笑う犬との生活
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 訪問先の玄関口。
 見下ろしてくる目力の強い視線を真正面から受け、菊は我知らず呼吸が止まった。
 無表情に顔を強張らせるこちらを、彼は軽く顎を上げ、角度をつけてじろりと見下ろす。
 背が高いです。ガタイが良いです。威圧感ハンパないです。凄いイケメンさんです。外人さんですよね。部長の息子さんとか。いやいや、確かご家族は本国ドイツにいるっておっしゃっていましたよね。だから気を使わなくていいからって、自宅に招待されたんですよね。
 頭一つ高い位置から観察するような、警戒するような、値踏みするような瞳は、随分と珍しい色をしている。縫い留められる心地のまま身動き出来ないこちらに、腰に手を当てた彼は、くんくんと鼻を鳴らせた。


「ああ、よく来たね」
 彼の背後から顔を出す見慣れた上司の姿に、菊は我知らず停止していた呼吸を再開させる。剥ぐように彼から視線をずらし、ぺこりと軽く頭を下げると、職場では厳しい切れ長の目が、訪問者に優しく細められた。
「どうぞ、上がってくれ」
「は、はい、失礼します」
 促されるままに靴を脱いで、並べられていた清潔なスリッパに足を差しむ。
 そのまま一歩前へと踏み込むと、ずいと目の前に立ちはだかるのは、厚みのある胸板。ん? と違和感を感じつつ、視線を上げずに右に、左に避けようとするが、分厚い胸板が右に、左に、悉く行く手を遮る。
 クエスチョンマークに顔を上げると、彫りの深い整った顔立ちが、ずいと無遠慮にこちらに寄せられた。そしてふんふんと、綺麗な鼻梁を鳴らしてくる。えっ、なにか匂うのでしょうか。もしかして臭いのでしょうか。昨夜はちゃんと風呂に入りましたし、今日着ている服もちゃんと洗濯をしていますけど。
「こら、何をしている」
 話していただろう、彼は私のお客様だ。怪しい者じゃない。
 上司の静かな声に、彼は折り曲げた腰を伸ばし、ゆるりと背後を振り返る。その肩を言い聞かせるように宥めながら。
「すまない、ギルベルトはちょっと警戒心が強くてな」
 口にされたその名前に、菊は思わず目をまんまるくした。
「え……ギルベルト、君って……」
 ああ、上司はほのかに口元を綻ばせる。
「紹介しよう。この子が話していた子だ」
 ギルベルト、お客様にご挨拶をしなさい。とん、と軽くその背中を叩いて促す。
 しかし彼は鷹揚に腕を組み、切れ長の目を細めると、ふんと鼻息を鳴らせただけだった。










 この所、本当に疲れていた。
 同僚の退職で仕事が増えた。新規の担当業務が増えた。時期的にも繁忙期に入った。新しい仕事も任された。今まで知らなかったトラブルの対処にも当たり、休日返上で駆けずり回り、身も心もクタクタだった。
 そんな中、普段は近寄り難ささえある(長髪、超イケメン、ドイツ人、口数が少ない、いつも眉間に皺を寄せている)上司に、たまたま飲みに誘われた。
 彼は大層な愛犬家で知られている。故郷のドイツから日本支社へと転属になった際、多頭飼いしている大型犬全てを入国させる手続きに時間を費やし、移転が遅れたというのは部署内での語り草だ。
 良いですね、家に帰ったらお迎えに出て来てくれるのでしょう。私もお出迎えして貰いたいです。昔犬を飼っていたんですよ、実家で。ぽち君って言って、凄く可愛くて、ふわふわで、賢くて、優しい子だったんです。落ち込んだ時は傍に来てくれて、お腹とか背中に顔を埋めさせて貰ったら、それだけで癒されましたよ。あーあ。やっぱり強引にでも、実家から連れてくるべきでした。私も飼いたいです。味気のない生活の中、あのわんこさんのもふもふに触れられたら、それだけで癒されますよ。生きる希望になりますよ。明日も頑張ろうって思えますよ。
 疲れた空きっ腹に流されたアルコールの酔いのまま、愚痴ともつかないそんな話に、そうかと上司は生真面目に相槌を打つ。
 そして、ビールを追加するような気軽さで提案された。
「そんなに癒されたいなら、一匹譲ろうか」
 実は、不憫にも貰い手が見つからず、成犬になってしまった子が一匹いる。頭は賢いし、気立ても悪くないが、人を選り好みする所があってな。もし君さえ良ければ、一度お見合いに、我が家に来ないか?


