黒鷲は東の未来より舞い降りる
<17>





条約改正を終え、公的な場所から移動した二人が寛ぐのは、控えの間として用意された小さな応接室。
斜め向かいにソファに腰を据えると、なあなあとプロイセンは身を乗り出した。 うずうずと揺れる肩。どうやら、話したくて仕方がないらしい。それにしてもよお。
「お前、あれはすごかったよな」
あれ?傾く小さな顔に、にやりと笑う。
「あれだろ、海上戦」
皇国の興廃、この一戦にあり―――と謳われた、雌雄を決する日露の海上戦。
世界中が注目していたこの海戦の成り行きを、プロイセンとて同様、固唾を飲んで注視していた。 そんな中、世界を轟かすロシアの大艦隊を、日本は驚くべき作戦で以て、見事に打ち負かしたのである。 しかも、世界史上でも類を見ない程の圧勝、大勝利だ。
「ロシア嫌いの奴ら、諸手を上げて喜んでいるぜ」
ケセセと実に嬉しそうな声を上げるプロイセンに、日本は呆れたように眉尻をさげた。
「仮にも、敗れたのは、貴方の同盟国でしょうに」
同盟国が負けて嬉しいのですか?
「あー、そういや、そうだったかもな」
条約なんぞ、あちこちと結んでいるからな。
地図の上、網目のように細かに交わされる各国の条約の繋がりは、今や随分複雑な模様を作り上げている。 それに拘り、いちいち相手国の顔色を伺っているときりが無い。 条約と言う縄に縛られ、身動きさえ取れなくなってしまうだろう。
それに、所詮は契約上のものだ。 国民感情とは離れた位置付けの、あくまで外交手段の一つに過ぎない。
それは、さておき。
今回の日本の勝利に、それまで帝政ロシアの圧力に苦しめられていた諸国が、大いに喜んでいたのは事実だ。 それだけでは無い。 不敗の徒として世界の頂点に君臨していた白人を日本が破ったというこの大事件に、 長らく白人の侵略を許した有色人国家は強い感銘を受け、 植民地諸国に広がりつつある独立の気運に、新たな活気と鼓舞をもたらした。 断りを前提とした「白人に勝った有色人」とのプロイセンの指摘は、単に二国を示した意味のものだけでは無い。
だが、当の戦勝国の表情は浮かない。
「……ちっともすごくはありませんよ」
硬い表情を崩さぬまま、出された珈琲カップに口を付ける。重い溜息を一つ。
「ロシアさんが戦意を放棄しただけで、私が戦争に勝利した訳ではありません」
あれは、類稀なる偶然の結果だ。 どこまでもぎりぎりの綱渡りであるこちらに比べ、ロシアには充分に余力が残されていた。 相手の取り零しを必死の思いで細々と拾い集め、辛うじて勝利を掬い取ったに過ぎない。
「そう仕向けたのは、お前だろうが」
戦争は、目に映る戦闘だけでは無い。日本は自国の国力を自覚し、最初から短期戦を狙っていた。 その為に、ロシアが戦意を放棄せざるを得ないように、同盟国に協力を要請し、反ロシア国を支援し、 衰えつつある帝政の内部崩壊を促すよう、戦争が始まる前から水面下で奔走を続けていた。 それが日本の作戦であり、謀であったのだ。
そしてこの戦に備え、日本の軍事は大いなる改革を果たした。 兵士の教育や訓練に力を入れ、組織を整え、最新の装備を導入し、新たに開発された情報網の活用等、 様々な手段で脇を固め、確固たる力へと変えたそれは、高く評価されるに値するものだ。
「何より、海上戦でのお前の強さは、誰も文句のつけようがねえよ」
「師匠までそうおっしゃるのですか?」
いっそ自嘲するように、菊は眉尻を下げて苦笑する。
