黒鷲は東の未来より舞い降りる
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夜闇に包まれた森を、激しい音を立てて馬車が疾走する。
乱暴な走りに車輪が悲鳴を上げるが、それを気にする暇はない。 上下左右に大きく揺れる振動に、車内の二人は跳ねる身体が投げ出されないよう、必死に窓枠にしがみ付く。
その向こう。月明かりに浮かぶ、轍の後を追ってやって来る馬の影。
矢張り、こちらの情報は漏れていたらしい。 大体想像できる面子を脳裏に浮かべ、少年は目深に被った帽子の下で、ちっと舌打ちをした。 そして気遣うように、隣へと視線を向ける。 こちらも目深に被ったケープで顔は隠されているものの、僅かに口元だけは窺えた。
少女と称するよりは子供と表現する方がしっくりする、幼さがありありと残った唇。 気丈に引き締められてはいるものの、しかし胸の前で握り締める小さな拳は、小刻みに戦慄いている。
国境まではまだ遠い。少年は苛々したように、窓の外へと視線を向けた。





この時代の欧州は、主従関係や国家ではなく、契約を中心に封建社会が成り立っていた。
基本的に兵や騎士は、一部の例外を除き、契約を交わした相手に従い、持ち前の武力を奮う。 その為、前回の戦では守っていた国を、次の戦では攻める境遇になるケースも少なくはない。 未来の時代では奇異に感じるが、自らの祖国や民族の為に軍事を奮起するようになるのは、 もう少し先の時代の価値観である。
故に、ドイツ騎士団にとって敵対関係と思われがちなポーランドからの依頼は、 特別奇妙な話では無かった。 その歴史より、相容れない関係だと思われがちではあるが、 ポーランドの貴族は軍事力としてドイツ騎士団を利用し、ドイツ騎士団は仕事としてポーランドの貴族に雇われる。 そんな、互いに持ちつ持たれつな相互関係は、確かに存在していたのだ。
依頼は、ポーランドから隣国ハンガリーへと向かう馬車の護衛だ。 馬車に乗車するのは、付添人の少年と、まだ子供と呼べる幼い少女の二人のみである。
二国は隣接している。明け方まで馬車を走らせれば、国境に到着することができよう。 但しその最短の道程は、深い森と切り立った崖道を通り抜けねばならず、 しかも盗賊の多く出没する場所でもあった。
安全上、日中の移動を奨めるものの、それは頑なに拒否された。 彼らは、宵の内のハンガリーへの入国する為に、ドイツ騎士団に依頼をしたのだ。 ポーランドの貴族らしい身なりの二人には、恐らく何か事情があるのであろう。 夜だと言うのに目深に被った帽子とケープ、護衛の馬車への同乗の拒否から、それは察する事が出来た。
そして案の定。
森を通り過ぎようとしたところ、山道を塞ぐように姿を見せた影に、ドイツ騎士団はちっと舌打ちをする。
「ばしゃはそのままつっきれ」
後は打ち合わせ通りだ。その声に、小隊の騎士団員達は速やかに二手に分かれる。
「よし、いけっ」
ドイツ騎士団の声に、御者の騎士は手綱をしならせた。がくん、と馬車の速度が上がる。
それを追いかけようとする賊を馬で阻み、かしゃんと金属音を立てて剣を抜くと、 ドイツ騎士団はにいっと笑う。
戦闘が開始された。





おかしい、と気付くのに、時間は掛からなかった。
月明かりが頼りの夜闇の中ではあるが、彼らの武装は明らかに只の盗賊にしては、豪華に過ぎるものである。 しかも、戦い慣れしており、ある程度訓練を受けた動きさえ感じられた。 今回の依頼は左程危険が少ないと判断し、担当した小部隊は新規入団した騎士達を多めに取り入れ、 模擬戦闘訓練のように挑んでいた。 それが、仇になったのかも知れない。
馬車の中の二人は、互いを庇い合いながら、不安そうに窓の外を見遣っていた。 取り囲むように並走していた騎士団の馬が、 やがて追いついて来る賊に向かう為に、一人減り、そしてまた一人減る。
御者は二人。大柄の騎士団員は、隣に座る華奢な姿にちらりと視線を送った。
「…キク」
はい。こくりと頷く。
「行きます」
深呼吸を一つ。襟元を覆うストールを、ぐいと鼻の下まで引き上げた。

















