黒鷲は東の未来より舞い降りる
<27>





 叩きつけるような雨風の中、冷え切った手足の感覚は既に失われていた。 海水に体力を奪われた身体は、最早自分の意思で動く事は叶わず、ぼやけた視界に意識さえままならない。 息苦しさに肺を膨らませようとするが、咽喉の奥がひゅうひゅうとか細い音を出すだけだ。
 忠告はされていた。長い航海に船も船員も疲れている、と。 この時期この国には嵐が多い、と。過ごしてから出発した方が良い、と。 それを一笑で振り切ったのは、間違いなくこちらだ。
 黒水晶のような、透明感のある瞳が印象的だった。 懸念の彩りを消さないまま、しかしこちらの無知で向こう見ずな意向を優先し、 最後まで気遣わしげな面持ちのまま、いつまでも出港を見送っていた。 何処か女性的でさえある小柄な姿が、こちらが見えなくなるまで動かなかったことは、 部下からの報告で直ぐ後に聞いた。 それに、何処かむず痒いような心地になったのは、誰にも告げなかったけれど。
 結局、あんたの危惧した通りになっちまったよな。皮肉に唇が歪む。
 何が、大丈夫、だ。何が、心配無用、だ。何が、俺んトコの海軍を侮って貰っちゃ困る、だ。 自信満々に大口を叩いた少し前の自分を、力一杯張り倒してやりてえ。
 呆れただろうな。あの優しげな瞳に愛想を尽かされたかと思うと、情けなさに遣り切れない。 ああ、全く。俺もヤキが回ったもんだ。こんな際に思い出すのが、あの黒曜石の瞳だなんてよ。
 泥のように纏わりつく倦怠感に、朦朧とした思考が塗り潰される。 引き摺りこむような睡魔に抗えず、抵抗する気力さえ湧かず、 意識の全てを暗闇に沈むに任せようとした――その瞬間。

「私の声が聞こえますかっ」

 最後に残った一縷の意識が、ぐいとその手によって引き上げられる。 些か乱暴とも言える力は、痛みさえ担って、こちらの手を強引なまでにこの世界に繋ぎ止めた。
 しっかりして下さい。他の乗組員も、村の人が総出で捜索しております。大丈夫、貴方は私が助けます。 だからお気を確かに持って下さい。
 あんた……開いた口からは声が出ない。代わりに、ぐうと内側から何かがせり上がる。 抑えきれない嘔吐感に、咳き込み、喘ぎ、身じろぎ、身体を折り曲げ、胸に詰まった海水を吐き出す。 苦しさにぜえぜえと息を荒げると、とてつもなく優しい感触が背中を宥めるのを感じた。
 生理的な涙で滲んだ視界が捉えたのは、直前に脳裏を占めた黒檀色の瞳。 あまりにタイミングの良さに、もしかしてここは、もう神の国か?  咄嗟にそう思った自分の思考が、場違いな程可笑しかった。
 切羽詰まったように、しかし凛とした強さを持って見下ろす瞳が綺麗だと思った。 雨に濡れ、張り付いた黒髪。丸みのある頬に、つうと雨の滴が輪郭をなぞる。 それが、まるで彼の零した涙のようにも見えて、こんな辛そうな表情をさせたくなくて、 せめて拭ってやりたいと腕に力を込める。 だが、疲労した身体は言う事を聞かず、僅かに指がひくりと動いただけ。
 情けないその手に応えるように握り返す力強さが、 その時確かに、生へと繋がる唯一のかけ橋のように思えた。

