黒鷲は東の未来より舞い降りる <15> 菊がハンガリーで推進したペスト対策は、一定の功を奏する事が出来た。 勿論、最初に宣告した通り、発症者を治癒することは不可能だ。 しかし、感染者や死者は出したものの、その数は過去の例に比較すると圧倒的に少なく、 沈静化も実に速やかとなる。 だが、プルツェンラントで発見されたペストは、既に周辺地域で拡散した後のものであった。 感染は近隣の村や町に及んでおり、その予想以上に跨った広範囲に、処置が追いつかず、 どうしても後ろ手となってしまう。 更に菊の打ち出した衛生対策は、宗教的な面からも、習慣や時代の文化や偏見の面からも、 やや受け入れられ難いものであった。 何せこの時代、衛生管理という概念が非常に乏しい。 そんな中、菊の推奨する手段はどれも、奇異で、不可思議で、呪術の一種と捉えられてしまう。 その上黒死病は、悪魔のもたらす病と信じられていた。 ネズミの天敵である猫は、魔女の使いとして忌み嫌い、処分する街も少なくない。 ネズミを買い取るという政策も、一部地域では経済的に不可能だと判断される。 そして、その対策が出来ない街程被害が酷くなるという悪循環さえ生じた。 結果、プルツェンラントで効果を得た政策を、ハンガリー国全体にまで行き渡らせるには叶わなかった。 それでも、プルツェンラントにて活動をしていた医療従事者達が各所へと派遣されると、 その経験を生かし、何とか終息へと向かうようになる。 そうして、菊は漸くハンガリーから、ドイツ騎士団領へと帰還する事になった。 ドイツ騎士団の総本部。 総長室から辞し、簡素でありながらも重圧な装飾がなされたその扉をぱたりと閉じると、 部隊長は漸くふうと息をついた。 現ドイツ騎士団の総長は、政治的手腕に長け、歴代の中でも、最もカリスマ性が強いと称される人物だ。 何度経験しようとも、彼を目の前にすると、どうにも緊張が拭えない。 身体の力を抜いた所で、隣を見下ろす。ちょこんとした小さな黒い旋毛。 こちらの視線を感じたのだろう、伏せられていた面を向けると、心底申し訳なさそうに目尻を下げた。 「この度は、本当に申し訳ありませんでした」 私の勝手な判断での顛末にも関わらず、こんな場にまで付き添い頂いて。 きちんと正面に向き合っての丁寧なその言葉に、思わず苦笑が零れる。 彼女は自分の行動が原因で他者の手を煩わせる事や、迷惑をかける事を、極端なまでに嫌う。 自己嫌悪に視線を落とす菊に、部隊長はからりとした笑顔を向けた。 「お前が気に病むことは無い」 総長への報告に参上する部下に付き添うのは、上官として当然の義務だ。 それに、今回の件においては、ドイツ騎士団総長もきちんと承知している。 今の報告の間だって、咎めるような言葉は無く、寧ろ彼女の働きを評価していた。 「…でも」 総長はそう言ってはいたが、実際の世論は違う。それは菊も知っている。 「仕方あるまい」 今回の事は、誤解が生じて裏目に出ただけだ。総長も言っておられただろう。 このペスト対策の一件は、結果として、ハンガリー国にドイツ騎士団への反発心を植え付けてしまった。 非常事態とはいえ、混乱のままに、突然領土を占領したのだ。 確かに詳細を知らない者には、横暴な無法に映るであろう。 その上、あろうことかドイツ騎士団こそが、ペストを広めたその発生源ではないのかという巷説さえある。 勿論、プルツェンラントなど一部の地域は事実を認識しているが、風評の力はどうにもならない。 決死の献身活動も、こうなってしまえば只の余計な御節介だ。 「それに、全てが無意味ではなかっただろう」 確かに外交的には失敗だったものの、プルツェンラントを始めとする一部の地域では、感謝されたのも事実だ。 何より、対処法が無いと恐れられた、黒死病への効果的な予防法が証明されたのだ。 この成果は非常に大きい。 しかし、菊の憂いは拭えない。