黒鷲は東の未来より舞い降りる
<23>





ぱらり、ぺらり。ページを捲る音が、執務室の静けさを強調させていた。 それを耳に流しながら、頬杖を突いた姿勢で、観察するようにソファーに腰掛ける同盟国を眺める。
最初は奇妙に見えていた異国の顔立ちだが、凹凸は少ないものの、目鼻立ちのバランスは悪くないよな。 睫毛だって、長くはないけれど、意外に量は多いらしい。 女っぽく見えるのは、顔立ちもそうだが、線の細そうな首筋の所為か。 でも、ページを捲る指は、意外にしっかりと骨太であるらしい。
一番最後のページがめくられた所で、彼は小さく息をついた。 手にある資料を律儀に整え直すと、無表情のまま、暫しその表紙の文字を見下ろす。
長いアルファベット表記の題名の中には、「講和会議」の単語が入っている。 間も無く開催される国際会議のものだ。 先日、最後まで抵抗を続けていたドイツが降伏し、漸く世界に広がった大戦が終結した。 これは、その協議に関する草案である。
「これから大変になるでしょうね、ドイツさんは……」
資料に書かれてあるドイツへの賠償請求額は、兎に角余りにも膨大なものであった。 まるで今回の大戦の全責任を、かの国が一手に背負い、課せられたようなものである。 先の事など判らないが、果たしてこれだけの金額、清算を終結させるのに、どれだけの年月が必要となるだろう。
「当然だろう」
奴らは最後まで抵抗し、ここまで戦争を長引かせた張本人だ。 今後こんな事が起きない為にも、見せしめの為にも、それぐらいは然るべきだろう。 落とし前はしっかりつけてもらわないとな。
しかし、ドイツ国内でも、当然被害は受けている。被災した市街地は数多く、 殆どの植民地を奪われ、働き手は失われ、しかも最大の工業地帯は他国の占領が予定されていた。 そんな手枷足枷された状態で、更にこれだけの負債を負うともなれば、経済が麻痺するのは目に見えている。
それでも、これ程の賠償金の請求を、推し進めると言うのか。 これでは、ドイツに破綻しろと言っているようなものではないか。 果たして、この制裁は今後も国家間、引いては民間の子々孫々にまで、怨恨の連鎖を作り兼ねないのではないか。
思案する日本に、そんな事よりもと少し小首を傾げて。
「お前は、本当にそれでいいのか?」
同盟国からの要請に応えて参戦した日本は、当然戦勝国に準ずる。 参戦した以上、敗戦国に対して賠償請求の権利を持つが、しかし日本が彼らに要求したのは、 ドイツが植民地支配した東南アジアの一部利権と、 今は政権が代わり中華民国と名を変えた、隣国の山東地方の所有権のみである。 参戦した他国に比べれば、実にささやかなものであった。
「ええ、充分です」
元々、私の参戦は極僅かな物でしたから。穏やかに微笑む日本に眉を潜める。
「だから俺の言う通り、欧州戦線に参加すれば良かったんだよ」
幾度となく要請した欧州戦線への参戦に、日本は頑として首を縦に振らなかった。 重い腰を上げて漸く軍を派遣したものの、兵は海軍のみ。 しかもその活動は、護衛や救助に限られたものであった。
「欧州は、あまりに遠いので」
それが、日本側から繰り返された理由であった。
日本と欧州はあまりにも遠い。 沢山の兵を派遣したとしても、その移動だけで疲労する事になり、 追軍や軍備や物資の補充には困難を強いられるだろう。 その上、幹部クラスなら兎も角、一般兵にとって欧州は未知の世界だ。 文化も、気候も、食事さえ全く異なる他国での環境は、大勢の一般兵にストレスを上乗せする事になる。 戦場という極限の状態において、危険な要素となるだろう。