「判りますか、トルコさん。私です、日本ですっ」























「奴らからの返事は」
「まだです」
「下船準備は」
「終了しました」
「陣の進行は」
「滞りなく」
「本国からの連絡は」
 それが……歯切れの無い返事に、仮面の奥の目が細くなる。 つまり、何の進展も無いという事なのだろう。眉を潜める提督の後ろ、ちっと忌々しげに舌打ちする。
 糞餓鬼一人、どうなろうと知ったこっちゃない。 だがあの餓鬼は、地中海の要を担う戦利品だ。今はまだ、失う訳にはいかない。
 よりにもよって、こんな時に。うんざりしたように溜息をつくと。
「あと、近隣の島の住民との接触があった模様です」
 戦争がはじまり、戦場近辺の住民が兵士に接触を試みるのは珍しく無い。 商売人、内通者、立会人、土地の権力者、兵士志願者……接近を計る内容は様々である。 この戦闘の勝者が、次の支配者となるのだ。彼らも生活が掛かっている。 弱い勢力よりも強い勢力に靡き、今の生活を少しでも向上させたいと願うのは、決して悪い事ではない。
「目的は」
「物売りだったようです」
 空の様子から、季節風が来ると言っていました。 船が流されないように、強風で波に酔わないように、 揺れを防ぐ為に船を繋いだ方が良いと、大量の縄を売りに来たそうです。
 はあ? 目を剥く。船を繋げるなんて初めて聞いた。 戦争を目の前に、わざわざ船の動きを鈍らせるような真似なぞ出来る訳が無かろうに。
「季節風に関しては、あながち嘘ではないかもしれません」
 この地方は、丁度季節の変わる時期に差し掛かったところだ。 モンスーンや、嵐が多くなることも充分あり得る。 先日も、向かい風が港への追い風に変わり、霧が発生していた。
「一応、縄は購入しました」
 戦い終結後、彼らとの接点が増える事もあるだろう。 今後を考慮すると、この程度のことでこちらへの心証が少しでも緩和するというのなら、 別段高い買い物でもない。 売り手の目的とは趣旨と違おうと、縄の利用価値など幾らでもある。
「念の為、後方の船を幾つか連結させようかと思っております」
 体調を崩したり船に慣れない者は、前線から外し、後方の待機船へと移動させている。 恐らく海上戦には至らない。 その処置で少しでも船の揺れが落ち着くと言うのなら、試してみても良い。 戦闘に影響が無い所ならば問題なかろう。好きにしろ。ひらりと手を振ると、隣に立つ提督も頷いた。
「失礼しますっ」
 足早にやって来た兵士に、その場にいた皆が顔を上げた。余程急いで来たらしい。 伝令の兵士の息が上がっている。
「どうした」
 促す提督に、はいと姿勢を正し、兵士は手に持っていたその白い紙を差し出した。 一つ、大きく息を吸い、息を飲み込んで。
「ドイツ騎士団より、矢文での返信が来ましたっ」
 交渉は決裂。彼らはこちらの進言と提案を拒否し、開戦を選択しました。























 華やかな鼓笛隊の歓迎セレモニーに手を振り、軍艦から下りてくる姿は、実に堂に入ったものであった。 陽光に照らされた軍服は、その煌びやかなイスラム文化を映し、欧州とはまた違った豪華さを端々に見せている。 歴史ある帝国に相応しいその独特の貫録に、迎える日本は姿勢を崩さないまま迎えた。
 タラップを降りると、同行の要人たちは待ち受けた政府関係者と通訳を介しながら会話し、 親しげな笑顔のままがっしりと握手を交わし合う。 その狭間をすり抜け、彼は迷う事無く真っ直ぐに、日本の前とやって来た。
 そして正面から対峙すると、その顔の上半分を覆う仮面の奥、何やら楽しげにその瞳が細まる。
「いよう、サムライ」
 久しぶりだな、東の兄弟。強かさを滲ませた唇が、にやりと吊りあがる。 そしてこちらに差し出される肉厚の手を、日本は力を込めて握り返した。
「お待ちしておりました、トルコさん」
 ようこそ、日本へ。遥かユーラシア大陸の向こうからの来客に、日本は穏やかな笑顔を浮かべた。