傍目には奇跡の大勝利に見える日本海戦も、あれは勝利して当然のものだ。 何せ、ロシアのバルチック艦隊は、広く大きなユーラシア大陸を回り込んでやって来た。 気の遠くなるような長い航海の最中、対立国からの妨害を受け、 艦隊の損傷も激しく、疲れた乗組員の指揮が下がるのは当然であろう。 それを、全ての準備を万端にした日本が迎え打ったのだ。 寧ろ、そんな艦隊を相手取り、勝てない方が大問題である。
それに……日本は軽くかぶりを振った。
「勝利と言うには、結果がお粗末に過ぎます」
現在、米国を仲介に置き、日露は講和条約の交渉を進めている最中だ。しかし、状況は芳しくない。 余力の無いこちらを見越し、ロシアは未だ継続戦を辞さないという、強硬姿勢を貫いている。 予想の範疇であったものの、このままでは賠償金の獲得さえ危うい。 これが果たして、本当に勝利と言えるのだろうか。
自然、視線が落ちる日本に、プロイセンは唇を引き締めて腕を組んだ。
「お前の対ロシア戦に置ける、最大の目的は何だ」
御託は要らねえ、一言で簡潔に述べろ。顎で示して促す彼の顔は、教えを受けていた師としてのものだ。 反射的に、日本はぴしりと姿勢を正す。
「ロシア帝国の南下防衛です」
日本が最も恐れていたのは、ロシアの南下政策であった。 外交努力に限界を悟り、他国に干渉までして、 日露戦争に踏み切ったのは、偏にかの国の南下に歯止めを掛ける為である。
「その目的は達したじゃねえか」
にい、とプロイセンは笑う。
実際、この日露戦によって、ロシア帝国は南下政策を諦めざるを得なくなった。 日本の対露工作が功を見せ、各地で革命が勃発し、内政の不安定さが露見し、 圧力を受けて苦しんでいた諸国は奮起を促されている。 ロシア帝政の弱体化は、これから更に加速するだろう。 そんな中、彼らの推し進めていた南下政策への余裕は無い。
「だったら、お前の勝ちだよ」
そう、戦争は、目に映る戦闘だけでは無い。
たとえ終戦交渉で目に見えるものが得られなくとも、当初の目的は達する事が出来たのだ。 これを勝利と言わず、何と言おう。
きょとん、と目を丸くしていた日本は、そこで漸くふわりと笑みを滲ませた。 そうだ。何は無くとも、最初に掲げた目的を遂げた事には間違いない。
真正面から向けられた言葉に、照れたように頷くと、ケセセとプロイセンは声を上げた。 そして、くしゃくしゃとその頭を撫でまわす。
「よくやったよなあ、お前は」
力加減と遠慮のないそれに、わあ、と日本は声を上げた。
師匠の御指導のお陰です。当然だ、もっと俺様を称えろ、崇めろ、尊敬しろ。 本当に感謝しております、私一人の力では、この勝利は成し遂げられませんでした。 師匠と、あとそれと……その声にしみじみした響きが込められる。
「イギリスさんの、多大なる協力の賜物です」
ぴくり、とプロイセンは目を細めた。
今回の戦争において、表で、裏で、最も日本側の力になったのは、間違いなく、同盟国であるイギリスであろう。 孤高の栄光を自称する帝国が、多大なる援助を日本に施していたのをプロイセンも知っている。 同盟と言う繋がり以上に肩入れし、日本を前に紳士然とする様子に、 東洋の小国に誑かされた、まるで蜜月のようだ……等と、下世話な揶揄まで囁かれていた程だ。
日本は、簡単に相手を信じる傾向がある。 そして、この世間知らずな国は、一度心を許すと、盲目的なまでに信頼を寄せ、誠実を貫き通そうとする。 腹心などは露程も考えず、一途なまでに相手を盲信する日本の無邪気な素直さを、 プロイセンも身を持って知っていた。
