黒鷲は東の未来より舞い降りる
<21>





突然の参戦表明は、当然ながら国内で反発を呼んだ。
国際情勢上、確かにその風向きはあった。 何らかの形で、関与を余儀なくされる可能性も懸念されていた。 だから、参戦自体には「とうとう来たか」という諦念の空気さえ流れていた。
しかし問題は、これ程までに重要な事項を会議にもかけず、ほぼ独断で決定、即答した点にある。
特に憤慨したのは陸軍だ。陸軍はドイツの父たるプロイセン軍を手本として育成、近代化されている。 その浅からぬ縁から、ドイツへの対立は元より甚だ不本意なだけに尚更だ。
それに反し、海軍は非常に意欲的だ。陸軍とドイツがそうであるように、海軍とイギリスは縁が深い。 何より、前回の日露戦でのイギリス海軍の協力を、日本海軍は目の当たりにしている。
そして、そんな軍部とは別の意味で、政府間でも意見は二分していた。
同盟関係は一方通行では無い。 先の日露戦の際、イギリスはその同盟故に、日本への多大なる軍事協力を惜しまなかった。 相互の関係である以上、イギリスに協力を求められれば参戦は免れない。その覚悟はある。
しかし今回の参戦要請に関しては、一様に懐疑的だ。
イギリスの参戦は、軍事協定を結んでいたベルギーがドイツ軍に侵攻を受けた、その契約上でのものである。 あくまで日本が把握している範囲ではあるものの、遠い極東の小国に援軍を要請する程、 イギリス国自体が切迫した状況にはまだ無い。 にも拘らず敢えて日本に参戦を促すのは、日本の反応を「試した」だけなのではないかとの見方が強かった。
真に協力を求めているならいざ知らず、たとえ相手が同盟国であれど、悪戯な猜疑心に踊らされる必要はない。 元より、こちらは厳正中立を掲げている。参戦拒否を示したとて、非難の謂れはない。
二分した論争の中、しかしきっぱりとした断言が成される。
「参戦撤回はしません」
我が国に、二言はありません。
既に一度、厳正中立を撤回し、参戦の意向を示したのだ。 これ以上立場を二転三転すれば、我が国の内政が不安定であると見なされ、 近代国家として疑問を抱かれ兼ねません。
そして何より、ここでの躊躇は同盟国としての質が問われる事になる。 資源も、経済力も、軍事力も不足する新興国である以上、大切なのは「信用」だ。 誠実な対応でひとつひとつ信頼を積み重ねなければ、今後の我が国の評価に関わるだろう。
確かに、各々の言い分や立場は考慮の必要がある。 しかし国際社会に身を置く文明国家である以上、決められた条約や同盟は必ず守るもの。
我が国は、野蛮国では無い。
日の元の国として、正々堂々と、誰に対しても恥ずかしくない態度を取らなくてはならない。 台頭を始めたばかりの新興国として、世界が我らを、この国がどういった性質を持つのかを注目しているのだ。
「大日本帝国は、決して同盟国を裏切りません」
その確固たる裏付けを、ここで証明します。