最初は、余興のつもりで持ち出した話であった。
「こちらをご覧下さい」
ばさりとテーブルに広げたそれを、プロイセンは一目で理解し、へえと興味深そうに見下ろした。
国内では誰もが知る、東西を二分した有名な合戦の布陣である。 東軍と西軍、二つに分かたれた軍の配置と規模、合戦場の地理的条件を日本は簡単に説明した。
「さて師匠。この配置を見て東軍西軍、どちらが勝利したかと思いますか」
微笑んで尋ねると、プロイセンはぱちりと瞬きし、そしてにやりと唇を歪ませた。
「俺様に挑戦する気か」
よおし、受けて立ってやろうじゃねえか。
切れ長の目を細め、改めて布陣を確認する。 指先でとんとんと各軍の流れを読み、布陣を見下ろす眼差しは、確かに軍人のものだった。 表情の消えた真剣な横顔。 普段の子供っぽい表情が拭い去られただけで、まるで別人のように研ぎ澄まされた空気が産まれる。
まもなく。
「西軍だな」
間違いねえ。
自信満々に言い切るプロイセンに、残念、にこりと日本は笑った。
「正解は、東軍です」
しかも、勝負は一日で決まりました。えっと、プロイセンは声を上げた。
「マジ?嘘だろ」
信じらんねえ。驚き、改めて布陣を確認する。否、どう考えてもこの状況では西軍に有利の筈だ。 寧ろ、通常この状態で交戦すれば、圧勝は間違いない。
「本当ですよ」
とん、と一つの軍を指で示す。天下分け目の関ヶ原の大合戦、その勝負の決め手となった最大の要因は。
「実はこちらの軍が、敵側に寝返ったのです」
元々西軍と内通していたのですよ。 それが切っ掛けとなって他の複数の軍も寝返り、東軍は一気に逆転、見事西軍を打ち負かし、勝利したのです。 まあ、ちょっとした反則技ですけどね。
苦笑しながら隣を見上げると、ぽかんとした彼の顔があった。
そうか。小さく呟くと、存外に真剣に布陣に見入り、腕を組んで少し考える。
「となると、この隊は全滅だな」
その話の通りなら、周囲を敵陣に囲まれた訳だ。
「ところが、そうでもありません」
不利になった時点で撤退するのが通常ですが、しかしこの軍はそのまま突き進んだのです。 敵中突破を強行し、果たした後、なんと島津軍は本国へと帰還する事が出来ました。
その説明に、プロイセンは今度こそ絶句する。
詳しく聞かせろ。そう言われ、丁寧に説明した。 合戦に至った経緯、その背景、大名の立場や人間関係なども、必要な部分を判りやすく聞かせる。 全てを話し終えると、彼は深く溜息をついた。
「成程、おもしれえな」
どうやら軍国の琴線に触れたらしい。 幾つかの質問も出され、その応えの一つ一つに、実に興味深そうにプロイセンは何度も頷いた。 遠くを見るように細まった真紅の瞳。その頭脳の中では、何かが目まぐるしく計算されているのであろう。
「…いや、良い話を聞いた。これは良い教訓だ」
メッケルにもこの話を。今後の陸軍指導には諜報や情報分析にも力を入れるようにさせよう。 あと、この戦に関する文献や資料があれば、是非提供して欲しい。
「は、はい」
こちらでは誰もが知っている顛末故に、他国に置いてそんな興味の対象になるとは思わなかった。 国が隣接する欧州諸国は 戦争が多いと聞いている。 故に、日本よりも戦に関して長けた印象があるだけに 、彼の反応は意外なものだった。
日本、名を呼ばれてはいと顔を上げる。
「お前の国は、おもしれえ戦いをするな」
気に入った。彼はそう言うと、にやりと不遜に笑った。

















