黒鷲は東の未来より舞い降りる <11> 会議とは言うものの、内容はこちらの受けた損害と報告程度のものだ。 ポーランドの王族が襲われた事実はあったものの、 現時点においてドイツ騎士団がポーランドに対して手を伸ばす予定はない。 引き受けた依頼以上の余計な詮索や介入をするつもりはなかった。 そんな中、話題に上がったのは菊の働きであった。 入団当初から、彼女の能力の評価は高かった。 何処から得た知識なのか、不思議な武具の扱いは勿論、 柔軟性と機敏に富んだ身体能力、咄嗟の判断力、年齢に反した落ち着きは、目を瞠るものがある。 今回それらを目の当たりにして、団内では主力としての扱いを推薦する意見も出た。 主力、つまりは東方植民戦線、北の異民族との攻防である。 ドイツ騎士団の存在の本分は、キリスト教徒の保護とその普及にある。 北方の野蛮な異教徒との凄惨な攻防戦は、現在一進一退を辿ったまま、微妙な均衡を保っていた。 そんな中、彼女の特殊な戦闘力の投入は、平行線のままの現状打破として、 かなり期待が持てるのではないかとの声が上がる。 しかし。 「きょかできねえ」 きっぱりとその提案を撥ね退けるのは、今まで黙って彼らの話を聞いていたドイツ騎士団その当人であった。 「あいつはきたのせんじょうに、はけんしない」 今回のような依頼なら兎も角、キリスト教拡大の戦隊に彼女を加えるつもりは無い。 その件に関しては、入団の頃からドイツ騎士団は頑なに首を縦には振らない。 彼女の入団の許可を出したのも、それがそもそもの前提であった程だ。 「あいつのたたかいかたは、せんじょうにはむかねえ」 あの戦闘方法は、どう見てもゲリラ戦向きであろう。 扱う武器は見たことも無いような奇妙な飛び道具が中心で、だからこそ相手の虚を突く事が可能だ。 広い戦場において、その特性が生かされるとは思えない。 しかも彼女は剣を持っていなかった。 騎士団の入団のセレモニーにおいて、形式として剣を与えてはいるが、 重くて大振りなそれは彼女の体格には向かない。 彼女自身もそれを理解しているらしく、今回の依頼の参加にも剣を下げている様子はなかった。 しかし、と上がる反論の声に。 「こんかい、あいつがなんにんのてきをころしたか、しってんのか?」 席に着いた騎士団員達は、眉を潜めて互いを見遣る。答えられるのは、只一人。 彼女と共に馬車に乗り、その戦いぶりを近くで見る事が出来た御者担当の団員のみであった。 「彼女は、誰も殺していない」 淡々とした声で答えた御者担当兵の言葉に、ドイツ騎士団は頷く。 そう、あいつは誰一人、直接殺すような事はしなかった。 彼女は対峙した敵兵達を全員、落馬や失神等で身動きできない状態にしただけである。これは偶然ではあり得ない。 どんな理由があるのかは判らないが、彼女は明らかに人を殺す事を避けようとしているのだ。 「そんなやつが、せんじょうでまともにたたかえるとおもうのか?」 人には向き不向きがある。戦闘能力に長けている者が、戦闘に向いている訳ではない。 只でさえ、北方の異民族との交戦は激化しており、日を追うごとに凄惨さを増している。 戦場となった村や町、囚われた人々、中には目を背けたくなるような酷いものさえある。 「あいつをせんじょうにつれていくつもりはない」 必要があらば、派遣はする。しかし、あくまで後方支援や援護としてだ。 人一人殺せない女を戦場に送ったとて、足手まといにしかならない。 これだけは、絶対に覆すつもりは無かった。 「1、9、9、0…だったか、1、だったよな。たしか」 もっとランダムな数字の羅列であったなら、自分の記憶違いかと流していたかもしれない。 しかし、頭に残り易い並びの数字だったという印象が、思い出と共にしっかりと刻まれていた。 