黒鷲は東の未来より舞い降りる
<2>





先進国たる欧米諸国が、どのような目でこちらを見ていたのかは、身に沁みて判っていた。
開国したばかりの小国、猿真似しか出来ぬ無知な国家、取るに足らない野蛮国、所詮は亜細亜の有色人種…。 何処からともなく聞こえる侮蔑の声を甘んじて受け、それでも前に進まなければ、そんな彼らの餌食にされる。
今自分に残された唯一の道は、見栄も外聞もかなぐり捨てて、 他国の優れた部分を全て吸収し、自らの骨肉に変えて、己の力で立つことのみ。 古いちっぽけなプライドに拘っていては、食い物にされるのは目に見えている。
先ずは、文明国である事を周囲に認めさせなくてはならない。
その証として、憲法が必要であった。 だが、自分達にはその知識が無い。知識が無ければ、学ばなくてはいけない。
幸いにも、模範とすべき対象国は、直ぐに見付ける事が出来た。 欧州では現在、世界が注目する新興国が存在する。 まだ幼いその国を台頭させる為、中心となって奔走する立憲国があった。 体制といい、国力といい、国民性といい、師事を受けるのにこれ程相応しい国家は見当たらないであろう。
ただ問題は、こちらの申し出を受理してくれるか否かに掛かっている。
大国と呼ばれる諸国は、こちらの焦りを知っている。難色を示される事は覚悟の上だ。 足元を見られ、国際ルールに疎いこちらの無知を利用し、法外な代償を請求をされる可能性もある。


