黒鷲は東の未来より舞い降りる
<18>





真っ直ぐに伸びた廊下。あちら側とこちら側から近付く、規則的な靴音。 それが、T字になった曲がり角の手前、対称の位置でぴたりと同時に止まる。
交差する視線は、翡翠と紅玉の彩り。軽く瞠られたそれぞれは、互いの姿を認識すると、同時に潜められた。
「なんで、てめえがここにいるんだよ」
ここはてめえの国でも、てめえの大使館でもねえだろうが。 軽く顎を突き出す仕草を受け、不愉快に鼻の頭に皺を寄せる。 しかし直ぐに小馬鹿にした、何処か余裕を持たせた笑みを返した。
「あいつを迎えに来たんだ」
今、こっちは物騒だからな。 今後の事もあるし、あいつは俺の国に来て話し合い、その後帰国する予定なんだ。 同盟国に配慮するのは、紳士として当然だろう。
胸を張って告げる彼に、ふんと鼻を鳴らす。何が紳士だ、聞いて呆れるぜ。
ドイツ在中の日本人は一時帰国するように、本国より通達が届いていた。 勿論、日本大使館職員も同様である。 つい先程、日本自らが直接ドイツの元へとやってきて、その旨を伝えに来たのだ。
先日発生したサラエボ事件以降、急速に欧州に広まる不穏な状況を、当然亜細亜諸国も肌に感じている。 皇太子を暗殺されたオーストリアが宣戦布告をすれば、軍事同盟を持つドイツはその戦闘に参加する立場にある。 自国の職員の安全の為にも、他国間の戦争に巻き込まれない為にも、当然の処置であろう。
「つーか、それは俺の台詞なんだよ」
「あ?」
「なんで、お前がいるんだ」
嫌に強調しながら、同じ言葉を繰り返す。
「なんで、いる」
何故、お前が、ここに、この場に、この世に、存在する。
白磁のかんばせから、静かに表情が消えた。 普段はうっとおしい程に感情を剥き出す癖に、こうなればまるで彫刻に対峙するように無機質になる。
それをどう取ったのか、紳士らしからぬ舌打ちを一つ。据わった目には、薄暗い敵意が満ちていた。
「お前、目障りなんだよ」
いちいち鼻につく。
過去にあいつに教授したのは、何も一国だけじゃない。 アメリカも、フランスも、オランダも、中国だってそうだろう。 なのに、あいつはお前に傾倒する。特別な目でお前を見る。いつだってそうだ。
「言っとくがな。あいつが一番大変な時に力を貸したのは、この俺だ」
先の対ロシア戦、かの大国に圧勝した海軍を教えたのは、他の誰でも無い、俺なんだよ。それだけじゃない。 有利になるような情報を流し、ロシアの同盟国に圧力を加え、戦艦に必要な石炭の輸出をコントロールし、 最大限に協力してやった。全ては、あいつがロシアに勝つ為にな。
吐き捨てるような宣言を、何処か冷めた心地で見返す。何言ってんだ、こいつ。
「馬鹿じゃねえの」
平坦な響きしか乗せない、抑えた声。
「背中を押したのは、てめえらじゃねえか」
着実に力を付け始めたあいつの立場を利用し、自分達にとって面倒で目障りな大国の弱体化を狙ったのは、 今や世界に君臨する二大国様じゃねえのかよ。
「俺達にとっても共通の敵だったまでだ」
「ものは言い様だよな」
にやりと口角を吊り上げた。
確かにお前らは、あいつの勝利を願ったんだろうな。人の良い顔を見せて、せっせと援助したんだろうな。 そうじゃなきゃ、自分達が戦い、消耗する事になっちまうもんな。 嫌だよな、自分の手を汚すのは。誰かを利用し、誰かにやらせた方が楽だもんな。 世間知らずで疑う事を知らない国が、自分を無心に信じ切り、思い通りに、寧ろ期待以上に働いたんだ。 なあ、それってどんな気分だったよ?流石は二枚舌がお得意な紳士様だ、俺様にゃ真似できねえや。
感心したように肩を竦め、そして忌々しく顔を顰める。
「……反吐が出るぜ」
気付かないあいつを、何処まで利用するつもりだ。
淀んだ緊張感。反論は必要ない。 事実はそこにあり、 それは各々の立ち位置によって変形し、肌や瞳や髪の色によって変色し、信じる神によって転換する。 それが歴史だ。繰り返される戦乱の過去、互いはそれを身を持って知っている。
溜息をつくと、翡翠の目を片方細め、ゆるりと腕を組んだ。
「だったら、お前もあいつを巻き込むなよ」
今回の件は、スラブ民族とゲルマン民族の対立の図式が成り立つ。 アングロサクソンであるこちらにとっては無関係の対立であり、ましてや極東の単一民族国家にとっては、 何が問題になったのかさえ理解し兼ねるであろう。
「まあ、お前の気持ちは判るがな」
自分の全てを掛けて育てあげた、可愛い最愛の弟だもんな。守りたいよな、助けたいよな、力になりたいよな。 そんなお前が、何よりも最優先させている「大切な弟を守る為」に、 「自分の過去の弟子を利用する」なんて、誰もが想像の範疇だ。
大仰に両手を広げ、薄笑いのまま続ける。なあ、知っているか。
「情報ってのはな、受け取り方によって随分と変わるもんなんだよ」
今だってそうだ。お前に取っちゃ、単に昔の教え子の顔を見に来ただけかも知れねえ。 だけどこんな状況下、誰が、何処まで、それを信じると思う? 国と―――今はもう地図上に存在しないが―――国の代理としてまだ名の残る象徴だ。 公的でないこの接触、軍事の協定だとか、協力の同盟だとか、 不介入の条約だとか……そんな打診の可能性だって、充分に有り得るよな?
お前の「個人的」な何かが、あいつを無関係な戦争に巻き込み、 大切な弟に要らぬ疑惑を抱かせる場合だってあるんだぜ。 翡翠の瞳が、実に楽しそうに弓を描く。
「お前も言ったよな、ものは言い様だって」
そうさ、その通りだよ。こちらが得た情報が、果たしてどんな形で相手に、各国に伝わるんだろうな。
俺の国の情報網、なめんじゃねえよ。























