黒鷲は東の未来より舞い降りる <13> 差し出したのは、絣の入った濃紺の単衣と帯だ。 日本の家に滞在している間、プロイセンが寝間着として使用していた浴衣である。 「これは、お持ち帰りされますか」 この浴衣は、彼の為のものだ。 初日は日本の浴衣を貸したのだが、体型の差は如何ともし難く、急遽新しく誂えたものである。 ここに置いても、日本が着用することは出来ず、結局持ち腐れてしまうだろう。 「滞在の記念にどうぞ」 笑顔で差し出す日本に、そうだな、と嬉しそうにプロイセンは唇を吊り上げる。 しかし。 「いや…やっぱ、ここに置いといてくれ」 おや、日本はぱちくりとした。喜んで持って帰るかと思ったのだが。 日本では当たり前の民族衣装を、プロイセンは珍しいと随分気に入っているようであった。 着付けも帯も慣れない筈であるのに、気が付けば自分で身に付けられるようにもなる程に。 元々、手先は器用である。もしかすると、人に着せて貰う事に、抵抗があったのかもしれない。 最初、風呂上がりに日本が着付けを手伝っていた時には、何やら動揺する節も見受けられた。 流石は俺様、何を着ても似合うぜ。ドイツにも見せてやりてえな。 鏡の前で得意げに胸を逸らす彼に、否定の言葉が見つからない。 それぐらい、すらりとしてバランスの良い西洋人の体型には、羨ましい程に様になっていた。 しかしそれも、この人なりの社交辞令だったのであろうか。 そう視線を落とすと、何勘違いしてんだ、ぺちんと額を指先で弾かれた。いた、と声を上げる。 「また次に来た時、これを着るからな」 だから、お前がちゃんと持っておけ。日本の家の、俺様専用の浴衣だぜ。 にかりと笑うと、最後の荷物をトランクに収め、ぱくんと蓋を閉じた。 クマン族は、モンゴルの流れを汲む遊牧民族の一派だ。 東欧を中心に繰り返される彼らの猛攻を、傭兵や隣国の兵を雇い、ハンガリーは食い止め続けていた。 特にプルツェンラントはその立地所以に、常に異民族からの侵攻の危機に晒されてる。 故に全体を強固な外壁で囲い、街の中心である教会を要塞のように設計し、 長期の籠城にも耐えられる構造をしている。 神の住む家とは思えないほどに、武装された教会建築。 その揺るぎない強固さが、境界線の無い陸地続きである欧州の、 繰り返される戦いの歴史そのものを物語っていた。 「どうした、キク」 槌の音が高らかに響き、幾人もの兵士達が、忙しく土木工事にも似た作業に勤しむその現場。 じいっと路面を見下ろす菊に、隣に並んでいた部隊長から声が掛かる。 「ネズミが…」 黒い瞳の向ける先には、道端にうずくまった小さく丸い固まりが一つ。 そしてその向こうにも、もう一つ転がっている。 ぴくりとも動かないそれは、恐らく死んでいるのだろう。 老衰か、飢餓か、見かけた騎士団の誰かが殺したのか―――何だろう、妙に引っかかる。 「いえ、なんでもありません」 菊は軽く首を横に振った。 間もなく、本格的にクマン族が襲来する。意識をそちらへ集中しなくては。 時間は幾らでも欲しい。 特に今回持ち込んだ改良型のカタコンベは、初めて実戦で使用されるものでもあり、 持ち運び、設置、何かにつけて試行錯誤が繰り返されている。 担当の兵士達とは何度も打ち合わせを交わしたとはいえ、細々とした想定外は幾つも発生し、 最初の取り決め通りに順調に進んでいる訳ではない。 あちらの兵士から、名を呼ぶ声が上がる。また、予測外の何かが生じたのであろう。 設計に携わった菊は、現場の責任者の一人として、彼らの質疑に応え無くてはならない立場にある。 軽く手を上げて返答すると、菊は手にあった新型兵器の設計図を握り直し、裾を翻してそちらへと向かった。 戦況は、最初からドイツ騎士団にとって有利であった。 まず、地の利がある。 やや高い位置に建築された教会の塔を展望台に、各部隊に伝令を伝え、 こちらに有利で、且つ戦い易い場所へと彼らを誘導することが可能であった。 その上、兵力にも分がある。 ハンガリー軍とドイツ騎士団を合わせた兵力は、軽く見積もってもクマン族を充分に上回っていた。 更に、訓練された騎士団員の戦闘能力は高く、連帯性のある動きには無駄が無い。 