黒鷲は東の未来より舞い降りる
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修道院長室の扉を閉めると、ドイツ騎士団はぱさりと白いマントを翻し、小走りに駆けだした。 もうそろそろ開始されている頃だろう。さあ、本部の町まで急がねばならない。
天井の高い廊下を足早に急ぎながら、しかしドイツ騎士団は視線をきょろきょろと巡らせる。 修道院はしんと静かだ。しかし中庭に面した回廊に差し掛かった時、 あちらに集まる修道女達の声に、足を止めてそおっと首を伸ばす。
いるかな、いねえよな、あいつちっさいから隠れているとか、いやでももう結構背も伸びていたよな。 爪先立ちをした所で、ごきげんよう、背後からの声に小さな体が大仰に跳び跳ねた。
振り返ると、顔馴染みの修道女がこちらを見下ろしていた。 穏やかな笑顔を見上げながら、ドイツ騎士団はケセケセと引き攣った笑い声を上げる。
「ちげーよ、べつにおれさまは、あいつをさがしてなんかいねーし」
悪戯がばれた時のように気まずく泳ぐ視線に、中年の修道女は小さく笑う。 何もかもを理解したその表情に、だから違うんだっつーの、ドイツ騎士団は唇を尖らせる。
彼女は菊がやって来る以前より孤児院を担当しており、今もその成長を、母親のように優しく見守り続けていた。 勿論、ドイツ騎士団との関係も知っている。
「キクは、おりませんよ」
ドイツ騎士団はばつが悪く、ちっと舌打ちした。違うって言っているのに。
「今日は町へ行ってます」
「そうなのか?」
はい、随分と早い時間にここを出ましたよ。あちらはきっと、随分と賑わっているのでしょうね。
この日に朝から町に行きたいと申し出た菊を、修道院はあっさりと許可した。 日頃滅多に自らの要求を口にしない彼女にしては、こうして自分から申し出る事はとても珍しかった。 大人しい彼女が興味を示すイベントとは、あまり思えない。 しかしそれに乗じて、町中がお祭りのように賑わうので、恐らくはそちらに興味があるのだろう。
ふうん、そうか、頷く横顔に目を細める。 距離を作りながらも、しかし折があれば遠目に窺いつつ、さり気なく様子を知ろうとする彼を、修道女も知っている。 それが臆病だとは誰も言えない。
「もし町で会ったら、余り遅い時間にならないように、と伝えて頂けませんか」
あの子は何かに集中すると、時間を忘れて没頭してしまう所がありますから。 穏やかに告げる修道女に、むうっと判りやすく顔を顰める。
「やくそくできねえ」
今日は人出もすげえ多い筈だし、何処にいるのかなんて知らねえし、 見付けられるかどうかも判んねえし、俺様だって主宰で忙しいし。
「もしも会ったら、で結構ですよ」
偶然出会う可能性もありますからね。 目尻に皺を寄せて柔らかく目を細める修道女にふんと鼻を鳴らせ、ドイツ騎士団はくるりと背を向けて走り出した。





この剣技大会は大々的に宣伝された為、遠路より足を運んだ参加希望者も多かった。 何せ、この大会は出自を問わない。 貴族や領主や諸侯は元より、商人や農民など、全く区別なく参加できるのは魅力だ。
更に、その賞金もさることながら、 優秀な選手に対してはドイツ騎士団への誘致が行われることも、周知の事実として皆に知れ渡っている。 腕に覚えがある者、使命感に溢れる者、騎士に憧れる者、困窮した生活から逃れたい者、 参加者にはそれぞれの思惑が秘められていた。
参加する顔ぶれも、豪を誇るであろう錚々たるメンバーが揃っている。 あの者は某戦で名を轟かせた傭兵、あの者は有名な剣術指南役の跡取り、 あの者は何処ぞの大会での優勝者…。広い欧州と言えど、騎士の世界は案外狭いらしい。 知る人ぞ知るつわものが集う中、互いに牽制しつつ、健闘を称えつつ、 闘志を漲らせながら己の名が呼ばれるのを待っていた。