「皆さんの足を引っ張ってしまっては、申し訳が立ちません」
そうか? いまいち腑に落ちない顔で腕を組み。
「海に関しては、お前になら、いろいろ任せられると思っているぞ」
何と言っても、海軍はこの俺の直伝だ。下手な諸国よりはずっと連帯し易いだろう。 それに、俺達の力を奴らに見せつけてやれる、良いチャンスだったんだけどな。
「そんな。勿体無いお言葉です」
世界一と謳われる海軍を持つ方にそんな風に言って頂けるなんて、お世辞とは言え恐縮です。 申し訳なさそうに首を横に振った後、しかしはにかみながら、ほわりと控え目に笑う。
「でも、とても嬉しいです」
常に姿勢を崩すことなく何処までも生真面目な日本は、時々こうして酷く柔らかい感情を垣間見せる。 綻ぶような笑顔に訳もなくうろたえ、そんな自分を隠すように、打ち消すように、つい慌てた声が上がった。
「べ、別にお前を褒めた訳じゃないぞっ」
ただ、先の海戦では、こちらが考えていた以上の結果を出したし。 俺が教えてやっただけに、軍としても、あ、相性は、悪くなさそうだし。そう、それに。
「黄色人種なのに、ここまで出来るとは思わなかったからな」
勘違いするなよ。それだけなんだからな。 やや視線をうろつかせながらの同盟国の発言に、日本は目を細めた。
数拍の間を置いて、殊更にっこりとした笑顔を返す。
「……ありがとうございます」























足音高く廊下を進む彼らの後を、案内の修道士はやや困惑顔で追いかけた。
ドイツ騎士団総長は、常にこの関連教会を、ローマでの活動の拠点として利用していた。 フランスからの旅路のまま、迷うことなくここへと足を運んだ一同は、 切羽詰まった勢いで総長との面会を申し出る。
「どうしても、総長にお話ししたい事があるのです」
事前の取り付けも無く、無礼は承知の上です。でも、時間がありません。 申し訳ありませんが、急ぎ取り次ぎをお願いします。
乱れた呼吸、土埃で汚れたマントと擦り切れたブーツが、彼らの旅の道のりを雄弁に物語る。 身嗜みを整える暇さえ惜しんでやって来た来訪者の気迫に押され、 戸惑いながらも内部へ招いたのは良いのだが。
「あの、彼は……」
ちらちらと彼が視線を向けるのは、一番後ろからついて来る大柄の剣士だ。 彼の姿は、どう見てもフランス近衛兵のものである。
「彼は大丈夫です」
責任は私が持ちます。決して不審な人物ではありません。
「そう言う事だ」
にやりと不敵に笑う剣士に、しかしとうろたえる。
何せ、総長共々フランスに拠点を持つ騎士団関係者が、まるで追われるようにローマに到着したのはつい先日だ。 ただ事ではない状況に、警戒しない方が無理だろう。
「総長はどちらの部屋に」
「あ、こちらですが……」
でも、しかし今は、その。
部屋の前で、もう一度戸惑いを見せる。 それに、お願いします、縋るような声に背を押され、彼は意を決して厚みのある木製のドアをノックした。
内側から、渋みのある声が返される。
「総長に、緊急でお目通りをとのお客様がお見えです」
暫しの間。探るような気配に。
「総長、菊です。フランスを経由して、こちらに参上しました」
声を上げると、ドアの向こうの驚きが伝わった。 中に、その返事に漸く扉が開かれる。
「失礼しますっ」
転がるように入室する来訪者を目に、冷静沈着と言われるドイツ騎士団総長は、 まるで幽霊でも見たかのように目を丸くした。
「本当にキクか?」
どうしてお前がここにいるのだ。フランスから来たといったが、どういう事だ。 まさかの登場に、思わず執務机から腰を浮かせる。 菊は姿勢を正すと、入り口の傍から丁寧に礼を払った。