「漸くだったな」
 潮風に艶やかな髪を遊ばせた日本が顔を上げると、隣に並んで歩くトルコは満足そうに笑った。 式典を終えた二人は、正装姿ではないラフな日常着――それぞれ、着物とカフタン――を纏っている。
「これでやっと、あんたと正式な国交が結ぶことができたぜい」
 今更って気もするけどな。なんだか、予想外に時間が掛かっちまったなあ。
 確かに、言われてみればそうかもしれない。恐れ入ります、と日本は控え目に微笑んだ。
「本当に光栄です」
 トルコ帝国の高名は常々、遥か以前――遡れば、シルクロードの時代――より耳にしていた。 東西貿易の中間地点に位置する、時に地中海一帯を掌握する程の力を有した中東の大帝国。 その神秘的で壮大な歴史を有する大国と友達になれるなんて。
 しみじみとしたその声に、トルコはいやあと仮面の奥の目を瞬かせる。
「それは、こっちの台詞でい」
 仮面で目元を隠してはいるものの、にかりと歯を見せる笑顔は、随分明け透けなものだ。 鷹揚で豪胆で、しかしどこか気さくな印象は、欧州とも、超大国とも、隣国とも、また全く違う。
「こうして、あの北の大国を打ち負かした国と友達になれるたあな」
 顎に手を当てて感慨深そうな視線を向けるトルコに、日本は困ったように苦笑する。
 北の強国を打ち負かした、世界一のバルチック艦隊を倒した、 驚くべき戦略であの強大な帝国に圧勝した……彼の口から幾度と無く聞いた言葉だ。 日本自身は全く知らなかったが、遥か遠い彼の国では、 北の大国との日本海海戦は、こちらの想像以上に大きく取り沙汰されていたらしい。
 当時、北からの圧力に悩まされていたのは、日本だけではなかった。 帝国の南下政策から、じわじわと広がる帝国の侵攻を受けるトルコにとって、 東の新興国の勝利は自国の勝利と同等に受け止め、喜ばれたという。 トルコ国内では、その海戦での提督の名を、そのまま子供に名づけるブームさえあったようだ。
「そう、大袈裟に言われると困ります」
 何度も申し上げておりますが、あれは本当に、皆さんが思われているような勝利ではありません。 こちらとしてもぎりぎりの極限状態での結果でして、 そんな風に言われると、騙しているようで心苦しいです。
 恐縮しながらぶんぶんと横に手を振る日本に、トルコはにんまりと唇を吊り上げた。
「しかも、謙虚で慎み深いときたもんだ」
 あの大熊を倒したから、さぞや剛毅な御仁かと思ったが、まさかこんな雅な風情の持ち主たあな。 その上、礼儀正しく、他者への敬意を忘れず、名誉と誇りを重んじ、勇敢で、何より情に厚い……。
「トルコさん」
 本当に勘弁して下さい。 どんな顔をして良いのか判らないまま俯く日本に、からからときっぷの良い笑い声を上げる。 いやいやいや、軽く手の平を掲げてみせて。
「そんな所も、あんたに惚れた理由だぜい」
 率直なその言葉に、日本はさっと頬を染めた。
 欧米の人々もそうであるが、世界には実にストレートに言葉を使う国が多い。 内に秘めた言い回しを多用する文化を有する者としては、彼らの言葉はどうも気恥ずかしくていけない。 火照った熱を抑え込むように、そっと日本は己の頬に手を当てる。
 日本とトルコの国交樹立は、少し変わっていた。 珍しい事に、この二国の交流は政府主導ではなく、民間で作られた協会が先行している。
 両国とも、互いにその存在こそ知っているものの、距離的にも、宗教的にも、非常に接点は少ない。 しかし件の日露戦にて、今まで無名と言って良かった日本が、トルコ国内で広く認知されるようになり、 その戦場での作戦や戦略、短期間で成し遂げた近代化の在り方などが研究され、 書物も出版されるようにまでなった。
 そんな中、オスマン海軍が親善使節団として訪日した。 先に行われた、日本皇族のイスタンブール訪問に応えることが目的である。 皇帝からの親書奉呈が表向きだが、側面として、オスマン帝国海軍の軍事訓練も兼ねたものであった。