そんな中、名前を呼ばれ、はい、と上がった声に、何人かが顔を上げる。
知ったものだからではない。 逞しい巨漢や厳めしい顔立ちの参加者が集まるその中、上がったその声は際立って細く、そして高い。 視線の先の姿に、訝しげに眉を潜める者、やれやれと肩を竦める者もいる。 そんな視線の受けながら、当の選手は何食わぬ顔で係員の元へと向かい、参加の確認に頷いた。
「使用武器が二種との事ですが…これは何ですか?」
「苦無…短剣のようなものです」
ク、ナ、イ、ですね。聞いた事の無い武器の名前に、軽く頷きながら手元の記録帳へと書き記す。
「了解しました。それと、その…本当にそれを使うつもりですか?」
他の参加者達は、実戦で使われる剣や槍を使用になるのですが、本当によろしいのでしょうか。 訝しげというよりも、寧ろ心配そうな声に、小さく苦笑する。 確かに、奇妙に思われても無理はない。その反応は最初から予想していた。
「はい」
力には自信がありませんので、こちらの方が軽く、扱いに慣れております。
手にした武器の一つを軽く掲げてみせて、片眉を吊り上げる係員に、何処か申し訳なさそうにこくりと頷いた。
















静かな部屋に、ぱたんと本を閉じる音が響いた。 抑えるように乗せられた革手袋を嵌めた手、長い人差し指がとんとんと軽く本の裏表紙を叩く。
「これで、俺様からの講義は全て終了だな」
坊ちゃんには話を通している。後はあっちの大学の講義を受ければ充分だろう。
「ありがとうございました」
椅子の上できちんと背筋を伸ばし、日本は深く頭を下げる。 上がったその面が実に晴れやかで、プロイセンはにやりと笑った。
「だけど、あれはやり直ししとけよ」
ぴし、と指さされての言葉に、があんと日本は判りやすく表情を変える。 その様子に、プロイセンは呆れた。寧ろ、何を持ってあれで良いと思えんだ?
今まで費やした憲法講義の最終課題として、プロイセンは日本に自国用の憲法の草稿を作成させた。 短期間で学んだにしては彼の理解力は大したものだと認めるが、しかしそれにしてもあれは無かろうに。
「あのなあ…俺ん所の憲法を丸写してどうすんだよ」
「駄目でしょうか」
「駄目も何も、俺の国とお前の国は違うんだぜ」
歴史も、文化も、国民性も、社会構造も、個性も。 なのに憲法だけを同じにするなんて、全く以って無茶である。 御安心ください、我が国の国民は、非常に柔軟性がありますから。 何故か自信満々に言い切る頭そのには、チョップをかましておいた。
そう言えば、長い歴史を持つ割には、この国は随分とミーハーだ。 先頃新しく作成された、政府公式の礼服のデザインにしてもそうである。師匠、ご覧下さい。 自信満々に彼が広げたデザイン画は、余りにもプロイセン国のものにそっくりであった。 駄目ですか?だって、とてもカッコ良かったので。申し訳なさそうに窺う目に、駄目だなんて言える訳が無い。
確かにお前ん所の北の大地は魅力だけど、俺は別に、お前を属国にするつもりはねえんだぜ? 呆れた声でそう言ってやると、日本は驚いたように目を丸くして、そして実に嬉しそうに笑った。
「だって、師匠は私の目標ですから」
同じ様な憲法に則れば、師匠のような素晴らしい国へと成長できるかもしれないと思いまして。 そんな言葉に思わず赤面してしまうこちらに、罪はないだろう。
「で、やっぱり今日中に向かうのか?」
「はいっ、善は急げと言いますから」
急ぐ理由は判る。国勢上、彼は常に時間との戦いを強いられていた。しかし、頷く声は随分と張り切っていた。 好奇心の強いこいつの事だ、新たな土地へ向かうのが楽しみであるのかも知れない。
「慌しくて、誠に申し訳ありません」
