黒鷲は東の未来より舞い降りる
<26>





 突き抜けるような、地中海の濃い群青色の空。 その彩りを映した海の上を、潮風を受けた無数の帆が勢い良くはためく。
 数多の軍船は列を成し、次々に出港する。 水面に軌跡を描きながら陣形を組み、大海原を駆けるその雄姿は壮観だ。 総勢三百隻にも及ぶオスマンの艦隊は、中型船が主である。 しかしその軍船は、イスラムの美意識のままに華やかな装飾を施され、 太陽の輝きを受けて輝きを放つ様は美しく、勇ましく、正に軍神の出陣を思わせた。
 中でも先頭を走る船は、最も華美に誂えたものだ。 オスマンの豊かさを象徴したようなその豪華な船の甲板に、伝令の兵士が到着する。
「最後尾の船より伝令、全船出港完了しました」
 ぴしりと直立して伝える様子は、訓練されたままのものだ。最初に予測していたよりも、随分早い。 忙しなく、しかしきびきびと持ち場の作業に勤しむ兵士達。 船首デッキの上から伺える船の連帯から、軍の統率の良さが滲み出ている。
 後ろ手に仁王立ち、頷く提督の後ろ、ひゅうと上機嫌に口笛が鳴った。 振り返る総大将に、片足を胡坐にして段の上に座る彼は、目元を覆う仮面の下でにいと笑う。
「良い海軍を持って、俺は幸せ者だぜい」
 よっと立ち上がると、一歩前へと進む。 金糸で装飾された鮮やかなカフタンの裾を靡かせ、片手を腰に当てる立ち姿は威風堂々としており、 スルタンを思わせる風格さえあった。
「おう、良く聞けっ」
 覇気の籠った声は、波の音にも風の音にもかき消されない。 腹の底まで響くそれに、作業に準ずる兵士達は手を止め、その場でぴしりと姿勢を正して向き直る。
「これから俺達は、ロードス島に向かう」
 地中海を制圧してきたオスマンにとって、ロードス島の存在は、謂わば「咽喉の奥に引っ掛かった骨」だ。 新たに即位したスルタン・スレイマンは、長らく放置していたその厄介な最後の砦を、 今度こそ倒そうと情熱を燃やしている。
「相手は長きに渡って地中海の孤島を守った、歴戦の戦士どもだ」
 異教徒とは言え、侮って掛かるな。気を引き締めろ。 勇敢な戦士には、偽りの無い勇敢で向き合う。それこそが我らオスマンの戦士の誠意であり、礼儀だ。
「オスマンの勇敢を、とくと思い知らせてやるぜ」
 高らかに掲げたその宣誓に、兵士達が唸るような声を上げて拳を空へと突き上げる。 溢れんばかりの気概と闘志が、満ち溢れるのを肌で感じる。 士気は上々、やる気は充分、負ける気がしねえ。彼は満足気に唇を吊り上げて、腕を組んだ。
 そこで、慌てたようにこちらへと足を進める一兵士を見つける。
  息せき切って走り寄る小柄な兵士は、しかし彼の傍らに立つと、 困ったように眉をハの字にして、視線をうろ付かせた。どうした。 視線で促すと、先程入った新たな伝令なのですが、言い難そうな素振りを見せながらも、 片手を添えて彼の耳へと口を寄せる。 そして周囲に漏れない小さな声で、本国からの連絡内容を一言違わず繰り返した。
 こくこくと頷く彼の唇が、 強く噛み締められ――やがてふるふると肩が震え――ぐっと拳に力が籠り――そして胸の奥に息を吸って――。
「あんの、糞餓鬼ーっ」
 先程の鬨の声よりも大きな怒号が、船上の空気をびりびりと震わせた。





 不充分な中でも、出来るだけの最善を整えた船の前。菊と騎士団総長は、舷梯の袂で対峙する。
「すまない。お前ひとりに、ドイツ騎士団の命運を託す事になってしまった」
 苦渋に眉根を寄せる騎士団総長に、いえと菊は首を横に振る。
 命運は、何も菊一人が背負っている訳ではない。 フランス国王との裁判。そして北方侵攻を進める、騎士団副総長の別部隊への抑制とその指示。 騎士団総長には、総長としてのやらねばならない事がある。
「頼んだぞ、キク」
 差し出す大きな手を、菊はしっかりと握り返す。
 これは賭だ。何の約束もできず、何の保証も無い。 援軍は望めず、何もかもが不利な絶望的状況の中、それでもやるしかない。 ここを切り抜けなくては、ドイツ騎士団の未来は消滅するのだ。