だが。
この各省の温度差が、今後の軍部や内政に軋轢を生み、 国の命運を左右するまでの一因に発展するとは―――この時はまだ、知る由も無かった。























宮廷の外れの兵士用の公舎。 案内されたのは、三階の角部屋に位置する、こじんまりとした応接室だ。 兵士用の公舎と言えど、細やかな趣向を凝らした室内装飾は、この国の文化の華やかさを物語っている。
この時代、フランスはヨーロッパ文化の中心地の一つであった。 欧州の中央に位置し、宗教の要であるローマより程近い立地は、情報や文化が流通しやすく、 そして温暖な気候が育む土地は肥沃だ。 フランスから見るとドイツ騎士団の領とする土地は、片田舎の、枯れた辺境地に過ぎない。
象徴にもそれが表れるのだろうか。 斜に椅子に腰を掛けるフランスは、それだけで妙に都会的に、洗練されて見えるから不思議だ。 無精髭もお洒落な、エスプリ溢れる彼は、今も昔も健在らしい。
とは言え目の前の彼は、日本の知るフランスと違い、また随分と可愛らしさが強調されていた。 まだ成長し切れていない少年の肢体、軽いウェーブの入った肩まで伸びた金髪、身に纏うひらりと華やかな衣装。 それらが相まり、少女と詐称されてもまるで違和感が無い。
お兄さんが若い頃は、そりゃもう美少年だったんだよ。まあ、勿論今でも充分美しいけどね。 男性フェロモンを惜しみなくまき散らしながら、自慢げに語っていた姿が脳裏に過ぎる。 本当に仰るとおりですね、内心でこっそりと含み笑った。
「なに?」
見つめる視線にくすぐったいものを感じたのだろう。 不思議そうに伺うフランスに、菊はいいえと首を振った。
「……で、ドイツ騎士団総長の事だよね」
凛々しい男装のマドモワゼルが聞きたいのは。
その本題に、菊は姿勢を正して頷く。 フランスは一度、ちらりと近衛兵隊長を見遣り、改めて菊へと視線を戻すと。
「うん、確かにドイツ騎士団総長は王宮に来たよ」
あっさりとした肯定。
訪問して来たドイツ騎士団総長は、フィリップ王への謁見を申し出、後日王宮に来る約束をしていた。 しかしその約束の日、結局総長は王宮に現れず、 そしてその時には既に、王都のドイツ騎士団関係者は全て撤退済みとなっていた。 菊達が教会で出会った警備兵は、その確認する任務に携わっていたのである。
「一体、何があったんですか?」
ドイツ騎士団総長とフランス王の間で。眉を潜める少年騎士に、フランスは肩を竦めた。
「何もないよ」
そう、対外的には何も無い。
直接対話したフリップ王の代理人に、契約書に対する疑問を幾つか提示し、その回答を求めただけだ。 しかしそれだけで、察しの良いドイツ騎士団総長は、フィリップ王の不穏を読み取ったのである。
「まあ……どうやら彼女も、勘付いたみたいだね」
ちらりと向ける視線の先、菊は蒼白に顔を強張らせていた。
そうか。矢張り総長は、フィリップ王の思惑を察したらしい。 そして矢張り王の狙いは、こちらの懸念通りであったらしい。
代理人とのやりとりで明確な身の危険を悟った総長は、 速やかにフランス国内から騎士団関係者と共に撤退した。 目的は二つ、同士たる関係者を保護するためと、ドイツ騎士団へと付け込む隙を与えないために。 後世に伝えられるフィリップ王の悪評を思えば、実に賢明な判断であろう。
「フィリップ王は、修道院騎士団を根こそぎ排除するつもりなのですか」
思いもしなかった菊の言葉に、少年騎士と剣士はぎょっとする。 しかしフランスは、軽く瞠目した後、何処か他人事のように苦笑した。
「そうかもしれないな」
彼の教皇嫌いは周知のものだ。そして、猜疑心が強い。 エルサレム奪還という役目を放棄しつつ、それでも独自の権限を維持しながら各地に現存する修道院騎士団を、 まるでローマ教皇からの監視でもあるかのごとく、常に目障りなものに感じていたようだ。
そして何より、彼は貪欲だ。王という最高の身分にさえ、満足する男ではない。
「狙いは騎士団の資産ですね」
イノセントに、フランスは目を細めた。
日本の知る歴史において、フランス王フィリップ四世は、 三大修道院騎士団の一つ、テンプル騎士団を理不尽な異端尋問にかけ、弾圧、解体したことで知られている。 目的は、騎士団が所有する資産と、その広範囲に及ぶ金融システムにあった。
歴史が微妙に変化したこの世界、ドイツ騎士団の財力はテンプル騎士団と並べても決して遜色が無い。 慢性的な財政難に喘ぐ中、フィリップ王にとっては咽喉から手が出る程に魅力的なものであろう。
そして、それだけでは無い。
「あと、大型武器に対しても、興味があったみたいだ」
比較的豊かであったフランドル地方の利権を巡り、 フィリップ王は派兵を繰り返し、軍事費を重ねる悪循環に陥っていた。 その制圧の為に大量輸入されていたのが、ドイツ騎士団の大型武器である。