師匠の御恩は忘れません。後日、改めて上司の方からも、正式に御礼をさせて頂きます。
「頑張れよ」
この俺様が教えたんだ、それだけの成果を上げろ。お前なら出来る。
「ありがとうございます、師匠」
椅子から立ち上がり、姿勢を正して正面に向かうと、きっちりとした几帳面な所作で腰を折った。 この奇妙な動作に最初は戸惑ったが、今ではその立ち振る舞いや角度から、 彼の心情の度合いが推し量れるようになった、
「見送りには行かねえよ」
だから、ここでお別れだ。差し出した手。日本は力強く、しっかりと握り返す。
「また、お会いしましょう」
「ああ、待っている」
お前が世界を見返して、立派になって俺様の元にやって来る事をな。 によっと笑うその言葉に、日本は少し目を丸くして、そして何処か曖昧に笑った。
ええ、勿論です。だから。
「今後とも、御指導御鞭撻、よろしくお願いします」
















町は、お祭り騒ぎに浮かれる人々で、溢れかえっていた。
会場を町の中心部にある広場に変更したのは、正解だったのかもしれない。 騎士団本部の敷地では、これだけの観客は収納できなかったであろう。
「わりい、おそくなった」
漸くやって来たドイツ騎士団に、係員は速やかに中央席へと案内をした。
高めに段差を作ったそこは、会場全体が最も良く見渡せる、主宰者用の貴賓席になっている。 ボックスタイプになっており、騎士団の要人達が腰を下ろし、試合を観戦していた。
遅れてやって来たドイツ騎士団に、騎士団総長が自分の隣へと促す。
「時間が掛かったようだな」
それに、何だか疲れているようだが、大丈夫か。 何でもねえよと片手を振る横顔は、何処か不機嫌であった。
すとんと椅子に腰を下ろすと、ドイツ騎士団はぐるりと会場全体を見回す。盛り上がる群衆。 高齢から子供まで、男女入り乱れた幅広い層が、観戦を楽しんでいるようだ。
だが、ここからでも見当たらない姿に、思わず憮然とする。 何だよ、あっちもこっちも探したけれど、やっぱり何処にもいねえじゃねえか。まあ、いいけどよ。 約束できねえって言ったし、見つかっても見つからなくっても、俺様は別にどっちでも良いんだからな。
大会の係員の一人が、掻い摘んで今までの試合経緯を報告する。 参加者のリストは、事前に目を通していた。 名の知れた名手も複数参加しており、上位に残るであろうメンバーも粗方予測済みだ。
勝ち抜き戦方式のこの大会、今は丁度、三位決定戦が行われている最中だ。 武具はそれぞれ槍と剣。構える両選手とも逞しい身体に闘志を漲らせ、激しい打ち合いを繰り出している。 見事な武器捌きに参加者の名前を聞くと、成程両名ともそれぞれの名人であるらしい。
満身創痍になりながらの死闘に、観衆は熱狂している。 流石にここまで勝ちぬいた豪の者だ、どちらも引けを取らぬ腕の持ち主である事が窺える。
だが、決着がついた。巧みに繰り出された矛先が、見事に相手の剣を弾き上げる。 太い矛の柄に身体を薙ぎ払われ、勢いに抵抗出来ず横に倒れる選手が立てなくなった所で、審判が旗を上げた。
一斉に歓声が上がる。白熱した試合に拍手が沸いた。ドイツ騎士団も両選手に拍手を送る。
「次が、決勝戦になります」
対戦する両選手の名前を告げられ、ドイツ騎士団はぱちりと瞬いた。
一人は近隣でも名の知れた達人の名前であり、優勝候補の一人とされていた剣の名手の名前だ。 しかし、もう一人は全く聞いた事の無い名前である。この辺りでも聞き慣れない響きでもあり、 もしかすると遠方の異民族か、あるいは偽名を使っているのかもしれない。
訝しげに唇を尖らせるドイツ騎士団に、隣の騎士団総長が今までの試合の流れを補足した。 彼は今大会の試合を全て見ていた。その経緯に、はあ?と声を上げる。
「…マジかよ」
そんなもんで、本当に戦えるのか?
