黒鷲は東の未来より舞い降りる
<25>





 地中海に臨む、こじんまりとした港町の外れ。 いびつに切り立つ岸壁の上、遠征に汚れたマントを潮風に遊ばせながら、ドイツ騎士団は水平線を臨む。 きらきらと陽光を反射する波のその向こう、戦場となるロードス島はもう目の前だ。
「ドイツ騎士団」
 呼ばれ、振り返る。 連絡にやって来た遠征隊隊長の姿に、一段高い場所からよっと飛び降りる。
「どうだ?」
 走り寄り、目の前に立つと、彼は渋面のままに首を横に振った。そうか、ドイツ騎士団は眉根を寄せる。
 遅い。後追い予定であった総長は未だ合流せず、その伝令も無い。 しかも、依頼主たるロードス騎士団からの連絡さえ届いていない有様だ。 ちっとドイツ騎士団は舌打ちする。
 何か不都合でも生じたのだろうか。 とは言え、伝達の不行き届きや行き違いは、特に珍しい事でもない。 道程に不都合があったり、単に移動に遅れていたり、可能性は幾つもある。不審を感じるものでもない。
「……如何しましょう」
 ふむ、とドイツ騎士団は地平線へと視線を向けた。
 この港町は、丁度ロードス島を間に、オスマン帝国と地中海を挟んだ対岸の位置にある。 小さな町ではあるが、戦火の空気は伝わっており、 オスマンの軍勢は既にロードス島へと向かっているとの情報もある。 誇張された部分を差し引いても、彼らがロードス島へ辿り着くのは、秒読み状態である事は確かなようだ。
「騎士達の士気は高いです」
 ここまでの進軍は、常に無くスムーズであった。 東方遠征が続いていた中、久々の「異教徒イスラム」との対戦に、 十字軍の聖戦再開と騎士団員達は闘志を漲らせている。 このまま意味の無い滞在を長引かせて緊張を間延びさせるのは、 兵の戦意の維持という面に対して、得策とは言えないだろう。
 しかも、こちらが持参した大型武器には、多少なりとも設置時間が必要だ。 共にオスマンを迎え撃つ戦略を練る為にも、ここは一刻も早く依頼主との合流するのが望ましい。
 時間が惜しい。目標の地を目の前に、無為に時を過ごし、好機を逃す訳にはいかないのだ。
 ならば――自ずと、取るべき行動は決まっている。
「……行きますか」
 眉間に皺を刻んで伺う隊長に、にやりとドイツ騎士団は唇の端を吊り上げた。