思い詰めた眼差しを落とす。 「出過ぎた真似をしました」 人伝に聞いた話では、ドイツ騎士団の憤慨は相当なものであったようだ。 あれだけ菊が入団するのを許可しなかった当人が、騎士団の規律に逆らわないように、 自分の言う事を聞くように、正式に騎士団員にしてやるとまで言い出していたらしい。 欧州の封建制度では、主の言葉は絶対であり、それに逆らうことは許されない。 日本のように、主人に正しい進言をするのも忠臣の勤めであるような意識は無い。 非常の事態とは言え、忠誠を誓ったドイツ騎士団に対して意見し、その意に反して自我を通したのだ。 彼の怒りも当然であろう。 あれ以来一度も顔を合わせていない彼に、一体どんな顔をして会えば良いというのだろうか。 部隊長は苦笑いをして、肩を竦める。 「真面目に考え過ぎるな」 そんなに、堅苦しく考えなくとも良い。 第一、彼はあくまでも「象徴」だ。主君や上官では無い。 菊の持つ忠誠心も理解できるが、他の騎士団員達は概ね、もっとざっくばらんに彼と接している。 菊の判断は、それ以外の選択肢が無いと言う点で、妥当であった。 対策が遅れていれば更に被害は拡大し、あの時戦闘に参加し、 街に滞在していた騎士団員達にも黒死病が感染していたであろう。 ドイツ騎士団も馬鹿じゃない。 口ではああ言っていたが、時間を置いた今、きちんと理解出来ている筈だ。 そんな事よりも、と部隊長は菊の顔を覗き込んだ。きゅっと引き締められた唇の色に、眉根を寄せる。 「顔色が良くないな」 指摘され、菊は頬に手を当てた。 実は、今朝から妙に身体がだるい。 熱がある訳では無さそうだが、下半身を中心に変な重さが纏わり付き、何をするにもおっくうに感じてしまう。 気の所為かと思っていたが、どうやら顔に出てしまっていたようだ。 「まだ、疲れが残っているんじゃないか」 「まさか」 流石にそれは無かろう。 ハンガリーからの帰還の際、菊は他の騎士団員と同じように、発症の可能性が無いか、 近隣の修道院にてひと月程度の滞在をしていた。 そこで、充分に身体も休ませて貰ったと思っているのだが。 「しかし修道院でも、大人しく休んでいなかったらしいじゃないか」 滞在の期間中、菊は修道院にある書物に片っぱしから目を通し、剣や体術の鍛錬を怠らず、 しかも請われるままに修道院のアドバイスまでしていたと聞く。 更には、今までペスト騒動で保留になっていた大型武器の実践の記録と、 改良の為のレポートまで作成していたのだ。 「お前はちょっと働き過ぎだな」 何を焦っているんだ。からかうようなそれに、首を傾けて少し笑って見せる。 とは言え、その通りだ。確かに焦っている。菊としては時間はいくらでも欲しい。 今のままでは、とてもじゃないが足りない。 ドイツ騎士団領に帰還して、久しぶりに今まで着ていた服に袖を通した時、袖が短くなっていた事に気が付いた。 服が縮んだのではない。ハンガリーに滞在していた間に、自分の体が成長していたのだ。 滞在期間の長さと自分の年齢を考えれば、まあ当然だ。 喜ぶべきなのだろう。しかしそれは同時に、自分の「命」を強く自覚させられた。 人間は、成長する。そして、老い、死ぬ。 国の持つ悠久の時間に比べると、人の寿命は哀しくなる程に短い。 その時間の違いを改めて突き付けられたようで、どうしようもない焦燥感に駆られる。 一人の人間が一生の内に出来る事など、極限られている。今回の件で、自分の無力さを更に痛感した。 その無力な自分が、果たしてこの短い期間で、何を、何処まで、どうやって出来ると言うのだろうか。 「少し休憩室で休もう」 先に本部に到着した先鋒隊の話では、そろそろ本隊が帰還する頃だ。 恐らく、ドイツ騎士団はその中にいる。 「そんな顔をしていると、またあいつに怒られるぞ」 自分の思考に入り込む菊の背中を、部隊長は軽く叩く。