「突然の無礼をお許し下さい」
でも、どうしても、急ぎで直接お話ししたい事がありまして。
続く言葉が、先細る。総長の執務室の前、こちらに背を向けて立つ長身の姿に、菊は瞬きを繰り返した。 どうやら来客中であったようだ。しまった。一瞬身を引くが、しかしその後ろ姿に、遠い記憶の残像が重なる。
まさか。まさか、そんな。
呆然とするこちらに、彼はゆっくりと振り返った。 向けられた面差しに、菊はその目を大きく開く。ああ、何と言う事だ。
「……ド、イツ、さん?」
零れた声が震えた。
同時に頭の中に、日本としての最後の記憶がフラッシュバックする。 そうだ、彼はあの瞬間、自分に一番近い場所に居た。あの時、共にこの世界に飛ばされたのであろうか。 しかしまさか、ここで貴方に再会できるなんて。
思わず駆け寄ろうとした所で。
「――彼女は?」
振り返り、総長に伺う彼の様子に、はっと足が止まる。
「丁度良い、紹介しよう」
大丈夫だ、彼女は信頼できる。以前話した事があるだろう、彼女が例の騎士団員の菊だ。 総長からその名を告げられ、ああと彼は納得したように頷く。
「キク、こちらへ」
招かれ、彼の正面に立つ。
僅かに見上げる位置にある青い瞳は、真っ直ぐこちらを見下ろしていた。 額に掛かる金の髪、爽やかな青い瞳、通った鼻筋に、きりりとした目元と、知的な薄い唇。 記憶の彼と重なる風貌に、目が離せない。
初めまして。君の話は、総長やドイツ騎士団から聞いていたよ。 微かに口元を綻ばせ、彼は指の長い手を差し出す。
「私は、神聖ローマ帝国だ」





似ている、と思う。 もしかすると、兄弟と公言していたプロイセン以上に、似ているのではなかろうか。 ただ法衣のようなゆるりとした衣服に隠された身体は、 筋肉質であった彼に比べると、やや痩身なのかもしれない。
神聖ローマ帝国に関しては、イタリアやプロイセン、フランス等からも、話の折りに聞いた事がある。 ドイツを中心にした連合国家は、しかし彼らの話の中では、 成長を見る事無く、幼い子供の姿のままに消滅したと日本は記憶していた。 しかし、今ここに立つ彼は、少年から青年へ向かう頃であろう体躯を持っている。 丁度、プロイセンからの指示を終え、成長著しかった頃のドイツを彷彿とさせた。
まず、聞かせてくれないか。口を開いた総長に、菊は神聖ローマ帝国から視線を外し、はいと向き直る。
「お前がここまで辿り着いた、その経緯が知りたいのだが」
ヤドヴィガ王妃の厚意で、お前は大学の聴講や図書の閲覧の為に、ポーランドに滞在している筈だろう。 ドイツ騎士団から領地への帰国命令は出していなかったと思うが、違っていたのだろうか。
「……騎士団の資料と照らし合わせたい件があって、たまたま修道院に帰還しておりました」
まさか、黒十字のペンダントの文字が消えたからとは言えない。
「その時、フランス王からの依頼の話を聞いて、嫌な予感がしたのです」
十字軍の再開とは思えませんし、何故自国の傭兵を使わないのか、 何故海での戦いに経験が乏しいドイツ騎士団にそんな依頼をしたのか、不自然を感じました。 その上で修道院の資料を確認し、騎士団に対するフランス王国の負債額を目にし、嫌な予感を覚えたのです。
真実と当たり障りのない言葉を織り交ぜての説明に、総長はふむと頷いた。
「……そうか」
修道院にいた頃から、お前は驚くほどに察しが早く、論理的で、そして勘が良い。 時々未来を読んでいるのではないかとさえ思う程だったが、今はそれに感謝しなくてはならんな。
感心する総長に、勝手な憶測であはりますがと前置いて、菊はずっと確認したかった疑問を口にする。