「おれさまに、わかるようにせつめいしろ」 菊が連れられたのは、先程まで会議をしていた一室。 騎士団員達は既に解散していた。人払いはもう済ませている。 二人きりの部屋、菊を椅子に座らせると、ドイツ騎士団はその真正面に立った。 手には、菊の黒十字のペンダントが握られている。 黒十字の数字が目に入ったのは、今回の戦闘の最中、菊の手を引き、自らの馬に乗せた時だ。 ドイツ騎士団の後ろに乗った菊は、放たれる敵の矢から守る為に、 前に乗る小さな体に覆い被さるような姿勢を取った。 その際、重ねた襟元からペンダントが零れ、偶然ドイツ騎士団の位置から、 丁度その裏側が目に入ったのである。 金属に刻まれたものだ、消えるものではないし、書き変えるにしても必ずその後が残る筈である。 実際、今見下ろすそれには、矢張り上書きされたような跡は見当たらなかった。 その不思議と共に、疑問は次々と湧いてくる。 剣技大会の際に見せた木の剣は、何故誰も知らないような形にしていたのか。 その独特な剣技を、何処で学んだのか。見たことも無い飛び道具の知識は、何処で仕入れたものなのか。 しかもその身体能力の修業法を、何処で知り得ると言うのか。 更には、一度も見た事がない筈のポーランドと、そしてヤドヴィガをどうしてひと目で見抜いたのか。 そう言えばハンガリーの事も、誰に聞かされた訳でも無く、その正体を見破っていたのは何故だ。 ドイツ騎士団は、ずっと菊の成長を見守り続けていた。 解りやすい異民族の容姿を持つ彼女を守る為、修道院という閉鎖的で限られた空間で育てた。 そんな少女が、書物だけで得るにしては、どう考えても無理のある知識が多過ぎる。 「おまえは、なにをしっているんだ?」 向けられる目。逸らす事を許さない紅玉の瞳に、菊は逆らえなかった。あの頃も、今も。 しかし、ドイツ騎士団はキリスト教団体の権化だ。その宗教観は良く知っている。 タブーや、規律、その死生観、そして異教徒に対する厳しさも。 菊は唇を引き締める。 言えない。決して。ここで言ってしまえば、漸く入団したドイツ騎士団員としての菊は勿論、 そんな子供を拾い、育て続けてきたドイツ騎士団自身にも迷惑が掛かってしまう。 それだけは、何が何でも避けなくてはいけない。 表情を強張らせたまま、頑なに菊は俯く。 その中に酷く堪えるような酷く苦しげなものを読み取り、ドイツ騎士団は眉根を寄せる。 「なあ、きく」 聞けよ。ドイツ騎士団は傍らに膝をつくと、とんとんと彼女の膝を宥めるように叩き、 泣き出しそうなその顔を、そっと下から覗き込んだ。 「おれさまはおまえのししょうで、おまえはおれさまのでしだ」 解るな。念を押され、菊はこくりと頷く。 「ししょうは、けっしてでしをみすてたりしない」 師匠は弟子を守る責任がある。何があっても、決してお前を見放したりはしない。俺様を信じろ。 膝の上に作った握り拳を、小さな掌がそっと包み込む。 いつの間にか、自分よりも小さくなってしまった傷だらけの手。その事実に、菊は胸が痛んだ。 そして、ここでもうはぐらかす事は出来ないと悟る。 ドイツ騎士団はそれを許さないし、そうすることで不信感を抱かれると、 このまま騎士団にいる事さえ儘ならなくなってしまう。 何より、この人から失望の目を向けられるのが怖かった。 揺れる黒い瞳。その困惑と、不安と、躊躇に、ドイツ騎士団は包み込む手にぎゅっと力を込める。 菊は大きく深呼吸をして、肩の力を抜いた。覚悟を決めた。 そして、一か八かの賭けでもあった。 「…しんじてもらえないかも知れませんが」 少し口ごもり、うん、と頷くドイツ騎士団に促され。 「わたしの中には、別のだれかの記憶があります」 するすると広げられたのは、この国の民族衣装の為の反物であった。 