「だが、確かにここまで勝ち進んできた」
頷く総長から、参加者のリストを受け取る。その中には参加者の名前と、使用する武器が記載されていた。 成程、武器は二種類使用するらしい。そのもう一つは。
「…クナイ?」
なんだ、そりゃ。リストの横には、短剣に良く似た武器であるらしいとの注意書きがある。 しかしここまでの試合中、その短剣を使用する所は、まだ一度も見ていない。
「しんじらんねえ」
「まあ、試合を見ると良い」
腕を組んだ所で、わあ、と会場が沸き立った。とうとう最終決戦の選手が入場して来たらしい。 菊も何処かでこれを見ているのだろうか、ちらりと思った。
「あちらの選手がそうだ」
示される側を見て、ドイツ騎士団は目を丸くする。
その姿は、一種異様であった。
黒にも近い濃紺色の服は、ズボンの裾と袖口が細く窄められ、胸元は布を重ねたような、不思議な形をしている。 肌の露出は極端に少なく、フードのようなもので首から頭までをすっぽりと覆い、 襟元から巻きつけた長いストールで鼻の上まで隠し、見える肌は僅かに目元と指先だけであった。
「あれが、ぶき、か?」
恐らくは、選手の自作なのであろう。かの選手が今までの試合で使用していたのは、木製の剣であった。 剣と称しているものの、刀身はすらりと軽く反りかえり、刃は片面のみにも見え、 こちらで一般的に使用されるものとはやや形状が異なる。 東や地中海で見かけたものとも違うようだ。ドイツ騎士団は腕を組んで、片方の眉を吊り上げる。
闘技場、東と西に両選手が向かい立った。
西の選手はブレードソード、幅の広い刀身は、見るからにずっしりとした重量と破壊力を感じさせる。 柄を握り締める手は肉厚く、肩や上半身の筋肉は見事に鍛えられ、岩のように盛り上がっていた。 彼は名の知れた諸侯の出自であり、まだ青年ながらもその剣術の腕は確かで、 両手で剣を握り構える様は、その年齢に反して貫禄さえ感じられた。
対して東の黒衣の選手は、大柄の選手を前にしている事を差し引いても、頼り無い程に小柄で細身だ。 独特の型で構える姿は、圧倒するような闘志を全身から発散させる西の選手と違い、 酷く静かで、何処か風に揺られるような風情がある。
だが、隙が無い。
それに気付き、ドイツ騎士団はちらりと隣に視線を向ける。騎士団総長は、こくりと頷いた。
両選手の間に立つ審判は、試合前の儀礼の言葉を、型通りに述べる。 そしてその位置から数歩下がり、試合開始の旗を振り上げ、そして―――振り下ろした。





最初に踏み込んたのは、青年剣士の方だった。 力を込めて振り上げた幅広の剣は、空気を引き裂く音を上げる。
「あれじゃ、あいてのけんを、うけとめられねえぞ」
どんなに硬い材質を使っていたとて、所詮は木だ。 鋼の剣と重なった途端、鋭い刃によって真っ二つに割れるだろう。 尤も、見るからに細く非力そうな体に、相手選手の力を支えるかどうか。
「いや、あの選手は受け止めない」
かつん、と音が響いた。
右から、左から、斜めに振り下ろされる鋼の剣を、黒衣の選手は木の剣で受け流す。 決して真っ向から相手の剣先は受け止めず、 剣の動きを読み取り、刃の横面を払うようにして、弾き、向けられた力ごと横へと流すのだ。
「…はやいな」
扱い手の筋力にも差はあるだろうが、鋼の剣に比べると木の剣の方が軽いだけに、格段に切り返しが早い。 その動きに目が追い付くのがやっとだ。
「はやさをゆうせんするのに、きのつるぎをつかっているのか?」
「いや、それだけではなさそうだ」
これは単に、個人的な憶測だが…そう前置いて。
「あの選手、どうも血が嫌いらしい」
この大会の参加選手は、各々が持参した武器を使用している。当然、それらは実践にも使われるものだ。 力比べのトーナメント、血気盛んな彼ら選手が、 その興奮のままに血を流し、大怪我を負い、時には死に至らしめる場合も少なくはない。
しかし黒衣の選手は、どの対戦相手に対しても、常に「参った」の言葉で試合を終了させていた。 武器を奪ったり、木刀を寸止めで突きつけて戦意を喪失させたり、一撃さえ与えず勝利した試合もある。
「まるで、相手に傷を負わせるのが不本意であるようにさえ見える」
それに、ドイツ騎士団は盛大に眉を潜めた。
「そんなんで、せんじょうで、たたかえるのかよ」