だが、問題はその相手である。
長い欧州の歴史上、プロイセンとてイギリスとは、それなりに見知った間柄だ。 あの利己的で、自尊心と猜疑心の強い、狡猾な二枚舌が、己が利益を絡めず動く程甘くは無い。
それを見抜けず、疑おうとさえしない弟子の浅はかさに、はあ、とプロイセンは溜息をついた。
「お前さあ……」
胡乱な目で日本を眺めると、きょとんと首を傾げてこちらを伺う。 普段はなかなか視線を合わせない癖に、こんな時だけは真っ直ぐに見つめ返す漆黒の瞳。 きっとあのエセ紳士の前でも、同じ顔をしているのだろう。無防備に、無警戒に、無自覚に。
「大丈夫かよ、全く」
「はい?」
「あの変態相手に、マジ、何かされてねえだろうな」
変態? この話の流れからすると、そのなかなか失礼な形容詞は、恐らくイギリスを指しているのであろうと察する。
「イギリスさんは、とても紳士ですよ」
我が国の立場を理解し、三流国と蔑むこともなく、とても誠実に、紳士的に接してくれます。
生真面目な顔で言い切る日本に、プロイセンは一瞬呆気に取られ、言葉に詰まった。 誠実?紳士?何を言っているんだ?誰のことを言っているんだ? もしかして、こいつが口にする「イギリス」は、俺達の認識する「イギリス」とは違う国なのか?
重い、とてつもなく重いため息をつき、がっくりとプロイセンは肩を落とした。 全く。素直で、騙されやすい奴とは思っていたが、 あの七つの海を侵略し尽くそうとする強欲な海賊野郎を紳士と称するのは、 世界広しといえど、この国ぐらいでは無かろうか。これだから、引きこもりの世間知らずは。
「あの、師匠?」
細くはあるが貧弱では無いその肩に手を乗せて、がっくりと力を抜く師匠に、日本は戸惑ったように覗き込む。 その黒い瞳をプロイセンは、実に、実に何かもの言いたげにまじまじと見つめた。
「あのなあ、日本……」
俺だってな。もしも、ロシアとの同盟がなければな。もしも、お前と同盟を結んでいればな。 もしも、こんな立場ではなく、お前と同等の国であるならな。いっそ、こんな象徴じゃなければな。
もしそうなら、あのエセ紳士なんかよりも、どこの国よりも、どこの誰よりも、 ずっと、ずっと、お前をだな―――。
「……何でもねえよ」
この、馬鹿弟子め。
「いたっ」
腹いせのようにその額を指で弾かれて、日本は小動物のような仕草で、目を閉じ、身を竦ませる。
何するんですか、もう。弾かれた額を抑え、恨みがましく睨む顔に、普段の取り澄ましたような遠慮は無い。 きっとあの同盟国には、まだ見せた事が無い顔だろう。
そう思うと、ほんの少しだけ気が晴れて、プロイセンはふふんと笑った。























厳かな空気漂う教会内。通りの良い声が、高い天井を震わせた。
「証人、下がって下さい」
判事の言葉に、胸に手を当てて軽く礼を落とすと、証人は白いマントを翻して台上から降りる。 そして元ある席へと戻り、腰を落とすと、ふうと厳つい肩を上下させた。
戦場で剣を振るうのとはまた違う、独特の緊張感。 張り詰めた身体の力を抜くと、証言を終えたドイツ騎士団隊長は、 心配そうにこちらを伺う隣の幼顔に軽くウインクをした。
裁判、というのは、案外歴史が古い。
法学は非常に早い段階で、その形を確立していた。 そこから生まれた裁判制度は、その原型を殆ど変える事無く後世へと引き継いでいる。 中世には既に、裁判官や弁護士は、インテリ層の職業として存在していた。