独自の染色技術で染まったそれは、濃紺にも群青にも藍にも見える不思議な深みを帯びている。 施されたのは、観世水に扇と乱菊が散らされた古典柄。 その繊細ながらも大胆な構図は、さながら一枚の絵画のようにも見えた。 「こちらは、西陣織と言います」 先程お見せした大島紬は親子三代使える程に丈夫な事で有名ですが、 こちらは国内でも最高級品として名高いものです。 三百年以上昔から続く技術を受け継いだ職人達が、今も伝統を守り、丹精を込めて作り上げております。 広げられた絹織物を手渡され、へえとプロイセンは感嘆の声を上げた。 緻密で手の込んだ技巧を施した絹織物は、独特の風合いがあり、華やかで、煌びやかで、実に豪華だ。 金糸銀糸で彩られた独特なオリエンタル模様が美しく、 女性が見ればさぞや色めき立つであろうと、プロイセンは目を細めた。 本日案内されたのは、日本自身も昵懇にしているらしい、大きな卸問屋であった。 その一室にて説明を受けるのは、日本が対外輸出として力を入れている、絹糸で作った織物である。 「実は近年、この織物職人が数名、フランスさんの元へと足を運びました」 量産の為の織物機械の視察と、他国の技術を学ぶ為の派遣である。 「ああ、あいつん所も織物が盛んだからな」 「はい、いろいろと学ばせて頂きました」 日本が知識を得る為に学んでいる先は、何もプロイセン一国だけではない。 それぞれの分野に見合った国へと専門家を派遣させ、国内へと雇い入れ、 実に貪欲に他国の知識を吸収しようとしていることは、プロイセンも知っている。 現在日本が他国に輸出できる数少ない産業の一つが、絹糸であった。 鎖国によって産業革命に後れを取ったこの国は、地下資源にも乏しい。 殖産興業を打ち出し、産業の西欧化と育成を政策としているが、 それでも軽工業製品でしか外貨を稼ぐ手立てはないのが現状だ。 広げた反物をしげしげと眺めながら。 「…要するに、価値観が違うんだな」 ぽつりと零れたそれに、はい?と疑問詞を浮かべて日本は首を傾ける。それに視線を向けて。 「俺らの国では…まあ、例えば宝飾品がそうだよな」 金を持つ諸侯や貴族は、皆一様に派手な貴金属を身につける。 その宝石の大きさや、美しさ、豪華さが、そのまま富の象徴となるのだ。 「ベルリンに、お前の国の使節団が来たことがあったろ」 「はい」 「あの時、諸侯貴族の奴ら、お前らの事を笑っていたんだぜ」 高い身分であるにも拘らず、誰一人真珠や宝石の一つも身に付けていないような、貧乏な国ってな。 歪んだ笑みを浮かべるプロイセンに、日本は困ったように苦笑する。知っている。 未開の地からやって来た奇妙な異国人の訪問は、彼らにとっては良い見世物であり、 何処へ行くにも非常に注目をされていた。事実日本は外貨に貧しく、そのことに否定はしない。 「バーカ、勘違いすんなって」 所詮、解りやすく目に映る上辺だけしか見えていない、浅ましい連中の戯言だ。 そうやって、他人を嘲笑う事で自らの優越性を誇示するような、己が価値観でしかものを推し量れない、 狭量な間抜け共である。 「つまり、必要ねえんだろうな」 来日して判ったが、日本は本来、ネックレスやらペンダントの類のアクセサリーに、 余り重点を置かない文化であるらしい。 実際、身分の高い人物でも宝飾品で身を飾る事は少なく、 又日本の民族衣装はそれが似合うような作りをしていない。 しかしそれ以外のもの…例えばこの布地等は、実に見事な質の高さを有していた。 しかも、見る者が見れば理解出来るような、目利きや価値観を共有する者なら感心するような、 絶妙な手の込み具合が窺える。 事実、貧乏国だと蔑んでいた彼らも、使節団が持参した進物には驚いていた。 