黒鷲は東の未来より舞い降りる
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 護衛船を携えて漸く到着したその船は、華やかなオスマン軍船の中でも、 一際豪華で、優雅で、煌びやかなものであった。
 贅を尽くした装飾に彩られ、波の反射をきらきらと受けて輝く姿は、 まるで最盛期を迎えようとするオスマン帝国の繁栄を形にしたかのようだ。 オスマン軍の兵達はその堂々たる登場を、歓声を上げて迎え入れた。
「まさか、今回も自ら戦場に来られるとは」
 就任直後のハンガリー遠征にも驚いたが、こんな小さな島の制圧にまで足を運ぶとは。 鷹揚と海上を滑る船を眺めながらのパシャの呟きに、並んで立つ彼はくつくつと肩を揺らす。
「ま、今回のロードス戦は、今までとは違うってこった」
 今までのように、なあなあで済ませるつもりはねえ。 欧州遠征への足掛かりの為にも、このキリストの毒蛇の住処を、 今度こそきっちりと始末するつもりなんだろうよ。
 さもありなん。動員した兵数も、過去に幾度と無く挑んだロードス戦に比べて桁違いだ。 現在ロードス島沖に集まった軍船は勿論、状況によっては追軍を呼び寄せる準備さえ整えていた。
「しかし、この島ひとつ攻略するには、些かやり過ぎではないか」
 上等じゃねえか。彼は腕を組み、にいと唇を吊り上げる。
「あいつぁな、今までの奴らたあ、器のデカさが違うんでい」
 間違いねえ。俺には判る。 奴はオスマンの歴史を覆すような、地中海だけじゃなく世界を揺るがすような、そんな可能性を秘めていやがる。
「おう、見えたぜ」
 近付く船の桟橋にある立ち姿に、彼は顎をしゃくって示す。
「我らが大帝、スルタンの登場だ」
 鮮やかな金飾りのついたカフタンの裾を潮風に靡かせて舳先に立つ姿は、既に王者としての貫録が滲み出ていた。 まだ若さを残しながらも豊かな口髭を蓄え、後に壮麗と評される貌は、理知的な目元も涼やかに精悍。 それが、甲板で出迎えるこちらに気付くと、満足そうに笑みを浮かべて軽く手を振り上げた。
 彼こそが、オスマン帝国の最盛期を築き上げ、後に立法帝とも称される、 オスマン帝国第十代目大帝スレイマン一世、その人であった。




 ロードス島戦は籠城戦だ。
 この島には、二つの港がある。 一方は元よりこの島に住む住民の使う商港、もう一方は騎士団の使用する軍港だ。
 進軍してきたイスラム軍勢は、その軍港から上陸し、まず騎士団本拠に面した位置へと陣を敷いた。 長きに渡って島を守り続けていたロードス騎士団の城塞を、彼らは決して軽視していない。 手を抜く事無く、万全の準備をした上で、確実に攻略する……オスマンの意気込みが、そんな所からも読み取れる。
 そして天幕が連なる陣を完成させて数日後、最初の交戦が開始された。
 尤も、この攻防は極短時間であった。 仕掛けられたオスマン兵に、迎えるドイツ騎士団は城壁に設置された砲撃を打つものの、 それは一種儀式的なデモンストレーションに近い。 煙を巻き上げる大砲を遠目にするオスマン兵に、ドイツ騎士団の強い戦意を誇示するに留まり、 双方共に殆ど被害らしいものは出さずに終える。


 そうして二度目の交戦の火蓋が落とされて――本格的な戦闘が始まった。


 幸いにも、胸間城壁は大砲の設置を考慮されて大刻みであり、 ドイツ騎士団の持参した大型武器には非常に都合が良かった。 改良を重ねた新型武器は、移動しやすく、設置に時間を取られず、 少人数での取り扱いが可能で、しかし今までの物に比べて格段に威力を上昇させている。 その長所が、今回のオスマン戦でも充分に発揮された。
 しかし、深刻なのはその兵数の差だ。
「良いか、兵を分散させろっ」
 イスラム勢はこちらを警戒し、接近戦を躊躇している。決して、これ以上近付かせるな。
「編成した隊ごとに行動しろ、それぞれの持ち場から離れるなっ」
 機動性を重視し、少人数ごとに行動して攪乱させろ。捉えた敵兵は捕虜として捕え、敵陣に返すな。 決して相手に、こちらの人数を悟らせてはならない。
 何せこちらは、あくまでもロードス島への援軍のひとつとして構成した、ドイツ騎士団員のみの人員だ。 相手の総数を思えば、一気に人海戦術で攻められるとひとたまりもない。 一団になっている所を狙われれば、それだけで全滅になってしまう。
「兎に角、早急に打開策を取らねばなるまい」