燻るような戦闘が継続される中、滞る負債を未払いのままに上乗せして買い求める為、 フランス国はドイツ騎士団の最大の債務者の一人でもあった。 ドイツ騎士団の本部にある記録によれば、武器の輸出先の大部分はフランスだ。 発注したものを含めると、その殆どをフランス国王が独占することになる。
フィリップ王に取ってドイツ騎士団の消滅は、彼の嫌う修道院騎士団を消し去り、 莫大な負債を無かったものとし、大型武器を独占し、しかも膨大な財産の没収が同時に可能となるのだ。
ちょっと待ってくれ。近衛隊長の剣士が、空笑い交じりに異を唱えた。
「幾ら王とて、そんな事が可能なのか?」
第一、ドイツ騎士団はローマ教皇の後ろ盾を持ち、神聖ローマ帝国領内にその本拠を置いている。 いくらフランス王であろうとも、他国に籍を置く団体、 しかもローマ教皇の庇護下にある修道院騎士に、そんな干渉ができるとは思えない。
だが、それを可能にする方法がある。
「契約書、です」
地中海への傭兵依頼として、ドイツ騎士団とフランス国王は契約を交わしていた。 既に文書による契約社会が成り立っている中世のヨーロッパ、 サインを交わした契約書には、法外な暴論さえ有効にさせる力を秘めている。
実物を見ていない以上、憶測にしかならない。 しかし、もしそこにフィリップ王の罠が潜められていたとすれば、それをドイツ騎士団総長が悟ったのだとすれば、 それを問い質すためにフランスにやって来たのだとすれば、ここまでの経緯に辻褄が合うのだ。
「ご名答」
人差し指で菊を示し、フランスはウインクをした。
「あれはね、ちょっとヤバいよ」
一見なんて事無い文章になっているけれど、幾らでも解釈できるようにしているからね。 ドイツ騎士団総長は、随分慎重で、聡明な人物みたいだな。普通、なかなか気付かないと思うよ。
によ、と細めたフランスの深みのある青に、菊はごくりと息を飲んだ。
疑問が確信に変わる。現在フランス国内には、テンプル騎士団が健在している。 菊が危惧するのは、日本の知る歴史と違うこの世界、 ドイツ騎士団とテンプル騎士団の運命が置きかえられる可能性だ。
このままでは―――テンプル騎士団に代わり、ドイツ騎士団が抹消される。
かたり、菊は椅子から立ち上がった。
「キクさん?」
「ローマへ行きましょう」
ドイツ騎士団総長は、十中八九そこに向かった筈だ。 恐らく教会の最高権力者たるローマ教皇に、助けと保護を求めたのであろう。 それが最も妥当であり、適切な判断である。
「急いだ方がいいね」
フィリップは猜疑心が強いだけに、周到で、策士で、そして合理的な考えの持ち主だ。 たとえ宗教の象徴たるローマ教皇相手でも、躊躇や容赦はしない。
促すフランスに、菊は眉根を寄せる。少し言い淀みながら。
「フィリップ王は、貴方の上司なのではありませんか?」
ここでの会話は、貴方に取って、フランス王国に取って、不利になるのではありませんか。 心配そうに気遣いを見せる菊に、フランスは少し驚き、だが軽く肩を竦める。
「上司の意思が、民意とは限らないよ」
は、と菊は息を飲んだ。その通り、国の上司と国民の意思が異なるケースは、決して少なく無い。
フィリップ四世は、美男王と称される容姿でこそもてはやされているものの、 あまりに己が欲望に忠実で、強欲で、そして残虐だ。 己が利権の為にフランドル地方の市民相手に兵を派遣したり、 国内のユダヤ人の財産を強引な手段で没収し、追放したのは記憶にも新しい。 そのうえ、教会の象徴たるローマ教皇に対する敵対心には、流石に国内でも畏怖する声が上がっている。
「あの王は、きっとフランスを汚してしまう」
苦々しく唇を歪めるフランスに、剣士も眉間に皺を寄せて頷く。 王宮付きの近衛兵として任に就く彼も、それは肌で感じている事であった。
菊は眉尻を下げ、テーブルを回るとフランスの前に立つ。そして咄嗟にぺこりと頭を下げた。 見慣れない動作に、きょとんとする彼を見下ろして。
「ありがとうございました」
フランスさんとお話が出来て、本当に良かった。心より感謝します。
驚くのはフランスの方であった。呆気に取られて瞬き、見上げる闇色の瞳は美しい。 どうやら彼女は、本気でこちらに感謝をしているらしい。 そして、最初に上司が騙したのがこちらだというにも拘らず、 こちらの言葉を信じ、その上でこちらの身を心配しているのだ。
参ったね。くすりと笑うと、フランスは菊の手を丁寧に取った。 純朴そうな彼女の見た目とは裏腹に、 盛り上がったタコで指はいびつに変形し、そこここに大小様々な傷痕が刻まれている。 成程、これが彼女の歩んだ道なのだ。
その甲に、ちゅっとフランスは唇を寄せた。
えっと思わず固まる菊に、少女じみた容姿に反し、妙に大人びた甘いウインクが一つ。
「素敵なマドモワゼルの力になれて、光栄だよ」
慣れないそれに、顔に熱が上る。 唇をぱくぱくさせ、視線をうろうろさせ、気恥ずかしげにそっと俯く初心な仕草に、思わず笑いが込み上げた。
その瞬間。


