黒鷲は東の未来より舞い降りる
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「そんなの、認められないんだぞ」
その宣告に、議会はしんと静まり返った。
参加国の代表達の、信じられないという意味を込めた視線が彼に集中する。 だが、それらをまるで意に介さず、議長である超大国は大きな声できっぱりと言い放つ。
「この案の可決はしない。以上だ」
進行係、早く次の議題に移るんだぞ。速やかに議題を切り上げるよう、傍にある司会担当者を促す。 誰が見ても乱暴な議論の終結ぶりに、日本は身を乗り出して起立した。
「待って下さいっ」
確かに画期的な内容ではあるかもしれませんが、これは倫理的に見て正当な主張です。 賛成国の弁論には説得力がありました。人道的視点から見ても非の打ちどころがないとの感想もありました。 演説の後には、最初は否定的であったにもかかわらず、賛成意見へと変更する国さえ多かった。 この案の具現の拒否は、有り得ないだろうとも断言する国さえありました。 答弁の流れからしても、可決の流れは目に見えていた筈だ。 第一貴方は、会議の前に私が相談した際、この決議については了承していた筈です。
それなのに、何故?
普段、日本は口数が少ない。 会議の際に何かを意見せず、常に周囲の状況に目配りし、言葉少なく他国に同調し、 「サイレントパートナー」とまで揶揄される程に存在感が無かった。 そんな彼が怒気さえ含めて主張する様を目の当たりにし、諸国は不思議なものを見るような眼差しを向ける。
「事実、既に投票の結果が出たじゃないですか」
たった今開示された多数決の結果は、十一対五。否定の倍の国が、肯定を支持していた。 文句なく、肯定派の圧勝である筈。それを、貴方は無かったものとするのですか?
「重要な案件は、全会一致でないと決定できないからね」
その暴論に目を瞠る。
今まで議会中にその意見が分かれた際は、公平に多数決を執り行うのが常であった。 確かに内容によっては、必ずしもそうでない時もある。 しかし今、事実、決議をする為に多数決を行ったのだ。そして、その結果さえ出たのだ。 それを、この一連を、全て覆すというのか。
「この会議の議長は、俺なんだぞ」
俺が認めないと条約は可決されない。それがルールだからね。
「じゃあ、次の話に行こう」
これで、この話は終わりだ。これ以上、この話題を会議に持ち出しちゃ駄目だぞ。君なら、判るよね。
人差し指で眼鏡を押し上げ、指の間からこちらを見据える青の瞳。 その言葉ではない雄弁なプレッシャーに、ぐっと日本は拳を握り締めた。
「書記係っ」
日本の鋭い声に、議会の記録係はびくりと肩を震わせた。
「今の流れを、正確に記録して下さい」
何処の国が、どんな合否を出したか。多数決による回答の数値の差が、どれ程のものであったのか。 今までの議会の流れと、それぞれの言い分がどのようなものであったのか。 そして、この決議をどういう形で終結させたのか。
何一つ零す事無く、正確に、明確に、違える事無く。この顛末を、後世の人々に伝える為に。


「必ず。必ず、記録に残しておいて下さい」


人種差別撤廃法案。
パリ講和会議にて日本が世界で最初に提案したこの決議は、 賛成多数であったにも拘らず、議長国の一言で否決となった。























古い建物が並ぶ構内に、時刻を告げる鐘が響いた。
案内された小さな応接室の中、その涼やかな音に、菊は窓の外へと視線を向ける。 この位置からは、往来を行き交う学生達の姿が良く見えた。 年齢層や出身は多彩で有れど、皆一様に非常に知的な眼差しを持っている。
当然であろう。 ここは宗教や文化、学問の中心の一つとされるイタリア、そしてその中でも屈指の歴史を持つ大学なのだ。