尤も、神が絶対であるキリスト教圏に置いて、法律はあくまでも「神の教え」に基づく事が前提である。 故に教会は、宗教の場としてだけでは無く、 神の名に置いて正しき裁きを下す場―――つまり、裁判所としての役割も果たしていた。
その慣例に則り、ポーランドの教会にて執行されたこの裁判。 被告人はヤドヴィガ王妃、審議は彼女の不貞の疑惑である。
「裁判とは言え、半ば形式的なものです」
事前の打ち合わせの中でそう言い切ったのは、ヤドヴィガ王女の弁護を勤める弁護士であった。
裁判と称してはいるものの、まず、被害者の立場たる王に王妃を咎める意図は無い。 しかし、ヤドヴィガの潔白を証明する為にも、王妃に反目するの反対勢力を抑制させる為にも、 広まった噂に民衆を納得させる為にも、「目に見える何か」が必要だ。 その「何か」が、今回の裁判である。
ヤドヴィガの不義の証として最も焦点に挙げられているのは、 元婚約者を一目見ようと、身分を隠してハンガリーへと向かった事件だ。 その際彼女の護衛を務めていたドイツ騎士団は、顛末を知る重要な証人として相応しい立場にある。 ヤドヴィガの証言を裏付ける証人代表として、当時護衛の責任者として務めた部隊長、 彼女の乗る馬車を操った御者、そして彼女を傍で護衛をしていた菊の三人が召喚された。
実は、それに最も懸念を寄せていたのは、寧ろドイツ騎士団側であった。 証人として、裁判へ出席するのに否やは無い。 しかし、ポーランド国内に置いて、ドイツ騎士団の評判が頗る悪い自覚がある。 反感を向けられる自分達の証言が、果たして説得力を持つのか疑問だ。 寧ろ、友好的な感情を持つ、ハンガリー人を召喚した方が無難ではないかと推測する。
しかし、それが出来ない理由があった。
ハンガリーには、ポーランドに同君連合の野望を抱いている者が存在する。 ヤドヴィガの実姉が嫁いだハンガリー貴族も、その一人であった。 しかも、今回ヤドヴィガ王妃の不義を表沙汰にしたポーランドの貴族は、 彼らと繋がりがあるのではないかとの疑いがある。 そんな情報のある中、ハンガリー人に協力を求めるのは、危険であると判断されたのだ。
不安要素が重なる状況下。
「うちの弁護士、すっごい優秀だから。心配しなくていいしー」
絶対に大丈夫だから。全部、弁護士に任せてくれて問題ないし。自信満々に、ポーランドはそう言い切っていた。


「それでは最後の証人、前へ」


立ち上がる姿に、自然集まる視線。 数拍の間を置くと、場内にさざ波のようなざわめきが広がった。
新たに呼ばれた証人は随分と小柄だ。 黒十字の入った白い装束から、ドイツ騎士団の所属の者であろうとは判る。 だがしかし、判事の控える壇上へ向かうその容姿に、誰もが疑問符を投げざるを得なかった。
異民族、女、子供、まさか、あのドイツ騎士団が……端々から零れる単語を背中に聞きながら、 証人は判事の示す聖書へと手を乗せ、証人喚問前の誓いの宣誓を告げた。そして、示された証人席へと立つ。
収まる気配の無いさやさやとささやかれる声を、裁判長は軽い咳払いのみで制した。
「証人、名前を」
「ドイツ騎士団に臨時騎士団員として所属する、菊です」
声は細く、高い。訝しげな空気が、更に濃度を増した。
騎士団員?ドイツ騎士団の異教徒嫌いは名高い。 幼さこそはまだ理解できるが、あの容姿、どう見ても異民族の血を引いているのではないか? しかも、男しか入団出来ない筈の修道院騎士団に、何故女である彼女が属している?