「動くなっ」


乱暴に開かれた扉。 野太い声と同時に荒々しく入室してくるのは、剣や弓を手にしたフランス警備兵であった。 室内のメンバーを認識すると、正面バルコニーを辺に、半円形にぐるりと囲い込む。
殺気立った気配と緊張に、菊と少年騎士団員は身を固くした。 一歩前に進み出る顔見知りの中年警備兵隊長に、近衛兵隊長の剣士は眉を潜める。どういう事だ?
「ドイツ騎士団団員、及びその関係者を拘束せよ」
これは、フィリップ王の勅命である。尚、彼らと繋がりのあった近衛兵隊長、君も一緒だ。
「なに?」
警備兵達の向こう、戸惑ったような若い近衛兵がいた。 先程、王宮の謁見の記録を調べるように申しつけた部下だ。 彼自身もどうしてこんな事態になっているのか、理解できていないようである。
そうだろう、近衛兵は主に王宮の警備に当たっている。 警備兵が市街のドイツ騎士団の動向を確認して回っていた事は、近衛兵隊長である剣士でさえ知らなかったのだ。
「隊長殿、剣から手を離して下さい」
貴方の剣の腕前は、我々警備隊も聞き及んでおります。
咄嗟の判断か条件反射か、剣士の肉厚の手は、既に腰に携えた己が剣の柄を握り締めていた。 彼の腕前は王都でも有名だ。警備隊達も、最大限に警戒しているらしい。 ぎりりと引き絞られた弓矢が、一斉に向けられる。
だが―――彼以上の腕を持つ存在には、気付いていない。
ぎこちなく固まったまま、剣士はちらりと菊へと視線を遣る。 交わされる、暗黙の了解。
「ゆっくりと両手を上げて。そのまま動かないで下さい」
言われるまま、彼はゆうるりとした動きで、両の手を頭上へ上げた。 警備隊長は傍らの兵に顎で示され、兵の一人が剣士へと歩み寄る。 ちらりと見上げると、威嚇するように見下ろす厳しい目。 それを負けないように睨み返し、視線を逸らさず、慎重に腰に下げた剣へと手を伸ばした。
瞬間、剣士は眉を吊り上げて、奇妙に顔を顰めた。
唇を引き攣らせ、むずむずと鼻を動かし、瞼を半分下ろす。 何かを堪えるような表情のまま、鼻息荒くふあ……と、中途半端に開いた口が空気を吸い込む。 続く予感と、緊迫した空気の中での変顔に、何処からともなく失笑が零れた。
は、は……っは、数回に分けて詰まった息。 そして、大きく喘いで一拍後―――発せられたのは、轟くような実に豪快なくしゃみ。 その遠慮のない大声と迫力に、彼らを囲む兵士達も、びくりと肩を震わせた。
生理現象の勢いのままに、剣士は倒れ込まんばかりに、大きく半身を前に折る。 不必要に大袈裟な姿勢に、誰も疑問は抱かない。 筋肉質な巨体の背後、黒い影がフランスを突き倒すと同時に、跳躍するのを目視するまでは。
それが彼の背後に隠れていた小柄な少女のものであると悟るより早く、細腕が薙ぎ払うように真横に一閃する。
ぎゃあ、と声を上がるのは、弓を構えた兵士達だ。 剣士に向けられていた弓は全て、からんと音を立てて床に転がった。 悶絶しながら抑える彼らの手には、狙いを正確に定められた十字手裏剣が、深々と突き刺さっている。 ひゅうとフランスは口笛を吹いた。
重力を感じさせない少女の体は、伏せるように丸まったままの剣士の背中にとんとワンバウンド、 くるりと鳶のように宙返りしながら、翻るマントの内側から手の平サイズの球を取り出した。
