黒鷲は東の未来より舞い降りる <22> 「おっまえなあ……」 再会の第一声はそれだった。 頬に貼り付けられた絆創膏。袖口から垣間見える白い包帯。片足に負担をかけた姿勢。 きっと見えない部分にも、沢山の傷を負っているかと推測出来る。 彼の国が現在進行形で受けているダメージは、想像以上に深刻なのだ。 しかし、こちらを見下ろす深紅の瞳は、疲れたものと言うよりは寧ろ憮然としたような、 拗ねたような、呆れ果てたような、脱力したような、何処か気の抜けたようなもの。 あのなあ、マジでなあ、っていうかなあ、ホントになあ。 二の句が告げない彼に、日本は困ったようににこりと笑う。 「お久しぶりです、師匠」 ようこそ日本へ。 ドイツ兵俘虜の安否確認と収容所施設の視察での御来日、遠路はるばるお疲れさまです。 丁寧に頭を下げる小さな敵国に、急き切ったように口を開きかける。 しかし、言葉に出したい諸々は、結局何一つ声にならない。 代わりに咽喉を通るのは、はああと当てつけのように、わざとらしくもやたらと長く尾を引く溜息のみ。 「なんなんだよ、お前は……」 いっそしゃがみ込みそうな勢いで、がっくりとプロイセンは肩を落とした。 「こちらが、その館内新聞になります」 施設内の俘虜兵が新聞部を作り、ドイツ語でのニュースを配っております。 過去の発行物も全て残しておりますので、よろしければ是非ご覧下さい。 「あれは、オーケストラの練習です」 初めて耳にする者も多かったのですが、やはり音楽は世界共通ですね。 今は興味を持った村の若者が集まり、演奏指導を受けております。 「地元の方々が、ご希望されましてね」 俘虜兵の方が作成されたドイツ菓子が、とても人気でして。 地域の婦人会を中心に、週に一度、ドイツ菓子とドイツ料理の教室を開催しています。 「今は授業中ですが、見学されますか」 コミュニケーションの助けになるだろうと、通訳が設けた日本語教室です。 日本文化に興味を持たれた方もいらっしゃって、皆さんとても御熱心なんですよ。 「今日は畜産業者を集めた講習会の日ですから」 ドイツの牧畜技術は、近年始めたばかりの我が国と違い、とても進んでおります。 今後はこちらでも、更に需要が高まる分野となるでしょう。 「ああ、彼はこの近所にある小学校の教師です」 また、器械体操の指導の依頼に来たのでしょう。 我が国では珍しいものでして、近隣の諸学校の体育教師も、見学に来られたりしているようです。 「それがもう、連日大盛況だったんですよ」 公会堂と寺院の境内を借りて行われた、俘虜兵の皆さんの作品展覧会でしたが。 噂が噂を呼んで、わざわざ遠方からやって来る方も多くて。 吹き抜けになったバラックの渡り廊下、照らされる二人の影は長い。 夏の終わりを予感させる茜の空に視線を遣り、日本は眉尻を下げて微笑む。 「遅くなってしまいましたね」 申し訳ありません。こんなに時間が掛かるとは思いませんでした。 「否、良い」 お陰でこの俘虜収容所の実態を、よく理解出来たからな。 言いながら足を止め、プロイセンはそこから見える収容所をぐるりと見渡す。 ゴールが設置された中庭では、フットボールに興じるグループがいた。 そびえ立つ煉瓦造りの煙突からでる煙は、パン職人達が今夜の夕食を焼いているのか。 和やかに煙草をふかしながら横切る二人は、図書室から借りてきたらしき書籍を持っている。 開け放たれたままの門を潜るのは、外出から帰って来た俘虜だろう、 門番の兵士と笑いながら挨拶を交わしていた。 連なるバラックの屋根の向こうには、夕焼けに浮かぶ、なだらかな山並みが見える。 俘虜収容所とは思えない牧歌的な光景に、プロイセンは目を細めた。 「……良く、脱走兵が出なかったな」 木製の壁は薄い。俘虜兵が暴動を起こせば、あっという間に崩せるだろう。 それをせずともこれだけ開放的な施設ならば、「逃げ切る事」はさておき、「逃げ出す事」に造作は無さそうだ。 自国の兵を信じているとはいえ、彼らは人間だ。 どんな形であれ、戦闘を交えた敵国に捉えられ、軟禁されているという事実は、多大なストレスとなるだろう。 そんな心理状態では、訓練された者でさえ、異常行動に出ても不思議はない。 