黒鷲は東の未来より舞い降りる
<5>





薄暗い早朝の、まだ日の明け切らぬ時間帯。
修道院から程近く、うっそりと深い木々に囲まれたその豊かな森は、しんと冷えた空気に満ちていた。 人気は無く、しかし音の無い気配にさっと顔を上げると、大きな樹の上を小リスが横切ってゆく。
それを微笑みながら見送り、一人やって来た菊は、いつものように素早く服を着替える。 以前服を破いて修道士に心配されて以来、こうしてここに来る時は、必ず練習着を持ってくるようになった。
朝食までには僅かな時間しかない。極力時間を無駄にせず、効率的に今日のメニューをこなすのだ。
両の掌に布を巻きつけ終えると、背中まで伸びた黒い髪をきゅっと一つに束ねる。
―――よし。
ぐっと拳を握りしめて、幼いながらも凛々しく前を見据える瞳が振り仰ぐ。
そこにあるのは、高い枝から吊るされたロープ、高い位置で枝と枝を繋いだしなやかな木の蔓、 細枝を組んで編まれた網、丸太と草で作られた巻き藁、等々。
フィールドアスレチックを連想させるそこは、細々と菊が作り上げた、自作の簡易修業場であった。

















「勤勉っつーか、貪欲なんだな、お前は」
その声に、はい?と日本は顔を上げた。
腕を組んでこちらを見下ろすプロイセンの視線が呆れているようにも見えて、思わず萎縮する。 ああ、しまった。また熱中し過ぎてしまっていたようだ。
「すいません、失礼致しました」
どうも、何かに集中すると、周囲に意識が回らなくなってしまう性質でして。 手に持っていたノートを閉じて頭を下げようとするも、ぺちりと掌で額を押し留められる。 別に怒っている訳じゃない。寧ろ、感心している。この飽くなき知識欲は、称賛に値するものだ。
プロイセンから憲法を学ぶ傍ら、学業に支障が無い範囲で、日本はあらゆる場所へと足を運ぶようにしていた。 何せこの国には、学ぶべきものが溢れている。 素晴らしいもの、優れたものは、出来うる限り学び、吸収し、取り入れたい。 その欲求に対し、日本は実に忠実である。
そして、そんな日本にプロイセンも同行した。
「良いぜ、俺様も一緒に行ってやるよ」
その言葉を聞いた時、恐縮も露わに日本は首を横に振った。 とんでもない。只でさえ、何かと甘え、頼り、世話になっているのだ。 これ以上、師である彼の手を煩わせる訳にはいかない。
しかし、 師匠の俺様が行くって言ってんだ、馬鹿弟子は有り難く甘えてりゃ良いんだよ。 腕を組んでふんぞり返られると、もうそれ以上の反論は出来ない。 申し訳無いと思いつつも甘える事にしたのは、 国としての役目はもとより、何よりも旺盛な好奇心が勝ったからだ。
正直、彼が共に付き添ってくれるのは、非常に有り難かった。 何せ国内の案内に、プロイセン国家たる彼以上の適任はいない。 しかもこちらが希望を申し出れば、彼は可能な限りそれを受け入れ、事前にきちんと手配を整え、 十二分に要求に応えてくれる。
講義が休みであるこの日だって、そう。
今日二人が向かったのは、国内でも屈指の規模を誇る印刷工場だ。 日本の希望により、たっぷりと時間をかけたこの見学は、実に充実したものとなった。
満たされるままに関係者に深く感謝を伝え、彼らに見送られながら建物を出た所で、 プロイセンは懐中時計を確認する。 この後は、最新の建築技術を取り入れての改築が終了した、鉄道駅を見学に行く予定だ。
「時間はまだあるな」
ぱちんと時計の蓋を閉じて懐に収めながら、控えていた馬車の御者に歩いて向かう事を告げる。
「歩いて行くぞ」