それを気にしていると捉えたのだろうか。失礼と断りを入れて、彼はぱたりと窓を閉めた。 賑やかな喧騒から遮断された室内、彼は簡素なテーブルにつく菊へと振り返る。
「驚きました」
まさか、貴方がイタリアにいらっしゃるなんて。
「突然の訪問、大変失礼致しました。パヴェウ博士」
姿勢を正す菊に苦笑し、軽く首を横に振る。
「私はまだ、博士には到達しておりませんよ」
未だ一介の学士に過ぎません。だからそんなに硬くなさらず。敬称も結構です。 穏やかに訂正するパヴェウに、失礼しましたと菊は恐縮する。
ポーランドの秀才法学士パヴェウは、菊も参加した件のヤドヴィガの裁判後、 間を置く事無くポーランドを離れ、ここイタリアに来ていた。 プラハ大学にて学士の称号を得ていた彼は、更なる学問を求め、今はこの大学に籍を置いている。
「王妃から、貴方は我が祖国に滞在していると聞いておりましたが」
確か、ポーランドの大学と、蔵書の閲覧を希望されていたとか。私の見当違いだったのでしょうか。 首を傾げるパヴェウに、いえその通りです、菊は軽く首を振り。
「貴方の書かれた論文も拝見しました」
「それはそれは」
「とても素晴らしいものでした」
確かに革新的なものではありますが、非常に感銘を受けました。 この普遍的な理念は、国際法の基盤に相応しいものかと思います。
菊の向かい側に腰を下ろしながら、パヴェウは目を細める。
「ありがとう」
それを理解して貰えるのが、ドイツ騎士団に籍を置く貴方というのも、やや皮肉な話ではありますが。
「素晴らしい学問は、生まれも、人種も、宗派も関係無く、普遍的なものであるかと」
それこそが、貴方が打ち出した法理念です。論文を拝見し、私はそう解釈しました。
少女じみた眼差しながら、真っ直ぐにこちらを見つめる菊に、パヴェウはやや眉を吊り上げる。 それぞれの共同体における権利は、国家や宗教や人種に関わりなく常に平等であり、 法や学問もそれに準ずる……口先だけではなく、彼女は確かに己が論文に目を通し、それを理解しているのだ。
「して、その討論の為に、わざわざイタリアまで?」
恐らく、私の打ち出す理念は、貴方の所属するドイツ騎士団の信念とは相容れないものでしょう。 騎士団を代表して、私に何か言いたい事がおありですかな。 私も、貴方とは是非一度、議論を交わしたいと思っておりました。
嫌な言い方ではないそれに、菊は少し眉根を寄せ、そして首を横に振る。
「いえ。私はもう、ドイツ騎士団ではありません」
それにパヴェウはぎょっと目を瞠った。 怒気さえ込めた眼差しで、射るように菊を見つめる。その指先が、僅かに震えていた。
「……どういう事ですか」
何があったのか、聞かせて頂けますか。
促され、菊はこれまでの経緯を説明した。 ポーランドからドイツ騎士団領に帰り、フランス王国の出来事と、イタリアへやって来た理由。 特に、ローマで騎士団総長と神聖ローマ帝国を交えての遣り取りは、出来るだけ詳細に伝える。
パヴェウは腕を組み、その短くはない話を、言葉を挟む事無く聞いた。 進むにつれて、彼の表情に険しさが宿り、増す。
ひと通りを終えた所で、パヴェウは深い溜息をついた。
「ローマ教皇に関しては、我々も聞き及んでおります」
この時代の法学、カノン法は、キリスト教の教えに基づいて作られたものであった。 法学者であるパヴェウにとって、その法の中心となるローマ教皇の権力とその進退は、決して他人事ではない。 この大学で同じ法を学ぶ者の中にも、フランス王の絶対王制に嫌悪を向けるものは少なくなかった。 法学士にとって、自らの学問の根底を、土足で踏み荒らされるようなものである。
最も尊重されるべき「法律」が権力に屈するなど、許されることではないのだ。
「この度は、断ってのお願いがあって参りました」
菊は椅子から立ち上がり、テーブルを回り込んでパヴェウの元へと近付いた。 そしてその彼の前で片膝をつくと、丁寧な仕草で胸に手を当てて、首を垂れた。 パヴェウは眉間のしわを深くする。