「いえ、いらっしゃいましたよ」 脱走しようとした俘虜兵は。ぎょっと振り返るプロイセンに。 「でも、ちゃんと帰って来て下さいました」 山の中を彷徨い、怪我と疲れと空腹で動けなくなった所を、たまたま村の者が発見したらしい。 この地域の住民には、遍路の為にやって来る巡礼者をもてなす習慣が、極当たり前に備わっている。 宿を提供し、手厚く介抱し、世話を施す村人達と接し、 兵士は本来の冷静さを取り戻し、自主的に収容所に帰還したのだ。 今きっと彼は、そこに見える、煉瓦造りのパン焼き工房にいるだろう。 戦前にパン職人として働いていたその技術を生かし、工房の中心になって、 誰よりも熱心にパン焼き業務に勤しんでいる。 複雑な顔をするプロイセンに。 「この収容所の所長は、ドイツ兵の皆さんを信頼しております」 彼らは非常に規律正しく、真面目で、勤労です。 俘虜である彼らが信じるに値する方々だからこそ、この施設の現状が成り立っているのです。 「何より、彼らは立派な愛国者であって、犯罪者ではありません」 そうでしょう?きっぱりとしたそれに、収容所を眺めていたプロイセンは、そっとその長い睫毛を落とした。 別室で対面した収容所所長は、人格者であった。 軍人と言うよりは学校の校長を彷彿とさせるような風情を持つ彼は、 俘虜に対する配慮に繊細で、しかし対応には寛容で、何より彼らの心情を汲む懐の深さを持っている。 日本兵の部下は元より、ドイツ兵からの人望も厚かった。 収容所内を、着物姿の少年が通る。何やら大きな荷物を運んでいる所から、恐らく村の業者の一人であろう。 郵便配達、物販販売、ここには様々な村人が、それぞれの理由で出入りしている。 その彼に、通りがかりのドイツ兵が声をかける。少年はぺこりと頭を下げていた。 「村の人達も、彼らを、ドイツさん、と呼んでおります」 同時に、「捕虜」とは言わない。 親しみと敬意を込めて、彼らを「捕虜」では無く、「俘虜」と称している。 正確な日本語では、この二つの言葉の意味に違いはない。 しかし村人たちの中では、「捕虜」よりも「俘虜」の方が、 より良い意味での呼称だと勘違いしているらしく、敢えて彼らに対してその名称を使っている。 つまり、それがこの収容所での、この村での、彼らの待遇を示していた。 「……ま、正直、心配はしていなかったがな」 糞真面目なお前の事だ。中立機関からの報告を聞くまでもねえよ。 俘虜環境に関しては、既に巡察していた調査員からの報告を聞いていた。 当初は文化の違いから幾つかの指摘もあったようが、それも概ね改善されている様子である。 「国際法に則ったに過ぎません」 それ以上でも、それ以下でもありませんから。 ハーグで規定されたばかりの捕虜に対する保護条約を、国際法に敏感な日本が知らない筈はない。 先の日露戦争でもそうだった。 公的な場面は勿論、負傷者には手厚く治療を施し、人道的且つ紳士的に扱い、 中には農奴出身が多いロシア兵に読み書きまで教えていたとの話もある。 「相変わらずだな」 あれだけ基準にしか過ぎないと教えた国際法を律儀に守り、その卒の無さには、呆れ半分に感心する。 片眉を吊り上げるプロイセンに、日本は少し困ったように笑った。 「……私は、臆病なのです」 国際法の固持は、ある意味、精一杯の虚栄心でもあった。 世界の表舞台に立ったばかりの日本は、国際的な部分での己の無知を自覚している。 国際法さえ守れない野蛮国と見なされることが、恐ろしく、何より恥ずかしいのだ。 新興国として、その一挙一動を世界が注視している。 日の元の国として、正々堂々と、誰に対しても恥ずかしくない態度を示して行かなくてはならない。 そして、何より。 「法に守られる為には、法を守らなくてはいけません」 特に今回の件は、消して他人事ではない。 国際社会に身を置く以上、ドイツ兵俘虜の立場は、いつ我が身に振りかかるか判らない事例だ。 その時になって、こちらの主張を正当化させるには、 こちらこそが相手の正当性をきちんと認めなければならない。 それに、プロイセンは苦々しく唇を引き締めた。 馬鹿が。あれだけ口を酸っぱくして教えた筈なのに、こいつはやはり判っていない。 