黒鷲は東の未来より舞い降りる
<6>





はっと目を見開くのと、両手の袖口からそれを引き出すのは同時であった。
こちらに向かって飛ばされたそれらを認識する前に、まず体が動いた。 軽く腰を落として構えた体勢から、見開いた目をやや細める。
頭上でひゅんと横に薙いだ右腕、左腕、そのまま間髪を挟まず左右に返される動きに、迷いは見られない。 瞬きする速度と同等の俊敏なそれは、子供の短い腕ながら、流れるようななめらかさがあった。
かん、かん、かん、と連続して投げつけられた小さなそれらを、いっそ軽妙に弾き返す。足場は動かない。 上半身の柔軟性と腕だけで攻撃を返す動きは正確で、無駄が無く、そして隙が窺えない。
最後に向かってきた一際大きなそれに、仕上げとばかりに、伸ばした腕を下から上へと大きく垂直に振り上げる。 握る両拳から覗いた尖った刃先が、きらりと光を受けた。
未だ短い指でくるりと手の内のそれを回転させる動きは、小さな幼子とは思えぬほどの鮮やかさだ。 ひゅん、と左右に腕を払うと、握られていた筈の武具は、もう袖の内へとその姿を消している。
代わりに、その位置で上を向けた左右の掌には、等分に割れた林檎がそれぞれすとんと収まった。 投げられた礫はどんぐりであったが、最後に向けられたこれだけは違っていたらしい。 それをきちんと見極めた動体視力に、中年のその男はほうと声を上げた。
「上達したな」
どんぐりは全て、こちらの足元へ向けて弾き返されている。 薄暗い部屋の中、どっかりと椅子に座って投げ出した両足の間、転がるそれらの数を確認すると、 どこか嬉しそうに目を細めた。そんな彼に、菊は眉尻を下げて苦笑する。
「おそれいります」
軽く小首を傾けながら、先程の動きを見せた同一人物とは思えない、とことことした足取りで歩み寄る。 そして、割れた林檎の一方を彼に手渡した。受け取ると、彼は瑞々しいそれをしゃり、と齧る。 それを見とめて、いただきますと、菊ももう一方の林檎に歯を当てた。
この工房の主である彼は、最近菊が訪問すると、こうしてこちらの腕を試すような事を仕掛けてくる。 今だって、失礼しますと声をかけて扉を開いた瞬間、これだ。 流石に慣れてきたが、どうにも遊ばれているような気がする。否、楽しまれているのだろうか。
「その、また、どうぐをおかりできますか?」
親方は頷くと、黙ったまま顎でそちらを示した。 いつもすいません。丁寧に腰を折って、菊は示されたそちらへいそいそと向かう。
隅に置いてある木箱には、不要となった鉄屑が無造作に放り込まれてある。 いつもその中から使えそうなものを分けて貰っているのだが、それが今日は更に増えていた。 しかも勝手が良さそうなものばかりになっている。恐らく、彼が意図的に増やしておいてくれたのだろう。
ちらりと振り返ると、彼はもうこちらに背を向けて、大きな鎚を振るっていた。
「ありがとうございます」
がんがんと響きだしたその大きな音に負けないように声を張り上げると、振り返る事無く、彼は軽く片手を上げた。





修道院からやや距離のあるこの町には、職人通りとも称される区域がある。 煉瓦造りのこの通りは、革、ガラス、靴、家具等、 様々な専門の職人がそれぞれの軒を連ね、工房を構えていた。
菊は時折、修道士の仕事の手伝いとして、この町にやってくる。 最初は修道士達に付き添っていたが、しかし早々に道や馬や馬車の扱い方を覚えると、 簡単な所用であるならば、進んで一人で使いを引き受けるようになった。
そして修道院には内緒で、この武器職人の工房へと足を運んでいた。
この工房の主は、偏屈で、無口ではあるが、職人気質が強く、腕は確かだ。 恐らくは、この街でも一番の腕の持ち主であろう彼は、菊が説明を添えて依頼した武具を、 見た事が無かったにも関わらず、見事に希望通りに作り上げてくれた。