今回の大会は、強い戦闘力を持った兵士を勧誘する手段として、開催に踏み切ったものだ。 例え強く立派な騎士であろうとも、戦場で戦えなければ意味はない。
「実力はある」
「でも、せんそうにはむかねえ」
誰も傷つけたくないと言う優しさは美徳だろう。しかしそんな人間は、必ずその優しさで自分を傷つける。 戦争という場には、あまりにも不向きだ。
「…まあ、試合を見よう」
かん、かん、と高らかに木刀が音を立てる。剣の動きは完全に見切っている。 左右に薙ぎ払われ、鋼の重みに身体ごと引っ張られる青年選手は、そろそろ息が上がり始めていた。
何せ動きについて行けない。軽やかな機動力には、弾むような柔軟性があり、羽毛のように体重を感じさせない。 加えて足腰の強さ、こと跳躍力には目を瞠るものがある。
先の試合の中では、長い槍を自在に操る選手を前に、 突き出された矛先をふわりと宙返りで避け、しかもその柄の上に飛び乗るバランス感覚さえ披露していた。 体重の掛かった矛を取り落とした選手から武器を奪い、あっという間に木刀を突きつけて一勝した早技に、 相手選手は成す術も無かった。
今もそうだ。突き刺すように繰り出される剣先の攻撃を、まるで風に煽られたショールのようなしなやかさで、 ふわりふわりとかわす動きは、頼りなく見えて無駄が無い。 一定の距離を保ちつつ、構えを崩す事の無い黒衣の選手には、充分な余裕が感じられた。
ちっと舌打ちすると、青年選手は剣の握りを変え、横に大きく振り薙いだ。 ぶん、と空気が唸るが、しかしそれを低く身体を屈めて避ける。 だが、両手を地面に着くまでに深く伏せた体に、にやりと笑った。
這い蹲るような無理のある姿勢から体勢を立て直すよりも早く、腕を大きく振り上げた。 そのまま、真上から力と重量が存分に込められた剣が、空を切って直線に下ろされる。 細身の体を砕くには充分に威力の込められたそれに、会場は息を飲む。
だが、しかし。破壊力のある剣先は、深く地面を抉った。
瞬時に消えた黒い姿に、当の選手のみが何が起こったのか判らない。 一瞬にして消えた魔法のような技を、会場を取り囲む観衆はしかと見届けていた。
黒衣の選手は地面に伏せたまま、体勢を戻す事無くくるりと前転をすると、青年選手の両足の間を潜りぬけ、 そのまま背後へと移動していた。小柄だからこその可能だ。 軽業師のような素早い動きに、一同は呆気に取られて目を瞠る。
観衆達の視線と気配に気付き、選手が背中を振り返った時には、 飛び上がるように立ち上がった小柄な身体が、とんと地を蹴った。
正眼に構えた木の剣先が、ひゅんと唸る。
振り上げた木刀は、手首を打ち、間髪無く真上から振り下ろされて頭上を打ちつける。 同時に身を引いて距離を取るまでの一連の動きの素早さに、 目が追い付かない観客には、何が起こったのか判らない。
連続された二攻撃を体に受け、青年選手はひやりとした。 じいんと痺れは残るが、衝撃は強くはない。しかし狙いは正確で、研ぎ澄まされている。 あれが鋼の剣であったなら、こちらが鋼の籠手と兜を装着していなければ、 つまり手首を切られて剣を握れなくなった後、頭を割られていたのだ。
「…すげえ」
「ああ」
今の動きを見極めていたドイツ騎士団と総長は、視線を逸らせず、魅入ったまま声を漏らす。 恐らく当人も、腕力不足を認識しているのだろう。それを、持ち前のスピードと狙いの正確さで補っているのだ。
ならば、その俊敏性を抑えれば良い…青年選手の判断は早かった。
ぐい、と柄を握る両手に力を込めると、踏み込むと同時に大きく横へと剣を薙ぎ払う。 それ寸分で避けようと後退するが、しかし青年は剣を握る片手を離した。その分、リーチが長くなる。 黒衣の選手は慌てず、木刀で下から斜め上へと薙ぎ払おうとしたが、それがフェイントだった。
かつ、と木刀が鋼の刃に突き刺さった。青年剣士が握る柄に角度をつけたのだ。 横に振った刃を真横ではなく斜めになるように角度をつけた為、 刃の側面を叩くつもりが、研ぎ澄まされた刃を真っ向から払うこととなる。
ざっくりと刃先に刺さった木刀に、一瞬意識が囚われる。その隙を逃がさない。 剣士は更にもう一歩踏み込むと、黒衣の選手の腕を掴んだ。動きを封じるには、捕まえれば良い。
だがその手が、火に触れたように瞬時に離れる。