その頑ななまでに「決められたルール」を守ろうとする姿勢は、 正しく、模範的ではあるが、同時に弱点にさえなるだろう。 世界は甘くない。 相手に与えた公正さが自分に返される保証はなく、自分が守った法律を相手が守るとは限らない。 大国は、己の利を優先させる為に、法やルールを簡単に覆す。 「正義が勝者」では無く「勝者が正義」である現実を、彼はまだ突き付けられていないのだ。 間違いの無かった筈の行動が、国の利益によって捻じ曲げられる可能性を、その素直さ故に考えもしないのだ。 いつか、きっと。彼の優しさと真っ直ぐな正しさが、裏切られる時が来るだろう。 そしてその時でさえ、きっと、それでも、彼は――。 「それに、こちらにもメリットはありますよ」 彼らとの交流により、ドイツの高い技術を取り入れる事もまた、この収容所の狙いの一つであった。 日本にやって来た俘虜兵は、その殆どが青島に駐在する民間からの志願兵である。 元より青島には、新しい植民地の開拓として訪れた技術職人、東洋の学術に勤しむ知識人が多い。 そんな彼らから、交流を通じ、ドイツの高い技術を自国に取り込みたいとの思惑もあるのだ。 「お前らしいな」 ちゃっかりしてやがる。ふんと鼻でせせ笑うと、同じく強かな笑みが返される。 そうだな、こいつはこんな奴だった。 馬鹿みたいに素直で、無知で、お人好しに見えるけど、その実、強かで、貪欲で、好奇心が強くて、 そして一筋縄では食えない狸爺なのだ。 二人で小さく笑い合い、そして揺れる肩が落ち着いた頃、 夕日に照らされた彫りの深い顔が真摯な色を宿す。日本、名を呼ぶ声は切実であった。 「あいつ等を頼む」 祖国を信じ、祖国の為に命を掛けて戦った勇敢な兵士達だ。 向けられる眼差しに、日本は深々と頭を下げた。受け止める眼差しは、凛とした力を宿している。 「承知いたしました」 祖国へと帰還するまでの間、我が国が責任を持って彼らをお預かりさせて頂きます。 「ホテルは、町の外れにご用意しております」 本日はそちらにご案内しますね。 促され、二人は用意されていた車に乗り込んだ。今日は町で大きな祭りが開催されているらしい。 混雑を避ける為、少し遠回りをしてホテルへと向かうと説明される。 「不都合があれば、フロントにお申し出下さい」 何せこの地方は、海外からの訪問者など殆ど来ません。 勝手が悪いかも知れませんが、精いっぱい努めるよう、ホテルには伝えております。 「いや、……ああ」 前回来日した際、プロイセンは日本の住居に泊まっていた。 しかし、今回ばかりはそうもいかない。互いは今、対立国なのだ。 舗装のされていない田舎道を、がたがたと車体を揺らしながら、運転手は車を走らせる。 空には既に星が光っていた。 後部座席で頬杖をついてそれを眺めながら、ドイツが、ぽつりとした声に、隣に座る日本は顔を上げた。 「気にしていた。お前の事を」 歳若い、新興国の姿が脳裏に浮かぶ。 実直で生真面目な彼が眉間に皺を寄せて苦悶する姿を思い、日本は眉を潜めた。 すいません。思わず出そうになったその言葉を、すいとプロイセンが手で制す。 「謝るなよ」 俺も謝らない。これは戦争だ。 謝罪を口にするという事は、自分の決めた行動を否定し、加害者である事を認めることになる。 国際社会においてそれがどれだけ危険な事なのか、お前はきちんと理解しろ。 日英同盟は勿論ドイツも知っている。そして、日清、日露の戦いの経緯も然り。 だからこそ、日本の参戦はやむを得ないと、ドイツも納得した上での交戦だっだ。 しかし、宣戦布告しを受けた際、寧ろ彼が懸念したのは、そこでは無い。 「お前がイギリスの野郎に騙されたんじゃねえか、って心配していた」 お前昔っから、ほんっと、直ぐに人の言う事を真に受けるからな。 馬鹿みてえにお人好しなお前が、 あのクソ眉毛の狡猾な二枚舌にまんまと誑かされてしまったんじゃねえかって。そっちを気にしていた。 投げやりなそれに、くすくすと日本は笑う。 「師匠もドイツさんも、随分イギリスさんを嫌っていらっしゃる」 良い例が、野戦病院の図書の件だ。 青島攻略後、日本軍は青島の病院内に保管されていた、大量のドイツ医学書を譲り受けていた。 