 無人となっていたロードス騎士団の本部にて、ドイツ騎士団の首脳陣は戦闘の傍ら、 現状を打破すべく作戦を練る。
 交戦が開始され、既に三度目、四度目……と、オスマンの攻撃は緩むことなく連投されている。 強固な城壁と新型武器に守られ、なんとか持ち堪えてはいるものの、それでも被害や死傷者が皆無な訳ではない。 戦力は、確実にじりじりと削ぎ落されている。
「矢張り……開戦に踏み切るべきではなかった」
 半ば成り行きのように戦闘に突入したものの、これは最初から勝利の見えない戦いだ。 何より、傭兵として雇われた我らが、何故こんな孤立無援な状態になっているのかさえ、全く把握出来ないでいる。
 この島を守るロードス騎士団は何故不在なのか。他の傭兵部隊は島に来るのか。 フランスへ向かったドイツ騎士団総長からの連絡はどうなっているのか。 もしかして我らは、計られたのではないのか。 理解出来ない状況下、敢えて戦闘に踏み切る必要はあったのか。
「戦いを開始する前に、我らは投降するべきであったのではないか」
 元より、これは「傭兵依頼」だ。 最初の契約と違うと知って依頼を解約する事は、決して臆病でも卑怯でも無い。
「それはできねえ」
 ここでもし撤退すれば、我らがキリストの騎士は、イスラムに譲歩したと同じことだ。 このロードス島は、長きに渡って地中海を守り続けた、言わば最後の砦である。 その島を譲歩するということは、欧州へ勢力を伸ばすイスラムの脅威に直結する。 日増しに増長する今のオスマン帝国を思えば、それだけはなんとしてでも避けるべきであろう。
 そして何より――今回のフランス王からの報酬を手にする為には、交戦もせず戦闘を放棄するなど論外だ。
「だが、このままでは我が騎士団は全滅します」
 圧倒的に人員に劣る中、経験と勇敢でもって、辛うじて不利を誤魔化しているに過ぎない状況下。 幾らこちらの武器が優れていようとも、騎士団の武勇が秀でていようとも、 只でさえ土地に明るくない島での孤立した籠城戦、物資が底をつくのも時間の問題だ。 そうなれば、最新の威力を誇るドイツ騎士団の武器も、単なる飾りにしかならない。
「完全に孤立しているという訳ではない」
 少なくとも、遅れて合流する予定であったドイツ騎士団総長が、こちらへと向かって居る筈だ。 思えば、聡明なる総長は、こうなる懸念故にフランスへ向かったのかもしれない。 ならば、必ず我らを助ける為の最善を尽くし、こちらへ向かってくれているに違い無かろう。
「しかし、どれだけ待てば良いのか」
 確かに、総長が我らをこのまま見捨てるとは考えられない。  とは言え、こうして予定していた合流のないと言う事は、彼が身動きの取れない身上である可能性もある。 ならば、果たして到着まで、我らが持つのであろうか。 その上、港はオスマンの船の大群に埋め尽くされている。 それらを掻い潜り、ロードス島まで辿り着く手段が果たしてあり得ると言うのか。
「……絶対絶命か」
 絶望に満ちた声に、皆項垂れる。 まだ数える程の交戦しか果たしていないにも拘らず、既に当方の疲労は色濃い。 そんな彼らの顔色に、ドイツ騎士団は唇を噛み締めた。
 砲撃の轟きを遠く、沈鬱な空気に包まれた中、扉の向こうから忙しない足音が近づいてきた。
 失礼します、扉の向こうの声に応えると、やや乱暴に扉が開かれた。 息せき切った兵士が、肩を上下させながら、喘ぐように悲愴な声を上げる。
「西の外壁が破壊されましたっ」
 崩れた塀から、オスマン軍勢が侵入を果たそうとしております。 現在我が騎士団が応戦しているものの、その兵数差は歴然。どうか、どうか援軍をお願いします。
 息を飲む静寂。城壁の決壊は致命的だ。即刻兵を送り、敵を退け、砦の応急処置をしなくてはならない。 しかしこの場にいる首脳陣の誰もが、それらを補えるだけの援軍を捻出できないことを知っている。
 早く、一刻も早く援軍を。縋りつくような声で叫ぶ兵士に。
「ドイツ騎士団っ」
 がしゃりと傍に置いていた剣を握り締めると、ドイツ騎士団は西の城壁へ向かって走りだした。




 しかし、実際に劣勢を強いられているのは、実はオスマン側であった。
「奴らは戦い慣れていやがる」
 元より、十字軍騎士団は戦う為に存在する団体だ。 神への忠誠心の深さ故に、恐れを知らず、士気も高く、統率の取れた、精鋭部隊の集まりである。