しかし、かの国は申し出を受理した。
こちらの懸念が拍子抜けするほど、実にあっさりと。











「…あ」
公邸の一室にて行われた、初めての二人きりの対面。 日本は感情を押し殺した表情のまま、しまった…と胸の内で歯噛みした。
お前、ちっせえのな。その言葉と同時にプロイセンの伸ばしたその手が、所在無く宙に浮いている。 推測するに、恐らく彼はこちらの頭に手を乗せようとしたのだろう。 それが触れる直前、大袈裟なまでにびくりと身を震わせてしまった過剰反応に、プロイセンは瞠目していた。 あ、いや、そこまでびびる事無いんじゃね?柘榴色の瞳は言葉に出さず、そう告げている。
「大変失礼しましたっ」
我が国では他者との接触が少なく、欧米諸国の挨拶には未だ不慣れなもので。 身を固くして慌てて頭を下げる日本に、プロイセンはへえと声を上げる。
「それ、オジギって言うんだろ」
そうやって頭を下げる動作、お前の所の挨拶らしいな。 オイレンブルクから聞いてはいたけど、初めて見たぜ。
「え?は、はあ、その…」
窺うように視線を上げると、こちらを見下ろす不思議な色の瞳と重なる。 それが悪戯めいた光を映して、によっと笑ったかと思うと。
「うわあっ」
浮いたままだった手をわっしと頭に乗せられ、ついでにもう一方の手も加わり、 そのままうしゃうしゃと両手でかき回された。 まるで愛犬を撫でまわすようなそれ。遠慮の無い力加減よりも、寧ろ彼の突飛な行動に面食らう。
「おー、すっげえ俺様好みの触り心地」
つやっつやのさらっさらだぜー。反応に困り、されるがままの日本に、プロイセンはケセセと高笑った。 どうやら、彼の機嫌を損ねてはいないらしい。
「あ、あの…?」
骨太ではあるが、指の長い、しなやかな手。 それが思う存分漆黒の髪をもみくちゃにし、やがて満足したのか、漸く開放される。
髪をぼさぼさに乱し、くらくらした頭のまま、間の抜けた顔でぽかんと見上げる。彼はによによと笑っていた。
「がっちがっちじゃねえか」
いくら俺様がカッコ良いからって、緊張し過ぎじゃね?
当然だ。初対面のこの場で彼の心証を損ねれば、今後の関係は勿論、 下手をすれば折角取り付けた今回の憲法指南も、破棄される可能性さえあるかもしれない。
「恐れ入ります。この度は、我が国の申し出を御快諾頂き、貴殿に…」
「あー、いいって。その手の堅っ苦しい挨拶は」
俺、苦手なんだわ、そーゆーの。形式的な挨拶は、上司らだけで充分だろ。
プロイセンは自らの首の後ろに手を当て、軽く首を傾け、直立したままの日本を見遣る。 まあ、仕方ねえだろうな。ずっと長い間引き篭もっていたのだ。 その上、あの力任せの糞餓鬼や元ヤン海賊に高圧的な態度を取られてりゃ、警戒しない方がおかしいか。
開国してからこちら、日本は渡来してきた列強諸国に、様々な不平等条約を結ばされていた。 世界の理も理解出来ないまま、半ば脅され、半ば押し切られ、日本の海外に対する不信感はかなり強い。
国と国において、利害関係の無い国交などあり得ない。それは開国早々に思い知らされたのだろう。 その所為もあってか、憲法指南を無条件で引き受けた際、申し込んだ側にも関わらず、 日本はその了承に酷く驚いていたようだ。
「失礼いたしました、すいません」
それでもこちらの一挙一言に卑屈なまでに恐縮する様子に、プロイセンは大きく息をついた。 こいつ、一言目にはまず謝るのな。これは癖か?国の習慣か?
「お前の事は聞いているぜ」
日本が諸外国へと使節団を派遣したと同様に、諸外国も日本へ使節団を送っていた。 それぞれの条約締結も勿論目的の一つだが、それだけでは無く、 日本がどのような国であるかを視察する為でもある。
「随分、綺麗な国みてえだな」
ここに比べて温暖な気候、列島を横断する街道、区間整理された清潔な街、優れた建築様式、器用で働き者の国民。 帰国した使節団の見聞録は、プロイセンにとっても非常に興味深いものであった。
「お恥ずかしい限りです」
「恥ずかしがる事じゃねえだろ」
世辞は無い。率直な評価だ。誇る事こそあれ、恥じる必要は何処にも無い。
その言葉に日本は軽く目を瞠り、そしてほわりと頬を染めて口元を綻ばせた。 仮面のように硬直した先程までとは違う、感情の滲む生きた素顔。 その思いの外柔らかい笑顔に、おっとプロイセンも瞬きした。何だ、こんな顔もできるんじゃねえか。
「嬉しいか」
自国を認められて。それに、小さく呼吸した後、噛み締めるようにはいと頷いた。そりゃそうだろう。 自分の価値を認められて、嬉しくない訳が無い。
「ま、俺様だって、それと同じっつー事だ」
僅かにはにかみを滲ませて腰に手を当てると、にっとプロイセンは笑う。
誰だって、自分を認められ、褒められ、敬意を示されて悪い気はしない。 しかも相手は、世界に目を向けたばかりの、偏見も、しがらみも、計算も持たない国である。 そんな純粋で率直な視点から、国家の在り方の手本として選ばれたのだ。 単純に誇らしく、嬉しく、そして日本に対して可愛い国じゃねえかと思った。
勿論、指南を引き受けたのは、単なる好意だけでは無い。 形こそ無条件とは言え、こちらにもそれなりのメリットがある。 プロイセンは他国に比べて、対アフリカ・亜細亜政策に後れを取っている。 こうした交流を持つ事で、亜細亜の拠点ともなり得る日本と、 他国に比べて一歩踏み込んだ友好関係を繋ぐ事が出来るのだ。
「お前の国は確かに弱い」
現時点において、経済も、外交も、産業も、軍事力も。
「はい」
沈鬱な面持ちで視線を落とす日本に、プロイセンは立てた人差し指でその額を突いた。 自然、押されてその顔が上を向く。視線の先には不敵な笑み。
「んな顔すんなよ、俺だって昔はそうだった」
餓鬼の頃は、田舎者の集まりだと揶揄され、同じ宗教国の間でも差別され、国としての土地さえ持たず、 何度も消えそうになりながら、それでもこうして今の形を築き上げたのだ。
「お前なら充分やれると思うぜ」
俺と同じように、底辺から這い上がる事がな。
確かに今の日本は、どうあがいたとて、列強国相手に太刀打ちできやしない。 しかし、国家としての基盤、優れた独自文明、豊かな国土と、そして何より向上心がある。 元より、合理主義で、無駄な事をしようとは思わない。 無駄では無く、日本に先進国となる力を秘めていると判断したからこそ、プロイセンは憲法指南を引き受けたのだ。
「まずは、世界に認めさせる事だよな」
奴らがびっくりするぐらい、何処よりも立派な憲法を作れるように、この俺様がばっちりきっちり教えてやる。 それがゲルマン民族たる、プロイセンという国だ。
だからお前は、流石はこの俺様が教授した国だって、堂々と胸を張れるぐらいになってみやがれ。
「一緒に、見下していた奴らを見返してやろうぜ」
にやりとした笑みは、些か質が悪く、何処か子供染みていて、そして頼もしかった。