ドイツ衛生部門が個人として所蔵していたものではあるが、責任者が日本軍に対する厚意として進呈したのである。 その際、責任者が一つだけ提示した条件が、 「但し、一冊たりとも英軍へ渡さないと約束して欲しい」というものであった。 二国の険悪な関係が、如実に表れた話である。 一体何があったんですか、イギリスさんはとても紳士でいらっしゃるのに。 実に不可解そうに小首を傾ける日本に、当然だろうがとプロイセンは噛みつく。 お前こそ、その謎のフィルターを外せ。何処をどう見りゃあの極悪野郎が紳士になるんだよ。 ふと、運転手が日本に声を掛けた。早口で地方の訛りが強いそれは、プロイセンには聞き取れない。 軽妙なやりとりの後、日本は小さく笑って頷いた。 「よろしければ、少しだけ寄り道しませんか」 否は無い。諾を伝えると、日本は了承の意を運転手に伝える。 それに、運転手は嬉しそうな様子で道を曲がった。 「騙されてなんかおりませんよ」 生憎、そこまで落ちぶれてはおりません。これは、我が国の利益を優先した上での判断です。 「上等だ」 「師匠の弟子ですから」 互いに不敵な笑顔を交わし合う。そう教えた、そう学んだ。 「とは言え、流石にこう来るとは思わなかったけどな」 小さくプロイセンは息をつく。 実際、参戦こそ予測していた物の、日本の執った作戦は全くの予想外であった。 青島での戦いに参加したドイツ兵は、およそ三千。 本国より離れた植民地に兵の補充はままならず、その殆どが、現地で生活を営む民間人からの義勇兵である。 そんななけなしの兵力に対し、日本が投入した兵は、なんと二万。 桁が違う。無駄に多過ぎる。常識では考えられない兵力差だ。武力云々以前に、歯が立つレベルの問題ではない。 事実、兵の補充を待つ事さえ無く、日本の常識外れの人海戦術に、青島における日独戦は実に呆気なく終結した。 「やるからには手を抜く事無く、徹底的に。貴方から教えられました」 我々は、ドイツ兵を甘く見ません。彼らの勇敢は聞き及んでおります。 そんな彼らへの礼儀として、こちらも全力で御相手させて頂きました。 生真面目に告げるそれに、プロイセンは軽く首を傾ける。 「そうすることによって、兵の損失を最小限に食いとめた訳だ」 税の投入を顧みず、数で圧倒する事により、 自国兵と、そして敵国であるドイツ兵の損失を最低限に抑えた。 「最もリスクの少ない、最善の方法ですから」 「そして、他の諸連合軍から、ドイツ兵を守った訳だ」 電光石火の作戦で、他国の干渉や、横やりや、追軍の参加や、 険悪な間柄で敵国に容赦の無いイギリスや、俘虜の扱いの悪さに定評のあるロシアから。 確信を持って言い切るプロイセンに、日本はイノセントに目を細めた。 答えは無い。プロイセンも、日本からの答えは求めていない。その曖昧な笑みだけで充分だ。 「お前、馬鹿だろ」 「心外ですね」 くすりと笑う日本に、否、馬鹿だ。プロイセンは念を押すように繰り返す。 何を考えているのか、心底呆れる。何が自国の利益だ、ふざけやがって。 ふと、軽い振動と共に車が止まった。振り返った運転手が、何かを日本に告げる。 「着きましたよ」 どうぞ。促され、ドアを開いて車から降りた。 何も無い場所だ。 町からはまだ遠く、街灯のない田舎道は田園に囲まれ、周囲の視界を遮るものは無い。 怪訝に眉を吊り上げるプロイセンに。 「もう少しですから」 ちょっとだけ、こちらでお待ち下さい。 何を待つのか判らぬまま、まあ良いかとズボンのポケットに手を入れ、日本に並んでボンネットに軽く凭れる。 見上げる空には、零れ落ちそうな程の星が瞬いていた。 街の喧騒も無く、遠くに、近くに、蛙や虫の声が聞こえる。 日中の蒸し暑さも落ち着き、季節の移ろいを含んだ風が頬を撫でた。 「なあ、日本」 「はい」 視線は空へと向けたまま。 「ドイツは負ける」 楽観はしない。弟と違い、彼はあくまで現実的だ。 元より、シビアな先が見えていた開戦であった。 短期戦が失敗した以上、資源に乏しいドイツに勝ち目はない。 しかもこれだけ大規模に広がった大戦だ、引くに引けない泥沼戦、 誰かが責を背負わなくては、収まりの付かない状況となっている。 