剣ダコの硬く盛り上がった大きな掌には、手首から中指の関節まで、真一文字に裂傷が生じていた。 深くはないが割れた皮膚から、たらりと鮮血が伝い落ちる。
間合いを広げた黒衣の選手は、両の手を胸の前で構える。その握った両拳から、きらりと鋭い刃先が垣間見えた。 そうか、この選手は武器が二種あると、事前に聞いていた。あれがもう一つの武器、苦無か。
黒衣の選手が、軽い動きで地を蹴った。 剣士は剣を構えようとするものの、木刀が突き刺さったままのそれでは役に立たない。 戸惑うよりも早く、ひらりと黒い拳が下から上へと振り上がる。
鼻先、ひゅん、と空気が切り裂かれた。
反射的に後退しようと身を引く。しかし出来なかった。 いつの間にやら選手の革靴の爪先が、一本の苦無によって、大地に縫い止められていたからだ。 バランスを崩した体は、呆気なくそのまま尻餅をついた。 後ろ手に肘をついた所で、鋭く尖った苦無の刃先が突き付けられ、ぴたりと眉間に定まる。
黒いストールとフードの狭間から見下ろす、静かで感情の読めない黒い瞳。 木刀が突き刺さったままの剣は、既に手から離れていた。
動けない。
「…参った」
小さく零れたその言葉に、試合を見守っていた審判が大きく旗を上げる。 黒衣の選手の勝利を示すその旗色に、数拍の沈黙、わあっと会場に歓声が上がった。
突き付けられた刃を退けられ、革靴を突きさす苦無を抜き取られると、青年選手はふうと息をついた。 その目の前に、すっと小さな手が差し出される。
袖口まですっぽりと覆われ、甲までグローブで隠され、垣間見える指先は華奢で小さい。 こんな手に自分は敗れたのか。悔しい思いは消えないが、しかし事実は事実だ。 思えば試合の最中、掴んだ腕のそのまま握り潰せそうな細さに、内心ぎょっとした。
悔しさ紛れにぐっとその手を握ると、覗いた両の瞳が思いの外柔らかい弧を描いて細まる。
「お見事でした」
口元を覆うストールの下からの、くぐもった声は、やや不明瞭で聞き取り難い。 しかしそのトーンの高さに、声変わりさえしていない子供だったのかと驚く。
「だが、負けた」
唇を歪めて笑う彼に、黒衣の選手は首を横に振る。こめかみには汗が伝っていた。
「私が勝利できたのは運です」
今後とも、この試合で得た教訓を生かし、更に精進する所存です。御指導、ありがとうございました。
礼儀正しい言葉と真摯な声に、上面だけの響きは無い。 参ったな。選手はよっと立ち上がると、 その巨体で対峙した。
そしてにやりと笑うと、身を寄せて小さな体を抱き込んだ。 緊張の抜け切らない強張ったままの細い肩を、ぽんぽんと宥めるように叩く。
互いの健闘を湛える両選手の姿に、観衆は惜しみない拍手を響かせた。
















なーんつーか、あっさりしたもんだったよな。
慌しかったし、落ち着かなかったし、振り返ってみると随分呆気ないものだ。 第一、あいつもあいつだろ。とっとと踵を返して立ち去るし、別れの挨拶なんだから、 何と言うか、もっとこう、深い感動っつーか、余韻みたいなものがあっても良かったんじゃねえか? こんなに素晴らしいお師匠さまとの別れなのに、ちっとも未練なんて残さねえでやんの。 まあ、隣のオーストリアんトコに行くだけなんだけどな。
可愛がっていた雛が巣立っていくのを見送る親鳥ってのは、こんな心境なのかも知れねえなあ。 きっと、ドイツが立派になった時も、同じ様に思うんだろうな。
あーあ。別に俺様、寂しくなんかないけどよ。
軍服の爪襟に指を引っ掛けながら、ブーツを鳴らせて廊下を歩いた。 呼び出された部屋に到着すると、扉をノックして中に入る。 そこには、何処か満足そうな顔の上司が、プロイセンを待ち受けていた。
講義は終えたのだろう、日本はどうだった。ああ、上手くやるんじゃねえの、あいつは見た目に寄らず強かだぜ。 亜細亜の中でも、かなり特殊な国らしいからな。世界中見回しても相当特殊だよ、あの爺は。
「ところで、彼から話は聞いたのか?」
こちらもつい先ほど、在日の駐在員から連絡があったばかりだ。正式な話があった訳でも無く、 まだ情報だけのことなので、もしかするとお前なら何か聞いていると思ってな。
こちらを窺う上司に、プロイセンは片眉を吊り上げた。彼とは、日本の事か?