地道な騎士団の訓練の成果が、ここにきて功を得た。 そして何より、導入した大型武器の効力が大きかった。 菊も直接設計に携わった今回の改良型カタバルトは、急遽準備されたとは思えない性能と精度を戦場で発揮した。 特に、同時に開発した火薬を含んだ砲丸は、クマン族にとって未知のものである。 殺傷力こそ少ないものの、大袈裟なまでの爆音は相手兵士を委縮させ、 視界を遮る程に立ち上る煙幕は、不安と恐怖心を煽るのに十二分な役割を果たす。 混乱する彼らが降伏するのに、さほどの時間は掛からなかった。 この、呆気ない程の顛末に驚いたのは、ハンガリーである。 極短期戦で、市街地に被害を出さず、互いの消耗を最小限に抑える事が出来たのだ。快挙である。 ドイツ騎士団への依頼は初めての事であったが、これ程までにこいつに力があったとは知らなかった。 これは、今後ドイツ騎士団に対する見方を変えなくてはいけないだろう。 そして、そう印象付けたのは、ハンガリーだけでは無い。 この戦いは、小さな十字軍の一派と見下されていたドイツ騎士団の戦闘力を、 欧州に強く広める切っ掛けとなったのである。 勝利に街全体が湧き上がっていた。 ハンガリーの兵士も、ドイツ騎士団も、街の市民も。 それぞれの立場を越えて、健闘を湛え合い、賑やかに歓声を上げ、振る舞い酒を交わしている。 そんな中、ドイツ騎士団はその歓喜の声を上げる兵士達の合間をすり抜けて行く。 兵士や市民が盛り上がる中央の広場から、街の中央道を通り、 厳めしい門までやって来ると、街をとり囲む強固な外壁を見回す。 夕焼け色に染まる空。 それを背景に立つ小さな姿を見つけると、 ほっと安堵したように息をつき、壁の上へと繋がる階段を駆け昇った。 「キクっ」 振り返る菊に大きく手を振り、外壁の上の通路を走り、彼女の前までやって来た。 彼女は、姿勢を正して到着を待ち受ける。 「ここにいたのか」 ドイツ騎士団の登場に、菊はきちんと腰を折って礼を返す。 彼女は例えどんな場であろうと、ドイツ騎士団に対しての一歩下がった、へりくだった態度を崩さない。 まるで自らを弁え、律し、戒めるかのように。 「今回の勝利、ほんとうにおめでとうございます」 畏まった口上に、おうと頷き、ケセセと笑った。 「みんな、もりあがっているぞ」 お前も早く来いよ。そう促すドイツ騎士団に、菊は穏やかに笑って首を横に振った。 「先にこちらをすませてから参ります」 大型武器の責任者としての役目は、彼らを撃退したら終わりでは無い。 未だ完璧とは程遠いこの兵器は、更に改良を重ねる必要がある。 現状の問題点、損害等をきちんと調べ、次に繋げなくてはいけない。 生真面目な顔でそう告げる彼女に、ドイツ騎士団は呆れたように肩を落とす。 こんな時の彼女は頑固で、周りが何と言おうと、梃子でも動かなくなってしまう。 ふと、呼ぶ声に二人はそちらへと顔を向けた。手摺りの下を見下ろすと、小さな子供がこちらに手を振っている。 誰だ。片眉を潜めるドイツ騎士団の横、菊は小さく笑い、手を振り返した。 嬉しそうに階段を上ると、息を荒げて二人の前にやって来た。 この街の子供であろう。まだ幼い。見た目だけなら、ドイツ騎士団よりも小さい位だ。 そんな幼子を、菊は柔らかな笑顔で迎える。 「どうでしたか?」 「やっぱり、いってたとーりだった」 あっちの塀のも、その向こうの塀に置いてるやつも、全部同じ所におっきなひび割れが出来ていたよ。 どうやら、各所に設置した大型武器の事を言っているらしい。でも、なんでこんなチビが。 訝しげるドイツ騎士団に。 「戦闘のときに、まぎれこんだ子供です」 市中に外出厳戒令を敷いても、子供の好奇心を戒める事は出来なかったらしい。 戦闘中、外壁の抜け道を知っていた彼は、何も判らず街の外に出てしまい、それを目にした菊が保護したのだ。 そこから、どうも懐かれたらしい。一人武器を調べる彼女の手伝いを、自ら買って出てくれたのだ。 「すっごくカッコよかった」 迫りくる敵兵を前に颯爽と現れ、あっという間に不思議な形の剣で撃ち払い、 幼子を抱いてロープを伝って外壁を昇り切る、その素早さ、鮮やかさ、見事さ。 