不安げに見上げるこちらに、懐の深い笑みが返された。 彼は幼い頃からの菊を良く知っているだけに、時に兄のように、父親のように、接してくれる。 それに少し力付けられ、不器用な笑顔でこくりと頷いた。 促されるままに一歩足を進めた所で、あれ?と菊は眉を潜める。 目の前が眩む。すう、と血の気が引く。足元の重力が消えた。 ぐらりと揺れる身体を支えるようと、次の一歩を踏み締めたのだが。 「キク?」 次の瞬間、目の前が暗転した。 泥だらけのマントを靡かせながら、ドイツ騎士団は回廊を駆け抜ける。 遠征からの帰還中、菊がハンガリーから帰ってきたとの報告は受けていた。 彼女が無事だと言う事も、この日本部にやって来る事も知っていた。 だから本部に到着し、門を潜って早々、出迎えに来た彼女の部隊の隊長の姿を目にした時は、 まず真っ先に問いかけたのだ。あいつは何処だ、と。 そして返された言葉が終わらぬ内に、馬から飛び降りると、そのまま制止も聞かずに走り出した。 辿り着いたのは、兵の救護室が設置された離れの棟。 奥へと続く長い廊下、あちらの角から姿を見せた中年の修道女に気付くと、 ドイツ騎士団はおい、と声を上げて走り寄った。 「きくがたおれたって?」 ぜえぜえと荒げた息のまま詰め寄る。普段この本部には、基本的に男の修道士しかいない。 つまりこの彼女は、男の修道士では判断できない女の身体、菊を診る為にここに呼ばれたのだ。 「どういうことだっ」 肩を上下させながら、黒いスカートに縋りつく。 不安のままに見上げてくる幼き姿の象徴に、修道女は腰を屈め、宥めるように微笑んだ。 「ご安心ください、今はあちらの個室で休んでおります」 「あいつはだいじょうぶなのかよっ」 修道院で逗留の帰還中、彼女にペスト感染の兆候は見られなかった筈だ。 それが今頃出てきたとでもいうのか?それとも別の病気か?怪我でもしたのか?何が原因なんだ? ぐいぐいとスカートを引っ張りながらの必死なそれに苦笑しながら、大丈夫ですよと改めて念を押す。 そう、心配する事は何も無い。これは「彼女」である以上、当然のことなのだ。 「案じる必要はありません、自然な事ですから」 安心させるように肩を撫でられ、引き攣る咽喉で喘ぐように息を飲む。 自然な事?何だ、それは。顎に伝った汗を、ぐいと袖で拭う。 「女性なら良くある症状です」 手当ても済ませました。彼女にもきちんと説明しました。誰もが経験する事です。 直ぐに、彼女も慣れるでしょう。 穏やかにそう告げる修道女に、ドイツ騎士団は怪訝に首を傾げた。 救護室のベッドの上、菊は天井を見上げて、深く溜息をついた。 そうか、女なら当然か。知識こそあれ、こうして身をもって体験するまでは、全く頭に思い浮かばなかった。 女の体に今更抵抗は無いが、それでも改めて聞かされると、どうにも妙な違和感がある。 胸まで掛けられた毛布、その上から下腹部をそっと撫でる。 掌に感じるのは、平たく、ぺたんとして、丸みの無い、痩せた身体。 それでもその中身は、間違いなく女の性を持っていたらしい。 そっと目を閉じる。 眩暈と頭痛を担う貧血症状、腹部の痛み、ホルモンバランスに依る情緒不安定。 聞きしに勝る、典型的な女性の月経時の症状だ。 今後は月に一度、この症状と付き合わなくてはならないのか。 それを思うと、今からうんざりと気が重くなる。 捨てた筈のそれを突き付けられたようで、心中は複雑だ。 忘れるな、と。女なのだ、と。そして、お前は命を繋げるべく生まれた、人間なのだ、と。 「…命、か」 人として生まれた以上、自分は次の世代へと命を引き継ぐ資格を持っている。 あの頃、幾つもの人の命を見届け、その世代交代を見守り続けていた。 決して入る事の出来なかった、絶え間無き生命のリレー。 象徴であった当時は夢にも思わなかったが、しかし今、自分はそれに参加する事が出来るのだ。 ここに。この胎の中に。 