「ドイツ騎士団本隊が向かったのは、ロードス島でしょうか」
それに、総長は瞬いた。
「良く判ったな」
どのように合流するか、戦闘支援をするかが未定であったので、 混乱を避ける為にも、極限られたものにしか行先は伝えていなかったのだが。
「ロードス島には、ロードス騎士団がおりますから」
地中海へ修道院騎士団の援軍、そんな依頼内容を聞いて連想しました。 ふむ、と総長は頷く。流石に話が早い。
「しかし、どうも対応が不明瞭で困っていた」
戦場へ赴く以上、命に関わる事でもあり、双方の為にも出来るだけ密に連絡を取り合いたい。 合流した現地にて詳細を明らかにする場合もあるのだが、それにしてもと不審に感じ、 改めて契約書の内容を確認した際、ある事に気が付いたのだ。
総長は少し離れた場所に立つ、菊と共にやって来た少年騎士へと視線を流す。
「こちらへ」
「はい」
「君は確か、書記を務めていたね」
騎士団入団後、彼はその学士としての能力を見出され、語学やカノン法を学んでいる。 今回隊長が彼を同行させたのは、その達者な語学力が菊の役に立つとの推測もあった。
執務机の引き出しから、総長は豪華な飾りのついた箱を取り出すと、丁寧にそれを机の上に置く。 蓋を開くと、中にはくるりと巻いた、厚みのある羊皮紙が収められていた。 紐を解き、少年騎士と菊が見やすいように、それを開いて見せる。 どうやら、今回の依頼の件でフランス王と取り交わした契約書であるらしい。
「二人とも、ラテン文字は読めるだろう」
「はい」
「少しですが」
この時代、公的な書類や記録には、ラテン語を使用するのが一般的だ。 この契約書も例に違わず、記されているラテン文字を少年騎士と菊は目で追った。 長い文面には、依頼に関する内容や取り決めが細々と連ねられている。 やや言い回しが複雑であるものの、依頼内容としては良くある文面だ。
しかし、問題なのはその中の一つ。
「ここを」
項目の一つを指で示し、少年騎士へと視線を向けて。
「これをフランス語に訳す事は出来るかね」
はいと頷くと、少年騎士は書かれてある内容を、流暢なフランス語にして読み上げた。 終えたところで、総長はくるりと契約書を裏向ける。
「では、今口にしたフランス語を、ドイツ語に訳して聞かせてくれないか」
頷き、訳したドイツ語を紡ぎ、しかしその途中ではっと少年騎士は口を噤む。
「……気が付いたか」
内容を簡単に纏めると、依頼を受ける間はフランス王の命に従うように、とのものである。 一見すると、何と言う事の無い文面だ。傭兵依頼の際には珍しくない。 しかし、ラテン語から直接ドイツ語に訳した場合は、に限られる。
「この文面は、一度フランス語に訳し、そこからドイツ語に訳すと、解釈がやや変化するのだ」
翻訳で生じる差異を使ったトリックだ。 直接ラテン語からドイツ語に訳した時とは、やや微妙に異なった性質の意味を孕むようになる。
つまり? 怪訝に眉を潜める菊に、少年騎士は苦い顔をする。
「契約内容が完遂されるまで……ドイツ騎士団はフランスの支配下に置かれる、となります」
乱暴な解釈をすれば、契約を果たさなければドイツ騎士団は、 その兵も、領地も、資産も、全てがフランス王の物となるとの意味が含まれているだ。
「それは。いくらなんでも考え過ぎじゃないか?」
話を聞いていた剣士が、思わず声を上げる。 ラテン語で交わした契約書だ、各々の言語に訳したもので遂行する。それが普通だ。 二重に訳してそれが契約だなんて、そんな妙な言い掛かりなど突っぱねれば良い。
そうだな、総長も頷いた。確かに普通はそうだろう。 だが、狡猾なフィリップ王が付け込むには、充分な隙でもある。