「貴方に、裁判の弁護をお願いします」
裁判? 思わず鸚鵡返しに声を上げるパヴェウに、菊は顔を上げて頷く。
「フランス王との契約は不当なものであると、裁判で証明して頂きたいのです」
ドイツ騎士団の最も足枷となっているのは、矢張り例の契約書である。 あの契約がある以上、まるで勝ち目の見えないロードス戦にて勝利しない限り、 ドイツ騎士団はフィリップ王の手中に収まる事になるだろう。
フィリップ王の権力は絶大なるものの、フランス王国とポーランド王国は地形的に距離があり、関係も薄い。 王の影響力が及ぶ事無く、またその懸念も必要ないだろう。 そのポーランドにおける最高の法学者であり弁護士たる彼であるならば、 フランス王の権力屈する事も無く、必ず正しい判決へと導く事が出来るに違い無い。
「……この私に、ドイツ騎士団の弁護をしろというのですか?」
パヴェウは小馬鹿にしたように唇を吊り上げた。
「貴方は、法で正義を取り戻せる力をお持ちです」
正義? 肩を揺らし、パヴェウは笑った。 最初はくつくつと嘲笑を含めたそれが、やがて肩を揺すり、腹を抑え、大きな声を張り上げた。 わざとらしい程のそれを、菊はただ黙って見つめる。
やがて狂ったような笑いを収めると、パヴェウは視線を落とし、腹の底から溜息をついた。 滲む涙を指先で拭う。それでも、拭いきれない滴が、頬を伝った。
「私は、マゾフシェ地方にある小さな町の出身です」
ポーランドの中でも片田舎な地方ではあったが、長閑で、穏やかで、平和な町であった。
両親は貴族であり、パヴェウの学問への情熱を正しく理解しており、それに応えるようにパヴェウも学問に励んだ。 裕福な家庭環境に恵まれ、秀才と謳われ、早くから彼は国でも屈指の学士になるだろうと有望視されていた。 そして自身も、その将来に疑いを抱く事が無かった。
それを奪ったのは、ドイツ騎士団だ。
突然町にやって来た彼らは、平和な町を蹂躙し、炎で焼き、残虐の限りを尽くし、あらゆるものを略奪した。 貴族であったパヴェウの家族は、彼らの格好の標的となった。 改宗という名の彼らの正義の元に、家も、財産も、そして両親の命さえ、パヴェウから奪い去ったのだ。
幸いにも、事情を知る名士からの支援があり、パヴェウはここまで学ぶ事が出来た。 理不尽な侵略に全てを奪われ、それでも遅れを取り戻すように、必死になって学問に打ち込んだ。 そして漸く、ここまで辿り着く事が出来たのだ。
正直に言いましょう、そう前置いて。
「私はドイツ騎士団が憎い」
私がここまで学問に打ち込んだのは、そのベースにドイツ騎士団への憎しみがあったからだ。 彼らの理不尽な侵略に対し、力では無く知性で対抗すべきだと悟ったからだ。
そんなドイツ騎士団への復讐の為に培った知識を、ドイツ騎士団を救う為に使えと、そう貴方は言うのか。
「貴方は一流の弁護士です」
ヤドヴィガ王妃の裁判の貴方を拝見して、私はそれを確信しております。
「憎しみの対象であるドイツ騎士団を、貴方は確かに信じて下さいました」
あの時、ドイツ騎士団を証人に召喚すると決めたのは、他でもないパヴェウである。 一個人の憎しみの感情に左右される事無く、正義に対して公平な見方をしたからこそ、その判断が出来たのだ。 それは、一流の弁護士だからこそできる事なのではありませんか。
パヴェウは緩く頭を振った。
「私が信じたのは、貴方だ」
ドイツ騎士団ではない。ドイツ騎士団の中にいる、菊というの存在を信じたのだ。
菊の存在は、パヴェウにとって驚きであった。 生まれも、民族も、性別さえも超越して認められた彼女の存在は、 正にパヴェウが求める理想の具現でさえあった。 自分の中での理想が、最大の憎悪であり宿敵とも思う団体の中に存在している。 だからこそ、自分の歪んだ視点を正そうと思った。