眉間に皺を寄せる日本に、ちらりと視線を向けて。 「喜ばねえんだな」 俺が負けるってことは、お前が勝つってことなんだぜ。 「……喜べません」 きっと、この収容所のある村の人々も同じ気持ちでしょう。 今回の参戦は、今までとは立ち位置が異なっていた。 追い詰められ、咽喉元に刃を突き付けられ、やらねばやられるという必要に駆られたものでもなければ、 敵国が憎かった訳でもない。あくまでも、外交上の取引に過ぎなかった。 陰鬱に俯く日本に、プロイセンは眉を潜めた。 素直に喜べば良い。勝利に酔えば良い。己が力を称賛し、桂冠の如く見せつけてやれば良い。 勝者にはその資格があるのだ。敵対する国を思い、心を痛めるなど、何と甘く愚かな事か。 だから気になるんだよ、だから目が離せねえんだよ、 だから見守りたかったんだよ――少しでも近い場所から。 「……あ」 ひゅう、と何やら空を割く音に、日本は顔を上げた。 星明りの下、あちらですねと示された方へと仰ぐ。 なんだと目を凝らすと同時に、どん、と身体に響く重い音。 戦場の爆音を思わせるそれに身体を固くした瞬間、はっとプロイセンは瞠目した。 空に――花が咲く。 漆黒の天空に、幾つもの細い軌跡を描き、先細りながら闇に溶け込む光の曲線。 数拍の後、またも同じく打ち上げの音が続き、ぱっと夜闇に花弁が開いた。 今度は二つ、連なって開く。弾けるように開く。七色に変化する。光が弾ける。 時間差を置いて、無数の花が咲き乱れる。 「祭りが最終日の今夜は、毎年恒例で花火が打ち上げられるようです」 折角わざわざドイツから足を運んだのだから、是非日本の花火をご覧に……と、彼が薦めて下さいました。 どうやらそれが、先程の運転手との遣り取りであったらしい。 振り返り、運転席を覗き込むと、坐したままの運転手が笑顔で頭を下げる。 にやりと笑い、プロイセンは彼に軽く手を上げた。 一定のリズムを置きながら、途切れることなく、花火は次々に打ち上げられる。 広大な夜の闇に、生まれては消える大輪の花。 「……すげえな」 腕を組み、素直にプロイセンは感嘆する。勿論自国にも花火はあるが、もっと音と煙のみが主張するものだ。 ここで見られるものとは、質が全く違う。 重なる事の無い様々な形状、何と種類が豊富な事か。鮮やかな色彩。尾を引く炎の軌跡。網膜に残像を残す光の帯。 漆黒の空を飾る一瞬の芸術。消え入る、夢幻の残像。瞬きの間に全てを凝縮させた命。 ああ、これは目が離せない。 目が、離せない。 「なあ、日本」 「はい」 「次に来た時は、お前の家に泊めてくれ」 「勿論です」 「マンジュウ、用意しておけよ」 「貴方の浴衣も、直ぐ出せるようにしておきますね」 疾走する馬の背、丸まった少年の背中ががくりと横に揺れる。 「しっかりしろっ」 死にたいのかっ。鈍器で殴られるような喝を込めた剣士の怒声に、その肩が跳ねた。 我に帰った少年騎士は、頭をぶるぶると横に振り、拡散する意識を取り戻す。 走る馬、転がり落ちれば命に関わる。はい、と歯切れよく返事をし、縋るように手綱を握り直した。 しかし、無理もない。ほぼ不眠不休と言っても差し支えのない、かなり無茶を押した道程だ。 馬も実に良く走っている。 ここまで持ったのは、偏にあの時攫ってきたのが、 フランス王宮近衛兵の中でも、選りすぐりの名馬であったからだろう。 少年騎士はよく頑張っている。大したものだと褒めてやっても良かろう。 しかし、それ以上に化け物じみた持久力を見せているのが、先頭を走る彼女、菊である。 早く、早く、一刻も早く。その先へと進む為に。 山を越え、川を渡り、森を抜け、荒野を駆け、帝国時代の街道を、三人はただひたすらに走り続けた。 やがて、村から町へ、人の住む間隔が少しずつ狭まり、 通り抜ける景色に都市への予感が見え始める。 そして、最後の田舎道を通り抜け。 「見えました」 その声に、剣士と少年騎士は砂埃で煙った向こう、疲労に腫らした眼を凝らす。 「ローマです」 収容所に関しては、板東俘虜収容所を参考 捕虜と俘虜の違いの件は、某ガイドさんの受け売りです 第一次大戦の普日変換余裕です 記録を見て、これしかないだろうと確信しました 2012.09.12 |