そして有難い事に、菊に対して詮索もしない。 最初の武具の製作依頼以降、こうして工房の道具を借りにやって来る菊に、 何も尋ねる事をせず、利用の料金を求める訳でなく、黙って受け入れ場所の提供をしてくれた。
最初に依頼した苦無はだけは、しっかりとした強度が欲しかったので、専門職の彼の技術が必要だった。 だがそれ以外の道具は、使い捨てでもあり、特に作成が難しいものではない。 余った鉄屑を貰い受け、工房の道具を駆使しながら、懐かしい知識を引っ張り出し、 十字型の飛び道具や、細い針や、鉤状のそれらを、菊は黙々と作成する。
その日も、ひと通りの作業を終えると、ここから修道院へ帰る時間も考慮して、菊は早めに手を止めた。
「いつも、ほんとうにありがとうございます」
丁寧にお礼を告げ、工房の扉に手を掛けた所で。
「お前が男だったらなあ」
真面目だし、器用だし、素直だし、肝も座っているし。 そうすりゃ引き取って、立派な武器職人の後継者として育てるのになあ。
身に纏う衣服から修道院関係者、更にその年齢から孤児院の孤児である事は、予想されていたらしい。 彼は妻帯を持っていない。 ぽつりと漏れた本心とも冗談ともつかないその言葉に、菊は眉根を寄せて、小さく頭を下げて扉を閉じた。
工房を出ると、門前に留めていた馬車を引きながら、小さな路地をすり抜ける。 薄曇った空に、午後の時刻を知らせる鐘の音が響き渡った。 それに呼ばれるように顔を上げると、建物の間から垣間見える、ひと際背の高い教会の鐘楼がある。 現在ドイツ騎士団の本拠としている、教会のものだ。
教会と称してはいるが、もとは古い城であったものを改築している。 赤茶けた城壁は頑丈で、それなりの広さと荘厳さを有していた。 騎士団員はそこを拠点に、各地へ活動を展開している。
修道会騎士団であるドイツ騎士団は、十字軍遠征が活発だった際に誕生した団体だ。 本来であれば、聖地奪還にエルサレムに向かう為の集団だが、 しかし他の騎士団に後れを取ったドイツ騎士団は、北方に住まう異教徒へと矛先を変えていた。
十字軍活動が廃れ、数多く生まれた騎士団が存在理由を失って消滅する中、ドイツ騎士団は存続を続けている。 異教徒の改宗を掲げ、失ってしまった存在意義と居場所を求め、己の民族の領土を広げる為に。
しかし、消滅を免れたとは言え、彼の辿る歴史は決して明るいものでは無い。 日本の知る歴史でも、ドイツ騎士団は決して無敵の勝率を誇った勇武の騎士団では無かった。 かなり苦しい状況へ追い込まれることも数多く、しかしその度に危機を乗り越えた、寧ろ不屈の騎士団である。
先の遠征は酷い有様だったとも、噂で耳にしている。 団員の数も減り、苦しい状況の中、各修道院へ足を運ぶ余裕さえ無いらしい。 実際菊も、ドイツ騎士団とはもう長く顔を会わせていなかった。
尤も、二人が会わない事は、騎士団の現状だけが理由では無い。これは日本にも憶えがあった。
命の長さの違う象徴と人間同士、残される悲しみと残す辛さは、身に沁みてよく知っている。 その傷を深くしない為の自己防衛として、時期を見計らって距離を置くのは、日本にも経験があることだった。
知らぬ内に二人の距離は、確実に、少しずつ、ゆっくりと拡がっている。
菊はそっと胸元、衣服越しに感じる黒十字に手を当てた。 ペンダントに刻まれた数字は、あれから変化は見えない。今の菊には、祈る事しかできなかった。
そのまま馬車を引き、角を折れた所で、ふとこちらに向けられる視線を感じた。顔を向ける事はしない。 しかしあちらから向けられる少年達の気配に、菊はひっそりと溜息をつく。