 港は活気に満ちていた。
 ローマの中心地から最も近いこの大きな貿易港は、東西の流通を支える重要な拠点のひとつとなっている。 日々数多くの船が押し寄せ、多言語の会話が飛び交い、様々な人種が行き来し、 亜細亜と欧州の文化が混じり合う賑やかな国際港。 船乗りや商人等様々な人々が行き交う中、足早に先導するドイツ騎士団総長が、背後の菊をちらと振り返る。
「あの船だ」
 示されたのは、広い埠頭の一角に停泊した中型船だ。 二人はそちらへ向かうと、すんなりとした船体を見上げる。
「少し変わった形ではあるが、最新式のものだ」
 機動性に特化した構造を持ち、何よりも速度を最優先している。 海賊対策を施した武装帆船ではあるが、恐らく今この港にある船の中でも、屈指のスピードを発揮するだろう。
「こちらへ」
 促されるまま、舷梯を登り、船上へと上がる。 出港準備を急ぐ船員達は、騎士団総長の姿を目にすると一旦足を止めて丁寧に礼を示し、 そして各々の作業へと勤しんだ。
「乗組員には話を通している」
 ローマの船乗りではあるが、皆敬虔で、素性も腕も確かなものばかりを集めた。 お前の命は、ドイツ騎士団総長のものと同等だと伝えている。信頼してくれて良い。
「ありがとうございます」
 ローマ法王の権力が衰えたと言われても、それはあくまで政治上のものだ。信仰は根強い。 ドイツ騎士団の人脈と、宗教団体としての権力を駆使してこそ、 この僅かな日数でここまで出港準備を整える事が出来たのだろう。
「それにしても、考えたな」
 確かにこの地点からロードス島へ向かうなら、ぐるりと半島を回る陸路よりも、 海路の方が遥かに速く、そして移動による消耗も少ない。 感心する騎士団総長に、菊は眉尻を下げて笑った。
「あと、お願いしていた物は」
「あそこに」
 甲板の一角には、樽と麻袋が積み上げられている。 出港までには、同等のものが更に積み込まれる予定だ。
 表記された文字を確認すると、菊は懐から小刀を取り出し、麻袋のひとつにざっくりと切れ目を入れた。 切り口からは、空気の流れと潮風に煽られ、白い粉塵が零れる。 差し込んだ掌で中身を掬い、ふっと息を吹きつけると、煙のように粉が舞った。 さらさらとした粉末の粒子を人差し指と親指で確認し、ぺろりとそれを舐める。
「どうだ」
「ええ、助かりました」
 荒い粉末しか無ければ代用品で妥協する所でしたが、これだけ細やかならば充分でしょう。 頷く菊に、騎士団総長は口元を綻ばせ、しかし憂い顔を曇らせる。
「しかし……本当に、この船で良いのか」
 多少の武装こそあれど、しかしこの船は軍船ではない。 相手は海戦に長けた、猛攻のオスマン軍勢だ。 たとえ一対一で対峙したとて、この船ではとても相手にならないだろう。
「この船が良いのです」
 戦力を重視すれば、どうしても船体が重くなり、その分移動が遅くなる。 今最も優先すべきは、一刻も早くロードス島へと辿り着く事。 軍備に意識を向け過ぎては戦線にさえ間に合わず、そうなれば本末転倒だ。
「戦力に関しては、船上で何とか工夫をします」
 既に、その為の器材の積み込みも依頼している。 幸い、ここは屈指の貿易港だ。こちらの希望したものは殆ど手に入れることが出来た。 かなり大雑把なものになるかもしれないが、今はやむを得ない。 武器開発部門に所属していた際に得た知識は、無駄ではなかったようだ。
「船頭の話では、この季節の海は落ち着いているらしい」
 上手く風に乗れば、何とか間に合うかも知れない。 しかし戦に間に合ったとしても、果たして……苦悶に瞼を伏せる騎士団総長に。
「ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
 ここに来るまでも、ずっと気になっておりました。僭越ながら、質問してもよろしいでしょうか。 潮風に煽られる髪を片手で押え。
「何故ドイツ騎士団は、この依頼を受けたのでしょう」
 遠い地中海への遠征、不慣れな海上戦、 同じ修道院騎士団とは言え馴染みの薄い団体への援護……どれをとっても今回の傭兵依頼は、 ドイツ騎士団にとって決して芳しいものではなかった。 只でさえ人員が減少傾向にある中、通常では有り得ないリスクを背負いつつ、 敢えて主力の隊を送るなど、通常では考えられない。 少なくとも、今までのドイツ騎士団であれば、ここまでリスキーな依頼を受けるような事はしなかった筈だ。
 それなのに、何故?
 向けられる質問に、騎士団総長はその意志の強い唇を一度引き締め、そして小さく息をついた。
「……今回、フランス国王が提示した報酬は、かなり特別なものであったのだ」
 確かに、疑って然るべきであったのかも知れない。 だが、今のフランス国王の権力とその力があれば……その考えが、我らの判断を狂わせたのだろう。 それだけ、特異で、意義のある、そして金銭だけでは決して成し得ないものであったのだ。
 見上げる菊に、瞬きをひとつ。
「フランス王は、我らの後援と庇護を保証してくれた」
 後援と庇護? ならば既に、ローマ教皇という確固たる後援があるではないか。 怪訝に首を傾げる菊に、騎士団総長は否と首を横に振る。 そう、実はこれこそが、現在ドイツ騎士団が最も目指しているものであった。
 こればかりは、例えローマ法王であろうともあろうとも叶わない。 確かなる権力と影響力を持つ国の王で無ければ成し得ず、つまりドイツ騎士団と対立の無いフランス国王は、 それを叶えることが出来る数少ない存在であったのだ。
 マントを靡かせる潮風に、騎士団総長は目を細める。