ここから駅へは遠くない。街中を歩くが構わねえだろ。振り返るプロイセンに、日本は寧ろ嬉々として頷いた。 その丸い頬が、先程までの興奮の名残を残し、ほんのりと上気している。
「満足したようだな」
「はいっ」
普段はおっとりとした闇色の瞳が、実に判りやすくきらきらしている。
「とても素晴らしい技術でしたっ」
印刷技術の発達は、正しい情報の伝達の為にも、とても重要なものです。 産業を発展させる事によって、出版物の価格の低下にも繋がり、 今まで一部の裕福層でしか得られなかった良質の書物を、誰もが手軽に手に入れる事が可能になります。 教育の大幅な向上に貢献できますし、何より今までよりももっともっと広く、 素晴らしい書物を世間に伝える事が出来る。この技術は、是非とも我が国に生かしたい。 それに、あの複雑な機械は、非常に興味深い作りでした。 これはまた日を改めて、じっくり拝見したいものです。
感動のままに熱弁を奮う様は、普段の落ち着きと打って変わり、妙に生き生きしている。
日本の好奇心の幅は広い。 プロイセン国内にある病院、学校、警察、天文台等の公的施設、鋳造所、火薬工場、機械製造等の工業所、 教会、劇場、美術館、庭園等の文化施設、果ては何の変哲もない庶民の市場や、市街、飲食店にも興味を示し、 持参したノートにその模様を事細かに記載する。
先程の印刷工場内でもそうだ。 様々な大型機械が規則的に動く様を目の当たりにした途端、日本はまるで子供のようにはしゃいだ。 そして、ちょこまかとあちらを覗き込み、こちらを窺い、 突然姿を消したかと思えば、予想外の場所からひょこりと顔を出し、ノートに絵を描き、文字を記して回る。
事前の連絡により、案内には工場責任者が直々に当たった。しかし、それだけでは物足りなかったらしい。 彼は進んで現場に直接携わる技師や作業員に対し、更に細やかな質問を、それはもう徹底的に繰り返していた。
一見しつこいほどのそれに、だが質問を受けた誰もが非常に快く応対した。 恐らく、彼の理解力が高く、質問に的外れな所が無く、且つどんな相手に対しても、 偏見の無い素直な敬意が滲み出ているからであろう。日本には、職人を尊ぶ国民性があるらしい。 手にあるノートの紙面、上から下へと文字を連ねるその様子を、プロイセンは不思議な心地で見守っていた。
「本当に見事なものを拝見出来ました。ありがとうございます、師匠っ」
拳を握りしめて、冷めやらぬ熱っぽい眼差しに、プロイセンはケセセと笑う。 そうだろう、そうだろう。俺様の国の素晴らしさを、とくと知るが良い。
プロイセンが日本に同行する理由は、それなりに日本にも推測が出来た。責任感の強い人だ。 師の立場としての教育、国内の各施設の視察と確認、預かったこちらに対する監視と管理の責任もあるだろう。
しかし、それでも。
「良かったな」
見上げるこちらの頭をくしゃくしゃと撫でながらにかりと笑う顔には、 そんな計算とは無縁の明け透けさが、確かに垣間見えていた。
粗野ではあるが博識、無礼ではあるが律儀、尊大ではあるが繊細、非常識ではあるが規律に厳格、 ふざけているかと思えば考える事は至って合理的で、 他人に酷薄かと思えば懐に入れた相手には与える事に惜しみが無い。
ほら、こっちだ。向けられる背中は大きく、そして頼もしい。日本は眩しく見つめた。
「師匠は本当に凄いですっ」
その言葉に、プロイセンは片眉を吊り上げて、肩越しに振り返る。 少しの間を置いて、その白磁の頬が赤らんだ。
「お前、さあ…」
「はい?」
首を傾げて続きの言葉を待つが、しかしなかなか訪れない。
「師匠?」