招待されたのは、ヤドヴィガ王妃が個人的に利用している離宮であった。 王族の城にしてはややこじんまりとしたそこには、 彼女にとって特に親しく、極限られた者のみが招かれるらしい。
そんな私的な場所で、ささやかなパーティーが催された。 今回彼女の裁判に関わった各々への、その感謝と労いを込めたものである。
「よお」
待たせたな。パーティー前の控室、漸く登場した我らが象徴の姿に、ドイツ騎士団員達は振り返る。 マントをひらめかせながら走り寄るその後ろには、ハンガリーも続いた。 今回の謝恩パーティーの招待客として、共に呼ばれたのだ。 集団の中にいるプルツェンラント出身の団員と目が合うと、よお、と片手を上げた。
お久しぶりです、ハンガリーさん。元気そうだな、おっきくなったな。 今日は正装なんですね。そうか、お前は見たこと無かったか。 はい、ハンガリーさん、なんだか王子さまみたいです。
にこにこと交わされる会話を耳の端に、複雑な内心を隠し、ドイツ騎士団は騎士団員達を見上げる。
「きかせろ」
促すと、隊長はここまでの経緯を簡潔に報告した。
裁判閉廷後、間もなく判決が決まった。 ヤドヴィガ王妃がヨガイラ王の前、聖書に手を乗せ、生涯の貞節を誓う事で一応の終結を見せる。 騒動を見せた疑惑の裁判ではあるが、しかし教会という開かれた場所で行われた公開裁判は、 逆に民衆に公明正大な印象を与え、彼女の不義疑惑を払拭した。 更には、彼女を許した王の寛容さも好印象を残す。
ドイツ騎士団の証言も、弁護士の後押しにより、正しく判断されていたようだ。 特に懸念していた菊への偏見さえ、寧ろ健気で献身的な信仰者として、好意的に受け取られていた。 全て、最初に想定していた通り、丸く収める事が出来たようである。
そうか。報告に、ドイツ騎士団はほっと口元を緩ませた。
「で、そのキクちゃんは?」
一緒に話を聞いていたハンガリーの問いに、騎士団員はああと笑う。
「ヤドヴィガ王妃に呼ばれ、着替えの手伝いをしていますよ」





着替えの手伝いと称するものの、王妃には相応の侍女が備わっている。 普段から簡素な修道服、もしくは男性用の衣服しか纏わない菊が、手伝えることなど何も無い。
つまり、手伝いとはあくまで建前。極私的な時間を共有したいが為の、後付けの名目であった。
「パヴェウが、貴方にとても感謝していました」
勿論、私もです。華やかな装飾の施された鏡台の前、侍女に髪を梳かれながらヤドヴィガは微笑む。 鏡越しの視線に、菊はとんでもないと首をぶんぶん横に振る。
「菊は、ヤドヴィガ様のお役に立てた事を、心より嬉しく思っております」
一介の兵士にはあまりに不相応な、豪華なソファの上。 申し訳なさそうに恐縮する様子は、何処か必死で、裏が無く、あどけない。 素朴な性分がそのまま滲み出るような所作に、室内にいた侍女達から柔らかな笑みがこぼれる。
ポーランド内でのドイツ騎士団の評判は、粗暴、野蛮、傲慢、不作法と、兎に角悪かった。 そんな中、菊の振る舞いはあくまで謙虚で、立場を弁え、相手に対する敬意を忘れない。 それを胡散臭く見る者もあったが、その礼儀正しさを否定する者はおらず、 特に直接応対する者に対しては、何かしらの好感を与えていた。
「今回、ドイツ騎士団の皆様にお願いしたことで、良い切欠が出来たと思っております」
この裁判と前後するように、ヤドヴィガはドイツ騎士団の総長宛てに書簡を送っていた。 内容は、ポーランドとドイツ騎士団との、和平交渉会議の申し出である。 ドイツ騎士団側は現在検討中との表明を打ち出しているが、恐らくは承諾されるであろう。
この提案をヤドヴィガに進言したのが、実はパヴェウであった。
少し考え、恐れ入りますがと前置いて。
「パヴェウ氏とは、どういった人物なのでしょうか?」
今回の裁判、当初ドイツ騎士団を証人にするには、反対意見が多数であったらしい。裁判に負けは無い。 しかし恐れたのは、公開裁判に聴衆に来る一般民衆だ。ポーランド内でのドイツ騎士団の評判から、 彼らを呼ぶ事によって、王妃ヤドヴィガの印象を損なう可能性がある。
そんな意見が交わされる中、ドイツ騎士団を、そして敢えて菊を推挙したのは、パヴェウであったようだ。
菊自身が、彼と直接会話を交わす事は多く無かった。 それにしても、彼には何かしら、ドイツ騎士団に対する因縁のようなものが感じられる。
少し視線を落とした後、ヤドヴィガは改めたように、身体ごと菊へと向き直る。
「彼は……パヴェウは、ブルゼニの出身なのです」
聞き覚えのある地名に、菊は唇を引き締めた。
ブルゼニはポーランドの北部、マゾフシェ地方にある村の名である。 そこは、ドイツ騎士団が推し進める東方植民の、最も激しい地区の一つでもあった。
菊は今まで、東方植民への戦闘に参加をした事が無い。ただ、その戦いの凄惨さは話に聞いている。 やったから、やり返す。復讐が、更なる憎悪を生む。 そんな暴力の連鎖が止まらない泥沼のような戦闘は、今も現在進行形で続いている。 貴族出身のパヴェウは、そんな彼らの脅威を目の当たりにしている筈だろう。
しかしその彼が何故、こうしてドイツ騎士団とポーランドの間に立つような立場を取るのか。
「彼はとても優秀な学者で、そしてとても革新的な思想を持っております」
革新的な思想?首を傾げる菊に、こくりと頷いて。
「異教徒も異民族も、全ては同じ人間であると、彼は考えております」
だからむやみに各々の領分を侵す事は罪であり、虐殺の対象にするべきではないというのが、彼の主張なのです。
日本の記憶を持つ菊にとっては当然の思想であるが、しかしこの時代では違った。 人種や宗教が入り乱れ、異民族からの侵攻が横行する時代、 「自分達と違う」ことは、「野蛮である」と見なされる。 姿が似ていようとも、文化も、習慣も、考え方も、信じる神さえ違う蛮人が、自分と同じであるとはみなされない。 人権や、平等や、権利とは、あくまで「自分達と同じ」ものにのみ与えられる。
そんな中、パヴェウの打ち出す思想は、間違いなく新進的なものであった。
「パヴェウにとって、貴方の存在は驚きだったのでしょう」
軽蔑し、嫌悪さえさえしていた騎士団の中に、宗教という括りこそあれ、 どう見ても異民族、しかも少女である存在が、きちんと受け入れられ、認められ、活躍している。 パヴェウはそこに、己の目指す思想の具現を見出したのだ。
「確かに私たち、互いの願いは違います」
ポーランドとドイツ騎士団。それぞれには、それぞれの立場と、決して譲れない事情がある。
「でも、共存できる道もあると、私は信じております」
告げる眼差しは、深く、そして美しい。
真実、強い方なのだ。そして、聡明で、優しく、慈悲深い。 まだ年若いとはいえ、彼女は既に、立派なポーランド国の王なのである。
目の前で穏やかに微笑む彼女に、菊は眩しく目を細め、そして大きく頷いた。