「ドイツ騎士団を母体とした、プロイセン国家建国の後援の保証だ」





 引き裂くような声に、はっと菊と総長は顔を上げた。
 同時に、がらがらと何やら倒れる音と、にゃあにゃあと響くウミネコ……ではなく、これは猫の泣き声か。
 船上の手すりから身を乗り出して視線を落とすと、丁度真下、何やら人の固まりが見えた。 がっしりと逞しい体格の男が数人、そして彼らに囲まれているのはどうやら子供らしい。 か細い獣の鳴き声は、男の一人が鷲掴む手から発せられていた。
「あれは?」
 丁度タラップを上って来た乗組員に声をかけると、彼はああとそちらへと視線を向けた。 どうやら密航者であるらしい。 取り囲む男は、この港の自治警備を担当する者達だ。
「子供のようですが」
「オスマンの奴隷でしょう」
 素っ気ない程あっさりした反応が、よくあることだと示してる。
 オスマン帝国は、その絶大な力で勢力を広げ、現在地中海沿岸にあった国々を支配下に置いている。 領土を奪われた国の民が、領土を奪った国に隷属扱いされるのは、古今東西特別な事ではない。
 彼らは労働力として、生まれ育った土地から、オスマンの地に連れられたと察する。 しかし祖国に帰る為に密航したまでは良かったが、乗り込んだ船は彼らの行き先と異なり、 思惑を外してこのローマの港に到着したようだ。
「彼らをどうするのですか」
「異民族ですから」
 元は独立した国であったとしても、その地をオスマンに奪われたのならば、オスマンと同等と扱われる。 恐らくは、何処ぞの売買の商品となるか、奴隷として使われるか。 でなければ、密航の罪人として、見せしめに殺されるか ……。
 倒れ込んだ子供は、恐らく逃げ出そうとしたのか、反抗したのか、連れ立つ彼らの一人に乱暴を受けたのだろう。 積み荷の山に倒れた身体は、酷く痩せ細り、弱々しく、 密航中の劣悪な環境が祟ってか、今や起き上がる力さえないようだ。 男が手に持つ棍棒でその身体をごろりと転がすが、軽く麻痺しただけでそれ以上の反応がない。 動く気配を見せない 少年に、立ち上がるようにと別の男が怒鳴りつけ、 それでも微かに肩を上下させたまま動けない身体に棍棒が振り上がる。
 それが下ろされるよりも早く、集められた密航者達の中から、すいと割り込むように一人の少年が進み出た。 倒れる子供を背後に庇う位置に立つと、棍棒を握る男をきりりと睨み据える。 そこで、菊ははっとした。
「待ってっ」
 申し訳ありません、少しだけ失礼します。騎士団総長に言い残すと、菊はその場を離れ、足早に舷梯を降りる。
 出入港に忙しない埠頭の一角の顛末に、集まる野次馬も殆どいない。 必死な面持ちで走り寄る菊に、彼らは怪訝な視線を向けた。
 屈強な男達に囲まれ、怯えた目をする彼らは、矢張り皆子供だ。 汚れてぼろぼろになった衣服、大小傷だらけの身体、極端に細い体躯が、彼らの痛ましい境遇を表している。
 二、六……全員で八人。視線で菊は数えると。
「彼らは、私が買いましょう」
 これで。マントの内側に手を差し込み、ぱちりと外したのは大振りのブローチであった。 直ぐ傍に立つ男に差し出すと、彼は鷲掴んでいた子猫を落として受け取り、そしてぎょっと顔を強張らせた。 しかし、それ以上に驚いたのは、遅れてやって来た騎士団総長である。
「キク、それは――」
「これで足りるでしょう」
 足りるも何も、絶句する。
 菊が渡したのは、鷲の紋章を模した銀のブローチだ。 繊細な細工が施されたそれには、惜しげのない数の小さなダイヤが華やかに装飾を彩り、 透明感のある大きなエメラルドが垂れ下がる豪華なデザインとなっている。 奴隷の対価としては余りあることが、否寧ろ法外なものであることが、ひと目で判る品である。
 当然であろう、これは特別なものだ。 菊がポーランドでの裁判に参加した際、その感謝と、友情の証として、 ポーランド女王ヤドヴィガから直接下賜されたブローチである。
 最初、このような高価な品は一介の騎士団員には不相応だと、菊は受け取りを渋っていた。 そんな恐縮に、しかしヤドヴィガは「使い方は様々です、貴方の思うように活用しなさい」と菊に握らせた。 そう、使い方は様々ある。そして今こそ、使い時だと菊は判断した。
 受け取ったブローチを手に会話を交わす男達の間を、開放された子猫がするりとすり抜ける。 そして男の前に庇い立った少年の足元、彼を見上げてにゃあと声を上げた。
「初めまして」
 掛けられた声に、ぴくりと少年は身体を強張らせる。 向けられるオリーブグリーンの瞳に映る強い警戒心に、菊はゆるりとした仕草で一礼した。
「私は、菊と申します」
 キク? はい、菊。ご安心ください、私は貴方に敵意は持っておりません。 決して悪いようにするつもりは無いので、お聞かせ頂けませんか。
 堅い空気を纏う少年に、柔らかく微笑む。 そして、少年期に入ったばかりであろう、その記憶にある面影を真っ直ぐと見つめ。