贈られたのは、精巧な模様が鮮やかな織物や、欧州では見られない独自の模様がモダンな陶器、 細やかに螺鈿の施された艶やかな漆小物などが主である。 子供用にと渡された日本人形や手毬でさえ、とてつもなく緻密に作られてあり、 その自国とは違うこの国の文化と技術力の高さは、誰もが認めざるを得なかった。 「そういや、お前らの礼服も、一見あっさりして見えるよな」 プロイセン国王との謁見の際、彼らは自国の礼に則った式服を纏っていた。 独特の形状は兎も角、彼らは皆一様にして、装飾の無い無地の衣で装う。 それらは一見質素にも見えるが、しかし絹がふんだんに使われた、 酷く上質な生地であつらえたものであったのだ。 要するに、価値観の向けられる場所違う。 見た目の華やかさや豪華さで、自らの権力をアピールする欧州とは異なるのだ。 「我が国には、精神論を重んじる傾向がありますから」 美しく着飾る事は、決して否定しない。それは、今前の前に広げた、彩り華やかな絹織物が物語っていた。 派手さや華美を謳う芸術や芸能も、国内には確かに存在している。 しかし、飾らず、語らず、その魂の在り方のみで高潔さを示すことを美徳とする傾向が根強かった。 「全てを削ぎ落とし、最後に残ったものこそに、その本質があるとの見方があります」 だからこそ、無用に飾り立てる必要はない。 しかし対面する相手への敬意を込めて、手を抜く事無く、質は落とさず、そして自分を弁える。 礼服とは、つまるところそうではなかろうか。 普段は何処か曖昧さを残す日本が、きりりとした眼差しで言い切る。 成程。単純なもの、ありのままのものにこそ、その本質が現れる、か。確かに、そうだろう。 回りくどく判り難いと見られがちではあるが、も日本は単純化したものも多い。 立体性を排除した一本の線のみで表現される絵画、欧州とは違ったシンプルな家紋、 家具を置かない簡素な家屋…勿論全てとは言わないが、この国には余計なものを削る傾向が見られる。 国旗などは、その最たるものであろう。 上下左右問わず、簡単で、判りやすく、国民の誰もが描く事が出来、成り立ちを明確に踏まえ、 国を直ぐに連想できるシンボルマークは、確かにデザイン性に富んだものかもしれない。 そう言えば隣国の変態女たらしは、その美意識に随分と傾倒しており、 日の丸の国旗意匠を買収しようとしたとの噂さえ上っていた。 「欧米の皆さんには、理解され難いかも知れませんね」 特にこの価値観は、武士道精神の一つとされている。 欧州にある騎士道とは似ているようで異なり、他国からは理解し難いものであろう。 「そんなことねえよ」 緻密でありながら、単純。豪華でありながら、簡素。両極端が同時に共存し、不思議な調和を保つ国。 確かに理解できないものも多いが、きちんと理解できるものだってある。 実際、使節団としてやって来た武士である彼らの振る舞いは、謙虚で、思慮深く、理知的で、 礼儀正しく、何より非常に勤勉であり、非常に好意的に捉えられていた。 それはプロイセンやドイツだけでなく、同時期に訪問していたイギリス、フランスも同様である。 つまり、これこそが彼らの価値観に共感した証ではないか。 「俺は好きだぜ、お前のそんな所は」 にい、と唇を吊り上げてプロイセンは笑う。 それに、心底驚いたように、日本はその漆黒の瞳を大きく瞠らせた。 「…まじかよ」 菊の話がひと段落ついた所で、呻くようにドイツ騎士団は呟いた。 はい。控え目に頷く少女を、その奥を探るような瞳でじいっと見つめ、やがて深い息をつく。 しかめっ面で唇を尖らせる。唸り声を上げる。腕を組む。 わしゃわしゃと髪をかき回し、そして彼の体には些か大きな椅子の背もたれに深く身体を預ける。 