月明かりだけが頼りの森の中。
馬車に追いついた兵士が、車体の横に並走する。 全身を覆う黒光りした鉄のアーマーは豪華なもので、矢張りとても盗賊には見えない。 月光にひやりと光る繊細な細工のついたランスが、大きく振り薙いだ。
がしゃんと受ける衝撃に、馬車の中からか細い悲鳴が漏れる。
続けて二度、三度。馬車の扉は、大きな音と共に砕け、木片が散らばった。 蝶番のみをかろうじて留めてはいるものの、扉は失われ、その内部が筒抜けになる。 怯えたように寄り添う二人の姿を確認して、兵士はもう一度、更に勢いをつけてランスを振り上げた。
その腕に、ひゅん、と何かが巻き付く。
ランスを握る手から手首、腕、そのまま上半身の胴回りまで、 順番にぐるんぐるんと徐々に速度を増しながら回転する何か。 その先端が、がちり、と肩のアーマーに引っ掛かった。
五又になった鉄製の鉤である。
鉄アーマーごと身体を戒める黒っぽい縄は、ぎちりと絡みつき、びくともしない。 戸惑いながら縄を視線で辿り、その行きつく先は馬車の上。
影、か?
そう思うのも仕方ない。 何せ馬車の屋根の上、鉤縄を両手で握って立つ小柄なそれは、闇に溶け込む黒い装束で全身を包み込んでいる。 鼻の下まですっぽりと同色のストールで顔を隠し、僅か目元しか肌の色が見えない。 何処の手の者だ…一瞬そう思ったのは、その姿とドイツ騎士団員のシンボルたる白地に黒十字の衣装とは、 両極にあったからだ。
こちらを見据える闇と同色の双眸が、ふっと細められる。
どういう加減をしたのか。ぐいと鉤縄を引くと、腰からずるりと身体のバランスが崩れる。 あっと思った途端、騎乗の身体は、そのまま砂煙を立てて落馬した。 重量のある鉄製のアーマーを纏った身体にとって、不自然な体勢での落馬は、 それだけでも致命的な負担と衝撃になり得る。
くい、と手首を動かしただけで、鉤縄は生き物のような動きで、黒装束の手にすとんと戻った。
走る馬車の反対側、始終を見ていた並走する騎乗の兵士が、馬車上の影にきりりと弓を引き絞る。 だが、弓を放つより早く鉤縄が空へと放たれた。
手首と共に弓と弦とをきりきりと一纏めに巻きつけば、張り詰めていた弦があっさりとその威力を失う。 武器ごと腕を引かれ、危うく落馬しそうになるのを、しかし何とか手綱にしがみ付いて踏み止まった。 軽く手首を返しただけにしか見えないのに、一体どんな作用で、こんな威力が発揮出来るのか。
兵士は腰に下げていた剣を抜いた。 その黒っぽい縄を切断しようと力を奮って剣を振り下ろしたが、しなやかな柔軟性に反し、縄は切れない。 鎖なのか?否、違う。女の髪だ。 切り取った自らの髪を捩って作ったそれは、特殊な編み方が施され、普通の刃物では簡単に切断できない。
ならばと、兵士はがっしりとその鉤を握った。つまり、奇妙なこの武器の自由を奪えば良かろう。 小柄なあの体に力があるとは思えない。そのまま逆に、ぐいとこちらへと引き寄せた。
馬車の上と馬上での力比べ。 ぎりぎりと互いに鉤縄を引き合うそれに、先に降参したのはあちら方であった。 元より己の非力さには自覚がある。 あっさり力を抜かれてがくりと手応えが無くなった瞬間、鉤縄の反対端、鉄製の錘がひらめいた。
巻きつく箇所は、フルアーマーに守られた首。 締めつけられたとて、鉄の鎧に覆われているので、咽喉が締まる事はないのだが。
影は素早い動きで、とんと跳躍し、馬車の上から飛び降りた。 路上でくるりと前転し、片膝を立てて腰を落とす。その手には、縄の中央部がしかと握られていた。
鉤を握る手と、錘の絡みつく首。 その二点を引っ張られ、抗う間もなく体が宙へと投げ出される。 頭から落馬した鎧を纏った身体は、低い呻き声を洩らし、そのまま動かなくなった。
軽く縄を引き寄せる。両端の鉤と錘が、左右の手の内にふわりと収まった。
しかし、気を抜く暇はない。
迫る気配に顔を上げ、月明かりに目を細めて凝らす。 馬に乗ったその一団に白い色が混じらない事を確認すると、道端に立つ樹の幹へと鉤を放ち、 縄を弛ませたまま道を挟んだこちら側へと身を潜めた。
砂塵を立てて迫り来る騎馬の轟き。
潜むこちらには気付いていない。 縄を樹の幹に掛けて梃子にする。 真横を通り過ぎるタイミングを見計らい、歯を噛締めて、ぐい、と強く縄を張った。
ぴん、と張り詰めたのは腰の高さ。元より髪を編み込んだ黒っぽい縄は、夜闇では視覚に捉え難い。 全速力で走る馬は、その存在にさえ気づく事無く、阻む縄に足を取られた。
突然つんのめる馬に、騎乗の兵士達は身体を投げ出される。 もんどりを打って転がるそれに巻き込まれる形で、直後を走る騎馬も動転する馬と共に横転した。