「しかし、貴方はもう、ドイツ騎士団ではない」
椅子の上、パヴェウは力無く項垂れる。
彼らは貴方を切り捨てた。私にとっての理想を、彼らは切り捨ててしまった。 私には、もう彼らを信じる事は出来ません。
「でも……貴方は知っている筈です」
憎しみから生まれた情熱でも、復讐から得た学問でも、それでも貴方は一つの真理に到達したのではありませんか。 私はそれに深く感銘を受けました。そして私はそれを信じます。
生まれや、民族や、宗教では無く。国や、団体や、権力では無く。
「法は、全ての上において平等であると」
お願いします。
貴方の信じる法の正義の元、どうかドイツ騎士団をお救い下さい。





「……知人の弁護士を紹介します」
大丈夫、信仰深く、現在の教会の状況にも理解の深い、優秀で腕の確かな人物です。 それでも不足があるようなら、必ず私も彼をサポートする事を約束しましょう。


それが、私がドイツ騎士団の為にできる精一杯です。
そして、私がドイツ騎士団に力を貸すのは、これが最初で最後です。























会議の終了は早かったものの、しかし日本が会議に行われた建物を退出するには、随分と遅かった。 控室に残り、共に参加した部下達と話し合いに時間が掛かった為である。
何せ日本にとって今回の法案は、この国際会議において、最も主張したいものの一つであった。 故に事前に各国へも話を通していたし、その上で可決に自信を持ち、使命感と正義感に意気込んで会議に挑んだ。
それが、まさかこんな結果になってしまうなんて。
落胆の酷い部下達を宥め、本国への報告を纏め、以後進められる会議についてを打ち合わせる。 そうして、各々が責務を担い、順次退出し、 最後に残った日本が今後の資料を整理し、議会会場を出た頃には空に星が瞬いていた。
ぐったりとした身体と神経を引き摺るように、日本は大通りへと向かう。 公用車はそれぞれの部下に使わせたので、ホテルまでのタクシーを拾わなくてはいけない。
疲れた。本当に疲れた。歩きながら、日本はこめかみに手を当てる。
何が悪かったのだろう。申請には、正当な手順を踏まえた筈だ。 議案に上る前に、事前に参加国への打診も済ませていた。 それぞれの国の立場も踏まえ、無理強いする事も無かったし、それを踏まえた上での事前調査も完璧だった。 事実、多数決では可決さえしていた。
それを覆したのは、超大国の鶴の一声。
肺の底からとてつもなく重い溜息を零した所で、大きな通りに到着した。 左右へと首を巡らせるが、車が通りかかる気配はない。 それなりに人通りのある場所だと思っていたが、この時間になると違うのか。 首を傾げながら、日本はもう一つ向こうの通りへと足を進めた。
近年日本では、先進国へと移民する国民が増えていた。 資源や外貨に乏しい国内情勢に縋るよりも、開拓を目指した方が良いとの判断であろう。 寂しくはあるが、それもまた選択の一つだ。 事実、それで成功した者もいたし、元より手先が器用で勤労な国民性だ、 最初の内は良い労働力として歓迎されていた。
しかしその国民性が、職を奪う脅威として見なされるのは早かった。 勤労で、勤勉で、改良を求める向上心は、やがて労働者から雇用者へと変化する。 立場を変える移民に対する不満は確実に広がり、開国当初にあった黄禍論は、今や明確な排日論へと変化し、 彼らは常に一定の線引きをされるようになっていた。
そして、それは人だけではない。
日本が自分に課せられた見えないラインに気付いたのは、いつからだろう。 明確に区別される欧米諸国と自分との間の溝は、断固たるものであり、 こちらの歩み寄りだけでは決して埋める事が出来ないものであった。
最初は己の力不足によるものだと思っていた。しかし、やがてそうではない事を肌で感じるようになった。 どんなに努力しようとも、どんなに彼らに追いつこうとも、 この暗黙のラインは決して、決して消えるものではないのだ。