何でしょうか。見下ろしてくる真紅の瞳が、やがてにんまりと笑みを浮かべる。 その様子を瞬きを繰り返して見つめていたが。
「何でもねえよ」
ほら、行くぜ。
「いたっ」
ぴん、と軽く額を指で弾かれて、思わず日本は声を上げる。 地味に痛いそれに、うう、と額を抑え、ケセケセ揺れる背中を睨んだ。
恐らく、無自覚なのだろう。 普段は視線を合わせようとしない日本が、こんな時だけは真っ直ぐにこちらを見つめてくる。 凄いです、流石です、憧れます、何て素晴らしい。 深い色の瞳をきらきらさせるそれは、余りにも素直で、無垢で、眩しくて、 向けられるこちらの方が気恥かしくなる程だ。
多分それをこいつに教えたら、今度は意識して避けるようになるんだろうな。 そんなことさせるかっつーの。プロイセンは言葉を胸の内に飲み込んで、一人によによ笑った。
「あ、あの、師匠」
一歩下がったそこから掛けられる、実に控え目な声。 つん、と袖を引かれて振り返ると、申し訳なさそうに、気恥かしそうに窺う視線がそこにある。
「その、恐れ入ります。えっと、あれは何でしょうか」
視線で示された先は、オープンテラスになったカフェの一角。 店先に盛りだくさんに並べられた、色鮮やかで様々な形のそれに、興味をそそられたらしい。
足を止め、ああ、と頷く。
「マルチパンだな」
「まるち、ぱん…ですか?」
それは、食卓に並ぶパンの一種でしょうか。ああ、でもあれは食べ物ではありませんよね。 凄く綺麗で、艶々しています。
「いや、食べ物だぜ」
「なんと」
そちらに足を向けると、嬉しそうについて来る。 店頭に並んだそれらを見下ろす瞳の、何とまあ判りやすい事か。
「アーモンドの粉と砂糖で作ったものだ」
「これ、全部そうですか?」
すごく沢山色んな形があります。細工がとても凝っております。我が国の上菓子みたいなものでしょうか。 あれは果物の形をしておりますね。こちらは動物です、どれもとても可愛いらしい。
身を乗り出して、あれも、これもと落ち着きなく視線を動かす様は、幼い弟と重なってしまう。 仕方ねえだろ、どっちも俺様が面倒を見てやらなきゃ駄目だからな。
「少し休憩するか」
丁度ここは、カフェが併設された店だ。時間には充分余裕がある。 その言葉に、日本は笑顔で大きく頷いた。





通りに面したオープンスペースのテーブルに腰を下ろし、日本は手にした包みをにこにこと眺めた。 紙袋の中身は、先程のマルチパンだ。じっくり吟味して購入したそれに、随分と御満悦である。
「一つは、ドイツさんのお土産にします」
可愛い熊の形のマルチパン、お気に召して下さるでしょうか。
プロイセンに紹介されたドイツは、生まれたばかりの新興国だけあり、その姿はまだ幼い子供の域を脱していない。 しかし理知的な眼差しや、落ち着いた立ち振る舞いには、未来を予感させる風格が感じられた。
「あいつ、一緒に来たがっていたもんな」
今朝出掛ける際も、ありありとした不満に頬を膨らませていた。
「ふたりのじゃまはしないから、おれもつれていってほしい」
確かに分野は違っているが、俺だって日本と同じように学んでいる。 もっといろんな物を観て、知りたいと思っているのは、俺だって同じなんだ。
眉間に皺を寄せての主張は理解できるが、しかし彼には彼のやらねばならない事がある。
「この間、一緒に行った所みたいな場所だと思ったんじゃねえかな」
「かも知れませんね」
先日、ドイツも連れて三人で足を運んだのは、郊外にある動物園であった。 国内でも珍しい動物達を見て回り、普段は真面目な態度を崩さないドイツにしては、 珍しい程にはしゃいでいたのを思い出す。