小さなベットの膨らみがもそもそと動いた。
気が付いた当番の修道女がそっと覗くと、暗い色の瞳が、不思議そうにぱちぱちと瞬きを繰り返す。 どうやら、小さな天使がお昼寝からお目覚めらしい。あどけないその仕草に、にこりと微笑む。
そして、その真っ直ぐに伸びた黒い髪を優しく撫で、おぼこい額に祝福のキスを落とした。











埃っぽい白マントに黒十字を靡かせ、ぱたぱたと小走りにすり抜ける足音。
その姿に、ある者は丁寧に腰を折り、ある者は気軽に声をかけ、ある者は笑顔で見送る。 昼下がりの回廊、すれ違いながらドイツ騎士団は、そんな人々に軽く手を振って応えていた。
この女修道院は、管轄する中でも大掛かりな部類に入る。 敷地は広く、立地条件も良いので、遠征の際には駐在地や砦として使われることも多い。 しかも、北方への布教の拠点の要の一つとも考慮されていたので、 近隣の村との距離が近く、一般信者の利用施設も多い、少々特殊な作りになっていた。
広場を駆け抜け、病院を横切り、大聖堂の前に差し掛かった所で、おっとその足が止まる。
天井の高い大聖堂のアーチ型の出入り口、出てくるのは顔馴染みである古参の修道女。 そして、その手を繋いでよちよちと並んで歩く黒髪の幼児の姿に、ドイツ騎士団は柘榴色の目を細めた。
「おーい、キクーっ」
少し離れたその位置から、両の手を広げてその名を呼んだ。 その位置から動かずに笑って迎えるそのポーズに、おやおやと修道女は頬を緩ませて、 握り締めていた菊の小さな手を離す。
ぽかんと瞬きをしていた菊は、やがて小さな手をそちらへと伸ばしながら、 ふらふらのたのたとことこ…もどかしいぐらいの危なっかしさで、 それでも一生懸命ドイツ騎士団へと足を進めた。
歩き始めたばかりの、まだ覚束無い足取り。それをよしよしと辛抱強く見守り、待ち受ける。 ほら、あと半分、あと十歩、五歩、三歩、二歩、一歩…。
「よーし、とうちゃーく」
倒れ込むように胸に飛び込んできた小さな体を、ドイツ騎士団は大きな声で笑いながら受け止めた。 ちゃんとここまで、一人で歩けるじゃねえか。すげえな、偉いぞ。 まんまるいほっぺたに、ぐりぐりと頬ずりする。
「久しぶりですね」
「おう、こんどのえんせいは、てまどっちまったからな」
でも、これで漸く西の地区も制圧出来た。そちらへの宣教師の派遣の件があるから、修道院長に会いに来たんだ。
嬉しそうにケセセと笑うその鼻先には、擦り剥いた跡があった。 制圧したとは言え、ドイツ騎士団にとっては、芳しい状況では無いのであろう。 見ればそのマントも服も、随分な有様である。
よいしょ、と菊を抱き上げながら。
「おー、おもくなったな、おまえ」
最後に会った時は、もっとちっこくて、掴まり立ちを始めたばかりだったのにな。 人の子は成長が早い。あっという間に大きくなる。
「さいきんはどうだ?」
「随分、落ち着いております」
でも時々、眠りから目が覚めると、妙に不思議そうな表情で、周りを見回す時があるんですよ。 尤も、単にこちらがそう見えるだけかも知れませんが。
一時期、菊は目が離せない状態が続いた時があった。 直ぐに熱を出し、夜泣きも酷く、抱き上げても宥めても泣きやまない。そんな様子に随分心配したものだ。
だがこうして顔を覗くと、ほっぺもぷくぷくで、血色も良い。 がりがりに痩せていた手首も肩も、今は子供らしいむっちり具合をしている。
「…へんなかおだな、おまえ」
じい、とこちらを覗き込む黒い瞳。独特の肌の色。漆黒色の真っ直ぐな髪。 凹凸の少ないのっぺりした顔立ち。成長するに従って、人種的な特徴がはっきりしてきたようだ。 今後成長するに従って、それは更に顕著になるであろう。
この地方には、幾度となくモンゴル軍が来襲していた。 彼らがやって来ると、村は焼かれ、人は死に、畑は荒らされ、財産は奪われる。 住民にとって、顔立ちや体つきの違う異民族の彼らは、嫌悪すべき脅威であった。 菊は、そんな彼らを彷彿とさせる姿をしている。
まあるい頬に触れてみる。ぷにぷにした感触に、によっと笑うと、弾力のある頬をむにっと摘んだ。 ほっぺたの柔らかさは、俺達と同じなんだよなあ。
ほっぺを引っ張られたまま、不思議そうに見降ろしてくる真っ黒い瞳。それに、にかりと笑う。 大丈夫、お前を見つけたのは俺様だ。仕方ねえから、最後までばっちりきっちり面倒みてやるぜ。 それが修道会騎士団たる、ドイツ騎士団だ。
「よくきけ、キク。おまえはおれさまのでしなんだぞ」
きりとした目で菊の顔を見つめ、高らかに宣言する。
「で、おれさまはおまえのししょうだ」
良いか、師匠だぞ。師匠ってのはな、弟子の親代わりみたいなもんなんだぜ。 弟子のお前が虐められたら、師匠の俺様が守ってやって、仕返ししてやるからな。
黒目がちな目をきょとんとさせ、乏しい表情のまま、菊はことりと首を傾げる。 まだ漸く歩きだしたばかりの幼子だ。言葉の意味など判る筈も無かろう。 これは菊に言い聞かせているのでは無い。周囲への牽制である。
例え異民族の血を受けようが、菊はドイツ騎士団の弟子なのだ。
「キク。ししょう、だ。ほら、いってみろ」
し、しょ、う。大袈裟に口を開き、一語一語強調させて発声する。 それに、菊はまあるい瞳をぱちぱちさせて、真似をするようにぱくぱくと口を開いた。
「し、よー」
舌っ足らずのそれに、ケセセと笑い声を上げる。
「よおし、えらいぞ」
流石は俺様の弟子だぜ。よく覚えておけよ。 他の誰が何を言おうと、紛れも無くお前は俺の大切な弟子なんだからな。
こつんとおでこを合わせると、表情の無かった幼い顔がふにゃりと笑う。 それにドイツ騎士団も笑み崩れ、ぎゅっと抱きしめると、重ねたままのおでこをぐりぐりと擦りつけた。