 その上、ロードス騎士団の砦は、籠城戦に対して非常に強固な構造をしていた。 要塞の如く張り巡らされた内城壁と外壁の二重の壁は、充分な強度を有している。 更に外壁の外側に設けられた幅の広い外堀が、進行側にとって大きな障害となり、 海水の流された外堀に足止めを食らうオスマン兵は、壁の上から降り注がれる砲弾の格好の的となっていた。
 おまけに彼らの扱う大砲は、オスマンのものとは比べ物にならない程、飛距離がある。しかも、異様に精度が高い。 キリストの軍があれほどまでに性能の良い武器を持っていたとは、全く予想外であった。 これでは、こちらの弓や砲弾が届く位置まで、前進することさえ難しい。
 加えて、船で大挙しているものの、オスマン軍は海戦には不慣れだ。 特にこの地方の風向きには悩まされ、気が付けば沖や港へ流されてしまう船が続出している。 船酔いに悩まされる新兵や、土地が変わって食料や水質の問題から、体調を崩す者も多い。
「ああ、それであの縄か」
 この司令船にやって来るまでに幾つも見た。 何故、わざわざ船が縄で繋げられているのか不思議に思ったが、それが理由であったか。 ゆらりゆらりと揺れる司令船の一室、それらの報告に成程とスルタンは納得する。
「全兵を上陸させれば良いのでしょうが」
 しかし、海上封鎖もオスマンの作戦の一つだ。防衛側を追い詰めるのに、物流問題は大きな要ともなる。 特に小さな島を囲い込むという状況は、心理的にも相当のストレスを与えるであろう。
「こちらは長期戦を見据えての遠征です」
 既に、近隣の島の商人とは契約を果たしております。物流で悩まされる事はありません。 キリストの軍がどれ程の武勇を持っていたとしても、我らは彼らの物資が底を尽きるの待てば良いのです。
 自信に満ちたパシャの言葉に、スルタンはふむと満足気に頷いた。 慎重なこのスルタンは、自国軍を奢らず、決して敵を侮らない。
「ただ……ちっと気になる所はあってねぇ」
 傍らに腰を据えていたオスマンの象徴は、その骨太の指で無精髭の生えた顎を擦る。
 戦闘を始めてこちら、彼らの様子には微妙な違和感があった。 最初は気にもしなかったが、しかし交戦を重ねるにつれて、やがてしこりのように引っ掛かる様になる。
「あいつら、なーんか妙なんだよなあ」
「妙、とは?」
「やけに、兵が少な過ぎるように見えるのです」
 未だに司令塔たるパシャが上陸を躊躇するのも、それが理由であった。
 今回の遠征は、随分早くからロードス騎士団には伝わっていた筈だ。 過去を遡れば、戦火の気配を察したロードス騎士団は、ローマ教皇を通じて援軍にらを要請し、 欧州に点在する騎士団の精鋭たちを呼び寄せて、こちらに応戦してきた。 今回もそうなるだろうと予想していたのだが、しかしこちらの陣から伺える兵の数は、 ロードス島に常時駐在していた騎士団の数にも劣るのではなかろうか。
 そして、兵の数だけではなかった。
 戦渦が人を集める事は珍しくない。 これまでに幾度となくロードス島戦が交わされていたが、招集された傭兵、雇われた整備士、戦士を目指す新参兵、 集まる人々に商売をする近隣の島の住民、ひと儲け企む武器商人……小さく普段は静かなこの島は、 喧騒と活気に溢れ、一気に人口が増えることが多かった。 だが、今回はその様子が全く見られないのだ。
 到着した当初、戦闘前に島を放棄したのかとも思った。 しかしロードス騎士団の城塞には騎士団兵が居るし、交渉に返された矢文の文面は実に好戦的であった。 加えて城壁に設置された武器は、驚く程に性能の良いものばかりである。
「まさかあいつら、どっかに援軍を隠してんじゃねえかって思っちまってなあ」
 考え過ぎかもしれねえが、こちとらこの近辺の地理には詳しくねえからな。 油断したまま全軍が上陸し、何処かに身を潜めた傭兵部隊に奇襲攻撃を掛けられるのもぞっとしねえ。
 どう判断して良いのか測り兼ね、とりあえず兵の大半は海上に留まらせている。 伝令に多少の時差的ブランクと面倒臭さはあるものの、今の所は指令に差し支えは無い。 距離を取るのは安全ではあるが、 同時にロードス騎士団が何を考えているのか、オスマン軍は推し量れないままでいた。
 失礼します。扉の向こうの声に、パシャは開扉を促した。 開いた扉の前に立つのは伝令兵だ。 きりりと直立したまままスルタンへ礼を示すと、視線を高く上げたまま口を開く。
「騎士団城塞における、西の壁の一角を突破しました」