「己の持ち得る、最善を尽くして参ります」
 後は、運命と神の導きのままに。真っ直ぐに見上げる黒檀の瞳の光に、こくりと騎士団総長は頷いた。 その隣、懐かしい面影を持つ、神聖ローマが十字を切る。
「ドイツ騎士団を守る黒鷲に、神の祝福あらんことを」























 かつかつと足音高く廊下を歩きながら、日本は襟首に指を差し入れ、軽くネクタイを緩めた。 俯く顔は誰にも見せられない。 人気の少ない場所にあったそのトイレを見つけると、扉を開いて中に入った。
 洗面台の前に立つと、目の前に設置された鏡を見る。映る自分の表情に、ぐっと唇を噛み締めた。 酷い顔をしている。こんな表情、諸国に晒したくはない。
 蛇口を捻り、流れ出る水に手を差し伸べると、袖口や襟が濡れるのも構わず、勢い良く顔を洗った。 三度、四度……落ち着け、頭を冷やせ、うろたえるな、弱みを見せるな、足元を掬われるな。 呪詛のように胸の内で呟き、きゅ、と蛇口を締める。
 ぱたぱたと零れる滴、耳障りな荒い息。睫毛に伝う水滴を、手の甲で拭う。
 ワシントンにて行われた今回の会議は、主に海軍軍備の制限を議題とするものであった。 近年、各国の建艦競争は熾烈を極めている。 特に海に面した国にとって、 主力艦や空母の増設は軍事力の顕示そのものであり、そのまま周辺国への牽制にもなっている。
 それに終止符を打とうと提案したのが、二大超大国だった。
 だって、これじゃキリが無いだろ――大国のその言葉には、ある意味同意する。 特に前回の対戦に深く関わった国々は、経済的にも消耗し、しかし戦争で失われた軍事の補強は必須だ。 そんな中で行われる「牽制への牽制」の為の建艦合戦は、苦しい国家財政をますます圧迫する。 このままでは、破綻を起こし兼ねない。
 だから――自分が無理だから、他の国にも止めさせるのだ。
 勿論、異論を唱えた。海洋国家である日本にとって、海軍は国防の要だ。 四方を海に囲まれたこの国を守るのに、今までの六割に抑えた主力艦では、とてもじゃないが国防が成り立たない。
「削減するのは、君だけじゃないんだぞ」
 俺だって削減するんだ。他の皆もそうだ。皆が妥協し合っているのに、君だけが反対するのかい。
 ねえ、と参加国の同意を求めるが、違う。 確かにこの会議には九ヶ国が参加しているが、その内発言権を認められているのは、 日本と二つの超大国を含めて五ヶ国のみだ。 不服があろうがなかろうが、この会議に「その他の意見」など関係ない。
「大体、船を作るにも、君には資源が無いじゃないか」
 甘い炭酸飲料のストローを咥えながらの一言に、ぐっとそれ以上の意見は押し留められる。
 そうだ、我が国には資源が無い。 造船するにも、その材料も、燃料も、 全て他国から――とりわけ目の前の超大国を介して仕入れなくてはいけないのが現状だ。 必要な資源や燃料が、果たしてどの国の手にあるのか。それを左右するのは、どの国であるのか。 それは彼も、そして自分も、嫌になる程熟知している。
 とは言え、今現在建造中の戦艦を破棄処分に指定されるのは、何としてでも避けたかった。 ここまで製造を進めるのにも相当の、時間と、人材と、予算を費やしている。 漸く、諸外国からの知識を身に付け、各企業に技術を広め、技術者を育成し、 更に発展させる段階に入ったばかりである。 これでは、折角芽吹いた双葉を摘まれるようなものだ。
 資源が無い我が国にとって、他国と対抗するには、手先の器用な国民性を生かした技術力しかない。 それが諸国と渡り歩く唯一の手段なのだと、そう目標を付けて、ここまで昇って来た。 何も悪い事をしている訳じゃない。こちらなりに、最も適した正攻法を模索した結果だ。
 だけど。
「小国が正道を貫くには、大国より強くなるしかない……ですか」
 ぽつりと呟く。 その昔、法について学んだ際、尊敬した国家であり、敬愛する師匠が教えてくれた言葉を思い出す。
 くすりと笑う。成程、真理だと思う。でもね、師匠。強くなるにも、周りがそうさせてくれないのですよ。