「ところで、キク」
「はい」
「私としては、こちらが良いと思うのですが」
そして、それに合わせて、こちらかこちら。 もしくはこちらか、それとこちらとの組み合わせなどもお勧めなのですが。貴方はどう思いますか?
ころりと変わった口調に、先ほどまでとは違う、無邪気さを滲ませた笑顔。 ヤドヴィガの隣で楽しそうに侍女が広げたそれを眺め、菊はぱちくりと瞬く。
そして、疑問符を抱えるままに、曖昧な笑顔を浮かべた。











優雅で心地好い、流れるようなオーケストラの音楽。柔らかに周囲を照らし出す、あまたのシャンデリアの光。 独特の甘さを含んだ、質の良い酒の香り。まるで蝶か鳥のように行き交う、華やかな衣装を纏った男女。
浮き立った空気に満たされるパーティー会場の中、 黒十字の衣装を纏う修道院騎士団の一行は、やや浮いた存在になっていた。
「何だか、場違いですよね」
そわそわと俯く少年団員に、部隊長は気にすんなと笑う。
仕方あるまい。共にいるハンガリーなら兎も角、 本来ならばこのような類の世俗的な場は、修道士騎士団という立場上、辞退をして然るべきである。 しかし今回は、ポーランド王妃より直接賜った正式の招待だ。 彼女から打診された和平交渉会議の件もあり、今後の相互関係も考慮した上で、 厚意を受け取るのが礼儀と判断したのである。
「ひかえしつにいててもいいぞ」
あんまり居心地が悪いようなら、そこで休んでいても構わない。
最初から、自分達がこの場にそぐわない事は了承済みだ。 あちらから、こちらから、ちらちらと向けられる視線には、 単なる物珍しげな好奇心だけでは無い、中にはあからさまに悪意と侮蔑を含んだものも混じっている。 注目を好まない菊の事もあり、事前に控室という名の避難場所を所望したのはその為だ。
少し考え、しかし少年騎士団員はいいえと首を横に振る。 きりりとしたその面構えに、ドイツ騎士団がふうんと笑ったところで。
「あー、いたいたーっ」
お待たせしたしー。
ぶんぶんと手を振るのは、正装をしたポーランドであった。 ドイツ騎士団達の元へと駆け寄ると、えーっと唇を尖らせる。
「もー、折角ヤーヤが衣装を用意してたのに、皆着てないしー」
清貧を常とする修道院騎士団に対し、ヤドヴィガはそれ相応の正装の準備も配慮していた。 しかし騎士団員たちは皆、それを辞退したらしい。
「いーんだよ、おれたちはこれで」
これが俺達の正装なんだからな。 ばさりと白いマントを翻して胸を張るドイツ騎士団を、ポーランドは面白くなさそうにちぇー、と睨む。 折角俺も一緒に選んだのにー、ピンクの可愛い奴もあったのにー、マジ有り得んしー。
「つーか、キクはいっしょじゃねえのかよ」
王妃に呼ばれて、お前と一緒に来るって聞いたぞ。 顔を顰めるドイツ騎士団に、あれ?とポーランドは自分の背後を見遣る。 後ろについて来ていると思っていた姿がそこに無く、えーっと声を上げた。
さっきまで一緒だったのに、なんなんよ、もー。 きょときょとと周囲を見回し、そしてあちらの柱の影に隠れる姿にあーっと指をさす。
「もー、キクっ」
肩を怒らせてずんずんと近付くと、がっしとその手を取り、柱の向こうから引っ張った。 ほら、いい加減観念して、一緒にこっちに来るしー。皆にちゃんと、その姿を見せるんだしー。
引きずられ、柱の陰から登場したその姿に、あっと一同は目を瞠った。
瞬きをしながら、部隊長が問う。
「―――キク、なのか?」
「は……は、い」
微かに震える小さな声。俯く顔は、耳まで真っ赤に染まっている。
恐縮しきって肩を竦める菊が身に纏うのは、華やかで、豪華で、可愛らしいドレスであった。
柔らかみのある色は、彼女の独特の肌色に良く映え、黒髪の艶やかさを引き立てている。 襟ぐりはやや広めであるものの、全体の肌の露出は抑え気味で、慎ましくも若々しいデザインだ。 少年のように短い髪も、長さが気にならないよう、凝った髪飾りがあしらわれていた。 どうやらヤドヴィガが、彼女の為に用意したものらしい。
「わ、私は……その、お断りしたのですが……」