また彼らか。歳の頃は菊と余り変わらないだろう、大抵目にする時は四、五人がつるんでいる。 所謂町の悪童集団であろう彼らは、菊が一人でこの町に来る度、 かなりの頻度でこちらに嫌がらせじみた事をしていた。
小さい町だ、黒い直毛や凹凸の少ないモンゴロイドの顔立ちが珍しく、異端に見えるのだろう。 修道院に住まう中、修道士達のその配慮から、菊は自身が異民族である意識を殆ど感じる事が無かった。 しかし、様々な人の住まう町中では、そうもいかない。
嫌な肌触りの視線を受けながら、菊は無表情のまま馬車を引き、徐々に足を速めた。 その後ろを、彼らは薄ら笑いを浮かべながらついて来る。この手の類の人間は、何処の世界でもいるもんだ。 以前は町に出るまでにやにや笑いながらずっと追いかけてきた、 この間は小石を投げ付けてきた、さて今日はどうするつもりなのか。
一番良いのは相手にしない事。 町を出てしまえば、気の小さな彼らは、自分の縄張りを踏み出してまで追いかけようとはしない。
不意に、背後からの足音が止まった。何かを手に取り、振り仰ぐ気配。 日々の修練で気配に聡い菊は、背中だけで正確に彼らの一挙一動を感じている。
避ける事は簡単だ。しかし避けて事によって、更に次の一手が来るのは目に見えている。
ぐしゃ、と投げつけられたそれがぶつかったのは、か細い背中。
足を速める最中、背後から押されたような衝撃に、思わずバランスを崩して膝を突く。 その無様な様子に、どっと笑い声が上がった。
どうやら彼らが投げてきたのは、泥団子であったらしい。 背中に張り付くべっとりとした感触に、ぐっと菊は唇を噛締めた。 さて、あと何発ぐらいで、今日の彼らは飽きてくれるのだろうか。諦めたように目を伏せた所で。
「こら、おまえらっ」
鋭い声に、えっと振り返った。 こちらに背を向けて、彼らとの間に立ちはだかる小さな後姿に、菊はぱちぱちと瞬きする。
「おんなのこあいてに、よってたかって、なにしてんだっ」
ちっせー事やってんじゃねえよ。
腰に手を当て、幼い声を張り上げ、ふんと鼻で笑う。その腰には、立派な剣が下げられていた。 身に纏う戦士らしい衣服からして、この町の子供ではないらしい。 風を受けるマントの上、軽く一つに束ねたその髪の柔らかい色に、ふわりと記憶の奥が掬い上げられた。
「たいくつしてんなら、おれがあいてをしてやるよ」
女の子一人を複数で虐めるような卑怯者なんて、俺一人で充分だ。十数える間にやっつけてやるぜ。 但し、覚悟しろよ。俺はお前らみたいな弱虫に、手加減なんてしてやらねえからな。
にやりと好戦的に笑うと、腰に収めた剣の柄に手を掛けた。 すっと腰を落とした安定のあるその構えは、実践で鍛えたものだろう。
少年達は互いに目配せを交わし合う。 突然割り込んできた見知らぬ誰かに、余計な面倒は避けたいのだろう。 舌打ちと悪態を吐き捨てると、そのまま背中を向けて、あちらへと行ってしまった。
「へっ、つっまんねーの」
唇を尖らせると、軽く首を傾け、そしてくるりと振り返る。
「だいじょうぶ?」
地面に座り込んだままの菊に、さっと差し伸べられた小さい手。 太陽を背中にこちらに向けられる、明け透けな優しい笑顔。思わず菊は息を飲む。
オリーブグリーンの瞳、無造作に一つに束ねた亜麻色の長髪、おぼこさと初々しさのが残る頬の丸み。 見覚えのあるそれらに、思わず呟いた。
「…ハンガリーさん?」





町の中央には、水場の設置された広場があった。 ベンチ代りに置かれた丸太に腰を下ろす菊の後ろ、ハンガリーは濡れたハンカチでその背中を丁寧に拭う。
「…うん、だいぶおちたよ」
ちょっと濡れているけど、多分これなら直ぐに乾くと思うから。
「すいません…」