目にも止まらぬような動きは、まるで翼を持つ鳥のようだった。 幼子は目をきらきらさせて、冷め切らぬ興奮のままに、ドイツ騎士団にその様子を話し聞かせる。 驚くのはこっちだ。 「…おまえ、ぜんせんにでたのか?」 じろりと睨みつけるドイツ騎士団に、菊は視線を伏せる。 「やむをえぬ事態だったので」 「おれは、ぜったいにこのじんちからはなれるなって、そういったよな」 今回、菊は前線から離れた、この大型武器の陣地に配属されていた。 責任者として当然だ。彼女に何かがあれば、この武器を知る者がいなくなる。 他兵士に「守られる」立場にある状況に、ドイツ騎士団は密かに安心していた。 「申しわけありません」 菊は速やかに謝罪する。処罰は受ける覚悟で行動しました。 首を垂れる彼女に、幼子は驚いた。自分の今の発言が、彼女を悪くするとは思っていなかったのだ。 ふるふると首を振りながら、悪いのは全部自分で彼女は悪くない、ごめんなさい、 罰は自分が受けるから、必死でそう言い募る。 涙目で間に立ちはだかる幼子に、ドイツ騎士団は何とも微妙な顔をした。 「じゃあ…おまえにひとつ、もうしつける」 その如何によっては、菊の処罰を不問してやらなくも無い。 きりりと睨みつけられ、幼子は大きく頷いて姿勢を正した。 「こいつは、こんなほそっこいみためとはんたいに、やたらとうまいものがすきだ」 量は沢山食べないけれど、妙に美食家な所があって、兎に角美味しいものには目が無い。まあ、食いしん坊だ。 とくとくと話すドイツ騎士団に、菊は顔を赤らめて恐縮した。 確かに、そう指摘されることが多い…かもしれない。 「そのこいつがまんぞくするような、うまいものをたべさせてやってくれ」 何でもいい。この町の名物とかあるだろ、その中から自慢の料理を振舞え。 そしてそれが彼女が納得できるくらい美味しければ、今回の処罰は帳消しにしてやる。 ふふんと胸を張るドイツ騎士団に、その子供はぱあっと顔を輝かせて頷いた。 ならば、自信がある。料理上手な母の作るセケーイグヤーシュは、この街で一番美味しいと評判だ。 絶対、彼女の舌を唸らせるに違いない。 きっと今頃は街の女衆の中心になって、振る舞い料理を披露しているだろう。 じゃあ、行こう。早く早くと嬉しそうに手を引く幼子の力に抵抗できず、菊は困ったように眉根を寄せた。 まだ調査は途中の段階だ。振り返ると、ドイツ騎士団はによによと笑っている。 仕方無い。苦笑を零した菊が―――その視線を留めた。 外壁の隅に蹲る塊。また、ネズミの死体だ。一匹、二匹…否、その向こうにも、それらしいものが転がっている。 ざわり、嫌な予感がした。 眉を潜め、立ち尽くす不自然な様子に、ドイツ騎士団もそれにならって視線を向ける。 それに気がついた子供も、菊から手を離し、何だろうかとそのネズミの死骸に近付く。 上から覗き込み、小首を傾げ、小さな手を伸ばした所で。 「触らないでっ」 ぴしりとした菊の声に、子供はびくりと肩を竦ませて、触れるその直前で手を引いた。 厳しく鋭い声に、驚いたように目を丸くして振り返る。 普段穏やかな彼女が発するそれに、ドイツ騎士団も瞬く。 「どうした」 何かあったのか? 「…まさか」 瞠る瞳。開きかけた唇が慄く。 そのまま急いで幼子を下がらせ、膝をつくと、菊はその転がったネズミの身体を見下ろす。 外傷は無い。極端に痩せ細ってもいない。短い毛並みから垣間見えるのは、どす黒く変色した皮膚。 ならば、もしかすると、これは。 導き出した自分の答えに、血の気が引いた。 「ハンガリー王に謁見をっ」 「キク?」 すっくと立ち上がると、菊は切羽詰まった声を上げる。 「プルツェンラントは、只今よりドイツ騎士団の監視下に置きますっ」 プロイセンの滞在は長くなかった。 陸軍学校の視察、それぞれの主要人物との会談、派遣した指南役と話し合い、その授業の見学、 後は簡単な軍事育成の打ち合わせを交わすと、すぐに帰国の船を用意させる。 日本国の観光と産業の視察や見学は、あくまでその合間を探して行われたもの。 国としての一線から距離を置いたとはいえ、彼はまだ多忙なのだ。 「あっと言う間でしたね」 がらがらと揺れる馬車の中。