「証人喚問を始めます」
裁判長の声に弁護士が頷くと。
「答弁の前に、質問があります」
挙手したのは裁判官の一人だ。裁判長の諾を得て立ち上がり、証人席の菊を眺める。 確認ですがと前置いて、この場で見守る聴衆の疑問を代弁した。
「失礼ながら、証人は女性ではありませんか」
きたか、と菊は息を飲む。
異端の存在である菊は、この裁判の間、必ずどこかでその指摘を受けるであろう。 上げ足を取るように、そこに付け込もうとする輩もいるかもしれない。 その心積もりと覚悟をしておいて欲しい……最初の打ち合わせの段階から、弁護士にそう伝えられていた。
ちらりと視線を向ける菊に、弁護士は軽く頷き、判事へと向き直る。
「確かに。彼女は正真正銘、女性の騎士団員です」
きっぱりとした声に、場内に戸惑いが広がる。ざわめく会場に、静粛に、裁判長が声を上げた。
弁護士は小さく咳払いすると、一度ぐるりと会場を見回す。
「彼女は、戦災孤児でありました」
戦火に巻き込まれた村でドイツ騎士団に拾われた彼女は、 修道院に引き取られ、育てられ、異民族の血筋ながら、模範的で敬虔な信者となりました。 そして、自らの命を救ってくれたドイツ騎士団に報いようと、勉学に励み、剣術を身につけたのです。 その健気で強い意志と努力を認められ、特例として騎士団への入団が許されました。 菊の生い立ちや入団の流れを、弁護士は簡潔に説明する。
「しかし、所詮は少女ではないか?」
世俗騎士団でもあるまいし、無力な少女を入団させて何の意味がある。 暴力に晒すだけに過ぎず、それこそ罪にはならないのか? 寧ろ、神の僕と銘打ってはいるが、凶暴なドイツ騎士団が、果たして彼女に何をさせているのやら。
薄笑いを浮かべての卑下た意見に、弁護士は理知的な眼差しを向ける。
「ドイツ騎士団の黒鷲の守護神、との噂を御存知ありませんか」
不思議な武器を操り、目にも止まらぬ俊敏さで敵を翻弄する、凄腕の騎士がドイツ騎士団には存在します。 その姿はまるで、ドイツ騎士団を護る為に天から遣わされた、漆黒の翼を持つ勇敢な鷲のようだと。 そんな噂、ポーランド国内でも聞いた事はありませんか。
弁護士は、教会内の聴衆席を振り仰ぐ。ざわめく中、ああ、と頷く頭が幾つか見えた。 そう言えば。聞いた事がある。いやまさか。作り話じゃなかったのか。 届くそれらの声に、弁護士は鷹揚に頷く。
「彼女こそがその、黒鷲の守護神なのです」
ざわ、と会場が沸いた。勿論、極一部の者しか知らぬ噂だ。しかし、ここから更にその噂が広がる。
そんな凄腕の騎士がいるのか。何でも、特別な依頼の時にのみ参加するとか。 つまり、ドイツ騎士団は、特別な依頼としてポーランド王妃を守ったのか。 そう言えば、前のハンガリーの防衛にも、黒鷲の守護神がいたらしい。 あれは、ハンガリーを侵略したのでは無かったのか?いや、それが、本当は違うらしいぞ。
「静粛に」
裁判長は大きく木槌を叩く。やがて静寂が戻るのを確認すると、裁判長は証人席へと視線を向けた。
「証人、それは本当ですか」
はい、か、いいえ、で答えなさい。促され、大仰な形容詞を否定したい気持ちを何とか押し留め。
「はい」
頷く菊に、会場からは溜息が零れた。それに居た堪れず、身を竦ませて。
「あの、でも、そんな大袈裟なものでは無くて……」
あれは、単純に視覚的にそう見えただけで、そんな大層なものでは無くて、あくまで人伝に誇張されたもので。 恐縮する菊に、弁護士はにこりと笑う。
「守護神は、謙虚な性分の持ち主のようだ」
軽く肩を竦めておどけたそれは、聴衆へ向けられたものだ。どっと会場が沸く。
響く木槌に笑いが収まると、改めて弁護士は裁判長へ向き直った。
「御存知のように、我がポーランド国内に置いて、ドイツ騎士団の評判は芳しくありません」