それでも、ヤドヴィガがそれを許さなかったらしい。 抵抗する彼女に、折角似合うと思って用意したのにと絆され、 寧ろドイツ騎士団の正式装束を纏った方が目立つと説得され、結局折れる羽目になったのだ。
確かに王妃の判断は賢明だろう。しかしこれは、別の意味での注目を集めるかもしれない。
普段は騎士団員に溶け込んで目立たないが、菊は充分な女らしさを備えている。 特にこうしてきちんと着飾ると、異民族ながらも整った目鼻立ちや、 嫌味の無い品の良さ、滲み出るあどけなさ、シノワズムの神秘性、 凛とした清潔感の中に、しかし柔らかさで包み込んだ仄かな色香が、まざまざと強調されていた。
何よりも、彼女は年頃の娘なのだ。 瑞々しく、初々しく、花開く前の蕾のような、そんな年頃の少女なのである。
呆然と視線を奪われる一同を、しかし菊は見事に曲解する。
何せ、生まれてこのかた―――勿論、生まれる前も―――こんな衣装を纏った事などない。 鏡に映った見慣れぬ姿に、自分自身でも戸惑いと、違和感を覚えたのだ。 大体、今まで男の恰好ばかりしていた女が、西洋人とは体型も顔立ちも違う東洋人が、 こんな美しいドレスで着飾っても滑稽なだけであろう。
開国当初もそうだった。似合わぬと笑われ、猿真似だと馬鹿にされ、鹿鳴館の評判は散々たるものであったのだ。 しかも、女を捨てると公言した身の上で、今自分は何をしているのか。
恥ずかしい。このまま消えてしまいたい。じわりと涙が滲んだ。
「いやあ、キク。見違えたぞ」
最初に声を上げたのは、部隊長であった。 うんうんと大きく頷くと、我が子の晴れ姿を目の当たりにしたように、酷く嬉しそうに目を細めて眺める。 ほら、顔を上げて、よく見せてくれないか。
「似合っている、素晴らしい、これは驚いたな」
「はい、とっても素敵ですよ。キクさんっ」
少年騎士団員も興奮気味に同意する。すごく、すっごく綺麗です。 きらきらと目を輝かしての賛辞に、嘘やその場凌ぎの誤魔化しは見えない。
「本当にびっくりしちゃったよ、キクちゃん」
ハンガリーも満面に笑みを浮かべた。 幼い頃から見て来た少女だ、いつの間にか、こんなにも女性らしくなっていたなんてな。 その言葉に、隣に立つ別の騎士団も大きく頷いて同意する。 零れ切らなかった涙に、ひく、と菊は咽喉を鳴らせた。
「ほら、お前も何か言ってやれよ」
ハンガリーの声に促され、菊はそちらへと視線を向ける。 少し離れたそこ、ドイツ騎士団はくるりと目を丸くして立ち尽くしていた。
「……ドイツ騎士団?」
反応の無い様子に、菊は不安げに声をかける。 それに我に返ったように肩を揺らすと、ドイツ騎士団は何処か不機嫌そうに顔を逸らせた。
「まあ、その……いいんじゃねえ、の?」
そう告げる後頭部に、容赦のない平手がすぱんと振り下ろされた。
「ってえーっ、なにすんだよ、てめえっ」
「馬鹿かお前はっ」
腰に手を当て、ハンガリーは怒鳴りつける。なんだそれ。なんだその言い方。 男ばっかの集団で仕方ないかもしれないが、お前は女の子への態度が成っていない。 全く以って、成っていない。聞いてるこっちが腹立たしいわ。 擦り傷の付いたでこっぱちにも、ぺしりと良い音の平手をくれてやる。
改めて、ハンガリーは菊へと向き直って。
「あいつなんかほっといて、ねえキクちゃん、俺と踊ろうよ」
素敵なフロイラインを、是非ともエスコートさせてよ。 やや大袈裟にお辞儀をすると、少々気取った様子で手を差し出す。 軽くウインクする仕草があまりに様になっていて、思わず菊は、先程とは別の意味で頬を染めた。
「よろしければ―――僕もお願いできますか?」
背後からの声に、ぱちりと菊は瞬く。
振り返ると、そこにあるのは、穏やかで人当たりの良さそうな笑顔。 だが、その理知的な目元に、菊は覚えがあった。
あの頃、直接の接点は少なかった。しかし大きな会議等では、幾度となく目にする事があった。
「リトっ」
口走るポーランドに、ああと納得する。やはり、そうか。 改めて菊は、目の前にすらりと立つ少年を見つめる。