頬杖をついて車窓を眺めていた横顔が、こちらへと向けられる。 「何だよ、寂しいのか」 によっと人の悪い笑みを浮かべるプロイセンに、日本は苦笑した。 窓の外へと向けられていた時は、その無機質なまでの端整さ故に、近寄り難ささえ感じていたのに。 この人はその表情ひとつで、随分と印象が変わってしまう。 「はい、寂しくなります」 本心だ。欧州は遠い。気軽に行き来出来る距離でも無く、陸続きでも無い二つの国は、 互いに機会を作らなければ、そう簡単に会う事も叶わないだろう。 「…ばーか」 こつんと軽く肘で突かれる。俺様よりもよっぽど爺の癖に、なにしおらしい事言ってんだよ。 しかもお前、今までずーっと一人で引き篭もっていただろうが。 乱暴に髪をかき混ぜられ、痛いですよと顔を顰める。しかし、抵抗はしなかった。 プロイセンはケセセと高笑い、しかし不意に柔らかく目を細めると。 「まあ…たまには顔ぐらい、見に来てやるよ」 ぽつりとしたそれに、はたと日本は目を丸くする。 「本当ですか」 「ああ、約束してやる」 爺さんの様子を見に来るのは、若者の勤めだからな。ふふんと胸を反らせる様は、まるでガキ大将そのものだ。 その妙に自信ありげな瞳が、不思議な色味を帯びて細まって。 「俺も、暇になるだろうからな」 呟くような小さな声に、日本は顔を強ばらせた。背筋から伝わる、ざわざわとした冷ややかな予感。 ごくりと乾いた喉を鳴らせる。 それは、どういう意味ですか。 問いかける前に。 「なあ、日本」 あれは何だ。日本の背後の車窓、その向こうに捉えたもの。振り返り、ああと日本は頬を綻ばせた。 「桜、ですよ」 ここから港までは近い。時間に余裕もある。 最後の散策にと馬車から降りて二人、歩いて向かう事にした。 川べりに沿って延々と続くのは、一斉に咲き誇る、見事なまでの桜の並木。 気まぐれな春風に時折煽られながら、ひらひらとその花びらが宙を舞う。 はらはらと散り急ぐ様は、酷く忙しない。まるで雪のようだ。 「おー、すげえ」 これだけの花が一斉に咲く様は、今まで見たことが無い。見ると、どの木もそれなりに樹齢があるようだ。 それがこの地を荒らされていない、日本が外敵から侵略されていない、生きた証となっている。 「なんか、もったいねえな」 隣を歩く日本が顔を上げると、だって、ほら、プロイセンはその真紅の目を細めて。 「こんなに綺麗なのに、散っちまうんだな」 そっと手を差し伸べると、花弁がひらりと一枚、革手袋を嵌めたその掌に落ちてきた。 朝晩はまだまだ冷え込むが、日中は随分と暖かい陽光が続いている。桜の季節ももう終わるだろう。 「花は散るから美しいのですよ」 煙るような笑顔で、日本は笑う。そして、満開の桜を見上げて。 「この花は、我が国民の心とも言われております」 集団で咲き誇り、浸る間も無く全てを散らせる春の花。 散り際に未練は残さず、美しい思い出だけを胸に残し、最後を華やかに彩る幻のような薄紅の花。 潔さを美徳とする日本において、最も愛され続けた花の一つであろう。 ぷっとプロイセンは吹き出した。何ですか、と首を傾ける日本に、によによと笑う。お前なあ。 「この前は刀で、今度はサクラか?」 どうもこの国は、何かにつけて、物に自分を投影するのが好きなようだ。しかも、武器と花? それって、すっげえ真逆じゃねえか。 しかし、それでも何故だろう。奇妙な筈なのに、妙に納得も出来る。 日本は不思議だ。相反する極端なものが、同時に調和を持って存在している。 保守的でありながら新しい物好き。従順でありながら干渉を嫌う。 順応性がありながら頑固。勇敢で有りがら臆病。 そう指摘すると、誰だって相反する考えを持って当然だと心底不思議がる。 自分の考えはごく普通のもので、何処がおかしいのかを理解できないらしい。 戦う為の武器と愛でる為の花に自己投影する矛盾に、きっと気付いていないのだろう。 きょとんとこちらを伺うまんまるい目が、それを物語っていた。 風に煽られ、ざあ、と桜吹雪が舞う。黒革手袋の掌に乗っていたそれも、ひらりと宙へと飛び立った。 