完全に汚れを落とす事は出来なかったが、背中まで伸びた黒髪で殆ど隠れそうだ。 あのまま帰っていれば修道士達は心配し、下手をすると今後、一人で町へ来る事を止められる可能性があっただろう。 菊としてはそれだけは避けたかったので、 こうして汚れを落としてくれるハンガリーの優しさが、心底有り難かった。
「いいって、これぐらい」
俺は声を掛けただけだもん。全然大したことしてねえよ。 こちらを覗き込んでにこりと笑うハンガリーに、菊は思わずぽっと頬を赤らめる。
プロイセンから話は聞いていた。 ハンガリーは幼い頃、自分を男と思い込み、随分やんちゃであったらしい。 しかし日本の知る彼女の姿は、美しく、優しく、笑顔の可愛い、とても女らしい素敵な人だった。 だから彼からそんな話を聞くたびに、女性に対して失礼な…と呆れていたものだ。
だがしかし。今彼女を目の前にすると、思わず成程と納得してしまう。 まだ成長していない身体は、女性らしさも男性らしさも主張していない。生来のきりっとした眼差しは爽やかで、 可愛らしさと勇ましさが同居する面差しは、物語に出てくる王子様像を連想してしまう。
まさか、自分が女に生まれたように、彼女もこの世界では男に生まれたとかは…無いですよね、やっぱり。 想わずまじまじと見つめると、ハンガリーは何?と小首を傾ける。 そのピスタチオグリーンの瞳の温かさに、思わずどきりとして、慌てて顔を逸らせて俯いた。
「その、ほんとうにありがとうございました」
「ううん、ひざのほうはだいじょうぶ?」
「はい」
膝を着いた時に出来た打ち身なので、少し内出血はしているものの、大したものではない。
「きをつけてな。あのてのばかは、どこにだっているから」
こくりと菊は頷く。
そう、気をつけなければ。きっと今後、こんな事は何度でもあるだろう。 欧州において東洋系である自分の容姿は、良くも悪くも目立つのだ。 こんなに地味な顔立ちなのに何故…と甚だ疑問ではあるのだが、 これからはもっと自覚し、注意しなければならない。
「でも、よくおれがハンガリーってわかったね」
国や象徴同士なら兎も角、普通にこうしていると、他の人間と区別がつかないと思うんだけどな。 その指摘にどきりとする。
「あ、あの…まえに、ちょっとだけ、きいたことがあったので」
ふうん、そうなんだ。軽く頷きながら、ハンガリーはじっと菊を見下ろした。 その真っ直ぐな視線にどぎまぎした所で。
「なあ…もしかして、キク?」
名を呼ばれ、えっと目を丸くした。 戸惑いながら頷くと、やっぱりそっかあ、嬉しそうに声を上げる。 修道院の服を着ているから、もしかしてって思ったんだ。 そっかあ、だったらあいつから、俺の話も聞いているかもな。
「ドイツきしだんのやろーがいってたぜ」
修道院に、真面目で、勉強家で、賢くて、一生懸命で、すっごく可愛い東洋系の弟子がいるって自慢してやがったんだ。 あの野郎があれだけ偉そうに言っていやがったから、どんな子かと思っていたら。へーえ、君が菊かあ。ふうん。
「ほんとにかわいいなあ」
笑顔のままにぽんぽんと黒髪を撫でてくるハンガリーに、菊は耳まで赤くする。
「ちょうどいいや、なあ、いっしょにいかないか」
ハンガリーが指さしたのは、この広場から直ぐそこにある教会、ドイツ騎士団の本拠地だった。 今日はドイツ騎士団に呼ばれ、こちらもちょっと聞きたい事があって、ここまでやって来たのだ。
まるで遊びに誘うように無邪気に手を引くハンガリーに、菊は戸惑う。
「あいつ、きっとよろこぶぞー」
最近ずっと忙しくって、修道院に行けないって言ってたもんな。 心配してたんだぜ、俺様の弟子はちゃんとやってるかなって。菊ちゃんの事。
ほら、行こう。 手を取って、座っていた丸太の上から降ろしてやると、こっちこっち、手招きをしながらあちらへと駆け出した。 あっという間に行ってしまうハンガリーに眉尻を下げ、もぞもじと暫し躊躇した後、 しかしこのまま黙って去る訳にも行かず、結局彼女を追いかける。