言葉もなく息を飲む菊の脳裏に、フランスの言葉が過ぎる。あれはね、ちょっとヤバいよ。 そう、彼の言っていた通り、これはかなり危険な契約であった。
「その真意を確かめるべく、フランスへ向かったのだが」
要領を得ない取次に、総長が不審と身の危険を感じたのは早かった。 元より、絶対王制を掲げるフィリップ王が、修道院を過剰なまでに敵視していることは知っている。 嫌な気配に、火の粉を被らぬようにと、王都の施設関係者も引き連れて、ローマまで逃げて来たのだが。
「賢明な判断だった」
神聖ローマ帝国は言いながら、腕を組む。
後で知った事だが、どうやらフィリップ王は、ドイツ騎士団に対し異端の嫌疑を向けていたらしい。 しかもあろうことか、ドイツ騎士団総長をそのまま監禁する準備さえあったようだ。
「馬鹿馬鹿しい、何故我々が異端視されねばならないのか」
心底憤慨した様な総長の横、静かにこちらへと向けられる神聖ローマ帝国の視線に、菊は気が付いていた。 そっと目を伏せ、胸元、服の内側にある黒十字に手を当てる。
「原因は、私ですね」
医療奉仕や修道女でなく、騎士として身を置く女がいる……通常、修道院騎士団としては有り得ない事だ。 異端尋問に掛けられた場合、先ずそこを突かれることは想像に難くない。
恐れながら、総長。一度姿勢を正して向き直り。
「菊は騎士団を脱退致しました」
手短に出立直前の脱退の経緯を説明すると、総長は驚いた表情から、やがて険しく眉間に皺を寄せるようになった。 そんな事があったのか、厳しく唇を引き締めて腕を組む。
「しかし……東方遠征は初耳だ」
恐らくそれは、新しい副総長の独断の判断であろう。副隊長とは言え、勝手な行動は許し難い。 しかし問題なのは、それが本当なら、地中海へ向かった本隊への援軍が不可能だと言う事だ。 菊にまで従軍を命令したというのなら、恐らくは予備の部隊も含めた全部隊を、東方へ送ったのであろう。
「実は、ローマに来たのは、教皇に助力を仰ぐ為であった」
フィリップ王がこれらの不審を故意に仕組んだとするならば、 神の騎士たる修道院騎士団に対し、あまりにも悪質で許し難い暴挙である。 教会の最高指揮官に訴える為に、ローマまでやって来たのだが。
「無理だ」
眉間に皺を寄せた神聖ローマ帝国は、ゆっくりとかぶりを振った。
「残念ながら、今のローマ教皇にはそれだけの力が無い」
今や、フランス国王の力は強大だ。ローマ教皇と言えども、彼の権力に圧され、屈しつつある。
良い例が、前任のローマ教皇ボニファティウス八世の受けた恥辱、アナーニ事件だ。 教皇に対し異端と買官の容疑をかけ、イタリアのアナーニにて一方的に捕えたのは記憶に新しい。 その怒りと心労から、ボニファティウス八世は間も無く他界してしまった。 現在は別の人物が教皇に昇任しているものの、 何故か登位した直後に突然体調を崩し、現在は床についたままの生活が続いている。
「恐らく、近い内に新たな教皇が任命されるだろう」
現教皇の病状から、既にその動きが教会内で進められている。
「最も候補とされているのが、クレメンス四世という人物だ」
その名前に、はあ? と剣士が声を上げた。
「冗談じゃない。間違いなく、そいつはフランス王の手先だ」
元近衛隊であった剣士は、幾度となく彼を王宮で目にしていた。 彼はフランス出身で、今はボルドーの大司教を務めている。 気が弱く、常に周囲に怯え、フリップ王の顔色ばかりを気にする彼に、 王宮務めの近衛兵達も呆れと侮蔑の眼差しを向けていた。
そんな王の傀儡が、新たなローマ教皇になるだと?