「日本」 「はい」 「もう直ぐ、カイゼルが変わる」 そうなれば、ゲルマン民族の長き悲願とも言うべき、民族統一国、ドイツ帝国が正式に形を成すであろう。 周辺国は穏やかに纏まり、最も推進に力を尽くしたプロイセン王国も、やがてはその中へと吸収される。 思わず足を止める日本に、数歩歩いた場所で足を止め、プロイセンが振り返る。 表情を消して瞠目する日本ににやりと笑い、そして至極真面目な顔になる。 あのな、俺はな。 「お前の国に来れて良かった」 俺が、まだ俺で居られる時に、来る事が出来て良かった。 どくん、と心臓が大きく音を立てた。 胸の内に広がる不安が、じわりじわりと全身を侵食する。何を、この人は何を言っているのであろうか。 日本の知るプロイセンは、こんな言葉を告るような国では無かった。 だって、こんな、まるで、今際の言葉のような、そんな。 「…仰っている事が判りません」 声は僅かに掠れていた。それに、少し眉を上げて、呆れたように腰に手を当てる。 お前なあ、普段の察しの良さはどうしたんだっつーの。 「お前も聞いているだろ、次期カイゼルの噂は」 欧州に滞在していた時でも、お前なら、それを肌で感じていたんじゃねえか。 指摘され、思い当たる節に、日本は目を細めた。 「…黄禍論ですね」 こくりとプロイセンは頷く。 最初は、取るに足らないくだらない差別主義者のイデオロギーであった。 しかし今それは、じわりじわりと西側諸国に広がっている。 そして現在、最も強くそれを押し出しているのは、ドイツ帝国の次期カイゼルとなる人物であった。 実際、欧米では黄色人種の移民が激しくなってきていた。 新天地で安い賃金で働く黄色人種の進出で、それまでの働き手は仕事を奪われる形になっている。 そうなれば自然、その不満の対象が向けられるのは当然なのかもしれない。 元より、空気を読むのには長けている。 彼らの攻撃性がこちらへ向けられつつある事は、確かに肌で感じていた。 民族主義、帝国主義、人種主義、そんな思想が溢れるこの世界。 今まで自分の中しか知らなかった日本にとって、馴染みの無い、不思議なものでしか無かったのだが。 「今のような関係が続く保証はねえ」 だからこそ。 こうして純粋に師と弟子の関係に甘んじる事が可能な今、この国に来る事が出来て本当に良かった。 プロイセンはそう思っているのだ。 日本は引き攣った笑みを浮かべた。馬鹿な。この人は何を言っているのだろう。 だって、今朝だって、馬車の中でだって、言っていたのだ。 「また来るって…約束したじゃないですか」 だから、寝間着にしていた浴衣は、あのまま家に置いておくって。 寂しい老人の顔を見に来るのが、若者の務めだって。 貴方は約束を破る人じゃない。出来ない約束をする人じゃない。 そして、自分を簡単に諦めるような人じゃない。 なのに何故、そんな事を云うんですか。 「そうだな」 彼は笑った。 唇の端を釣り上げ、子供のような明け透けさで、尊大に、強かに、しかし酷く儚く、彼は笑った。 「でも、その時は、きっと、俺は―――」 二人の間を、春のつむじ風が横切った。 吹き上げるように、淡い色をした花弁が舞い上がる。風の音に遮られ、声が聞こえない、届かない、伝わらない。 続く言葉を彼が、告げたのか、噤んだのか。 日本は、もう思い出す事が出来なかった。 「はあ?ふざけた事言ってんじゃねえぞっ」 こちらはクマン族からの侵攻を防ぐ為、ドイツ騎士団を傭兵として雇い入れただけだ。 勿論、それ相応の賃金の支払いもする。それに同意したのはそっちじゃねえか。 掴みかからんばかりのハンガリーに、ドイツ騎士団は硬い表情を崩さない。 「ローマきょうこうにつかいをだした」 恐らく許可は降りるだろう。 短期間で良い。どんな形でも良い。何が何でもこの土地を隔離しなくてはいけない。 「調子に乗ってんじゃねえ、何様のつもりだ、でめえ」 ぐい、と襟元に掴みかかるハンガリーの手を抑え、赤い瞳が真正面から見据えた。 「いいか、ハンガリー」 良く聞け。時間が無い。一刻を争う。含めるようなはっきりした声。 「こくしびょうが、このまちにはいっているんだ」 ハンガリーやルーマニアの要塞教会群より 一部、「菊と刀」を参考にしました 2011.11.19 |