リトアニア国。
彼が、ドイツ騎士団を命運を大きく左右する、中世の東欧の大国なのか。





「もー。リト、来るのが遅いしー」
ぶうぶうと口を尖らせるポーランドに、リトアニアは困ったように眉尻を下げる。 ごめんごめん、こっちもいろいろと大変で忙しかったんだよ。 苦笑しながら宥め、そしてハンガリーと親しげな笑顔を交わす。 その空気から、三国の親しさが感じられた。
そして、ドイツ騎士団と目が合った途端、微妙な緊張感が生まれる。
「やあ、来てくれたんだね」
このパーティーに。向けられた笑顔に、ドイツ騎士団はふんと鼻を鳴らす。
「おまえじゃなくて、ヘドウィグおうひによばれたんだよ」
腕を組んで憎まれ口を叩くドイツ騎士団に、リトアニアは僅かに目を細めた。 予想通りの反応に、そっと息をつく。
そして、菊へと向き直ると。
「キクさん、ですよね」
「は、はい」
姿勢を正す菊に、リトアニアは頷く。
「君には感謝しているんだ」
今回のヤドヴィガの事件は、リトアニア国にとっても不本意のものであった。 リトアニア、ポーランド間の婚姻には、両国共に重要な意味がある。 あざとい野心家の策略で汚点を作る訳にはいかなかったし、何より両陛下の名誉を傷つけたくは無かった。 穏便に済ますことが出来て良かったと持っているのは、ポーランドだけではない。
「本当にありがとう」
貴方が慎み深い性分であるとは聞いています。 そんな中、衆目を一身に浴び、好奇の目に晒される裁判に出るのは、本当に勇気のいることだったでしょうね。
いえ、菊は首を横に振ると、胸に手を当てて軽く腰を曲げた。
「勿体無いお言葉、痛み入ります」
丁寧な騎士としての振る舞いには、宮廷や貴族の作法を学んだ訳ではないと解るのに、 しかし嫌味の無いしなやかな洗練さがある。 アンバランスである筈のドレス姿のそれが、この場では逆に、不思議な清廉ささえ醸し出しているようだ。 遠目に覗う来客の間から、密やかな感嘆の声が上がる。
「顔を上げて下さい、キクさん」
正装姿の女性に、そのような振る舞いはさせられませんよ。 穏やかな瞳に促され、姿勢を正して向き合うと、漸く菊も頬を和ませる。 柔らかな笑顔には、女性騎士という肩書を感じさせない。
「噂は聞いています」
ポーランドからも、ヤドヴィガからも、パヴェウからも。 名高い黒鷲の守護神に、是非一度直接お会いしたいと思っていました。
「いえ、そんな……私は一兵士に過ぎません」
噂は大袈裟に尾鰭がついたものです。私自身は、決してそんな大それたものではございません。 視線を落として心底恐縮する姿に、くすりと笑う。 成程、確かに彼女は、随分控え目な性分の持ち主のようだ。
「よければ、君にお礼をさせて頂きたいと思っているんです」
今回の件では、国王も本当に感謝しています。是非、何か希望があれば、遠慮無く言って下さい。 馬でも、鎧でも、宝石でも……貴方が望むものはありませんか。
その言葉に、隣で効いていたポーランドはきょとんと目を丸くした。 そして、同時にそっと、菊と視線を合わせる。 その申し合わせたような二人の動作に、リトアニアは何?と首を傾げた。
によによと笑うポーランドの隣、実は……と申し訳なさそうに視線を落として。
「一つだけ、お願いがございます」
これが、私が心より望む、ただ一つの願いなのですが。
「是非、聞かせて下さい」
頷くリトアニアに、菊は笑顔を消した。代わりに、胸を突くような、酷く真摯な眼差しが向けられる。
すっとその場に膝を着くと、深く首を垂れた。突然のそれに、目を瞠るよりも早く。


「リトアニア国に置かれまして、菊よりのお願いです」
「何卒、ドイツ騎士団の存続に、お力沿いを賜りたく存じます」


菊の言葉に驚いたのは、リトアニアだけでは無い。 それを隣で聞いていた騎士団員達も、予想外の彼女の懇願にぎょっと目を剥く。
はあ?ドイツ騎士団は、素っ頓狂な声を上げた。
「おいっ、なにいってんだ、キクっ」
なんで敵であるこいつに、力沿いなんかされなきゃなんねえんだよ、この俺様が。訳判んねえだろうが。 声を荒げるドイツ騎士団に背を向けたまま、菊は続ける。
「これはあくまで、私個人の願いです」
決してドイツ騎士団の総意ではありません、それを前提で受け取って下さい。 その前置きにリトアニアは苦笑する。そうだろうね、ドイツ騎士団の反応からもそれは良く理解出来た。
「そんなの、ひつようねえっ」
こいつは改宗するふりをして、俺達を騙した。俺達が派遣した宣教師を、人質にして見せしめに殺した。 ふざけんな。頭を下げるな。冗談じゃねえ。なんで、そんな奴に頼むんだよ。
「それは、お互い様だろ」
突然俺達が住んでいた所にやってきて、そっちの価値観を無理矢理押し付けて、 力づくで侵略しているのは君達じゃないか。
リトアニアをきっと睨みつけ、ドイツ騎士団は菊へと吐き捨てる。おいこら、菊、てめえっ。 なんで、そんな事を乞うんだよ。交戦相手にそんな事言って、お前は恥ずかしくねえのかよ。
「おまえには、きしだんのほこりはねえのかっ」
「黙ってろっ」
乗り出す体を、ハンガリーが押し留めた。幼い子供の身体を抑えるのは簡単だ。 離せよてめえ、もがいて抵抗するドイツ騎士団に。
「今、話しているのは、キクちゃんだろ」
ドイツ騎士団としてじゃない、彼女は個人の願いだと断りを入れている。 お前こそこんな場で、余計な騒ぎは起こすんじゃねえ。 それこそ、菊ちゃんにとって不本意じゃねえのか。
「私が今、どれほど恥知らずな願いを口にしているか、自覚はあります」
現在、リトアニアとドイツ騎士団は、実質上敵対関係にある。 ドイツ騎士団から見てリトアニアは嫌悪すべき異教徒であり、 リトアニアから見てドイツ騎士団は忌まわしき侵略者だ。 双方は長期に渡って、均衡する戦闘を繰り広げている。
「修道院騎士団の存続は、今後更に険しくなるでしょう」
確信を突いた言葉に、ぎくりとドイツ騎士団は肩を震わせた。
頭では否定するが、それは紛れも無く真実だ。 事実、最盛期に比べ、修道院騎士団はその殆どが消滅した。 残った騎士団は吸収合併によって何とか体面を繕い、辛うじてその存在を保ち続けているに過ぎない。 勿論、ドイツ騎士団とて例外ではなかった。
いつ消えるか判らない時流の中、唯一見出した存在意義が東方植民だ。
ローマ教皇の許可を得たこの異教徒改宗活動のみが、現在ドイツ騎士団が存続するただ一つの理由である。 この活動が失われれば、自然ドイツ騎士団のアイデンティティは失われ、消滅を余儀なくされるだろう。
戦い続けなければ、ドイツ騎士団は消えてしまうのである。
時代、という大きな流れの中、様々な存在が生まれ、消える。繰り返された歴史の理だ。 それが運命なら、必要なら、受け入れるしかないだろう。判っている。 あの時の自分は、確かに潔さを愛していた。
それでも、消えないでいて欲しかった。
「これは、私の我儘なのかもしれません」
歴史の流れに逆らっているのかもしれない。 本人の意思とは関係の無い、単なる自己満足のエゴかもしれない。
けれど、生き汚いと蔑まされても、しつこいと笑われても、浅ましいと疎んじられても、悪足掻きだと罵られても、 姿を変えて、名前を変えて、形を変えて、立場を変えて、でも、それでも、生きて、生き続けて、生き残り続けて、 この先も、ずっと、ずっと、諦めないで、ずっと、一緒に、お願いだから、神様―――。
「でも、私はどうしても、ドイツ騎士団を守りたい」