ドイツ騎士団は異教徒に対して非常に厳しく、その振る舞いは暴虐でさえあります。 しかし同時に、こうして彼女のように無垢な存在には、寛容な救いの手を差し伸べております。 異民族であり、女性であるにも拘らず、その信仰心を正しく認め、受け入れる面を持っているのです。
本来、ドイツ騎士団がこの裁判に参上することは、屈辱でもあるでしょう。 何故なら、この件の依頼に関して、ドイツ騎士団は果たす事が出来なかったという失態を公にする事に繋がります。 にも拘らず、彼らはこうしてこちらの召喚を引き受け、我らがポーランド王妃の潔白を証明しているのです。 彼らの不利になる事こそあれ、得るものなど何もないと承知の上で。尊き真実を明確にする、その為だけに。
「神の騎士たる彼らの証言に、嘘偽りなどあり得ません」
そんな彼らの証言は、信頼に値するものである。私はそう、断言します。
響くその声は、聞く者の耳に強く印象付け、押しつけでは無い共感を覚えさせる力を備えている。 感情に訴えるのではなく、根拠を提示した上での意見の主張には、充分な説得力があった。 自然、同意を示す拍手が聞こえてくる。
それが収まるのを見計らい。
「では、証人喚問に移らせて頂いてよろしいでしょうか」
鮮やかな弁論と、説得力のある論理と、聞く者の心を掌握する話術。 会場の空気を読み、自分のペースへと引き込む術の巧みさ。見事な一連の流れに、菊は内心で驚いた。
最初に紹介された時から、ポーランドとヤドヴィガが、彼に対して全面的に信頼を寄せているとは感じていた。 成程、まだ青年と呼べる年齢であろうにも関わらず、ポーランド王妃の弁護人という大役に抜擢される訳である。 なんでも、プラハ大学で学士を得て、ポーランドでも屈指の秀才であるとか。
名前は何と言っただろうか……確か、パウエル。パウエル・ウラディミリ。


そう。
ポーランド語で、パヴェウ・ヴウォトコヴィツ。











待ち合わせは、国境際の森の外れにある小さな町だ。
その入り口、煉瓦造りの強固な外壁門の傍ら。 麗らかな午後の陽ざしを頬に受けながら、漸くやって来た気配に、ハンガリーは視線を上げた。
盛大な溜息を一つ、預けていた背中を起こすと、組んでいた腕を腰に当てる。
「遅いぞ、てめえ」
目の前までやって来ると、手綱を引き、ひらりと馬の背から飛び降りた。
「わりい」
一応彼なりに急いでは来たらしい。馬の疲れ具合と、息せき切ったような様子からそれが窺える。 何だかんだと言いながら、ドイツ騎士団はきっちりした所があって、こうして時間に遅れる事は滅多にない。
それにしても。目の前に立つドイツ騎士団の様子に、思わず顔を顰めた。
黒十字の入った服は、見るからにぼろぼろだ。 白いマントには、泥と、埃と、所々にどす黒い染みがついている。 髪もくしゃくしゃで、頬には新しい傷が増えていた。確か、北欧遠征とか言っていたな。 この様子では、戦果は芳しいものでは無かろう。
「大丈夫かよ、お前」
流れる汗を袖で拭うと、へっとドイツ騎士団は鼻でせせ笑う。
「たいしたことねえよ」
そんな事より、自分の心配でもしてろってんだ。 唇の端を吊り上げる小生意気なそれに、むっとハンガリーは目を据わらせて見下ろした。 ほんっと、可愛くねえな、こいつ。
舌打ちを一つ、馬の手綱を引きながら、二人並んで歩く。
「で、ポーランドから連絡は来たのか?」
「おう、たぶんいまごろは、さいばんのまっさいちゅうだな」
予定調和の裁判になるであろうとは聞いている。双方の事情も相俟って、長引くものではない筈だ。 ポーランドもああ言っていたし、恐らく、遅れて向かう自分達が到着する頃には、決着はついているだろう。
「そうそう、あいつもいっているぜ」
多分、聴衆席で記録を取っている筈だ。ほら、プルツェンラントの。言われ、ああと頷いた。 ペスト事件以降ドイツ騎士団に心酔し、入団を果たした幼い少年を、勿論ハンガリーも知っている。
「あいつはどうだ」
ちゃんと、上手くやっているか?