「楽しそうでしたからね、ドイツさん」
「それを言うなら、お前もな」
によっと笑っての指摘に、日本は思わず頬を染める。いえ、あれは、見学の為に、その。 言い訳めいた声は、もごもごと尻すぼむ。
成程、こうして動物の生態の研究をしつつ、一般に公開する事によって、 人々に生物に対する好奇心を与え、しかも娯楽の場としても活用し、 触れ合いによって動物への愛情を育み、道徳心を高める事も出来るんですね。 素晴らしいです。もふもふです。是非とも我が国にも導入したい。
拳を握りしめて力説する日本に、ドイツは空色の瞳をまあるくして、ぽかんと呆気に取られていた。 うん、判ったから、とりあえずその腕に抱いた白ウサギは、そろそろドイツに交替してやってくれ。 そいつも可愛いものが結構好きだから。
「日本にはあんな一面もあるんだなーって、驚いていたぜ」
「…面目ございません」
お恥ずかしい。俯いて頬に手を当てる日本の前に、注文した珈琲とクーヘンがやって来た。 ひょこりと顔を上げると、食べ物を前に、判りやすくその目に輝きが宿る。
「甘いものには、疲れを取る成分が入っているからな」
適度に休憩を取る事によって、能率が向上するというデータもある。 蓄積した疲れは凡庸ミスを増やし、逆に無用な手間を作る事にもなり兼ねない。 自己管理は自分に対する責任と義務だ。よく憶えておけよ。
人差し指を立てての彼の説明に、姿勢を正してはいと頷く。
半ば強制的にプロイセンの元へ間借りをするようになった状況に、上司やその部下は最初随分と心配をしていた。 だが結果的にこの申し出は、非常に有り難いものになった。
日本は何かに興味が向いてしまうと、途端に寝食さえも忘れて、一心に没頭する傾向がある。 しかし最初に宣言した通り、規則に厳格なプロイセンは、無理をしがちな彼のストッパーになり、 乱れがちな生活をきちん律する環境を提供してくれた。 更には、彼の時間の許す限り、予復習や自習にさえ付き合う面倒見の良さまで発揮する。 その恵まれた環境に、学習の能率は随分と向上していた。
両手を合わせていただきますと一礼すると、日本はフォークに突き刺したひとかけらの林檎のクーヘンを頬張った。 口に広がる素朴な甘みと酸味に、確かに疲れが飛んでゆく。 成程、美味しくて、疲れを和らげる。心も体も満たすなんて実に素晴らしです。
「師匠。アプフェルクーヘン、とても美味しいです」
ぱあっと小花を飛ばす日本に、プロイセンは当然だと頷く。なんてったって、俺様の国のクーヘンだからな。
「もっと食え。お前は細過ぎんだよ」
いろいろ学んで、育たなきゃ駄目なんだろ。そんな痩せっぽっちの身体で、対抗できるかっつーの。 沢山食って、他の奴らに負けないくらいにしっかりと育ちやがれ。
更に追加注文しそうな勢いのプロイセンに、いえいえいえ…慌てて日本は首を横に振った。 身体の大きさに比例した欧米の人々の食の量は、小柄な日本人には些か多過ぎる。
「もう、いい歳ですから」
あまり沢山一気に食べると、年寄りの体には負担が強過ぎます。
自嘲気味に苦笑する日本の言葉に、何を爺臭い事をと眉を吊り上げた。 誰よりも子供染みた顔でのその言葉は、強烈な違和感しか与えない。 それはあれか?寧ろ俺達に対する嫌味かよ。
「バーカ、お前幾つだっつーの」
「もう、二千歳ですかねえ」
流石に、もう良い爺ですよね。おっとりとした答えに、ぴしり、とプロイセンの顔が引きつった。
固まった空気に、あれ、と日本は瞬きをする。 睨みつけるようにじいっと向けられる視線が、何やら居たたまれない。えっと、師匠?