恐らく、自分が亜細亜である限りずっと。ずっと。
かつりかつりと響く自分の足音に、ふと日本は違和感を覚えた。 歩みを止めずに思考する。おかしい、幾らなんでも静か過ぎる。
確かにこの辺りは繁華街では無いので、夜になると人気も少なくなるだろう。 しかし、欧州でも最も華やかな場所と言われる国の更に中心地、 果たしてここまで人が少ない事があるのだろうか。
ゆらりと揺れる街灯の下、日本は歩調を乱す事無く、周囲へと意識を広げる。 規則的に並ぶ建物と建物の狭間、路上駐車された無人の車、ざわりと音を立てる街路樹。 そして――通り過ぎようとした小路の影から、音も無く伸ばされる腕。
すんなりした指が肩へと到達するその直前、ひらりと振り返るように身を交わしざま、 手の甲で相手の関節を払う動きは早かった。 淀みの無い動作のまま、腰を落として一歩踏み込むと。
「俺だ」
その声に、ぴたりと動きが止まる。
懐に入り、正確に相手の顎の下へと狙いを定めた手刀は、指一本分の隙間を開けた位置で静止した。 ここまでの一連に、カウント三秒もかからない。 咄嗟の反射神経が鈍っていない点は良しとしよう。 向けられる呆然とした顔は、なかなか間抜けなものではあるが。
「師匠……」
何故、貴方がここに。
パリでの会議は、戦後処理会議である。 敗戦国として、ドイツと共にプロイセンも共に参加をしているのは知っている。 しかしその彼が、こんな時間に、何故ここにいるのか。
「来いっ」
ぐいと乱暴に腕を取ると、そのまま細い路地へと引き摺り込む。 背後で動く気配に舌打ち、プロイセンは日本の腕を掴んだまま走り出した。この馬鹿が。
「お前、自分が何をしたか判っているのかっ」
これでこの東洋の島国は、「白人」を敵に回したのだ。 こいつはそれを判っていない。幾度となく忠告していたのに、その意味を何も理解していないのだ。
丸みを持たせていた日本の目が、すうと表情を無くして細まった。 抵抗しようと腕を引くが、握る指に食い込む様な力が込められる。 非難しようと口を開くが、声を発する前に振り返った彼に、じろりと睨みつけられる。
迷路のような路地を走り抜けると、やがて細い道路に出た。 その脇に停められていた車のドアを開くと、まるで投げ入れるように日本は中へと押し遣られる。 勢いにソファーに身を沈め、反動のままに起き上がると、バタンと目の前で乱暴にドアが閉じられた。
前から回り込み、反対側の運転席に乗り込んで。
「おまえは急ぎ過ぎなんだっ」
苛々した仕草でプロイセンはエンジンを掛ける。
確かに日本が提案した法案は、今でない未来、何らかの形で実現されるだろう。 しかしそれは大きな改変だ。突然の変化は必ず亀裂を生む。 もっと緩やかに、なだらかに順応させなくてはいけない。白人優位の歴史は、それだけ長かったのだ。
「今までの長い歴史を変えるには、それ相応の時間が必要なんだよ」
がくん、と荒々しく発車させる車の震動に、日本はシートにしがみ付いた。 ギアを操作しながらルームミラーを気にする横顔を眺め。
「……私は、突然世界に放り出されました」
長い、長い間、殆ど他国に触れる事無く過ごしていた。一人だった。 だけど平和であった。ぬるま湯のような、心地好い時間だった。
そこに、突然黒船がやってきた。 若い国に力ずくで開国を迫られ、右往左往しながらも、それでもこの短期間でここまで変化した。 今までの自分を脱ぎ捨て、新しいものを取り入れ、体制を変化させ、世界に対応することが出来た。
「私如きに可能であった変化を、貴方がたが成し得ない訳がありません」
違う、馬鹿。思わず声を荒げる。
「お前が、特別なんだっ」