「ああ、よくやってるぜ」
元々、頭の良い子供だ。 本人の希望もあり、今は剣術訓練の傍ら、修道士から語学やカノン法を学ばせている。 その勉強の一環として、今回のポーランドでの裁判を傍聴するように、 証人として呼ばれた菊達に同行させていた。
そうか、ハンガリーは目元を和ませた。 今はドイツ騎士団所属とは言え、ハンガリー出身のハンガリー人には違いない。 自国の人間が、こうした待遇を受けて一生懸命に励む話は、ハンガリーとしても誇らしかった。
「あいつを頼むな」
「まかせとけって」
ばっちり任されて、優秀な騎士団員に育て上げてやるぜ。 ケセセと笑い声を上げながら、ドイツ騎士団は拳で隣に並んだその腕を小突いた。
「ってー……っ」
途端、顔を顰めて、大仰にハンガリー身体を折る。その反応に、ドイツ騎士団は瞬いた。 え、俺様そんな力入れたっけ?つか、腕を小突いた筈なのに、なんで胸を抑えているんだ?
「なんだ、けがでもしてたのか?」
「いや、なんでもねえよ」
怪我なんかしてねえから。 どうやら、小突かれた拍子に、自分の腕で自分の胸元を圧迫したらしい。 苦笑を返すが、じいっと見上げてくる目に誤魔化す事も出来ず、視線を彷徨わせた後。
「……俺、病気かもしれねえんだ」
はっとドイツ騎士団の顔が強張る。ペストの件があっただけに、病気という単語には敏感だ。 それに、ハンガリーはそうじゃねえよと首を振った。 そんな、深刻なものじゃねえけどさ。抑えた胸元に視線を落としながら。
「最近、すげえ胸が痛くてさ」
特に熱あったり、身体がだるい訳ではない。ただ、ふとした時……例えば今なんかもそうだ。 妙に胸が敏感で、軽い衝撃を受けるだけでも、ずきずきとした痛みが走る。 こんなの、聞いた事が無い。 ペストも鎮圧したと言うのに、もしかすると未知の伝染病にでも掛かったのろうか。
不安げに視線を落とすハンガリーの横顔に、ドイツ騎士団は瞬きを繰り返す。 見慣れた筈のそれに、奇妙な違和感が沸いた。あれ?こいつこんなに線が細かったっけ。 首から肩にかけての曲線が妙に柔らかい。纏め髪の後れ毛がかかる、すんなりとしたうなじ。 それが綺麗だなと思った瞬間、そんな自分の発想にぎょっとする。
おいおい、こいつはハンガリーだぜ。何考えてんだ、俺様。 ぶんぶんと首を横に振ると、誰にともなく誤魔化すように、ドイツ騎士団はケセセと高笑いをした。
「おっしゃ、じゃくてんみっけ」
そうか、ここが痛いのか。によっと笑うと、さわさわさわとハンガリーの胸に手を当てる。 当然ながら、遠慮なんて微塵も無い。
「あ、てめー。不意打ちとは卑怯だぞっ」
あとで城裏に来いや、こら。ぽこぽこ怒るハンガリーに、いじめっ子よろしくふははと笑う。 いい気味だ。この間だって、助けてやったってのに、悪評流しやがって。
しかし、その感触にぎくりとした。
って、あれ、これって……。 掌の下、慎ましやかながらも主張するのは、丸みのある膨らみと指が沈むような柔らかさ。 それを悟ると、ドイツ騎士団はぎこちなくその手を引っ込め、視線をゆらゆらさせる。 あー、これはあれだな。うん、たしかにあいつの胸も、こんな感じだった筈。 うん、間違いない。えーと、あああ…。
そのあからさまな動きに、ハンガリーは片眉をつり上げる。