「もしや貴方は、ギリシャさんではありませんか」























 言葉を無くしたこちらに、歳若い世界の超大国は満足気に頷いた。
「だって、ずっと気になっていた事なんだ」
 世界の中で君達二国だけがそこまで親密なのって、ちょっと不自然だと思わないかい。 みんなで仲良くする方が絶対に楽しいし、第一、このヒーローを差し置くなんて絶対に可笑しいんだぞ。
 最近は、いろんな不審な噂も耳にするんだ。 君自身の兄である隣の国への干渉も、戦争が終わったにも拘らず妙に過剰だし。 あの後君が手に入れた太平洋の領地だって、 変だよね、あれじゃまるで俺の領地を分割するような位置じゃないか。
「これって、俺に対する明確な敵意と取られても、仕方無いんじゃないかな」
 眼鏡の奥から向けられた、大国の余裕さえ持たせた冷めた瞳の色。 それを敢えて読み取らせたるだけの間を置いて、にこりと無邪気な笑顔を浮かべる。
「だからそんな誤解を解く為にも、みんなで仲良しようじゃないか」
 これは、その為の条約なんだ。仲良くしようって差し出した俺達の手を、君は拒否するのかい。 君は、俺達と仲良くするのが嫌なのかい。 それってつまり、君の中に俺達に対する強い反発があるって、そう読み取っても良いのかい。
「その。俺も、この条約には賛成だ」
 間を取り持つように提案するのは、嘗ての同盟国だ。 当人達でさえ驚くほどに、互いに良い関係を築き上げてきた大切な友人である。
「お前は、もっと色んな奴と仲良くしても良いと思う」
 確かにお前はアジアの有色人種だけど、それでも俺達はこんなに上手く、ここまでやってこれたんだ。 きっと、他の奴らとも仲良くやっていけるだろう――そうだ、こう、考えると良い。
「この条約は、二カ国間のものを、四カ国間のものにグレードアップしたんだ」
 今までは二つの国でしかなかった友好関係が、今度は四カ国に増えたんだ。 お前がピンチになった時に助けることが出来るのも、これからは俺だけじゃない。 今回条約を結んだ三カ国が、お前を助ける為に尽力を尽くすだろう。


「……そう、考える事も出来ますね」


 仮面のような笑顔に、しかし今までの同盟国はほっと安心したように笑みを浮かべた。 彼がその立場的な面から、弟分の彼とこちらの関係のぎこちなさをを危惧していたのは察している。
「俺達は変わらない、筈だ」
 今までの同盟とは、多少形は違うけれど。きっと、お前の為にも良い結果になると思う。





 四カ国で結ばれた新たな条約は、太平洋側に持つ各国の属地、権利の尊重、 それによって生じる問題の平和的解決を定めるものであった。
 そして、蜜月とまで揶揄された二国の強固な同盟関係は、ここで終結を迎えることとなる。








一人ぼっちの始まりの条約
2012.04.23







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