「名前はギルベルトだ」










 ダイニングソファに腰を掛け、落ち着かない心地で菊は身を固くする。
 なにせ、近い。
 腰を落ち着けたのは、ゆとりのドイツ人サイズソファのやや端っこ寄り。どちらかと言えば自分は小柄な方だと自覚をしているのだが、しかしなぜこんなにも、彼との距離が近いのだろう。
 革張りの背凭れに長い腕を回して、彼はゆったりと鷹揚に寛いでいる。しかし視線だけはこちらに向けられ、ちくちくと横顔に突き刺さり、どうにもこうにも居た堪れない。てか、腕長いです。組んだ足も長いです。何でしょう、この「逃げられない」感は。
「コーヒーで良かったかな」
 かちゃりと出されたマイセンのカップからは、芳しい香りが立ち上がっている。とりあえず気を落ち着けよう。ありがとうございますと、それに口を付けた。
 隣に並べられたセット柄のプレートには、粗品ですがと持参した饅頭が乗せられている。しまった。洋菓子にすべきでしたね。でも以前、上司は和菓子も好きだっておっしゃっていましたし。
 胸の内でひっそりと反省しつつ。
「あ、あの……他の子は?」
 確か、大型犬を多頭飼いしているって伺いましたが。
「ああ、来客の時は別の部屋に入るように躾けている」
 何せ揃いも揃って、身体が大きい子ばかりだからな。人によっては驚いたり、怖がったりする時もある。見慣れない人に対して警戒心もあるし、万が一何かあっても大変だからな。
 そうですか。そうですよね。大型犬の飼い主として、尤もであり且つ的確な躾に、はあと菊は曖昧な声を上げる。
「驚いたか? 大きいとは説明していたと思うが」
 いや、大型犬の小さくて可愛いパピー期が極端に短いことは、自分もちゃんと了解している。しかしこれは予想外。まさか身長百八十センチにも至ろうかという巨体だとは、流石に思ってもみませんでした。
「しかし、こんなギルベルトは珍しいな」
 テーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろしながら、上司はふむと愛犬を眺める。
「そ、そうなんですか?」
「普段は、もっと騒がしくてな」
 特に家族以外の誰かがいると、妙に警戒心が強くなり、やや攻撃的になったり、行儀も悪くなりがちだ。かなり相性を選り好みするタイプなので、どうしても見学に来た引き取り手が手をこまねいてしまっていた。
 それを思えば、こうして大人しく並んで座っている姿は、かなりの衝撃であるらしい。
「どうやら、君のことを気に入っているようだ」
「えっ。そっ、そうなんですかっ?」
 思わず声が裏返るが、上司は穏やかに目を細め、微笑ましそうに頷いた。同時に、なにやら生暖かい温度も感じるのは気のせいだろうか。てか、近い。さっきより近づいていませんか? 距離が。肩が。鼻先が。
「えっと、あのっ、で、でもっ、私に彼の世話ができるでしょうか」
「君は、前にも犬を飼っていたと言っていたじゃないか」
「いや、ぽち君はその、とても小さくて大人しい子だったので、その……」
「ギルベルトも、ひと通りの躾はきちんと済ませている」
 少々やんちゃなところはあるが、綺麗好きだし、頭も良いし、理解も早い。大雑把に見えるが、意外と神経質で、繊細なところもある。多少厳しくても、耐えられる我慢強さも持っているし、やればちゃんとできる子だ。何より、家族に対する愛情は、とても深い子だと思う。
「それに……ギルベルトの方は、もうその気になっているようだな」
 ふっとイケメンスマイルを浮かべる上司に釣られ、菊はちらりと隣へと視線を向けた。
 顎を上げ、やや見下されている感さえある角度から、彼はニヨニヨと唇を歪ませている。何処か馬鹿にされている印象もあるけれど、しかしどうやらこれは、親しみを込めた彼流のスマイルらしい。
 残念と言おうか。不憫と言おうか。犬のカーミングシグナル、複雑怪奇です。



「こう見えて、寂しがり屋なところもある。大切にしてやってくれ」



 何なら、お試し期間を設けても構わないから。君がこの子の家族として、いろいろ教えてやって欲しい。
「良かったな、ギルベルト」
 いやいやいや……冷や汗を滲ませつつ言葉を探す菊の隣、どうにも犬とは思えない、ケセセと嬉しそうな笑い声が上がった。









ケセケセ笑う犬との生活
タイトルは90年代の人気お笑い番組から
2020.03.22







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