 泣き出しそうに顔を歪めた瞬間、小さな音と共にドアが動いた。
 はっと我に帰る。濡れたままの己にポケットを探り、取り出したハンカチを広げ、慌てて顔を覆い隠す。 そして滴を拭いながら、そっと鏡を覗き、そこでぱちくりと日本は瞬きした。
 瞠られた瞳が、鏡越しに交わる。どうやら向こうも、こちらの存在が意外だったらしい。 さもありなん、このトイレは会議に参加する要人用のものではなく、取材に来たジャーナリストや、 その他会場スタッフ用のものであったからだ。
 顔を隠すように広げたハンカチを外し、日本はゆっくりと振り返る。
「貴方は……」
 照明に透けるような淡い輝きの髪と、色素の薄い色の瞳。 その惚れ惚れするような長身の体躯を見上げ、驚愕の表情のまま、日本はぺこりと頭を下げた。























 寄せて、引いて、絶えることのない小波に、きいと船室の扉を開く音が紛れた。 明朝の空気は、潮の香りを含み、湿度を持って肌を弄る。 夜と朝をグラデーションした空を見上げ、菊は潮風に遊ぶ髪を抑えた。
 水平線の向こうに覗くのは、放射線を放ちながらも眩く輝く、生命の源と象徴される太陽だ。
 神秘的でありながら、しかし堂々と、その圧倒的な存在感は 神々しくも美しいご来光に魅入られ、菊は姿勢を正すと、そっと胸の前で手を合わせる。 信仰ではなく、畏敬を込めたそれは、 祈りというよりは、寧ろ無意識に近い行為だ。
 静かなその祈りは、背後から聞こえるにゃあという声によって打ち切られた。
 合わせていた手を外して振り返ると、そこには白い猫を腕に抱えた少年の姿があった。 伺うような視線に、菊は柔らかな笑みを向ける。
「お早うございます、ギリシャさん」
「ん……おはよう、キク」
 目の前にやって来る彼と菊は、視線が殆ど同じ高さだ。 まだまだ子供らしさが強調された姿をしているが、しかしこれから瞬く間に成長するであろう、 そんな予感を内に秘めた歳の頃である。
「起こしてしまいましたか?」
 申し訳ありません、気配は抑えたつもりでしたが。謝る菊に、ふるふるとギリシャは首を横に振った。
「この子、すごく、賢いから」
 腕の中の猫は、にゃあと泣き声を上げる。 どうやら、一緒にいたこの猫が、菊の気配を聞き取ったようだ。
 オスマンからの密航の際に共に連れて来たこの猫は、雑種のようではあるが、どうも特化して聴覚が鋭いらしい。 波に隠された些細な物音も、遠くからの音も、きちんと聴き分けることが出来、 その能力に助けられ、ギリシャ達は船の中で身を潜め、ローマまでの密航を見つからずに済んだと言う。 今は、食料を荒らす鼠の駆除を務める、頼もしき水夫の一員として活躍中だ。
 腕の中で大人しく抱かれた猫に、菊は笑みを零しながら、そっとその咽喉元を人差し指でくすぐる。 透明感のある大きな瞳が閉じられ、心地好さそうにごろごろと咽喉が鳴った。
「ちゃんと、眠れた?」
「はい、お陰様で」
 昨夜、菊に休息を取る様に進言したのは、ギリシャであった。
 乗船してからこちら、菊は文字通り、休む間が無かった。 何せ、この限られた移動期間、やらなくてはいけない事は山とある。 船長と航海ルートを話し合い、船の増強のための設計図を作り、それぞれを担当者に指示し、 ロードス島での作戦会議をし、そして空いた時間は各々の分担作業の手伝いと、己の小道具作成や鍛錬に費やす。 眠る間を惜しんでのそれらを誰もが知るだけに、ギリシャの提案に否やは無く、 昨夜は半ば無理矢理、早々に船室に押しやられたのだ。
 尤も、そのお陰で今朝は随分すっきりした目覚めであった。 船上からの日の出がこんなに美しい事さえ気付かずに、ここまで航海していたようだ。 状況が許さないとは言え、確かに自分には余裕が無かった事を思い知らされる。
「顔色、良くなっている」
 よかった。日焼けしたしなやかな腕を伸ばして菊の頬に手を当てると、ギリシャはほわりと笑った。 人懐っこい笑顔は、日本の記憶にあるものと同じだ。 普段であれば思わず身を引く場面であろうが、彼は不思議と警戒心を与えず、その人懐っこさのままに、 違和感無くこちらのパーソナルスペースに滑り込んで来る所があった。