馬鹿な事を…菊は自嘲するように笑い、軽く頭を振った。詮無い事。己の悲願と、誓いを忘れたのか。 何の為に、ここに自分が居ると思っている。 今はもっと考えるべき事がある。 今回は本部にいたから、部隊長が傍にいたから良かったものの、これが戦場で有れば命取りだ。 これからは、長くこの症状と付き合わなくてはならない。 早急にこうなった時の、有効な対処法を考える必要がある。 古い知識を探るべく眉間に皺を寄せた所で、扉をノックする音が聞こえた。 はい、と返事をすると、そっと開かれた扉の隙間から、こちらを伺う赤い瞳が覗く。 「ドイツ騎士団…」 半身を起そうと肘をつくと、慌ててドイツ騎士団が走り寄る。 ベットによじ登るように身を乗り出し、短い腕を伸ばすと、そのまま横になるように細い肩をそっと抑えた。 「だいじょうぶなのか?」 顔色、悪いな。心配そうに覗き込むドイツ騎士団に、菊は首を横に振った。 「心配ございません、少し休めば大丈夫です」 微笑む菊にドイツ騎士団は眉を潜める。何だか良く判らないが、菊もさっきの修道女と同じ事を言う。 ならば、矢張り本当に心配無いと言う事なのか。そこで漸く、ドイツ騎士団はほっとした。 「ばーか、おれさまをあんまりしんぱいさせるな」 「申し訳ございません」 「じぶんのからだぐらい、ちゃんとかんりしやがれ」 「仰る通りです、面目無い」 「むりしすぎなんだよ、おまえはいつも」 「善処します」 「…ほんとにわかってんのか?」 唇を尖らせる顔に、菊はくすりと笑う。いつもと同じ彼の様子に、何やら拍子抜けしてしまう。 さっきまであれこれ考えていた憂いが、嘘のように拡散されてゆく。ああ、そうか。 喧嘩をしても、気まずくなっても、顔を合わせにくくなっても、結局彼とはいつもそうだった。 「しょうがねえな」 お前は昔っからそうだったよな。 言いながら、丁寧な仕草で毛布を引き上げ、肩が隠れるまで掛けてやる。 菊がまだ小さかった頃、ドイツ騎士団はよくこうして、彼女を寝かせつけていた。 夜泣きが酷かった事もあったし、熱を出した事もあったし、ぐずつく時も、嫌な夢を見た時もあったっけ。 ベットに横になった菊は幼く見えて、見下ろすこの感覚も、何だかあの頃を彷彿とさせる。 同じ事を感じたのだろう。懐かしさに、思わず菊は笑み零れ、ドイツ騎士団もケセセと笑った。 そして、あの頃と同じように、ぽんぽんと毛布の上から胸を叩く。 胸に小さな掌の重みと温もりが乗せられて、穏やかな空気のままに、一拍、二拍…。 途端、ぎょっとその手が引き攣った。 ぎこちないままに手を引いたドイツ騎士団に、菊はきょとんと目を丸くする。 実に判りやすく強張った幼い顔に、首を傾けて瞬いた。 「ドイツ騎士団?」 どうかしましたか?不思議そうに窺う菊に、急にかあっと顔を赤くする。 そして、わきわきと意味も無く掌を閉じ、開き、はっとしたようにそれを背後に回した。 「あー、な、んでもねえ、よっ」 何やらぼそぼそと言いながら視線をうろうろさせ、後退るようにベットの上から身を引く。 あからさまな不自然さに、菊の顔から疑問詞が引かない。 誤魔化すように、ケセケセと笑い声を上げると。 「じ、じゃあ、また、あとでな」 お前の様子を見に来ただけだし、馬も隊もそのまんまで来ちまったし、遠征で体中が埃まみれだし、 それに、あれだ、うん、そうだ、俺様が水でも持って来てやるよ。 視線をあちらに向かせながら、後ろ手のまま、そそくさと部屋を去る様子を、 はあと生返事をしながら見送る。 閉じた扉の向こう側。 扉に凭れ、ぷはあと息を吐き出し、ずるずるとその場に座り込み、 むず痒く唇を引き締め、耳まで赤くなった顔のまま、先程菊の胸を宥めた掌を見下ろして。 「…やわらけえ」 思わず零れたドイツ騎士団のそんな呟きを、菊は知る由も無かった。 朝からの好天気に、会議室から離れたこの控え室の硝子窓は、開放されたままになっていた。 