「…嘘だろ」
ぽつりとした声に戸惑いながらも、はあと何処か曖昧に頷く。
「まあ、正確ではありませんが」
「はは、そうだよなあ」
何だよ、ったく脅かすなよ。そうか、亜細亜と俺達とでは、年号の数え方が違うとかってあり得るもんな。
「でもそれ以上昔になると、記憶も曖昧でして…」
記録は残っているのですが、嫌ですね、歳は取りたくないですね。 控え目に笑う幼い横顔に、たらりとプロイセンは汗を流した。マジかよ。
そう言えば、彼の隣国にある兄と自称する国も、相当な歳を重ねている。 今は古となった地中海の国々の遺跡にも、彼との交易を証明する諸々が残されているとの話もあったような。
しかし目の前でふわふわと嬉しそうにクーヘンを頬張る彼は、 とてもじゃないが二千年の歴史を重ね持つ老国には見えない。 国の象徴にとって、容姿と実年齢が等しくない事は判っている。 しかしそれでも、寧ろ少女じみた日本の容姿の幼さは、諸国の中でも殊更際立っていた。
極東の海に浮かぶ、神秘の島国。海に守られた、不思議な東洋の箱庭。 誰も踏み込む事の無かった、最後の楽園。
こくんと、とプロイセンは咽喉を鳴らせた。
「―――お前っ」
じろりと睨み据える真っ赤な瞳に、ことりと日本は首を傾げる。 そのあどけない仕草が、あれだ、違うだろうが。
「勉強するならてめえの国を学べよっ」
身を乗り出して噛みつくような勢いに、思わずはい?と声を上げる。
「師匠?あの、何を…」
「師匠じゃねえよっ」
師匠どころか、お前に比べれば俺なんぞ、てんで青臭い糞餓鬼じゃねえか。 そんな餓鬼相手に、何を素直に学んでんだよ、 何無邪気に師弟関係を喜んでんだよ、何丁寧に敬語で話してんだよ。
しかし状況を把握できない日本は、そのまろい目をぱちぱちと瞬きさせた。 その子供じみた仕草に、張り詰めていた力がへろへろと抜けてしまう。 がっくりとプロイセンは肩を落として脱力した。
「あのなあ…欧州なんて、精々数百年かそこそこの国ばっかだぜ」
今や飛ぶ鳥を落とす勢いのあのヒーロー気取りの若造だって、 お前から見れば、生まれたばっかりの赤ん坊同然だろうが。
「お前、今まで他国からの侵略が一度も無かったんだよな」
「はい、幸いな事に」
「幸い、じゃねえよ」
信じらんねえ。
確かに、長寿であるだけが全てではない。 古い体制に固執し、新しいものを取り入れる努力を怠り、身を滅ぼした連中を幾つも目にしている。 だがしかし。
ねえ、師匠。低いながらも、柔らかい声。
「…歳を重ねるだけでは、駄目なんですよ」
現に今、この現状が全てを物語っている。
幸運が幸運を重ね続ける事が可能であった以前とは、既に世界が変わっているのだ。 それに正しく対応していかなければ、どんなに長い歴史にも終止符が打たれてしまう。
「だが、お前には理由があった筈だ」
それだけの長い命を存続できたのは、他国には無かった何かがあった筈である。 立地だけでは無い、この国にしかなかった何かが。 他国の知識を取り入れることも必要かもしれないが、その何かを探し、きちんと研究すべきではないのか。
この近代化の流れに巻き込まれ、その何かを失う前に。
「お前は、もっと自分を大切にしろよ」
近代化の遅れを取った日本が、自分に欠けるものを諸外国より吸収しようとする方向性は、 妥当であり評価すべき政策だ。 しかし、それによって今まで自分の培ってきた何もかもをかなぐり捨て、蔑ろにするのは間違っている。
日本はきょとんと目を大きく見開き、やがてほわりと頬を染めた。 しかし、真正面からの瞳に映る自分に気が付くと、気恥かしげにうろうろと視線を彷徨わせる。
そして恐縮そうにはにかみながら、何かを誤魔化すように、テーブルに置いていた珈琲カップを手に取った。
「…そうですね、善処します」
始めの頃は微妙な顔で口にしていた珈琲も、今は実に美味しそうに飲み干し、 カップを取る仕草さえも随分慣れたものになっていた。
大航海時代、全盛期のコンキスタドール共が、こぞって足を踏み入れた伝説の黄金郷。 そこでキリスト教を広げようとしたものの、結果それをあっさりと跳ね退けて、自我を保ち続けた長寿国。 特殊な歴史を築き上げ、純度の高い独特の美意識と価値観を抱く、 他者から荒らされた形跡の無い、純粋培養された文化国家。
それが今、時代に巻き込まれながら、急速に変化を遂げようとしている。
世界から学び、吸収し、受け入れ、取り入れ、押しつけられ、 今まで培ってきた自分としての形を脱ぎ捨てて、近代国家へと改革を遂げて。 そして、そうしてその結果は、果たして―――?