「息を止めて下さいっ」
ドイツ語での叫び。この場でその言葉を理解出来るのは、限られた身内のみ。
警備兵と剣士の間。 高い位置からそれを叩きつけた瞬間、小さな爆発音と共に、濃厚な煙幕が広がった。 もうもうとした灰色の煙は、瞬く間に部屋中に広がり、視界を完全に埋め尽くす。 同時に強い異臭と突き刺すような刺激が粘膜を直撃し、堪らず兵士たちは咳き込んだ。
扉を開けろ。否、駄目だ、早く閉めるんだ。彼らを逃がすな。 警備隊長の叱咤に、腕で口元を押さえながら、涙目を堪えながら、兵達は何とか部屋の出入り口の扉を閉ざす。 しかし密閉された部屋を満たす煙は如何ともし難く、耐えきれない苦痛に、 纏わりつく煙霧をかき分けながら窓を全開にした。
やがて。
爽やかな風の流れに促され、ゆっくりと視界に明瞭さが戻って来る。 滲んだ目を擦りながら、咳が止まらない口を押さえながら、警備隊長は室内の惨状をぐるりと見回した。 開かぬ瞼に蹲る者。止まらぬ咳に呼吸困難に陥る者。無分別に振り回した武器に負傷する者。 一瞬の間だと言うのに、室内の警備兵は散々たるものである。
そして、顔を顰めた。
「……何処へ行った?」
彼らの姿が無い。
ぱしぱしする目を瞬きさせるが、近衛兵隊長とドイツ騎士団関係の二人の姿は、何処にも見えなかった。 消えた?戸口を振り返るが、きっちりと閉じられた扉は、止まらぬ咳を堪えながら兵が頑なに守っている。 開かれた大窓へと駆け寄り、バルコニーの手摺りから身を乗り出すが、ここは建物の三階だ。 見晴しを優先したそこには、伝い降りられるような枝は勿論、クッションになる低木さえ見当たらない。
「フランスさんっ」
バルコニーの脇、ギャザーのたっぷり入ったドレープカーテンにしがみ付き、 けほけほと咳き込みながら座り込むフランスに、警備隊長は身を寄せる。
「彼らは何処へ行きました?」
止まらぬ咳に留められた声の代わりに、ふるふるとフランスは首を横に振る。 聞きたい事は山とある。 ここで何を話していたのか、剣士とはどんな関係か、彼女はどんな技を使ったのか、そして一体何者なのか。 しかし、今はそれよりも優先しなくてはならないことがあった。
「急げ、彼らを追うんだっ」
しっかりせんか、早くしろ、何をしている、奴らを探せ、逃がすな。 床の上で呻く彼らを急き立て、叱責し、追いやり、尻を叩き。 やがて騒然としていた室内には、フランス一人が残される。
ふう、とフランスは息をついた。目は少々沁みるものの、呼吸するのに全く不都合はない。 どういう作用なのか、彼女の言葉に従い、最初の数秒息を止めてやり過ごせば、 あの煙による咽喉への異常はかなり軽減されるようだ。
そっと、しがみ付いていたカーテンを捲り上げる。
厚みのあるカーテンに隠された、バルコニーの一番端。 がちりと縁に食い込んでいるのは、五又になった鉄製の鉤爪だった。 しっかりと結び付けられてた黒っぽい縄は、三階のこの窓から下ろしても、 充分地上に届くまでの長さを有している。
見た事も無い不思議な飛び道具を見下ろし、くすりとフランスは小悪魔じみた笑みを洩らす。
そして、彼らが去った方角へと顔を上げ、そっと憂いと懸念に目を細めた。