開国してから建築された西洋式建物の公舎、窓から覗く空は長閑で高く、そして嫌味な程に青い。 爽やかな風に髪を梳かれ、日本は天井を映していた瞳を閉じる。 ソファにどっかりと全身を預けたままの姿勢で、重い、とてつもなく重い溜息をついた。 まさかの伏兵だ。こんな事になるとは思わなかった。皆さんに、なんと申し開きをすれば良いのだろう。 師事を仰いでいたあの時、彼は確かに言っていた、国際法に頼るな、と。 国際法は強国の口先で幾らでも変わる、と。小国が主権を守る為には軍事力に頼る必要がある、と。 ええ、あなたの仰るとおりでしたね。 でもまさか、その教えをこんな形で思い知ることになろうとは、思いもしなかったですよ。 彼らの干渉を跳ね退ける力は、未だ三流国と見なされる自分には無い。 列強国の圧力には逆らえない、それが今の国際社会の理だ。 一流国として認められるまでは、どんな理不尽にも、耐えて、耐えて、耐え忍ばなくてはならない。 判っている、それを理解した上で、今まで必死に奔走していたのだ。 でも…本当に、その日は来るのだろうか? 先は遠く、長い。 開国してからこちら、がむしゃらに、必死に、何もかもをかなぐり捨て、世界へ追いつこうと走り続けた。 それでもまだ、その先に追いつく事が出来ない、その先を見る事さえ出来ない。 こんな状態が、果たしていつまで続くと言うのだろう。そして、本当に終わりは来るのだろうか。 頬をくすぐる風を感じながら思考に耽り―――はたと日本は意識を戻した。 気付いたその違和感に、凭れていた身体を起こす。 姿勢を正すと、爽やかな風の流れる窓の外へと視線を向けた。 柔らかな草と暖かい太陽の香りを含んだ風に、別の匂いが混じっている。 関係者以外は立ち入る事の出来ないこんな場所、何故煙草の匂いが入り込むのか。 怪訝に眉を潜め、じいっとそちらを伺っていると、けほけほと小さな咳が聞こえた。 その声に思わず半眼になる。わざとらしい。 気合を入れるように、勢いを付けてソファから立ち上がると、足音を立てて、窓縁に手をかけた。 軽く身を乗り出してそちらを見下ろすと、案の定、予想通りの姿がそこにある。 「よお」 煙草を摘んだ手を軽く上げてこちらを仰ぐ見慣れた姿に、日本は呆れた眼差しで見下ろした。 悪戯じみた、によによとした、子供のような、日本の良く知るその表情。 何を考えているのだ、この人は。 先程の会議室で目にしたあの冷たい無表情との落差に、いっそ憎らしささえ覚える。 師匠、思わず零れた声の低さに自分で気付き、改めるように小さく咳払いした。 「何故、貴方がここにいるんですか」 プロイセンは舌打ちする。 「ドイツの代理だ。最初に言っただろ」 「そうではなくてですね…」 「うるせえな」 迷っただけだ。 たまたまあいつらと離れて、たまたま迷って、 たまたま一服ついたところが、たまたまお前の控え室の前の窓だったんだよ。 そんな偶然あるものか。 ここはプロイセンが以前来日した際に、何度も利用していた場所だ。 しかもこの建築物、ドイツの建築技師を雇い入れて作られたもので、 彼にとっては判りやすい構図をしている筈である。 ちぇーっと唇を尖らせると、不貞腐れたようにプロイセンは煙草を咥え、スラックスのポケットに手を突っ込み、 拗ね者よろしく壁に凭れて前を向いた。 あの会談での彼は、全く関係の無い他人のように近寄り難く、切り捨てるような冷たい表情を崩さなかった。 今後どうやってこの国と接すればいのだろうか、 そんな懸念さえ抱いていたのに、ここにいる彼は全く以っていつもと同じである。 「弁解する気はねえよ」 視線を空から外す事無く、ぽつりと告げる。 新しい今のカイゼルは、領土の拡大に意欲的な人物だ。 特に植民地政策に後れをとるドイツ帝国は、亜細亜や中国進出の機会を、ずっと狙っていた。 