であった。
きちんと身なりを整えてポーズをつけての集合写真に交じって、 三人の子供達が戯れているショットのものも含まれている。 それらを一枚ずつ捲り、眺め、確認し、全てを見終えると、王耀は小さく笑って、菊を振り仰いだ。


「菊…お前は皆に、とても大切にされていたみたいあるね」

















しっかりとした腕が、力の抜けた幼い体を、ざばりと桟橋の縁へと押し上げる。 待ち受けていたローデリヒが、すぐさまそれを引っ張り上げた。
浮力が無くなり、水を吸った服が纏わりつき、身体がどっしりと重たい。 ぜえぜえと乱れた呼吸で、咽喉に詰まる海水にルートヴィッヒが咳き込むと、柔らかい掌に背中を宥められた。 かすむ視界で目を凝らすと、はらはらと涙を流すエリザベータが、濡れるのも構わず胸に抱き寄せる。
「良かった、ルーイ君…良かった…」
「なんて事をするんですか、このお馬鹿さんっ」
頭上からぶつけられる声に、ルートヴィッヒは鈍い反応で瞬きを繰り返す。 喘ぐ咽喉が苦しい。その首に、横からぶつかるような勢いで、フェリシアーノが抱きついた。
「るーいー」
わんわんと泣き声を上げながら、丸い頬を擦り寄せる。泣き腫らした顔を濡らすのは、涙と、鼻水と、海水と。 転んで擦り剥いた額と膝小僧には、砂まみれの血が滲んでいた。
その小さな頭越しの向こう、桟橋にずるりと重たい身体が這い上がった。
ぽたぽたと滴を落としながら、ローデリヒの助けを借りて、ギルベルトは桟橋の上へと身を乗り上げる。 はあはあと呼吸が荒い。それを抑えるように拳で口元を拭い、 腰を落として足を前に投げ出すと、はあーっと深く長い息をついた。
「…たく、無茶すんじゃねえよ」
整わない息のままルートヴィッヒを見遣り、滴の垂れる前髪をかき上げ、脱力のままにがっくりと肩を落とす。 目が合うと、柘榴色の瞳が細まった。 怒っているのかもしれない。笑っているのかもしれない。呆れているのかもしれない。
こら、てめえ。ゆるりとだるそうに身を起こし、拳で軽く頭を小突かれる。
「…ばーか」
力の無い声でそう言うと、肩を上下させたまま、にかりとギルベルトは笑った。
眉尻を下げた青の瞳から、ぼろりと零れた涙。
一拍置いて、強張った顔がくしゃりと歪む。 ひっく、ひっく、泣きじゃくりを上げて、儘ならない息を深く吸い込んで。
そして。
そして、胸の中の感情を全て吐き出す様に、大きな泣き声を上げた。











涙で霞む水平線の向こう、船はもう朧の影となっている。
遠くで響く霧笛の音が、名残のようにこちらまで届いた。














連載を書き始めた時から、ずっと頭にあったシーンでした
2011.03.22







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