しかし、少し遅れて走る馬が二頭、山のように重なったそれを飛び越える。 しまった、取り逃がしたか。道脇の茂みから出て、騎兵を見送る後ろ姿に。
「キクっ」
ドイツ騎士団だ。どうやら追いついて来たらしい。
走って来た馬から伸ばされる小さな手。 その助けを借りて、重力を感じない動きで、菊はふわりとその背後に飛び乗った。
子供の身体で、軽装備な二人だ。 鉄の重装備を身に纏う大人の兵士と違って重量を感じない馬は、みるみると先行く重装備の騎兵に迫る。
それに気付いた騎兵の一方が、こちらに弓を引き絞った。連携を感じる動き。矢張り只の盗賊ではない。 背後の菊がドイツ騎士団の背を軽く押し、やや姿勢を前屈みにさせる。
空気を裂く音を立て、鋭い矢が放たれた。
しかしそれを、菊の操る鉤縄が阻む。 短く持って高速で回転させたそれが、盾となって矢を弾くのだ。次の矢も、その次の矢も同じ。 ひゅんひゅんと音を立てて旋回する盾に守られ、矢は決してドイツ騎士団まで届かない。
じりじりと近付く距離。その向こうには追われる馬車が見えた。
攻撃に損傷を受けた車体は、荒れた道での無理な操縦に、 今にも壊れそうにみしみしと音を上げながら揺れている。 装飾を抑えられた地味な外装ではあるが、所詮は優雅さを重点に作られた貴族の馬車だ。 そんな馬車に、もう一人の兵士が槍を振り上げている。早くしないと、車体が持たない。
迫る距離。間合いまではまだある。もう少し、焦るな、あと僅か…今。
びょう、と鉤が飛んだ。
狙ったのは、その馬の脚。直線に飛ぶ鉤は、細くしなやかな後ろ脚の関節に命中した。 横倒れる馬に騎乗の兵士は吹き飛び、受け身を取る間もなくどうと路上に倒れ込む。
残りは一騎。ドイツ騎士団は手綱をしならせた。
道はいつの間にか森を抜け、切り立った崖道へと出ていた。道幅は狭い。 騎兵の馬は壁側へと回り込み、じり、と馬車を崖へと押し遣ろうとしている。 前を行くそれは乱暴で、馬の脚と馬車の車輪が重なり、目標が定まらない。 この状態で、この位置から鉤縄を飛ばすには、あまりに危険過ぎる。
「そちらから前へ」
「おう」
菊が指で示すのは、削られた様な絶壁の崖側。一歩間違えれば、そのまま崖へと転落する。
「行けますか」
「なめんな」
によっと不敵に笑うと、ドイツ騎士団は手綱を握り、前を睨み据えた。
左右に揺れる馬車。危ういその足場。 柘榴色の目を細め、そのぎりぎりの隙間を狙い、べろりと唇を舐め、息を詰め、脳裏でカウントして。
よし―――今だ。
馬車の動きを見定め、馬が一気に加速する。 細い、馬一頭がぎりぎりの幅をすり抜け、ドイツ騎士団は馬車の前に出た。
そのすれ違いざま、菊の体はふわりと宙を舞う。跳躍する黒い影。 月に浮かぶシルエットに、襟から伸びたストールの両端が、左右に大きく靡いた。
すた、と小さな身体が、安定感を持って馬車の屋根の上に膝をつく。 同時に閃いた鉤が、月光にちかりと光った。
鉤は兵士の槍を絡めた。あっと思う間もなく、それはぽおんと宙に投げ飛ばされる。しまった。 腰に佩いた剣に手を掛けるが、鉤縄の反対端の錘がその腕ごときりきりと腰に巻き付き、身体の自由を奪われる。
これまでか…そう判断した兵士は、最後の捨て身に出た。
縛められた身体が、馬車に向かって飛び込んでくる。気付いた菊が阻もうと縄を引くが、間に合わない。
「やべえっ」
兵士の身体は、馬車の車輪に絡まる。 車内にいた少年は、その凄惨さに、さっと少女の頭を胸に抱いて固定させた。
がたがたと大きく揺れる馬車。がくん、とした強い衝撃と、がりがりと引き摺られる感覚。車輪が外れた。
引き摺られながら、コントロールを失った馬車。その先には、角度のあるカーブ。
「とびおりろっ」
幅の狭い崖道に、がたんと馬車が横倒れる。 少年は慌てて扉に手を掛けたが、幾度となく攻撃を受けてやや変形した車体に、扉はなかなか開かない。
握り締めていた少女の手を一旦離し、両手での渾身の力で何とかこじ開ける。 こっちへ。手を伸ばして振り返った途端、少女の体がふらつき、がくりと足場を失った。 踏み締めたと思ったそこは、蝶番だけを残して粉砕された扉があった場所。
「…あっ」
余韻のように伸ばされた手。身体の中心から、すうと何かが抜けるような感覚。
落ちる…そう思った瞬間、それを追いかけるように黒装束の菊が、勢いをつけて崖から身を投げた。
落下する二つの身体。 加速をつけた黒い影が少女に追いつき、細い腕がしっかりと幼い身体を片手で抱きしめる。
瞬間、空いたもう一方の手がひゅんと唸った。