 しかし、その帰途にて事件が起きた。 出港から間も無く、オスマンの軍艦は台風に遭遇して座礁し、浸水による水蒸気爆発で大破する悲劇に見舞われる。 司令官をはじめとする、大多数の乗組員が遭難にあう大事故だった。
 この事故は、両国に衝撃を与えた。
 事件報道と主に取り沙汰されたのは、彼らを救援した沿岸近郊の村人達だ。 辛うじて岬に流れ着いた生存者の知らせを受けて、献身的な救助活動を果たした彼らは、 トルコ国内に非常に好意的に捉えられたらしい。
 以後、その縁より発生した民間の交流が細々と続けられ、オスマン帝国からトルコ共和国へと政権が変ると、 漸く二国の国交樹立が成されたのである。
「俺は、あんたたぁ仲良くやれると思ってるんでい」
 国交樹立まで時間は掛かったけど、両国には似た所が多い。 言語の文法も近いし、文化や伝統を尊重する価値観も同じだ。 風呂が好きだったり、靴を脱いだり、床に座ったり寝たりする生活習慣も共通している。 地震の多い国土だってそうだし、ついでにお互いの国旗だって似たものを感じねえか?  大陸を中心に、月を追い掛けて西へ移動した民族がトルコへ、太陽を追いかけて東へ移動した民族が日本へ流れ、 実は元々同じ民族の兄弟同士だったって信じている奴だっているんだぜい。
「それはまた、斬新な解釈ですね」
 くすくす笑う日本に、いや、あながち的外れってえもんでもねえって、言いつつトルコも笑い声を上げる。
「ほら、俺達ゃアジア同士だからな」
 その可能性もあるってこった。その軽口に、えっと日本は目を丸くして、隣に並ぶトルコを見上げた。 ん? と首を傾げる彼に。
「亜細亜……ですか?」
 きょとんとした瞬きにぽかんとし、間を開けて理解が追い付くと、おうおうと苦笑する。
「俺とあんたは、同じアジアだぜ」
 アジアと一言に括れど、その範囲は広い。 漢字圏のみが亜細亜だと日本は勘違いしがちではあるが、実際は違う。 一番端にある極東の日本から西アジア、南アジア、中央アジア……その範囲はとてつもなく広い。 区分が微妙な点も多々あるが、それでもトルコはアジアに分類される事は多いのだ。
 同じ、亜細亜人。がっしりとした骨格と彫りの深い顔立ちを持つ彼を、日本は不思議な心地で見上げた。 幼さと無防備さをさらけ出したその表情に、トルコは仮面の奥の目をそっと細める。
「俺ん所は、アジアを重視する政策を取ってんだ」
 脱亜入欧を唱えて近代化したあんたとは、正反対かも知れねえな。腕を組み、前を向いて。
「アジアは、決してヨーロッパ連中より劣っている訳じゃねえんだぜい」
 西と東の狭間から見た、その上での判断だ。
 今でこそ、自分が世界の中心みたいに調子づいているが、 元は何処の国も、こちらから言わせれば田舎者の、小汚ねえ小僧みてえな小国ばかりだったんだぜ。 あんたが近代化の手本にしたって言うプロイセンなんかも、 昔はドイツ騎士団っつーチンケな無法者集団だったなあ。
「いつか必ず、アジアはあいつらに追い付く」
 確かに、現在は近代化に乗り遅れている。 しかしそれ以前、それぞれの特性に甲乙こそあれ、相対的に見て東と西に差は無かった。 彼らが成功し得たのは、手当たり次第に見つけた大陸を我がものとし、 植民地を増やして利権を搾取し、力任せに市場を拡大させ、その犠牲を以て自国を支えた、 歪な構造の産物なのである。
 つ、とトルコは日本を見た。
「あんたが、それを証明してくれたんだ」
 世界は、白人だけのものではない。
 奴らはピラミッドの頂点に君臨していると勘違いしているが、違う。 その人口比でさえ、有色人種の方が遥かに数が多いのだ。
「あんたにゃ、アジアを先導するだけの力がある」
 我が物顔で荒らし回る奴らを追い出し、植民地から解放し、独立を促し、 この混沌としたアジア諸国の仲介を果たし、導くだけの力がな。
 そして、きっといつか。あんたはどこにも負けないような超大国になる。 軍事的にも、政治的にも、経済的にも、技術的にも。 アジアだけじゃなく、欧米連中も頼らざるを得ないような、そんなとてつもない国になるだろう。
 俺は、そう信じている。