「フィリップ王は、聖なる教会を貶めるつもりかっ」
「その通りだろう」
声を荒げる剣士に対し、神聖ローマ帝国は落ち着いていた。彼の動向は、教会でも警戒されていた。 絶対王制を掲げるフィリップ王にとって教会の権威は、己の野望の邪魔ものでしかない。
「もう一つ……ある」
更にもう一つ、ドイツ騎士団にとっての不運があった。
「実は今、ロードス島にロードス騎士団は居ないんだ」
現在、シチリア王の援助の元、マルタ島へと移動している最中だろう。私が斡旋したのだ、間違いない。 静かに告げる神聖ローマ帝国に、菊は目を見開き、総長は額に手を当てた。
ロードス騎士団は確かにロードス島を拠点とし、勇敢と英知でもってイスラムの猛攻と戦い続けていた。 しかし近年は財政の圧迫により運営が困難となり、 シチリア王の保護を受け、マルタ島へと本拠を移転する事に合意した。 神聖ローマ帝国は、以前よりその相談を受けていたのである。
「ロードス島戦は、ドイツ騎士団のみで立ち向かわなくてはいけない」
イスラムにとって、島にいるのがロードス騎士団であろうとドイツ騎士団であろうと、 キリスト教には変わりがない。 海戦に長けたオスマンの大軍を相手に、ドイツ騎士団はたった一団体のみで戦わなくてはいけないのだ。
「……打つ手なし、か」
まるで、四方から退路を断たれたようなものだ。 助けを求めるべき教会も、既に敵の権力に屈している。 契約通りに依頼をこなすにも、今から馬で追ったとて本隊に間に合うかどうかも危うく、しかも補充兵さえ居ない。 例え間にあったとしても、海での戦歴が豊富なオスマンに、果たしてどう立ち向かえると言うのか。 白旗を上げたとて、交わした契約がある以上、ドイツ騎士団はフランス王に吸収されてしまう。
長らく仕えた我らがドイツ騎士団の栄光と歴史も、最早これまでか。総長は長く嘆息した。 少年騎士団も、剣士も、沈痛に言葉なく佇む。
「私も、力になりたいのは山々なのだが」
残念ながら、神聖ローマ帝国には現在皇帝が居ないのだ。
歴史上、神聖ローマには大空位時代と呼ばれる、有力王朝没落の為に皇帝不在となった期間があった。 諸侯の力が増し、連合国家としての枠組みさえ不安定なこの時期に、必然か偶然か重なってしまったようである。
くるりと菊は総長に背を向けた。
「キク?」
背中に掛けられた声に、振り返らず。
「ドイツ騎士団を追います」
「待ちなさい」
足を踏み出す彼女を止めたのは、神聖ローマ帝国であった。
「無茶だ、死ぬ気か」
只でさえ、君は疲れている。 話を聞くと、ポーランドからドイツ騎士団領、フランス、そしてここローマまで、 殆ど休みなく移動して来たのだろう。 そのままでは、ロードス島に到着する前に倒れてしまう。 よしんば、ドイツ騎士団の元へと辿り着けたとしても、 果たしてそんな疲れ切った身体と頭では、いかな優秀な君と言えど、まともに対処できるとは思えない。
ぐいと腕を引き、正面を向かせると、両肩に手を乗せて言い聞かせる。察しの良い君なら判るだろう。 ここで自暴自棄になっても、何も解決しない。
「でも、このままではっ」
このままでは、ドイツ騎士団は。
未来からここまで来たのに。未来を変える事が出来るかもしれないのに。
まだ何もしていない。まだ何も叶えていない。こんな所で諦めたくはない。 神様が与えてくれた、最初で最後のチャンスを、こんな所で終わらせたくはない。
「お願いします、行かせて下さいっ」
振り切ろうとした腕は、しかし、触れる前に離れた。
同時に、引き攣った咳が、神聖ローマ帝国の口から零れる。 慌てるように菊から身を離すと顔を逸らせ、彼はは半身を折り曲げた。 片手で口元を押さえ、堪えるように、しかし堪え切れない咳は、なかなか止まりそうにない。
「大丈夫か、神聖ローマ帝国」
傍にいた少年騎士が近くの椅子へと促して座らせ、 デスクに置かれていた水差しを取り、注いだカップを彼に手渡す。
眉を潜めて伺う総長に、何とか咽喉を落ち着かせ、軽く片手を上げて頷く。 その横顔には、ゲルマン人の平均的なものではない、病的な青白さがあった。 大空位時代による神聖ローマ帝国の弱体化は、かなり深刻なのだ。
あまり風に当たるのは、身体に障るかもしれない。 菊は彼が立っていた窓際へ小走りに駆け寄り、開け放たれていた窓へと手を伸ばす。