両手を組み、神に祈るように告げる、只一つの望み。
「どうか、ドイツ騎士団の存続に、力をお貸し下さい」





小さな体は、もう暴れてはいなかった。
羽交い締めにしていたドイツ騎士団から、ハンガリーはそっと手を離す。 ずるりと下がる腕に、もう力は無い。
リトアニアは、俯く黒髪の旋毛を見下ろす。
「俺がドイツ騎士団をどう思っているか、君は知っているよね」
「はい」
「その上で、敢えてそんな願いを口にするんだ」
「はい」
何処か物悲しげな諦念を含めた声。噛み締めるように瞬きを一つ、リトアニアは長い息をつく。
「申し訳無いけれど、俺はその願いを聞き入れる事は出来ません」
理由は判るよね。念を押すようなそれに、菊はこくりと頷いた。当然だ。 彼の立場から、そしてドイツ騎士団の所業から、菊の願いが聞き遂げられる筈が無い。 菊が彼の立場であっても、そう考えるだろう。
リトアニアは膝を着いた。そして、組んだ菊の手を丁寧に両手で包み込む。 閉じた目を開き、顔を上げると、近い位置から彼の真摯な瞳が覗き込んできた。
「君の願いは、俺の胸に留める事しか出来ません」
叶える事は出来ないけれど、でもせめて、そう君が望んでいるのだと、その事実だけは知っておく。 その場凌ぎの口約束の了承では無い、これが今のリトアニアに出来る、精一杯の誠意である。
「それでも良いですか?」
はい。菊はにこりと頷いて笑った。
「ありがとうございます」
いつか私が動けなくなった時。打つ手を失いどうしようも無くなってしまった時。 そして、時流のままにこの世を去らなくてはならなくなった時。
きっとその言葉が、絶望より救う力となるでしょう。





「どうぞ、立って下さい」
手を取り、背中を支えるようにして、リトアニアは菊を立ち上がらせる。 小柄で可憐な少女と、笑顔の温厚な少年のそんな様子は、まるで物語の一場面であるかのように絵になった。
「矢張り、今日貴方に直接お会いすることができて、本当に良かったです」
にこりと間近で微笑まれ、その吐息さえ掛かる近い距離に気がつく。 途端、菊は顔を真っ赤にして、おろおろと落ち着かなく視線を彷徨わせた。 先程までの凛とした風情が成りを潜め、そこにいるのは年相応の初心な少女となる。
「あ、あの、すいません……ありがとう、ございます」
ぎこちない動作でリトアニアから一歩距離を取り、緊張したように姿勢を正すと、軽く膝を上下させる。 不思議な人だ。ついさっきまでは、まるで全てを悟った老賢者のように、堂々と振舞っていたというのに。
音楽が途切れた。軽い拍手が上がる中、リトアニアは菊へと手を差し伸べる。
「よろしければ、一曲いかがですか?」
数拍置いて、それがダンスの誘いだと理解した。とんでもない、慌てて菊は首を横に振る。
「いえ、その……私、ダンスは……」
日本が学んだ記憶こそあるのだが、それも開国して極一時期の事。 社交ダンスの愛好家こそいるものの、広く一般化する事は無かった。
「大丈夫ですよ、俺に任せて下さい」
決して、貴方に恥をかかせる事はしませんから。 人好きのする笑顔のまま、一歩彼女へと踏み出した所で。
「こいつにさわんな」
二人の間に割り込み、菊を背にしてかばうように立つのはドイツ騎士団だ。
俯く角度に、その表情は窺えない。しかし小さな拳が、強い力でしっかりと握り締められているのが判った。
「……彼女は、とても誇り高い人だよ」
騎士団として、そして彼女自身として、陳腐なプライドでは無く、真っ直ぐな信念を持っている。 彼女の願いは、決して恥知らずなものではない。君も判っているよね。
「うるせえっ」
来い。 ぐい、とドイツ騎士団は菊の手を取ると、そのままずんずんと引き摺るようにして連れて行く。
その背中を見送りながら。
「ヤーヤにも、同じ事を言ったんよ」
後ろから掛けられたポーランドの声に、リトアニアは振り返る。
ヤドヴィガが、菊を私室に招いた理由である。 今回の感謝の気持ちとして、友情の証として、個人的に何かお礼をしたいと、彼女に申し出たのだ。 その際、菊は同じ願いを口にしていた。
「王妃はなんて応えたんだい」
「リトと似たようなもんだったし」
ヤドヴィガ王妃もその立場上、菊の言葉を全面的に叶える事は出来ず、またその約束も出来ない。 だけど、ドイツ騎士団との和平外交を願う者として、自分の出来る範囲での力を尽くすとの言葉を告げた。
勿論、気休めのようなものだろう。それを無心に信じる程、菊は無知でも世間知らずでも無い。 そしてだからこそ、己の願いがどれ程僭越であるかを弁えた上で、それでも彼女は懇願しているのだ。
「実は、俺のところでもそうだったんだ」
軽く肩を上下させて、ハンガリーも苦笑する。
黒死病の件での事だ。 表面的にはドイツ騎士団の評判を落としたとはいえ、 内情を知る者は、如何に菊が献身的にハンガリーを助けたのかを知っている。 その労いに、何か恩賞をと申し出たのだ。
しかし、彼女は今と同じ言葉を述べていた。 そして、矢張りポーランドの立場上、彼女の願いに是を唱える事は出来なかった。
ホールの中央へと引き摺られる背中に、リトアニアは目を細めた。
「ドイツ騎士団は、良い騎士を持っているね」
強くて、優秀で、頭も良く、聡明で、献身的で、愛らしく、忠誠心に厚い―――。
「ほんっと、その通りだしー」
「そうだよな」