「弟子…ですか?」
小首を傾ける日本に、おうとプロイセンは胸を反らせて頷いた。
「で、俺様が師匠だな」
立てた親指で自分を示し、ふふんと言い放つ自慢げなその顔は、幼いを通り越してやんちゃな悪餓鬼を連想させる。 プロイセンという国の権化は、まるで物語に登場する聖なる神の騎士のような整った容姿をしているのに、 それらを悉く裏切るような所があった。
「師匠ってのは、弟子の親代わりみたいなもんだ」
ちゃんと弟子が一人前になるまで親代わりとなって、教え、守り、助けてやる…それが立派な師匠ってもんだ。 そして弟子ってのは、そんな師匠の期待に応えるよう、しっかりと励めむのが務めなんだよ。
長きに及ぶ鎖国を終えて日本が知ったのは、諸外国は他国を所有する事に全力を注いでいるという事だった。 油断をすれば、食い物にされる。強くならなくては、全てを失ってしまうと、肝に銘じなければならない。
そんな中、彼との関係は、他とは少し違っていた。
教え、教えられ、敬い、敬われる、ただそれだけの、引き換えでもなければ、切り売りするようなものでも無い。 人と人とではありふれた、だけど国にとっては特別な、開国してから初めて知る、利害だけでは無い関係。
「では、師匠。よろしくお願いします」
「おう、任せておけ」





がむしゃらに時代に追い立てられていた、あの頃。
箱庭のように他から切り離された二人の関係は、大切な宝石箱のようだった。








ちっちゃい子がちっちゃい子をぎゅっとする可愛さは異常
条約締結の際、普は米英に比べると
幕府を尊重していたってのは本当かな?
2011.05.06







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