「キク、女の子なんだから、無理しちゃダメ」
 眉根を寄せて唇を尖らせるしかめっ面に、菊は苦笑すると首を横に振った。 自然、添えられていた手が離れる。
「私は、女ではありませんよ」
 既に、女は捨てております。気遣いは不要です。
「……それでも、ダメ」
 例えそうだとしても、身体だって華奢だし、腕だって細いし、力だって。 肉体に男女の違いがある以上、それを変化させる手段が無い以上、どうやったって埋められない差はあるのだ。
「俺達を、ちゃんと頼って」
 その為に、俺達はここにいるんだから。それに、ドイツ騎士団の総長からも言われた。 菊の事を、よろしく頼むって。
「充分、頼りにさせて頂いておりますよ」
 ホント? 首を傾げるギリシャに、ええとても、と頷く。
 ギリシャと言う国は、古来より地中海を中心に発達した国家の一つだ。 その歴史のまま、当然象徴たる彼も海に詳しく、そして船の扱いには非常に慣れている。 船乗り達にとって、ギリシャは頼りになる存在であった。
 そして、この限られた人数の中、船の運航以外での貴重な作業員として活躍しているのが、 埠頭で菊がブローチと引き換えに見受けした奴隷少年達であった。 彼らの中で健康上問題の無い者は、菊の指導の元、それぞれ「仕事」として、作業を割り当てている。 彼らは非常に協力的に、それらに従事してくれている。
 ギリシャの、オスマンに対する悪感情は深い。
 領土を拡大してゆくオスマンは、その征服した領土の中、イスラム以外の異教徒を最下層に位置付けていた。 宗教は、思想や考え方の「根」である。 根本的なそれが違う民族を警戒し、 違うものとして見なすのは、(宗教に寛容な日本には理解し難いが)極自然な事なのだろう。
 ギリシャ正教会を信仰するギリシャ領出身の少年奴隷達は、その絶対的な冷遇の対象であった。 土地を侵略され、信仰を理由に虐げられる彼らは、 その強い怨恨から、キクの事情に対し同情的で、そして協力を惜しまなかった。
「船長の話では、航海はかなり順調のようです」
 だからそれまで、もう少し皆さんの協力をお願いしますね。 にこりと笑う菊に、ギリシャはそのピスタチオグリーンの瞳を細めた。
「キクは、あいつと戦うの?」
 トルコと。ぱちりと瞬き、菊は複雑な表情をした。答えは帰らない。しかし、判っている。 ギリシャはきりりと唇を引き締めた。隠しきれない抑圧した感情を滲ませて。
「俺も、一緒に戦う」
 いっしょに、ロードス島で。俺には、あいつと戦う理由がある。 確かに領土はあいつに屈服しているけれど、でも菊の力になる事は出来る。 拳を握り、強い憎悪の込められた瞳を目の当たりに、菊は姿勢を正し、しかしゆるりと首を横に振った。
「それは、いけません」
「どうしてっ」
 咄嗟に出た強い声に、抱き込んでいた猫がびくりと震える。
「これは、ドイツ騎士団の戦いだからです」
 そっと手を伸ばすと、菊はギリシャの腕から猫をすくい取り、胸に抱くとその背中を宥めるように撫でた。
 フランス王の策略とは言え、ロードス島にロードス騎士団が居ない今、 あくまでこれはキリスト教とは関わりの無い問題にする必要があった。 ローマ教皇の権力が衰える現在、イスラムにそれを悟らせない為にも、 ドイツ騎士団の「傭兵依頼」の問題として納める必要がある。 ここで国であるギリシャの手を借り、国家間や宗教的な問題へと発展させ、こじらせる訳にはいかないのだ。
「でも……」
「貴方の力は、ここで使うものではありません」
 私がこんな事を口にするのは、非常に差し出がましく、僭越ではありますが。 申し訳なさそうに断りを入れて。
「ギリシャさんの力は、自分の国の為に使う事を最優先して下さい」
 今現在も、オスマンに支配された元ギリシャ国民は、辛い思いをしているでしょう。 貴方の申し出は、本当に、本当に嬉しく、助かっております。 でも、命を賭ける程に力を発揮するべき場所は今ここでは無いと、私はそう思うのです。