 正面に見えるモニュメントに、お、とトルコは声を上げた。
「あれかい」
「はい」


 海からほど近い岬に建てられた方尖柱型のそれに、二人は足を進める。
 簡素ではあるものの、小さな田舎の漁村に設置されるには似つかわしくない程に、充分立派なものだ。 軍艦エルトゥールル号遭難事件の際に命を落とした、乗組員達の慰霊碑である。
「そちらの宗教に知識が至らず、申し訳ありませんが」
 ただ、慰霊碑と言う鎮魂の形式は、国際的には一般的に扱われていると聞き、この形を取らせて頂きました。 何か問題があるならば、遠慮無くお申し出ください。
「いや、感謝している」
 こういうものは、宗教云々は関係ない。気持ちの問題だ。 あんたの国の誠意の証だ。有り難く、その気持ちを受け取らせて貰うぜ。
 正面に立つと、トルコは暫しそれを見上げた。
 慰霊碑の裏には、事故で命を落とした乗組員達全ての名が刻まれている。 痛ましい当時に思いを馳せ、トルコは深く呼吸をした。そして、目元を覆う仮面に手をかける。 その仕草に日本は慌てて視線を逸らせると、さり気なく彼の素顔が見えない位置まで退いた。
 外した仮面を胸に、首を垂れ、深く祈りを捧げる背中。倣い、日本も目を閉じる。 長い黙祷。遠くから響く波の音が、静けさを更に強調させた。
 かさりと草を踏み締める音に、日本は瞼を開く。 慎重に顔を上げると、こちらを振り返っていたトルコは既に仮面を付けていた。 それに、ほっと表情を和らげる。
 日本の気遣いを悟ったトルコは、苦笑しながら首の後ろに手を当てた。 単純に古くからの習慣であり、別に見られて困るものではない。寧ろ、他でもない、あんただったら。
「ったく、あんたって人は……」
 何処までも、こちらを気遣い、立てて、遠慮する。 気を使い過ぎだと呆れる思いがするが、しかしそんな彼だからこそ。 忠告を聞き入れず無茶をした馬鹿を、危険を押し切って助けるような彼だからこそ。 非常用の食べ物さえ差し出して異国人を介助する、呆れる程にお人好しな彼だからこそ。
 なあ、日本。
「この恩は、ぜってえ忘れねえぜ」
 トルコ人は義理堅い。いつか、きっとこの借りは返させて貰うぜ。
「私達は、当然のことをしたまでです」
 困っている人がいれば助ける、そんな当たり前の事に借りや貸しなど存在しないでしょう。 私共は、トルコの皆さんに力添え出来たその事実だけで、充分満足しております。
「それに、我が国の国民は、結構忘れっぽいんですよ」
 確かに痛ましい事件であったけれど、皆さんが帰国された事で完結しました。 きっとその記憶は、日常に埋もれてしまうでしょう。 だから、そんなにお気になさる必要はありませんよ。
 けぶる様に笑う日本に、しかしトルコは真摯な瞳を逸らさない。
「それでも、俺ぁ憶えている。例えあんたが忘れてもな」
 だから、約束する。
 確かにこの世界、力を持つ国は限られている。 だが、力を貸す事が出来るのは、なにも先進国だけではない。 友好が助けになるのは、強国だけではない。
 憶えていてくれとは言わねえ。只、例えあんたが忘れても、それでも俺は絶対に忘れねえ。 いつか……遥か未来になるかもしれない、そのいつか。
 もしも。ここではない遠い国で、あんたが自国に帰る手段を無くしてしまった時。 身動きが取れず、あんたの力ではどうしようもなくなった時。 命の危険にさらされて、あんたに助けが必要となった時。


「今度は、俺にあんたを助けさせてくれ」























 ランプの明かりが揺らめく小さな個室。 壁面に寄せて鏡を立て懸けた鏡台代りの木箱の前、菊は姿勢を伸ばして正座し、目の前の鏡をじいっと見つめた。 そしてそっと目を閉じ、気を落ち着けるように深く呼吸して、精神集中をする。
 日本の記憶では、ロードス騎士団はオスマンの猛攻に善戦した。
 だが、敗北する。後の歴史学では直接的な要因は、矢張りその兵力差と、物資であったと分析される。 当初の予定よりも長き期間持ち堪えたものの、備蓄と支援物資が途切れ、 オスマンの紳士的とも言える条件を飲み、長きに渡ってキリストの砦となった島を去り、 マルタ島へとその本拠地を移転し、その後も存続を果たす。
 当時のロードス騎士団は、兵力差を埋める為、 教皇を通じてローマから専門家を呼び、島の本拠地を強固な要塞と化していた。 それが、四百隻の船と二十万の兵対七千の騎士団という圧倒的な数での不利を埋め、 結果的に当初の予定よりも遥か長き期間、小さな島での戦闘に持ち堪えることが出来たのだ。
 だが、ローマで聞いた騎士団総長と神聖ローマ帝国の話では、ロードス島への専門家の派遣はしていない。 長らく島を守っていた為、それなりの防壁や城塞を建造してはいるであろう。 しかし、それが何処まで通用出来るものであるか、期待は持たない方が良い。
 つまり、自らの持つ力のみが頼りなのだ。
 追軍も、援軍も、教会からの補助も無く、何も望めない今、己の手で道を切り開くしかない。 スルタンは今回のロードス島攻略を、過去に無い意気込みを見せている。 更に、トルコが支配下に置いた、エジプト軍、シリア軍の追軍の可能性さえある。





 だが、ここでドイツ騎士団を消滅させやしない。





 背後から、小さなノックが聞こえた。同時に、にゃあ、と猫水夫の鳴き声が届く。
「キクさん、準備は整いましたか」
 扉越しに伺う少年騎士の声。菊は凛と眼差しを開くと、傍らに置いていた日本刀を手に、すっくと立ち上がる。


「参ります」


 振り切る様に踵を返すと、耳から垂れ下がったイヤリングが、しゃらりと繊細な音を立てた。








エルトゥールル号の恩は湾岸戦争で
今はEU加盟の件で、欧州重視に変わってきているそうです
2013.06.02







back