基盤があったとはいえ、開国からこの短い期間、己を変えず、そして己を変化させ、 ここまで周囲に合わせ、人種を越えて、末端とはいえ先進国に上り詰めた国は、後にも先にもおまえしか知らない。 世界広しといえども、目まぐるしい動乱のこの時代、ここまで急激な変化に対応できたのは、一国しかない。
何故こいつは自分が分からない、自分が見えない、自分を知らない、自分に気付かない。 先進国も後進国も関係ない。他の国が、おまえのような柔軟性と適応能力を持っていると思うな。
タイヤの軋む耳障りな音と共に、大きくハンドルが切られた。 突然の強い遠心力に、日本はどん、とドアへと身体を倒す。いつの間にか、随分スピードが上がっていたらしい。 荒い運転に眉を顰める日本に気遣う事無く、プロイセンは正面を見据えて目を細めた。
「掴まっていろ」
言いながら、ぐんとアクセルを踏みつける。眩いライトが正面を照らす。 道路の先にあるのは、タイヤと木の板で作られた、粗雑な通行止めのバリケード。 増す加速に、ひ、と日本は小さく声を上げた。迷い無く進む直線コースに。
「師匠、危な……」
「うるせえ、黙ってろっ」
みるみる迫るバリケード。駄目だ、ぶつかる。瞬間、咄嗟に日本はぎゅっと目を閉じた。
がしんと大きな衝撃。がたがたと左右に揺れる車体。跳ねる身体。唸る音を立てるエンジン。 息を詰め、背中を丸め、頭を抱え、身を固くし、数秒。ぷはあと喘ぐ呼吸で、日本は恐る恐る瞼を開ける。
最初に目に入ったのは、フロントガラスに走る放射線状のひび割れであった。 背後を気にするプロイセンに気付き、シートに手を掛けて振り返ると、 壊れたバリケードの向こうに幾つかの車のライトらしき光が見えた。 やがて、こちらの速度のままに遠ざかる。
暴れる心臓を服の上から抑え、日本はシートに深く身を預ける。ふうと息をつくと、どっと冷汗が出た。 全く、なんて運転だ。責めるように隣に視線を遣るが、運転手に動じた様子は見えない。
成程タクシーが見つからなかった訳だ。恐らくああしてバリケードを作り、一帯を封鎖していたのか。
しかし何故、何の為に、誰が。
「……まさか」
脳裏に浮かんだのは、法案の決議の際に見せられた、議長国の冷めた眼差し。まさか、これは、かの国が?
「いや、多分あいつじゃねえ」
あの超大国なら、こんなやり方はしない。 もっと政治的な力を使って、正確な包囲網を固めた上で、間違いの無い手段を駆使して潰しに掛かる。 寧ろあいつこそが、こうなる事を恐れたのだ。
あの法案が疎ましく思うのは、何も国だけではない。世界各地には、様々な思想を持つ団体が存在するのだ。
「お前はもっと、自分の立場を自覚しろ」
戦後処理の為の講和会議で戦勝国が、しかも人種差別撤廃法案を打ち出した国が、会場近辺で暴漢に襲われてみろ。 憶測が憶測を呼び、疑惑が疑惑を呼び、その社会的影響は計り知れず、新たな火種を起こしかねないだろうが。
つまり、日本が打ち出した法案は、それだけ影響のある内容なのである。 判っていない、矢張りこいつは本当に判っていないのだ。
今日の講和会議のニュースは、その日の内に世界へと配信された。 日本が事前に各国へと打診していただけあり、既にジャーナリズムも認知しており、関心は高く、 世界は固唾を飲んでその行方を見守っていた。
その結果が、これだ。
既に、複数の地域で人種暴動が勃発している。その鎮圧の為に、更なる血が流れるだろう。 人種問題だけでは無い、元より有色人種の多い国が反対した事により、国の政治的暗部さえ浮き彫りにされている。 ニュースが流れただけでこの有り様だ。
「この私に、ボディーガードが必要だとお思いですか」
「お前の為だけじゃねえ」
暴力事件を起こしてしまった、開催国の立場はどうなる。 罪もないのに、最も疑惑を向けられる国の立場はどうなる。 何より、お前に何かがあった際、お前の国の奴らがどんな思いをするのか考えろ。
「……私は強くなりました」