突拍子の無い話に、混乱しているのであろう。 当然だ、身を持った当人でさえ、未だ信じられないのだから。 こんな―――未来からの生まれ変わりだなんて。 「でも、そんな気がするだけで、それが本当かはわかりません」 もしかすると、単に何らかの記憶の勘違いであったり、 こちらの気がおかしくなって錯乱している可能性だって充分有り得る。 菊は、あくまで曖昧に濁した表現で念押しした。 ありのまま話す事はしない。自分の中には、別の誰かの記憶が残っている事。 しかも、今よりも先の未来の世界に住んでいたようだという事。 その際、自分はここから遠く離れた、全く別の国にいた事。 自分の不思議な知識は、その別の誰かの記憶から得た事。 それらをかい摘み、全ては不明瞭であることを前提に伝えた。 言葉を失ったまま、ドイツ騎士団は手に持っていた黒十字を、無意識に弄ぶ。 ちゃり、とチェーンが音を立てた。 「…その十字架は、未来のわたしが、ある方からいただいたもののようです」 裏に刻まれた数字は、受け取った時の年号であったらしいのですが。 示され、ああと改めて手にした黒十字を見下ろす。 菊の話によると、彼女の知る未来では、様々な国同士が国交を結んでいるらしい。 恐らくこれを持っていたと言う事は、ドイツ騎士団に何らかの関係がある人物なのであろう。 それが何故、海を隔てた遥か遠くの国と交流を持っていたのか。 今のドイツ騎士団の感覚では、理解できなかった。 「なにものだよ、そいつ」 「…わかりません」 「どうしてすうじがかわるんだ?」 「それも…」 「このすうじのとしに、なにかいみはあるのか?」 「…すいません」 向けられた質問に、菊は項垂れた。 ドイツにとっては特別な歴史的数値ではあるが、それを口にするつもりはない。 「わかんねえことばっかりだな」 ふう、と息をつき、ドイツ騎士団はよっと椅子から立ち上がる。 そして、窓から差し込む光に黒十字を翳し、目を細めた。 「みらい、か」 ぽつりと零れた声。幼さの中に垣間見える、人とは違う時間を積み上げた者だけが持ち得る深み。 逆光に縁取られる横顔が記憶にある横顔に重なり、菊はどきりとした。 「なあ、菊」 数拍の戸惑いの間が開き、そして吹っ切るように視線を向ける。 「…おまえは、これからさき、おれたちがどうなるのかをしっているのか?」 俺達が歩む歴史を、未来のお前は知っているのか。 向けられた紅玉。それを受け止め、菊はゆっくりと頷く。 「はい」 私達の歩みは、確かに歴史としてその名を刻みつけました。 これから起こる事件、戦争、その手段や結果…それらは、未来の歴史書に記録として残されています。 「でも…ちがうのです」 私の知る歴史と、今現在進行形の歴史とは、微妙な差異が生じています。 歴史は権力者によって変えられるのは良くある事だ。 しかし、それだけではない違和感…どう考えても食い違っていたり、時候列が前後していたり、 あった事が無かったり、また逆に有り得ないことが生じていたり…が存在する。 諸国の権化の成長具合も、当事者から聞いたものとは差があった。 もしかすると。これは単に私の勝手な考えですが。 「未来は、つねにかわっているのかもしれません」 自分が何かを起こす度に、ペンダントの数字が変化している。 それはつまり、未来が変化を示しているのではなかろうか。 「なので、わたしは先をよむことはできません」 未来視が出来ればもっと現状を有利に働く事も出来るのだが、しかし当てにしていると足元をすくわれかねない。 却ってその侮りが、危険にさえなるだろう。 「力になれず、申しわけありません」 心底申し訳なさそうに恐縮する菊に、ドイツ騎士団は寧ろほっとするような顔になった。 