「こちらでは、最初はフランスに打診をするとの情報を得ていた」
脳裏で、あのいけ好かない伊達男がウインクする。 ああ、そう言えばあの変態、昔からオリエンタルにやたら興味を持っていたよな。
「しかし、先の普仏戦争より、考えを改めたようだ」
あの我等の誇るべき戦勝に、かの国も心を動かされ、我が軍に非常に興味を持ったらしい。 実に名誉なことではないか。
「どう言う事だ?」
心底不思議そうなプロイセンの様子に、やはりまだ知らされていなかったのかと、上司は小さく笑う。 よし、聞いてくれ、プロイセン。
「日本国は、我が国の陸軍を、指南役にと検討しているらしい」
諸国から様々な知識を吸収しようとしているかの国に、 憲法と同様、我がプロイセン軍の強さを認められたようだ。
とん、と肩を叩かれ、プロイセンはその真紅の瞳を見開いた。
また、お会いしましょう。今後とも、御指導御鞭撻、よろしくお願いします。 そうだ、あいつは確かにそう言って、何の未練も残さず、実に気軽にあっさりと去って行った。
「…は、ははっ」
引き攣った笑いが、やがて腹の底から込み上げるものに変わった。 何だよ、全く。あの狸、こうなる事を判っていやがったな。何が、今後とも、だ。笑わせやがる。
「憲法とは違い、軍指南ともなると、国防にも関わる」
判断には慎重になるべきだとの声もある。お前の意見も聞きたい。
「んなこと、考えるまでもねえよ」
笑い過ぎて滲んだ涙を拭いながら、にやりと笑う。ああ、決まっているとも。
「答えは、一つだ」
















感動の熱気冷めやらぬ中、青年選手は一旦闘技場から姿を消し、黒衣の選手只一人がそこに残った。
真正面にある今大会の主宰、ドイツ騎士団のボックス席に向き直ると、 黒衣の選手は巻きつけたストールの狭間、覗いた目をやや細めた。
審判に促され、選手はゆっくりと足を勧め、その前に立つ。 近付くとやはり細く、そして改めて小さな体だと思う。
騎士団総長が立ち上がる。
「優勝者、ホンダ」
名簿に記載していた名前を読み上げた。はい。返事をする声は、ストールでくぐもって聞き取り難い。
「フードを」
こくりと頷き、鼻から下をすっぽり覆い隠していたストールに手を掛ける。 するりとそれを解くと同時に、頭に被っていたフードも外した。
途端、風が吹いた。
さらりと靡いたのは、その腰まである漆黒色の艶やかな長い髪。 真っ直ぐに切り揃えた前髪の下から覗くのは、この地方では珍し程の深い闇色の瞳と同色の。
どう見ても幼く、いっそ虫も殺さないような素朴な顔が曝された瞬間、会場はしんと静まり返った。
その小柄な体躯から、まだ成長し切れていない子供の可能性は、誰もが持っていた。 しかしそれだけではないまさかに、主宰の騎士団や観客は元より、参加した選手陣にも動揺が走る。
まさか―――少女だったなんて。
さざ波のようにざわめきが広がり、やがてそれがうねるように大きくなってゆく。 その異様さに、審判や関係者が不安げに周囲を見回した。
だが、この会場にいる誰よりも驚いているのは、彼女の正面にあるドイツ騎士団であろう。 がたりと椅子から立ち上がると、零れそうなほどに目を見開く。 どうして、ここに、彼女が、なんで。余りの驚きに、ぽかんと開いた口が思うように動かない。
「…キク」