そこで、ふわりと風に紛れる匂いに気が付いた。
これは何の匂いだろう。記憶の彼方の郷愁を思わせるそれに脳内に疑問詞が駆け巡り、やがてああと思い出した。 そうか、この街から遠くない場所に、どうやら海があるらしい。
思えば、この地に生まれてからこちら、ずっと触れる事の無かった香りだ。 懐かしい潮の香りに目を細め、瞼に大海原を浮かべ――そして、はっと瞠った。
「……総長」
きりりと理性的な声に顔を上げると、風が流れる窓を背に、菊が振り返った。
「行きます、ロードス島へ」





「菊が、ドイツ騎士団を救います」























やあ。朗らかな声に、足を止めて振り返った。
少し離れた場所から大きく手を振るのは、まだ若い、パワーとバイタリティに溢れた超大国である。 腰に手を当てたまま動かない様子に、こちらからの歩み寄りを待っているのだと悟り、彼の元へと足を進めた。
「久しぶりだね」
元気そうじゃないか。お陰様で。そちらは如何ですか。うん、まあまあだよ。 交わされるのは、差し障りの無い挨拶。
「君の所も、随分と景気が良いみたいだね」
所謂、戦争特需である。
戦争の当事国が総力戦を強いられ、国内生産が滞る中、不足しがちな物資を第三国に求めるのは自然な流れだ。 今回その恩恵にあやかっているのは、国土が広くて欧州から距離のある彼と、 近代化に漸く追いつき始めた日本である。
特に日本は、開国当時には軽産業しか目ぼしい輸出品が無かったものの、そこに近年は重化学産業が加わり始めた。 高額な給与で外国人を雇い入れ、その技術を血眼になって吸収した成果である。 凝り性で手先が器用な国民性が、機械産業に向いていたのかもしれない。
それが時流に乗り、戦争景気の煽りを受け、良い作用をもたらしたらしい。 国内の輸出産業は飛躍的に向上し、戦後の株価の上昇も手伝い、最近では戦争成金と呼ばれる富豪も増えていた。
「有色人種の君がここまでやるなんて、すごいんだぞ」
悪びれない彼に、瞬きを一つ。
「……ありがとう、ございます」
視線を落として丁寧にお辞儀をする。 黒い旋毛を見下ろし、ふと、前に重ねたその手が持つ資料に目を止めた。
「それは、今度の会議のものかい」
「はい」
先程、同盟国より受け取ったものだ。
「最近、君達は随分と仲が良いみたいだね」
酷いな、二国だけなんてずるいんだぞ。もっとオープンにするべきなんだぞ。 大体、君に開国するように勧めたのは、この俺なんだぞ。 ぶう、と子供のように頬を膨らませる彼に、苦笑を返し。
「彼とは、同盟を結んでおりますので」
仲良くするように、上司にも言われておりますし、それが約束なんです。 お互いに、困っている時や助けてほしい時は、手を貸し合おうって。
ふうん、何処か納得いかない面差しのまま、まあ良いけどね、ちっとも良くなさそうに拗ねた声を上げる。 それに日本は眉根を寄せ、誤魔化すように話題を変えた。
「今度の講和会議では、随分と皆さんからの期待を寄せられているそうですね」
会議では戦勝国のなかでも、特に力のある三国が中心となって進められる予定だ。 特に彼の国の代表者の一人であり、また大統領でもある人物は、 「正義の人」とも讃えられ、会議開催国では熱烈に歓迎されている。
まあね、嬉しそうに笑うと、どんと自らの胸を叩いた。
「俺は、正義のヒーローだからね」
世界を混乱に陥れた悪者は、ヒーローがきっちり懲らしめなくちゃ。 皆の平和を守るのは、ヒーローの役目だからね。
「だから君も、ちゃんと協力しなくちゃ駄目なんだぞ」
君はまだ知らないかもしれないけれど、この世界にはルールがあるんだ。 俺達が決めたルールなんだから、ちゃんと従って貰わなくちゃ困るんだぞ。


「最近の君は、アジアの癖に生意気だからね」


いっそ朗らかに告げられた言葉に、日本は目を瞠った。
向けられる笑顔はあくまでも無邪気だ。ああ、そうか。彼は幼い。 自分の力を無心に信じ込む事が出来る、まだ年嵩を重ねていない子供なのだ。
そして。とてつもなく大きな力を持った、子供なのだ。








敢えて一部の国名は出しませんでした
2012.09.24







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