ぽつりとした声。切羽詰まった響きに、ちらりとプロイセンは視線だけを流す。
東洋の小国と嘲笑われながら、それでも追い付け追い越せとここまで来ました。 今を乗り越えなければ、今は頑 張らなくては、そう自分を奮い立たせてここまで来ました。 見栄も外聞も面子もかなぐり捨てて、その先にあるものを信じてここまで来ました。
二つの対外戦に勝利する事が出来ました。開国直後の不平等条約だって、全て改正しました。 工業力も追いつき、経済も発展させ、国力を付けました。 そして今回の大戦では、連合国として戦い、大国の一員にもなりました。
だけど、現状は違う。
どんなに軍事力で圧倒しても、どんなに経済力を上げても、どんなに工業力を発展させても、 どんなに領土を増やしても。 それでも大国たる彼らは、決してこちらを同等には扱わないのだ。 何も変わらないのだ。どんなにこちらが変えようとも、彼らは決して変えないのだ。
「教えて下さい、師匠」
俯く表情は見えない。ねえ、師匠。お願いします。どうか、どうか教えて下さい。
「私は……何処まで強くなれば良いというのですか?」
震える声。プロイセンは正面を睨み、遣り切れなさに唇を噛み締める。 答えられる訳が無い。そんなの、こっちが知りたいくらいだ。
「憲法を教えた時に、言った筈だ」
国には個性がある。歴史も、文化も、国民性も、社会構造も、当然それぞれ異なっている。 他国から学ぶ事は出来るだろう、習う事は出来るだろう、参考にする事も出来るだろう。 しかし、実際にどうやって生きるかは、自分で選び、模索するしかないのだ。
俺の求める強さが、お前に当てはまるとは限らない。俺の必要な強さが、お前に当てはまるとは限らない。
そして、何より。
「俺とお前は、違うんだ」
お前は国だ。だけど、俺はもう、既に――。
きいと音を立てて、車が停車した。建物の角、直ぐそこには、日本の宿泊しているホテルが見える。 俯いていた顔を上げ、日本は何処か虚ろに瞬きを繰り返す。
ぽつりと零れた声は小さい。
「貴方も、私を同じには見て下さらないのですか」
貴方も、他の皆さんと同じですか。肌が黄色の私を蔑むのですか。髪が黒い私を卑しむのですか。 瞳が黒い私を疎んじるのですか。アジアである私を、同じに見てはいただけないのですか。
真っ直ぐ前を向いていたプロイセンは、その言葉を飲み込むように、一度ゆっくりと目を閉じた。
「そうだ」
表情の消えた顔で、真っ直ぐと日本を見つめる。
「俺は差別を否定しない」
男女があるように、年齢があるように、親族があるように、階級があるように、地域があるように、国があるように。 世界は無意識に、そして意図的に、何らかの枠組みを形成する。
人間が「区別」を作る事に、否定はしない。
世界が「平等」だなんて、あり得ないのだ。
皆が同等の世界など、それは幻想であり、まやかしであり、綺麗事であり、机上の理想論でしかあり得ない。 いっそ、そんな世界が誕生すれば、発展を放棄した人類は滅亡へと向かうだろう。
生成りの肌に蔑むのではない。漆黒の髪で卑しむのではない。黒檀の瞳を疎んじるのではない。 肌の色でなく、髪の色でなく、瞳の色でなく、只一つ。


「俺は、ゲルマンを至上に置くだけだ」


ゲルマン民族の為に作られた修道院病院を母体に。
ゲルマン民族の為に騎士団を結成し。
ゲルマン民族の為に領土を広げて国となり。
ゲルマン民族の為に民族統一を果たし。
ゲルマン民族の為に新興国へと全てを受け渡す。


それが、プロイセンなのだ。








パヴェヴは北イタリアの大学に在籍していたそうです
学費が捻出できずなかなか学者の号を得られなかったとか
彼の財産はドイツ騎士団に奪われた等の説もある模様
2012.10.17







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