 正直、国としての行動に、何が正しいのか、何をすべきなのか、未だ判らない。 きっと、この先も判らないだろう――かつて、日本がそうであったように。
 オスマンから逃れてきたギリシャの気持ちは理解できない訳ではない。 でも、一部の国民のみを助ける為だけに他国へ密航したり、 成り行きで連れ添った一団体に、怨恨で助力するのが良い判断とは思えない。
「皆さんは、元ギリシャ領まで、責任を持ってお連れします」
 一同を元ギリシャ領の港へ連れて行くとは、最初から伝えていた。 だから、それまでの運行料として、こうして船上での作業を手助けして貰っている。 あくまで労働の対価だ。それ以上でも、それ以下でもない。
「それまで、お手伝いお願いしますね」
 にこりと微笑む菊に、ギリシャは苦い顔で唇を噛み締めた。
 言葉を失った二人の間、にゃあと腕に抱いた猫が声を上げる。 ひくひくと鼻を動かして示すそちら、視線を向けると、寝惚け眼の剣士がひょっこりと姿を現した。 こちらには気付いていなかったらしい。少し驚いた顔をすると、よおと笑いながらこちらへとやって来た。
 お早うございます。おお、おはよう。早いな。昨晩は早めにお休みさせて貰いましたから。 定型的な会話の中、ちらちらとギリシャを伺う剣士の視線に気がついた。
「ギリシャさん、この子のご飯、何処にあるかご存じですか」
 なんだか、お腹が空いているみたいで。抱っこしていたら、お腹がぐうぐうなっているのが判ります。 くすくす笑いながら尋ねると、硬さを帯びた表情に、ほわりと力が抜けたのが判る。
「ん……下の食糧倉庫に、別に分けた箱がある」
 どのあたりでしょうか。んー、奥にあるけど、判り難いかも。 すいません、ギリシャさんにお願いしてもよろしいですか? 判った、貸して。
 伸ばした腕に、丸まった猫を手渡す。小さな頭が一度菊を振り返り、にゃあと鳴いた。
 猫を抱いて連れてゆく、ギリシャの背中が見えなくなると。
「時々、お前は人の心でも読めるのかと思うよ」
 呆れたような、感心した様な剣士の声に、菊はまさかと首を傾げた。 修道院や騎士団でも時々言われたことがあるが、単に空気を読んだに過ぎない。
「大体、食料倉庫が一杯なのは、お前の指定した荷物があるからだろう」
 オスマンと対峙する為に、相応の荷を積むのは判るが、それにしても解せないのが。
「なんで、粉砂糖と小麦粉なんだ?」
 船の上で、ビスコッティでも焼くつもりか? 眉を歪める剣士に、成程と菊は頷く。それは美味しそうだ。
「小麦粉は保険ですよ」
 どれ程の量が必要になるのか把握できなかったので、念の為にと追加したに過ぎません。 それに、次の寄港予定のシチリア島では「燃える石」も積みますよ。あそこは良質な石の生産地ですから。 笑う菊に、剣士は肩を上下させる。そして、なあ、深刻な声の響きに、菊は笑みを消した。
「やっぱり……本当にあの作戦で行くつもりか」
 ここ数日、話し合ったロードス島でのオスマン戦略の件だ。
 船長と少年騎士も含めて話し合ったが、しかしあれから何度も考え直したが、矢張り素直に了承できない。 戦える戦闘員が少ないとはいえ、しかしどう考えても、菊のリスクが高過ぎる。 せめて、あの奴隷少年達の中で、一緒に戦いたいと希望する者を募って……。
「全てを考慮した上で、最良の人材配置かと思います」
 皆まで言わせず、ぴしりと菊は言い切った。
 実は、彼以外にも、幾度と無く同じ押し問答を繰り返している。 それについての説明も、根拠も、理論的に話し合った結果だ。 事実、戦闘員が少ない以上、少年達を巻き組んではいけない理由がある以上、 どう考えてもこれ以外の手段は見当たらない。 それぞれの適性を考慮した上での判断だ。
「だがなあ」
 ならせめて、俺も一緒に――言いかける剣士に、菊は首を横に振った。 彼のこちらを心配知ってくれる気持ちは有り難いが、 しかし如何にも戦士然とした肉体を持つ彼を同行すると、不必要に警戒される可能性もある。
「私は、異民族、ですから」