現在、その植民地の大きさがそのまま国力に繋がる世界情勢の下、ドイツとて後れをとる訳にはいかない。 「…判っております」 貴方の立場は。ドイツ帝国の立場は。帝国主義を掲げる先進国の立場は。 世界は単純じゃない。たとえカイゼルの野心があったとて、その心のままに行動できる訳じゃない。 自国を守る為にロシアと同盟状態にあるドイツ帝国にとって、取るべき道は一つだ。 そして、この真面目で、厳格で、律儀な人が、どんな理由であろうとも、同盟国を裏切る訳がない。 ここで同盟を無視していれば、寧ろ日本は彼に幻滅していたであろう。 窓枠に手を突いたまま、日本は空を見上げた。 嫌になるほど澄み渡った青を、鳥が長閑な鳴き声を上げて横切る。 今回の戦争は、あくまで最初のとっかかりでしかない。日本の真の脅威は、あの北の大国なのだ。 ようやく外へと目を向けたばかりの小さな島国は、まさに今、ぎりぎりのラインで必死に足掻いている。 そして、世界が畏怖する大国の恐怖を、今正に目の前で感じているのだ。 「日本」 「はい」 「やるんだろ」 ロシアと。 日本は唇を噛みしめる。 現上司は、極端なまでにロシアに対して恐怖心を抱いている人物として有名で、 あくまでも穏便な形での和平を望んでいた。 加えて、公家の流れを持つ彼の方は、極力争いを避ける方へと願っている。 更には、開国から今まで無理をしたしわ寄せは、あらゆる場面で限界が見えた。 自由貿易に参加したばかりの日本に、経済的にも、政策面でも、余裕などは何処にもない。 できることなら避けたい。避けるべきなのだろう。 しかし、世論と現状が許さない。 今回の干渉の件で、更なる反露感情が高まる事は必至だ。 ロシアは戦争をしないと言う。何故なら、自分が望まないからだ、と言う。 つまり、たとえ自分が何をしようとも、どんな無茶をしようとも、どんな自我を押し通そうとも、 どんな思い通りの強行をしようとも、 国力の低い日本は戦争を仕掛けることはないと…彼の大国はそう言っているのだ。 大きく溜息をつくと、がくりと肩を落として力を抜く。それに、プロイセンは視線を向けた。 この位置からは、目尻を下げて笑う日本の顔が良く見えた。今にも泣き出しそうな、気弱な顔だった。 「勝てるでしょうか…私は」 深紅の瞳が細くなる。コラ、何を言ってやがる。 「お前は、東洋のプロイセンなんだろ」 東の俺様と言われる国が、戦う前からそんな弱っちい台詞吐くなんて、有り得えねえだろうが。 馬鹿デカい大国を相手取っても、華麗な戦略と戦術を使って、びしっと勝利出来んだろ。 こう、ズコーンと、バーンと、ガーンと。この俺様がそうだったようにな。 日本は目を丸くする。 東洋のプロイセンと西洋の日本。二国の気質に似通った点が多い事から生まれた、戯言のような渾名だ。 それを聞いた時、日本は酷く嬉しかった。憧れ、師事した国の名を称されたのだ、当然だろう。 しかし同時に、居た堪れない程に申し訳無くも思った。 一流国に名を連ねる彼は、どう感じるのだろうかと気になる。 無力な三流国の名を付随されて、誇り高いこの人が、馬鹿にされたと気を害さない訳が無い。 そう、思っていた。 「西洋の日本たる、俺様が断言してやる」 野蛮国だと馬鹿にされねえように、しっかり憲法を教えた。列強国共に負けねえように、ばっちり陸軍を鍛えた。 その上、この俺が見込んだ優秀な参謀だっている。しかもお前と俺様は、気質が似ているんだろ。 だったら自ずと、答えは一つじゃねえか。 言葉を無くしたまま固まる日本に、煙草を挟んだままの手で、びし、と指さす。 世界中が、日本の敗北を疑わなかった。 日本でさえ、自国が勝てるとは思わなかった。 だが、彼は違った。 「日本、必勝」 自信満々に言い切ると、煙草を咥え、プロイセンはにやりと笑った。 日本さんは、仲直りの仕方を知らないイメージがあります 2011.12.25 |