ざわめくホールの中央まで来ると、ドイツ騎士団と菊は二人、向かい合わせた。
ぎゅっと握られた小さな拳。視線を落とすドイツ騎士団の顔は見えず、小さな旋毛がこちらに向けられるだけ。 菊は少し腰を曲げて、その幼顔を覗う。
「ドイツ騎士団?」
返事は無い。もしかすると、泣いているのだろうか。しかし、そっと向けられた目に、涙は見えなかった。 その代わり、何かやりきれない様な 、切ないような、怒りにも似た感情が垣間見える。
少し戸惑い、しかしそれを打ち消すようににっこりと菊は笑う。
「ひょっとして、背が伸びましたか?」
前に比べて少しだけ、顔立ちも大人っぽくなったような気がします。 ちょっとだけ、前よりも男らしくなったように見えます。
空気を変えるような明るい声。 華やかなこの会場、こんな場で、負の感情は相応しくないと考えたらしい―――否、違う。 多分、無かったことにしたいのだ、自分が彼女の願いを聞いたことを。 知られるつもりはなかったのだ、知らなくても良いと、知られるべきではないと、そう彼女は思っているのだ。
「まあ……な」
事実、ほんの少しだけ、ドブリン騎士団と併合して暫くしてから、僅かにだが背が伸びていた。
ドイツ騎士団の成長は遅い。象徴の見た目が、生きた年数やその規模や領土を、そのまま反映する訳ではない。 しかしそれにしても、他の象徴と比べ、ドイツ騎士団の幼年期は長かった。
「きっと、直ぐ大きくなりますね」
先日、とうとうリヴォニア帯剣騎士団との合併が決定した。 この調子なら、ハンガリーやポーランド達の成長にも追いつくかもしれない。
「おまえは、おれがおおきくなったほうがうれしいのか?」
じいっと見上げる不思議な色味の瞳に、はいと菊は頷いた。
目に見える成長は喜ばしいことだ。象徴とは言え、余りに変化が見えない事は停滞にも繋がる。 他国よりも成長が遅く、そして成人しないままに失われた、神聖ローマ帝国の話を日本も聞いていた。
繋いだままの手に、きゅっと菊の力が込められる。
「私は、大きくなった貴方に会いたい」
見上げてくる、幼い子供のかんばせ。
真剣にこちらを見上げる瞳には、生きてきた相応の年輪を予感させた。 それが記憶に残る姿と重なり、ふっと菊は目を細める。懐かしいものを見る眼差しだった。
―――自分を通じて、彼女は自分の未来を見つめている。
「……おいついてやるよ」
軽く首を傾げる菊に、感情を消したまま、ドイツ騎士団は言い切った。 そして、口角を吊り上げてにやりと笑うと、握った手にしっかりと力を込める。
「みてろよ、すぐにおいていてやるぜ」
見上げてくる視線が、不敵に細くなる。いいか、待ってろ。 あっという間に大きくなって、「昔」みたいにまたお前を見下ろしてやるからな。
自信満々にそう告げられて、くすりと菊も笑う。
そうですね。象徴の成長は、人の速度とは異なる。 このまま順調に大きくなれば、いつの間にか見下ろしていた視線の高さも、 また見上げるようになる日が来るかもしれない。
「お待ちしております」
貴方が大きくなるのを、大人になるのを、成長するのを。
及ばずながら、菊の持つ全てで以て、その手助けをさせて頂きますね。