通りに向かって角を一つ折れると、大きな通りに出て直ぐ、入り口の門が見えた。 既にその門前に到着したハンガリーは、笑顔で菊を待ち受けている。
そこで、菊は足を止めた。
彼女の前には、恐らく迎えに出てきたのであろう、白いマントを纏ったドイツ騎士団が立っていた。 久しぶりに見るその姿にどきりとして、しかし直ぐに違和感を感じる。
プロイセンからの話では、ハンガリーとドイツ騎士団は幼少の頃、 同じ様な年頃の外見をしていて、そのまま同じ様な速度で成人の姿になったと聞いていた。 しかし今、並んだ二人を比べて見ると、どうもハンガリーの方が頭一つ分程背が高く、 僅かながらも年長者に見える。
女の子の方が、男の子よりも成長が早いとの話もある。しかし、それだけでは無さそうだ。 彼女の方が成長が早いのだろうか…否違う。恐らくは、ドイツ騎士団の成長が遅いのだろう。
久しぶりに目にするドイツ騎士団は、菊の知っている姿からちっとも変わっていなかった。 まさか会うとは思っていなかったのだろう、こちらに向けられた紅玉色の瞳はきょとんと丸い。
「キクちゃーんっ」
ぶんぶんと手を振るハンガリーにじろりと視線を向けて、ドイツ騎士団は何やら彼女に言っている。 唇を尖らせる彼にによっと笑い、ハンガリーは何やら応酬していた。
二人の小声での会話は、離れたこちらまで届かない。 しかしそれでも、随分親しげで、遠慮も無い、誰にも間に割り込めない、気さくで打ち解けた空気があった。
ぎゅうっと菊は、スカートの裾を握りしめる。
そしてぺこりと軽く頭を下げると、くるりと背を向けて、その場から走り去った。

















思わず零れた言葉に、彼は片眉を吊り上げてはあ?と非常に柄の悪い声を上げた。
じろりと睨みつけられ、しまったな、と思ったが、口に出してしまったものは仕方が無い。 それに、別に悪い事でも無かろう。 しかしそう思う日本とは裏腹に、目の前に立つ彼は、それはそれは不機嫌に顔を顰めた。
「お前、何言ってんの」
明らかに険の込められた声。どうやら彼の心情を害したらしい。
「いえ、お二人を拝見して」
そう思ったので。眉尻を下げて微笑むと、プロイセンは忌々しく舌打ちをした。
ドイツ滞在の最中、外交上の催しに幾度か同席させて貰った事があった。 亜細亜とは違う華やかなパーティー会場。 欧州の国は把握しきれないほどの数があり、しかし彼らは彼らの歴史上、それぞれの顔見知りが多く、 突然ぽっと入り込んだ亜細亜の小国は壁の滲みになるのが席の山であった。
しかし、壁の滲みにも利点はある。 慣れないシャンパンを飲みながら彼らを見ていると、どことどことが昵懇で、どことどことが気がおけなくて、 どことどことが緊張を催す関係か、かなり朧げながらも何となく憶測することが出来た。 その観察の一つとして、気が付いたのである。
欧州の歴史については、大雑把な流れではあるが、それなりの知識は持っている。 更に師の口からも、かの国の名は幾度となく耳にしていた。 故に二人が並ぶその姿に、ああ成程と納得する。
普段より一人楽し過ぎると豪語する癖に、幼子のような無邪気さと子供染みた悪戯心で、 何かと彼女にちょっかいを掛けている彼。 普段は柔らかく女性らしい物腰柔なのに、彼の前では遠慮も外聞も飾り気も無く、 辛辣な言葉と素っ気ない態度の彼女。つまり、今更何事かを懸念する間柄ではないのだろう。 それだけに、二人の親密さが読み取る事ができた。
確かに二人は過去、衝突し、手を取り合い、共に互いの歴史を積み上げて来た仲だ。 周囲を拒絶し、自分の世界に閉じ籠り、一歩離れた位置からしかでしか他者との関係を築けなかった自分には、 とても成し得ない関係を有しているのだろう。