闇を裂き、真っ直ぐに伸びるのは五又の鉤。
崖の岩肌にその鉤縄ががっしりと食い込むと同時に、がくんと二人の身体の落下が止まった。











「ヤーヤっ」
崖から引き揚げられた少女の愛称を呼び、少年は走り寄るとぎゅっと小さな体を胸に抱きしめた。 良家の子女とその従者かと思いきや、どうも違っていたようだ。 主従関係とは異なる親愛さで、二人は随分と仲が良いらしい。
騎士団員に手を借りながら少し遅れて崖を昇り切った菊は、ふうと溜息をつく。 それに、少女は振り返った。
頭をすっぽりと覆っていたケープも今は肌蹴け、ふわふわとした亜麻色の髪が零れている。 あどけなく見開かれた瞳には、高貴な色が湛えられていた。
「あなたは?」
あどけない声での質問に、菊は襟元から鼻までをすっぽりと覆ったストールを、ぐいと引き下ろす。 姿を現した口元には、柔らかい笑みを浮かべていた。
「ドイツ騎士団員、菊ともうします」
現れた顔立ちは、少女にとっても予想外だったのであろう。驚愕に長い睫毛を何度も瞬かせる。 異民族の肌色、自分と少ししか歳が変わらないであろう顔立ち、そして何より。
「おんなのかた、だったんですか?」
隣に立つ少年も、深く被っていた帽子をぱさりと脱ぎ去った。 何処か困ったような、怯えたような、しかし強い警戒心を映した瞳が、まじまじと菊を映す。
しかし、現れたその顔に驚いたのは、菊であった。
「えー、マジ?女の子の騎士団員がいるなんて、知らんかったしー」
それに自分、もしかして異民族?ドイツ騎士団は異民族や異教徒を嫌っているって思っていたし。
この独特の口調。まさか。単に貴族の護衛だと聞いていたが。 目を瞠る菊に、彼はやや唇を尖らせる。
「ポーランド、さん?」
思わずその名を告げると、彼は片眉を吊り上げて怪訝そうに菊を凝視する。
「なんで、俺の事知ってるん?」
眉根を寄せて向けられる視線。それに、はたと菊は、隣に立つまだ十にも満たないであろう、幼い少女を見遣る。 先程彼が口にした愛称から連想する、彼女の名前は。
「まさか、あなたは…」





ヤドヴィガ・アンデガヴェンスカ。
ポーランド国王の息女で、ヨーロッパでは非常に稀な「王」の称号を与えられる女王の名である。
日本の知る歴史の中では、後に彼女はリトアニア大公ヨガイラと婚姻を結ぶ。 そして、ポーランド・リトアニア連合が形成されることになるのだ。








ハンガリー読みでヘドヴィグ
2011.06.29







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