震える声で、漸くその名を紡ぐと、喘ぐように咽喉を鳴らした。
本当に、目の前に立つのは、自分の知るあの菊なのか?ドイツ騎士団は戸惑いを隠せない。
ざわめきがやや落ち着いた頃合いを見計らい、騎士団総長が静粛を求め、改めて祝辞を述べる。 菊は華奢な首を垂れ、それを厳かに受ける。
また、背が伸びたようだ。恐らく二人で並べば、もう彼女の方が身長が高いだろう。 頬の丸さもややすっきりして、幼さは未だ抜け切らないが、 しかし最後に見た時よりも確かに大きくなっている。人間の成長、特に子供の成長はなんて早い。
記憶の中の愛弟子は、こちらの姿を認めると、ほわりと柔らかい空気を纏い、遠慮がちに微笑む幼子であった。 距離を作ったその後でも、常に控え目で、穏やかで、争い事を好まない、大人しい少女であった。 見たことも無い黒装束に身を包み、見事な剣術と身体能力を披露し、 きりりと凛々しい目でこちらを見上げる彼女に、その面影は微塵も覗えない。
「…なんでだ」
意識無く零れたその声に、騎士団総長は言葉を止めた。 隣に俯く幼い姿にちらと視線を向け、軽く咳払いをして祝辞を続けようとしたが。
「なんでおまえが、そんなとこにいるんだよっ」
きっと睨み据える鋭い視線を、菊は頭を上げて受け止める。
違うだろ。お前はいつも不安そうで、目立つ事が嫌いで、怪我をした俺を見る度に悲しそうな顔をして、 本と勉強が大好きで、俺が守ってやらなくちゃいけないくらい小さくて、 真面目で、声を荒げることも殆ど無くて、怖がりで、痛い事が嫌いで、それなのに、何で、なんで…。
すう、と菊は息を吸った。
「わが望みは、ただ一つ」
強い決意を込めた高らかな声を上げると、彼女は袖口に収めていた苦無を取り出した。 そして全く癖の無い、錦糸のような艶やかな髪を、無造作に首の後ろで一纏めに掴む。
躊躇は無い。
―――あっと声を上げたのは誰であったか。
ざんばらな毛先が、細い項で軽やかに揺れる。 いっそ晴れ晴れと首を振り、頬に掛かる軽くなった髪を払った。
そして、ざっくりと切断された長い髪を、ドイツ騎士団へと高く掲げて。
「この身は全て、ドイツ騎士団のもの」
髪の毛一筋に至るまで、貴方の望みのままに差し出す所存で御座います。
胸に手を当てて膝をつき、恭しく傅く。 潔く、優雅とも呼べる見事な所作に、何処からともなくほうと溜息が洩れた。
「われらが栄光、ドイツ騎士団への入団の許可をお願い致します」
元より、戦禍で焼けた村で消える運命にあった命だ。それを救ったのは、他ならぬドイツ騎士団である。
その感謝と、御恩と、敬意とを、自分の能力の全てで以て報いたい。
「あなたに救われたこの命、あなたのために捧げたい」





そう。
遥か未来からずっと夢見ていた。
立場も無く、義務も無く、打算も無く。
憚ることなく、心のままに、持ち得る全てを貴方に捧げる生き方をしたかった。





「どうか私を、神の騎士たるあなたのしもべに任命下さい」














途中でぶった切る場所が無く、えらく長くなってしまいました
試合は基本、騎馬や団体戦で催されたそうです
でも、修道会騎士団では禁止されていたようです
2011.06.09







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