 その言葉に、剣士は思い切り顔を顰めた。不満そうなそれに、容姿がと言う意味です、そう付け加える。 利用できるなら、それを利用する。それだけです。
「誰が一番……と言うのでは無く、皆さんが危険なんですから」
 確かにそうだろう。危険に関しての否は無い。それを承知の上での同行だ。しかし、懸念はそれだけじゃない。 剣士を腕を組み、、言い淀み、大きく息を吐いた。
「お前は、人を殺すのに躊躇いがある」
 剣を交わした事のある俺には判る。
 難しい顔できっぱりと断言する剣士に、菊は少し驚いたように目を丸くし、そしてくすりと笑った。
「私はまだ、死ぬつもりはありません」
 相手は猛攻オスマンの大軍だ。 数も、経験も、装備も、何もかもが圧倒的に不利な状況下、 何としてでもドイツ騎士団を救いださなければいけない今、 感情論に感けている余裕などない事は充分理解している。
「それに、大会は随分前の事ですよ」
 あれから、幼い子供が大人になるだけの年月が経過している。 幾度と無く、ドイツ騎士団員としての任務を経験した。任務も、戦争も経験した。剣技大会の時とは違う。 西洋に比べて堀の浅い東洋の顔立ちから幼く見られがちだが、違う。
「私はもう、あの時のような子供ではありません」
 歳を重ねた大人です。 世の中がどういったものか、己が敬愛するドイツ騎士団が今までなにをしてきたのか、 他の宗教圏から十字軍がどう見られているのか。 それらを全て知った上で、こうして戦う事を選んでおります。 何も知らない子供ではありません。
「……なら、良いが」
 でも、それでも。胸の内で何かを含んだ剣士が、言葉を探し。
「俺は、時々お前が心配になる」
 確かに、菊の言葉に嘘は無かろう。彼女は聡明だ。 己がしなくてはいけないこと、すべきことを見誤る事は無かろう。
 しかし、それが逆に不安になる。
 彼女の献身は、確かに素晴らしい。 ドイツ騎士団の為に、全力を尽くして。ドイツ騎士団の為に、己を捨てて。 ドイツ騎士団の為に、犠牲となって。恐らく彼女は、ドイツ騎士団の為なら、死すら躊躇はないであろう。
 今は良い。しかし、この先は?
 彼女がもし、何らかの理由で、ドイツ騎士団を助ける力を失ってしまえば?  存在自体が、ドイツ騎士団の妨げとなる何かになってしまえば?  本人の意図と違う場で、ドイツ騎士団の足手纏いとなるならば?
 その時――菊は、一体どうするのだろうか。























 連れ立ってやってきたのは、会議場から少し離れた公園だった。 入り口近くにあったスタンドでコーヒーを買うと、二人は奥にあるベンチに腰を掛ける。
 人気もまばらな公園は静かだ。木漏れ日に目を細め、日本は隣に座る彼に笑顔を向ける。
「本当にお久しぶりですね、ドイツさん」
「そうだな」
 今日の彼は眼鏡をかけており、ややラフなスーツ姿であった。 公式の姿ではない。首から下がっているのは、プレスの証明書だ。 今回の軍縮会議の参加者の中に、ドイツは含まれていない。 会議の参加国ではなく、その内容を取材するジャーナリストとしてこの地に足を運んでいるのだ。
 紙コップに口を付けるその顔色は、余り良くない。 元より透けるようなゲルマン系の肌は血色を映し易く、やや目元にくすみが見受けられた。
 そうだろう。先の大戦を終えてドイツが科せられた賠償は、膨大なものだ。 町は焼かれ、領土を失い、出兵で失われた国民の数も多い。 朝と夜とで物価が変わるような、不安定な経済状態だとも聞いている。
 なんだ? どうやら自覚無く、随分不躾な視線を向けていたようだ。慌てて首を横に振る。
「その、大きくなられたな、と思いまして」
 なんだか昔を思い出します。少年期の彼の姿を脳裏で重ね、ふっと日本は頬を緩ませた。
「もう、すっかり見下ろされるようになってしまいましたね」
 彼の成長は著しい。 幼少期から少年期を駆けるように乗り越え、今はもう立派でむきむきと逞しい青年の姿である。
 感慨深く告げると、ドイツは困ったように眉根を寄せた。 成長した立場としては、幼き頃の思い出はむず痒いだけだ。他人の口から語られるとなると、尚更である。