正装姿で二人並ぶ姿は、眩しい位に様になっていた。すらりとした美男美女。非常にお似合いだ。 それを微笑ましく眺め、そして二人に流れる空気に納得する。
そうか、彼は、彼女を。
「別に、普通だよ、フツー」
むっつりと唇を尖らせる師匠の横顔に、くすりと日本は笑った。 それが気に入らなかったらしい。紅玉の瞳がじろりとこちらを牽制する。
「おいこら、勘違いしてんじゃねえよ」
「判っていますよ」
「あのなあ、あいつはオーストリアが好きなの」
お前の目は節穴か?見て判んだろ。 あの暴力女は坊ちゃんにぞっこんだって、あの坊ちゃんは暴力女を大切にしているって。一目瞭然だろうが。
そうだろう。実際彼女はオーストリアと共にいる姿をよく目にした。 確かにそちらも、酷く上品で、また別の意味で絵に描いた様なカップルに見える。
でも、例え彼女はそうだとしても、貴方は、きっと。
「コラじじい、お前一人で納得すんなよっ」
言っとくがな、俺様はあんな男女の事、今は何とも思っちゃいねえんだよ。
左右から拳でぐりぐりとこめかみを挟まれながら、はいはい判っていますよ、と声を上げつつ抵抗する。 ええ、そうですよね、今は、ですか。
素敵な人だと、日本も思った。
紹介されて挨拶を交わした彼女は、綺麗で、明るくて、笑顔の穏やかな、とても魅力的な女性だった。 後年、接点が増えた後も、その好印象が消えることは無い。 寧ろ、内面に秘められた勇敢さや意外な一面に、益々彼女の魅力を再確認する程だ。
自分とは正反対だと思った。 備わった性別も、華やかな雰囲気も、からりとした気質も、やわらかな美貌も、 東洋人には持ち得ないメリハリのある身体や、すらりと長い手足も、何もかもが真逆だと。
彼は本当に関心の無い相手に対して、こうして気をかける事はしない。 そして、何処までも懐の深い彼は、そこにある諸々をも全て包み込んで、それでも彼女を慕っているのだろう。
それが、どんな形であろうと、ずっと、消える事無く、いつまでも、いつまでも。

















角を曲がり、姿を消した後ろ姿に、とん、とハンガリーはドイツ騎士団の肩を肘でつつく。 何だよ、怪訝そうに向ける赤い瞳に、お前なあと溜息をついた。
「はやくおいかけろよ」
彼女を。ずっと元気にしているか、気にしていたじゃねえか。 促すハンガリーに、ドイツ騎士団はむっつりとした顔を逸らせる。
「いや…いい」
ふい、と背を向ける様子に、はあ?と声を上げた。
「キクちゃん、なきそうなかおしてたぞ」
町の悪餓鬼に虐められても全然気丈だったのに、お前を見た途端だぜ。良いのかよ、お前の可愛い弟子なんだろ。 ぐい、と腕を引っ張るが、それを強引な力で振り切った。
「いいんだよっ」
「よくないだろっ」
女の子を泣かせてんじゃねえよ、馬鹿。 そう告げようとしたハンガリーの言葉は、向けられた真紅の瞳に押し留められる。
きっと睨み据えて突き刺すようなそれに、言葉を紡ごうと口を開き、しかしやめた。 ちっと舌打ちをすると、わしわしと自分の頭をかき混ぜる。ったくもう、何なんだよ、お前ら。
泣き出しそうなのは、どちらも同じじゃないか。
くるりと踵を返して城内へ向かうドイツ騎士団にハンガリーは眉を潜め、一度菊が消えた方へと振り返る。 少し迷った挙句、しかし大きく溜息をつくと、翻る十字の入った白マントを追いかけて教会へと入っていった。











あの頃、彼と性別の違う彼女が羨ましかった。
今は、彼と同じ国である彼女が羨ましかった。








男性だからできること、女性にしかできないこと
2011.06.02







back