「あ、えっと、これは、あれだな……」
そうだ、ベッドの上で横になった菊の胸。 宥めるつもりでぽんぽんと叩いたそこには、確かにこれと同じ丸い柔らかさがあった。 つまり。これは。あれだ。もしかして。もしかすると。まさか。うそだろ。 妙な汗をかきながら、ドイツ騎士団は確かめるべく言葉を探す。
「あー、その一つ聞くけどよ」
ん?と向けられた見ようによっては、無垢なその顔に。
「おまえ、ちんちんついているか?」
それに、ハンガリーははっと小馬鹿にするように笑った。おいおいお前、何言ってんだよ。いきなり。
「あったりまえだろ」
あっさりとしたそれに、ほっとする。
「あ、ああ。有り得ねえよな。絶対ねーよ」
まさか、お前が女なんて。ほっと肩の力を抜いた。その様子に、はははとハンガリーは笑い飛ばす。
「俺のちんちんなんて聞いて、どうすんだよ」
ホント、馬鹿だなお前。ちっちぇえ事、気にすんなあ。まあ、安心しろって。 お前はいつまでたってもチビだから、気になるかもしれねえけどな。豪快に笑い声を上げて。
「大きくなったら、皆生えるもんだからよ」
なんだって。
ぎょっとドイツ騎士団は顔を引き攣らせた。おいこらちょっと待て。何だ、その知識は。 つーか、俺様そんなの初めて聞いたぞ。
「なんだよ、お前知らなかったのか?」
もー、超ガキだなあ。呵々と笑い声を上げるハンガリーに、ぱくぱくと口を開く。 いや……ちがくてよー、あのなあ、ちんちんって。
「おいハンガリーっ」
ちょっと聞け。お前、それ違くてだな。 意を決したように顔を上げるが、既にハンガリーは背中を向けて、馬に手を掛けている。 あーあ、と笑いを落ち着けながら。
「あーもーお前って、変で面白いよな」
こうやって笑い飛ばしてしまうと、こんな心配も、随分小さい事のように思えるから不思議だ。 なんか痛いのも治ってきちまったよ。 ああ、そうか。こいつなりに気を使ってくれたのか。納得すると、ハンガリーは軽く肩を上下させた。
手綱を握ると、ひらりと軽い動きで馬に乗る。
「話きいてくれて、ありがとな」
馬上から照れ臭そうに笑ってこちらを見下ろす顔に、ドイツ騎士団は不思議な者を見るような心地になる。


「今日の事は二人だけの秘密な」
「男同士の約束だぞ」


軽く片目を閉じる仕草は、果たして男らしいと言うべきなのだろうか。





「ほら、行くぞ」
ぼーっとしてると置いてくぜ。てめえよりも先に、菊ちゃんに会ってやるからな。 マントを翻し、颯爽と馬を駆けるその後ろ姿に、伸ばした手が宙で行き場を失う。
神様。俺、悪いことしたかも。
開いた両手を見下ろし、よみがえる感触を打ち消すように、わしゃわしゃとその掌で頭をかき回す。 マジかよ。どうしよう。一人で悩むの、辛すぎるぜ。
途方に暮れながら、心の中で十字架を切り、そっと懺悔の言葉を呟いた。








裁判に関しては、佐藤賢一氏の「王妃の離婚」を参考
コミックスで俺様日記のこのシーンを読んだ時
「あ、これは初めて触った反応じゃないな」と思いました
2012.03.28







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