「それは……多分、俺が早く成長することを、求められていたからだと思う」
 立場上、国として早く一人前にならなくてはいけなかったし、俺自身もそうならなくてはと願っていた。 幼い子供のまま、不安定なままでは駄目だから、だから早かったんじゃないかと、そう考えている。
「それを思えば、君は変わらないな」
 俺が子供の時から同じだ。 留学に来ていた時は、てっきり俺と同じ様な速度で、成長するだろうとも思っていたのだが。
「欧州の方に比べると、亜細亜は小柄ですからね」
 師匠にも散々言われました。ちっこいだの、チビだの、子供みたいだの。 ぺしぺし頭を叩かれながら、くしゃくしゃ髪をかき混ぜながら、ケセケセ笑いながらからかわれました。 当時を思い出して眉尻を下げる日本に、ああと疲れたようにドイツは額に手を当てた。いや、すまない。
「あれは、にいさ……兄貴の癖みたいなものだ」
 俺も子供の頃、散々言われた。 いつか兄さんに負けないぐらい大きくなってやるって、腹を立てたもんだ。 それにからかっているように思うかもしれないが、あれはあれで、彼なりの愛情表現のつもりなんだ。 ちょっと判り難いかもしれないがな。
「存じておりますよ」
 兄のフォローをする、弟の律儀が微笑ましい。 あの頃もそうだったが、今でも相変わらず、この二人は本当に仲が良いようだ。 兄弟で争う国も多い中、ドイツとプロイセンは珍しい程に良好な関係を維持している。
「でも……時々、ドイツさんが羨ましくなります」
 否、「時々」では無いのかもしれない。
 すらりとした、見栄えの良い長身。がっしりと、見るからに逞しい体躯。華やかで、堀の深い目鼻立ち。 欧米の人々の堂々とした容姿は、自分と余りにも違っていて、時に眩しく思ったものだ。
 自分と違うと判っていても、憧れ、羨み、時に真似をして、彼らと同じに振る舞ったりもした。 しかし、それは結局叶わないと思い知らされる――所詮、自分は「亜細亜」なのだ。
「私も、皆さんと同じ人種であったなら……違っていたのかもしれません」
 ぽつりと零れた声に、ドイツはその透明感のある空色の瞳を瞠った。
「すいません、愚痴です」
 失礼しました、忘れて下さい。ちょっと最近、いろいろな問題がこじれておりまして。 言い訳がましく付け加え、俯く。情けない。こんな所で、彼に対して言う言葉では無いのに。
 暫し、沈黙が漂う。重いものではないが、心地好いものでも無い。頭上で小鳥が横切った。
「俺の国でも、人種問題は深刻だ」
 君はちょっと勘違いしているかもしれないが、一口に欧州と言えども、そこには無数の人種が存在する。 更にコーカソイドと称される区分の中でさえ、 ヒスパニック、アングロサクソン、スラブ、ゲルマン……ひと括りになど出来やしないぐらいに。
 欧州は、その陸続きの土地柄、歴史的にも様々な人種や民族が入り混じるようになっていた。 特に中欧に位置するドイツと言う国は、元々分かれていた州を、 プロイセンが中心になって纏めあげた連合国家である。 成り立ち、習慣、文化、民族、宗教は勿論、地方によっては言語さえ異なる州の集合体なのだ。
「そう、なんですか」
 意外そうに顔を上げる日本に、ドイツは気難しく眉間に皺を寄せる。
「ああ……まあ、国民はみんな、頑張ってくれていると思う」
 戦争が終わり、多額な借金を課せられ、不満を募らせる者もいるが、 それでも自国の為にと献身的な国民は多い。 しかしそうで無い輩も一部存在し、それが妙な形でクローズアップされ、 誇張され、独り歩きし、それを何故かメディアが煽り立てている。 それが国民の間で不審を生み、宗教的、民族的問題に発展しそうな不穏な流れに、頭を悩ませている最中だ。
「大変なのは何処も同じ、ですね」
「そうだな」
 ふう、と同時に息をつく。
 慰めにしかならない言葉ではあるが、しかし問題を抱えるのは、確かに自分だけではない。 大切なのはそれを模索し、克服する手段を見極めることなのだ。 落ち込み、その場で蹲っていても、自体は好転しない。 何も出来なくとも、せめて出来る範囲で何とかしなくてはいけないのだ。