「こっちだっ」
兵士用の馬屋から特に足の速い馬を菊と少年騎士に宛がうと、剣士は先んじて馬を走らせた。 王室付きの近衛兵だけに、王宮内には当然詳しい。 人気のないルート、秘密の抜け道、警備の手薄になっている個所は熟知している。
「南門から街を出よう」
はぐれないようについてこい。急かす彼の後ろ、菊と少年騎士が続く。 規則的な馬脚の音にかき消えそうな、しかしはっきりとした声が背中に届く。
「すいません」
どうやら私は、貴方を巻き込んでしまったようです。真摯なそれに、剣士は前を向いたまま。
「気にするな」
こうなった以上は仕方ない。それに、もともとフリップ王は気に入らなかった。 なあに、まだ腕一本でのし上がってやるさ。
「乗りかかった船だからな」
これも何かの縁だ、とことんお前に付き合ってやるよ。
肝の据わった笑みを浮かべると、急ぐぞ、剣士は嘶く馬の手綱を引いた。























戦況は芳しくなかった。
まず、基本的な前提である立地条件からして、過酷を強いられる羽目になっている。 戦争を始めたオーストリアは兎も角、軍事協定により参戦したドイツは、 敵国たるフランスとロシアに挟まれており、左右から押し迫る彼らと同時に対戦しなくてはならない。
その上植民地は少なく、元より資源に乏しい土地も手伝い、 長期戦になれば不利になるのは誰の目にも明らかだ。 それを打破する為に短期戦を狙って隣国の一つたるベルギーに押し入れば、 その同盟国たるイギリスも参戦表明し、僅かな海路さえも危うくなる始末である。
四面楚歌と補充のままならない最悪の状況下、 辛うじて善戦しているのは、訓練された優秀なるドイツ軍の働きに他ならない。 だが、最初の開戦から予想以上に長引く状況に兵士は徐々に消耗を見せ、先の見えない現状に国民は苛立つ。
日本からの宣戦布告の報告がもたらされたのは、そんな最中であった。
「……そうか」
とうとうあいつも、参戦しやがったか。
この一報に、その場に居合せた複数の軍幹部も動揺する。 実はドイツ国内では、もしも中立を保つ日本が参戦するならば、 ロシアとの確執から、味方になるのではないかという噂も流れていた。 新興国ではあるが、かの国の台頭は目覚ましい。 先の日露大戦も記憶に新しく、味方ともなれば心強いだろう。 しかし、そんな楽観がここで崩れたのだ。
ちっと忌々しくプロイセンは舌打ちする。
あの似非紳士の考えそうなことだ。マジ、とことん嫌味な野郎だぜ。 彼らと違い、プロイセンはこうなる事を予感していた。 プロイセンにとってイギリスという国の印象は、悉くそれに尽きる。今回の件で改めて再認識した。
これは、彼流の意趣返しなのだ。 何せ、以前ロシアとの同盟関係にあった時、ドイツは一度イギリスからの同盟のアプローチをかわした過去がある。 それを根に持ち、こういった形で報復しようとするとは、大した紳士だな、おい。
そして、何より―――あいつか。
孤高の帝国と呼ばれたイギリスは、同盟国たる日本に随分と入れ込んでいる。 実際それを目の当たりにしたが、他を寄せつけようとしないあの執着は、 入れ込んでいるというよりも、寧ろ……思い出し、プロイセンは目を細めた。
弟子を可愛がる師匠と、師匠を慕う弟子の亀裂。 恐らくイギリスは、端からこの対立の図式を作りだす計算をしていたのだろう。 そして巧妙に、お得意の二枚舌で以て、見事策略を成功させた。
本来なら参加する必要のないこの戦いに、あの眉毛は何を餌に引き摺りこんだ? 土地か?資源か?否、違うな、「同盟国の誠実さの証明」か?馬鹿が、利用されやがって。 あの男の本質を見抜けないのは、あいつの落ち度と甘さだ。今度会ったら、マジ、説教してやる。
「うろたえるな、予測していた事だ」
あいつは、あの馬鹿正直で真面目な奴は、絶対に同盟国を裏切らない。 最初から判っていた。ならば、打つ手は一つ。
「仕方ねえ。弟子の成長を確認してやるのも、師匠の務めだぜ」
にい、とプロイセンは唇を吊り上げる。凶悪ささえ覗う好戦的な笑みは、軍事国家の片鱗が垣間見えた。
「あいつが参戦したとなると、狙うのは先ず青島か」
ヴァルディック総督に連絡を。奴らは海上封鎖が得意だ、その前に東洋艦隊は本国へ帰還させる。 偵察機として、ルンプラー・タウベの投入を急げ。青島在中のドイツ人から、志願兵を募集しろ。
「ドイツは東部戦線に手が一杯だ。こっちは俺が引き受ける」
国としての第一線こそドイツに譲り渡したとは言え、プロイセンは今だ現役である。 特に戦争に関しては、この戦いが初戦となる弟に比べて、その経験値が違う。 軍部に関しては、未だプロイセン軍人という称が常用されていた。
「で、日本軍の戦力は?」
それが……戸惑ったように、兵士は入手済みのドイツ軍日本軍、双方の予測兵数を告げる。 数秒の空白の間、プロイセンは眉を潜め、突き刺さるような眼を兵士に向けた。 何だって?攻撃的に聞き返され、緊張しながら彼は改めて同じ数値を繰り返す。


「―――はああっ?」


室内に響く尻上がりの素っ頓狂な声は、驚愕というよりは些か間が抜けたもの。
嘘だろ?突拍子もないその報告に、プロイセンは今度こそ呆気に取られた顔で、あんぐりと口を開けた。








「どう見られるか」を気にする国民性
2012.06.04







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