「あ、戸惑ってるしー」
ぷすー、とポーランドは吹き出す。
会場の中央、向かい合って会話を交わしていたドイツ騎士団と菊は、漸く周囲の人々の様子に気付いたらしい。 先程音楽が終わり、次の曲を踊ろうと男女が集まり始めたのだ。
あいつ、絶対ダンスなんて知らないしー。 てかあの身長差じゃ、リードどころか、組む事だって無理だしー。 笑うポーランドの横、リトアニアはオーケストラの指揮者にそっと合図をした。 それに了承すると、姿勢を正して向き直り、指揮者はさっとタクトを振り上げる。
流れるのは、先程までとは打って変わった、軽快なリズムの民族音楽だ。
社交の場で演奏されるものでは無い。 ゲルマン民族を中心に知られるこの民謡は、町のイベントや村の収穫祭など、 庶民の間で広く使われるものである。
不思議そうに顔を上げる人々の中、その曲に気が付いたドイツ騎士団と菊は、肩を竦めて笑い合った。 そして、それに合わせて、跳ねるように軽やかなステップを踏む。 作法も無く、男女の関係なく、見様見真似のまま、皆で一緒に踊るようなフォークダンスだ。
幼い子供と少女が踊る民族舞踏は、微笑ましく、そして愛らしい。 踊り始めた二人を見守る人々も、それをパーティーの余興と汲み取ったのか、 やがてひと組、ふた組み……と、そのフォークダンスに参加し始めた。
そんな様子を、会場の端から眺めながら。
「なんだか、可愛いですよね」
呟く少年騎士に、部隊長も目元を和ませる。
「そうだな」
「……普通だったら、お二人の中を勘繰りそうなんだけどな」
ほろりと零れたそれに視線を向ける。 無意識に口を突いた自分の発言に気付き、はっと少年は慌てた。 すいません、別に変な意味じゃないですよ、神に仕えるお二人を、そんな俗な目で、 不謹慎な想像で、あらぬ憶測で、変に邪推している訳じゃ無いんですよ、力一杯否定する。
第一、菊は常に、一歩控えた距離感を崩さない。 その潔癖なまでに弁えた日頃の姿勢は、下衆な妄想を一蹴できるだけの説得力があった。
ただ、もしも……と、考えてしまう。 もしドイツ騎士団が、例えばそこにいるリトアニアや、ハンガリーのような年頃の姿をしていたら。 もし菊が、少年のように髪を切らず、普段から女性のままの姿をしていたら。
もしかすると、あるいは、そんな邪な視線で、二人の関係を見られていたかもしれない。
「でも、まず、あり得ませんよね」
容貌こそは少女であるが、菊の妙に落ち着いた所があり、時に随分歳上を相手するように感じる時がある。 そして何よりドイツ騎士団は、子供というより、幼子そのものの姿をしていた。 人種的な部分さえ除けば、二人はまるで、歳の離れたおっとりとした姉と、やんちゃな弟のようにも見えるだろう。


「お二人の見た目の年齢から、ああですから」
「どうやっても、男女の関係には成りませんよね」























ノックと共に入室してきたイギリスの姿に、日本は丁寧に向き直って頭を下げた。 本国から、既に連絡はついている。 そうだろう、中立を保つもの同士、同盟国同士、それぞれの立場を明確にする為にも、話し合う必要がある。
「準備は出来たか」
時間が無い、直ぐに出発するぞ。その焦るような口調に急き立てられ、はいと頷く。
「すいません、わざわざ迎えにまで来て頂いて」
申し訳なさそうに眉尻を下げ、そしてふと首を傾げた。覗うような視線に、何だ?と瞬きすると。
「いえ、その……お一人なのかと思いまして」
先程、ドアの外から話し声が聞こえたようなので。
気の所為だったのでしょうか。 何処か気恥かしそうに視線を落とす彼に、イギリスは瞬きを一つ、否と首を横に振った。
「部下がいたからな」
先に車の用意をさせるように言いつけた。無感情なそれに、はあと日本は何処か生返事を返す。 嘘じゃない、同行した部下にそう指示したのは本当だ。但し、それは大使館の入り口での話だが。
疑問が続く前に、イギリスはつかつかと歩み寄り、日本の傍に置いてあった彼の荷物を手に取る。 自分で持ちますと声を上げるが、構わないからときっぱり押し切られ、それ以上の言葉を抑えられた。
「じゃあ、行くか」
俺の国なら安全だ、お前を守ってやれる。 お前の為じゃないぞ、同盟国の俺の立場上、仕方なくなんだからな。
その言い回しに、日本は困ったように苦笑して、はいと頷く。 後進国の同盟国相手に大国たる彼のプライドが許さないのは、充分に理解している。 こうして付き合いがあるだけでも、有り難い話なのだ。
だが、さっと差し伸べられた手に、押し留めるように掌を見せた。
「あ、すいません、少しだけお時間頂けますか」
それがやんわりとした拒絶のようにも見えて、翡翠の瞳が傷付いた色を滲ませ瞠られる。 恐れ入ります、慌てて頭を下げて。
「出国前に、国として一言、御挨拶をしたい方がおりまして」
すいません、時間は取らせません。ほんの少しだけですから。
「……ドイツには、さっき会ってきたんじゃないのか?」
その時に挨拶は済ませたのだろう。なら、それで充分だと思うが。 しかし、柔らかい笑顔のまま、日本は首を横に振る。
「いえ。ドイツさんではなくて、プロ――」
「プロイセンと、約束でもあるのか」
言いきる前に、打ち消すようにイギリスは強引に言葉を重ねた。 その口に、その名詞を紡がせまいとでもするように。
きょとりと目を丸くする日本に、何処か据わった眼差しを向ける。
「あ……いえ、そういう訳ではありませんが」
ただ、折角こちらに足を運んだので。律儀な言葉に、内心舌打ちする。
「あいつなら、不在だそうだ」
部下の話では、ドイツの傍には居なかったらしい。 個人的に何処かへ行ったのか、もしかすると秘密裏に動いているのか。 まあこんな状況だし、あいつもあいつで忙しいんだろう。 嘘じゃねえぞ。本当に、ドイツの傍には、居なかったんだ。
「そう、ですか……」
いえ、そうですよね。 残念そうな、不安そうな、そして心配そうな声で少し視線を落とす様子に、胸の奥から奇妙な焦燥感が沸き立つ。 それを振り切るように、やや強引な力で、イギリスはぐいと日本の手を取った。
「急ぐぞ、日本」
車を待たしている。それに船だって、お前が乗るのを待っているんだ。
「は、はい」
急かすように腕を引かれ、引き摺られる様に日本は大使館を出た。








上手く区切れず、二話分を詰め込んだとんでもない長さに
「白鳥の湖」のハンガリーの踊りが、カッコ良くて憧れでした
リトアニアと日本って、杉原氏以外で直接関係ってあったかな
2012.04.18







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