「兄さ……兄貴が、君の事を気にしていた」
 何かあったのか。伺うドイツに、どきりと日本は胸を鳴らせた。ぎくり、としたのかもしれない。
 彼と最後に顔を合わせたのは、パリで行われた戦後処理会議の時だ。 会議では会話を交わす事さえ無かったが、こちらの身を案じ、バリケードを破ってホテルまで送迎し、 互いの「違い」をはっきりと宣告された、あの時以来である。
 翌日の会議に、彼は姿を見せなった。 人伝の話では、会議の報告を一刻も早く伝える為に、本国へ帰還したらしい。 あの時、助けて貰った礼も、詫びも、きちんと伝えず仕舞いのまま、 目まぐるしく変化する互いの国政に忙しく、そのままである。
 視線を落とす日本の横顔を見ながら。
「一度、遊びに来ると良い」
 うちも不況で大変なんだが、今年はビールとワインの出来が良いんだ。 政治的なものを抜きにして、友人として君を歓迎する。兄貴も喜ぶ。勿論、俺もだ。
 す、と目の前に出される右の手。骨付きのがっしりしたそれは逞しく、こちらよりもふた回りは大きい。 きっとこの手を育てた彼も、さぞや誇らしく思っていることだろう。
「ありがとうございます」
 控え目な仕草で握り返す日本に、ドイツは不器用に笑った。























 島に上陸する前から、嫌な胸騒ぎはあった。
 遠目に見えた島は、戦闘準備の為に賑やかかと思いきや、随分静かな佇まいであった。 近付くにつれ、違和感は増してゆく。 船上から見えた軍港には、軍船どころか、大きな船さえ見えず、やけにひっそりしている。 籠城戦を構えるとは言え、流石に他より呼び寄せた援軍の船さえあったも良かろうに、それさえ見当たらない。
 不審に思いながら上陸するものの、そこにあるのはまるで無人島のような静寂。 まさか一足遅かったか、既に戦闘が終結したのか。 しかしそれにしては、港も、本部の建物も、張り巡らされている砦も、荒らされた痕跡が全く無かった。
「……なんだ?」
 思わず零れた呟きが、空虚な天井に響く。 理解が追い付かないまま、ドイツ騎士団はやって来たロードス島本部の中を見回した。
 がらんどうの内部に人の気配は無い。 長期の無人という訳でも無さそうだが、それでも人が絶えて久しい様子が見て取れた。 こちらも、埃は被っているものの、荒らされたようには見えない。 本部だけでなく、兵士達の居住区も同じ様な有り様だ。
 大きい島ではないものの、ロードス島は地中海におけるイスラム戦線の最前線であり、要だ。 その拠点を奪われる訳にはいかないと、ローマの専門家を招いて本部を要塞化し、 教皇を通じて他の団体からの援軍を求めていると――そう、フランスの使節からは聞いていた。
 しかし、この現状は一体?
 フランス国王からの依頼は、ロードス騎士団の援軍として、ここで彼らを迎え撃つものであった筈だ。 しかし要塞建築どころか、戦時に向けた補強さえされていない、まるで無防備なままの建物。 それ以前に兵が一人もいないというのはどういう事だ。
「くそ……どうなってやがる」
 この状況が把握できない。せめて、説明できる誰かは居ないのか。 苛立ちに舌打ち、足元に転がっていた古びた兜を蹴り上げた所で。
「ドイツ騎士団っ」
 叫ぶようなその声に振り返る。この状況を理解する為に、付近を調べさせた兵士の一人だ。 どうやら、本部の見張り用の塔へと昇り、付近の様子を確認していたらしい。
 転がるようにやって来た兵は、切らした息を整える事も出来ず、ぜえぜえと肩を上下させた。 みつけました。あちらに。指で示すのは、先程到着した軍港よりも、更に先。


「オスマン軍ですっ」
 海の向こう、オスマン軍の船を発見しました。








塩野七生女史著作「ロードス島攻防記」を参考
2013.05.12







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