「師匠の国は、とても素敵な街を有しておりますね」
この美しい街並みを、是非とも我が国も模範にしたい。 オープンカフェからうっとりと眺めてのその言葉は、偽りの無い本心であろう。
こくりと口にした珈琲は、胸の奥に苦みのさざ波を残した。

















衝撃に、一瞬息が詰まる。
儘ならない呼吸に喘ぎ、咳き込むと、胃の奥がせり上がる感覚に顔を顰めた。 痛い、苦しい。身体がばらばらになりそうなそれに、ぐう、と涙が零れる。
落ち着け、深呼吸、気道の確保を。 頭の中でそう繰り返し、両手で咽喉元を押さえながら、全身を使って深く呼吸を繰り返す。
横倒れたままの体勢で、呼吸を整えながら視線を向けた。ああ、あの木の枝から落ちたのだ。 結構高さがあったから、軽くて軟らかい子供の身体で無ければ、もしかすると危なかったかもしれない。 でも受け身は取れたから大丈夫。次はきちんと着地出来るように、もっと練習しなくては。
身体の痛みが、ゆっくりと拡散する。そろそろ起き上がっても大丈夫だ。 痛みに零れた涙を手の甲で拭い、ひっくと漏れた泣きじゃっくりを抑え込む。 肉体は子供なので、どうしても痛みに耐えられない。 ぐしぐしと鼻を啜りながら、それでもそれ以上泣かないように必死に堪える。
身を起こそうとした所で、咽喉元に当てていた手が、 無意識に黒十字のペンダントを握りしめていた事に気付いた。
拳の内側にあるそれに、唇を噛締める。気持ちを落ち着かせるように深呼吸をして、目を閉じた。 祈るように数秒、強張ったままの掌を視線の高さに掲げ、ゆっくりゆっくりと開き、そっと閉じていた瞼を上げる。 神様…縋るように、菊はペンダントの裏側を確認した。
その数字は、1、9、1、8。
気が付いたのは昨日。ほんの少し前までは、1、9、4、9の数字が刻まれていた筈だ。 あれは確か、かの兄弟が東西に分裂された数字。 しかし今目の前にあるこれは、地上で一番最初に勃発した世界大戦が終結した数字。
出来るだけ自然を装って修道女に農作の改善を提案したのは、修道院の力になりたかったからだ。 自分を育ててくれた彼らに報いたい気持ちもあったが、何よりも修道院が力を蓄える事により、 プロイセンの前身たるドイツ騎士団の助けになるかと思ったからだ。
修道院の運営の力にはなっただろう。 事実農作は向上し、収穫は増え、修道院長からも菊のお陰だとの言葉を貰った。 だが、このペンダントの数字から憶測するに、 ドイツ騎士団の後の姿であるプロイセン自身の存続は、更に短くなっているというのだろうか。
―――どうして?
もしもこのまま、どんどん数字が後退してしまうなら。 それを考えると、いても立ってもいられない焦燥感に追い立てられる。 足元が崩れるような不安感に押し潰されそうになる。
数字を見つめる視界が涙にぼやけ、握り締めた十字架ごと痛む胸を抑えて、身を丸くする。 ぎゅっと強く目を閉じると、目尻から零れた涙が、ほろりとこめかみを伝った。








「ヨーロッパ人の見た幕末使節団・著鈴木他」を一部参考
幕末の使節団は動物園にも行ったそうです
マルチパンは、日本でいう所のマジパン
私はどうしてこんなにも子ドイツが愛しいのだろうか
2011.05.27







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