そうか、そうだよな、うん。何かを納得するように頷いて。 「あやまんなよ」 お前が悪い訳じゃない。その判断は正しかった。悪戯に不確かな知識で煽ると、無用な混乱を招く恐れさえある。 そのジレンマに悩み、罪悪感を隠しながら、不要な苦しみに胸を痛めていたのはお前の方だろう。 彼女の性分は良く知っている。 ドイツ騎士団は、椅子に腰を下ろした菊の前に立つ。 見下ろす視線の厳しさに、菊は居住まいを正した。 乾いた喉を、ごくりと鳴らす。 ドイツ騎士団はカトリック教徒の権化である。そんな彼が信仰するキリスト教において、 輪廻や生まれ変わりという概念は存在せず、死者は全て神の国たる天国へ召されるのだ。 しかし今菊が口にした話は、神の教えが絶対であるこの宗教において、間違いなく異端のものであろう。 更に、現在ドイツ騎士団は、異教の邪神から人々を救う為に、ローマ教皇に許可を得、 東方へとその領土を広げている。 例えそれが単なる建前と判っていようとも、 その大義名分が失われれば、ドイツ騎士団は存在理由を失ってしまう。 決して大袈裟ではない。 菊の存在が、ドイツ騎士団の存在を揺るがすのだ。 「キク」 凄むように瞳を細めて。 「いまのはなし、ほかのやつらのまえでは、ぜったいにくちにするな」 二度と口外するんじゃない。俺も絶対に他に漏らさないと約束する。だからお前も約束しろ。 この話を、決して俺以外の誰かに言わない、と。 騎士団から排除されるならまだいい。 こちらでは随分下火にはなってきたが、少し前の時代には、異端尋問や魔女裁判が頻繁に行われていた。 異教徒の考えを持ち、不思議な知識と、人並み外れた身体能力を持つ少女など、 そんなおぞましい儀式の格好の餌食となるであろう。 「これは、おれとおまえだけのヒミツだ」 菊は瞬きを繰り返した。否定はされなかった。無かった事にもされなかった。 「しんじて下さるのですか?」 何を言っているんだ、とドイツ騎士団は片方の眉を吊り上げる。 「だって、そうなんだろ?」 信じるも信じないも、菊がそう言ったのだ。 子供の頃から見守り続けていたのだ、この少女が嘘が苦手な事は良く知っている。 この場でこんな作り話をでっち上げても、菊には何の得も無いし、 これなら彼女の異常な博識ぶりにも納得がいく。 何より、辻褄が合い過ぎる。頷かざるを得ない。 「このまま…騎士団に、おいていただけるのですか?」 こんな私でも。神の教えから外れた生を受けた、こんな私でも。 僅かに声が震えていた。 それににかりと笑うと、ドイツ騎士団は手に遭った黒十字のペンダントを、 栄誉ある冠を授けるかのように、菊の首へと丁寧に付けてやる。 「あたりまえだろ」 言ったじゃねえか。師匠は、決して弟子を見捨てたりしない。 お前を拾ったのは俺だ、きちんと最後まで責任を持つ。それが、ドイツ騎士団である。 「…ありがとうございます」 ほっとしたと同時に、じわりと目の前が潤んだ。思った以上に、彼への告白に緊張していたらしい。 それを隠すように慌てて俯くと、ドイツ騎士団が小さな頭を抱え込むようにして抱きしめる。 「ばーか」 泣きそうな顔してんじゃねえよ。もうちょっと、俺様を信じろ。 ケセセと笑いながら宥める手の平は、とても、とても丁寧なものだった。 その指先の優しさに目を閉じると、なあ、ぽつりとドイツ騎士団は声をかける。 この話は二度とお前の前でしないと約束する。お前を困らせるような質問もしない。 だけど―――ひとつだけ聞かせてくれ。 「おまえのみらいに…おれはいたのか?」 抱き込む腕。抱きしめられる頭。 微かに震えたのは、どちらであったのか。 「未来のわたしも、あなたを、師匠、とよんでおりました」 真実で嘘を隠す 2011.09.20 |