 現在我らがオスマン兵は、ロードス騎士団と白兵にて交戦中。 苦戦しつつも決壊した城壁からの侵入を試みております。
「尚、敵兵を多数捕えた模様」
 現在治療を施し、捕虜として陣に監禁しております。 その報告に、ひゅうと口笛が鳴った。 てやんでえ、こいつぁ良いタイミングじゃねえか。
 うだうだ悩むのは性に合わねえ。判んねえなら、直接当人に聞きゃあいいってことだよな。 仮面の奥の瞳を楽しげに瞬かせ、オスマンの象徴はにいと唇を吊り上げた。
「よおし、ここに連れてこい」























「こんなコト、いままでなかったヨ」
 植民地にしたとか、自分の領土なのだとか、そう主張する輩は初めてではない。 だけど皆、こちらにはちっとも意味の無い、口だけのものばっかりだった。
 こっちはこっちで好きにやっていたし、老師だって殆ど放置だったネ。 面倒臭いことばっかり、堅苦しいことばっかり、難しいことばっかり、ややこしいことばっかり。 何でこんなことしなくちゃいけないのか、わかんないヨ。
 座卓の上にぺたりと頬を張りつけたまま、ぶうぶうと文句に唇を尖らせる。 それでも言われた通りに筆を動かす彼女に、向かい側に姿勢を正して座する日本は、 手元の書類から目を逸らさないまま。
「知識は貴方を強くします」
 そして、決して奪われる事の無い確固たる財産となります。 確かに、面倒で、堅苦しく、難しく、煩わしいことばかりかもしれません。 しかし、確実に貴方の力になり、助けになります。 今は意味のないことに感じるかもしれませんが、どれも将来の貴方にとって、とても大切なことばかりなのです。
「デモ、日本サントコの言葉、むずかしいのヨ」
 勉強する事が大切だと言う事は判る。でもナンデ、わざわざそれを、他の国の言語で学ばなくちゃいけないの。 言葉ぐらい、自分達のものを使わせて欲しいよ。
「共通語が必要だからです」
 台湾は複数の小部族の集まりである。 それぞれの部族はそれぞれの言語を使っており、他部族の言語を理解することは殆ど無い。 しかしそれでは、ひとつの国としてあまりにも不都合である。
 日常生活に慣れた言語を使うのは問題ない。 しかし、情報を正確に伝達する為にも、教育レベルをくまなく均一に向上させる為にも、 部族同士が一国民として理解を深める為にも、全土の人間が理解する共通語は必須なのだ。 日本語教育は、その手段なのである。
「台湾さんには将来的には、私と同じ国家水準を持って頂くつもりです」
 その為には、まだまだ貴方には沢山学び、強くなって貰わなくてはいけません。
「……そんなの、ムリだヨ」
 私と日本さんとでは、元よりデキが違うモン。 世界の五大国まで数えられる国の水準を自分に求められても、国としての規模も基礎も違うのだ。 余りにも無理な話である。
 眉間に皺を寄せて目一杯しかめっ面をする台湾に、日本は顔を上げ、不貞腐れた顔へと視線を向けた。
「私も開国当初は、何も知らない無知な弱小国でした」
 しかし、無知から目を背けるだけではいけないと判断し、 諸外国から出来得る限りの知識を吸収する事に奔走したのです。
「幸い、当時の私は素晴らしい師に恵まれました」
 人種を隔てることなく、知識を出し惜しむことをせず、 厳しくありながらも真の優しさで導いてくれた……そんな師に応えるように必死になって学び、 その甲斐あって、何とか短期間でここまで国を成長させることが出来たのです。 彼のような師としての適性と技量が、私にあるとは思えません。 それでも、切迫した目の前の危機に急かされていたあの頃に比べれば、まだ恵まれた状況でしょう。
「私なりにではありますが、貴方を正しく近代化へ導く師となりたいのです」
 私をここまで育てて下さった師匠に、少しでも近付く為にも。 それも、弟子としての成長を示す、ひとつの形であると思っております。
 穏やかに目を細める日本に、台湾は肩を竦めた。
「それ、まえにもきいたヨ」
 お師匠サマを尊敬しているって。憧れているお師匠サマみたいになりたかったって。 日本サン、お師匠サマのコトが、ホントに大好きネ。
 わざとらしく歯を見せて笑って見せると、はい、記した用紙を大袈裟な仕草で日本に差し出す。 受け取ると、日本は真剣な眼差しで記したそれらを確認した。
 記載されたのは、彼女の国政に関するものであった。 彼女を貰い受けてからのインフラの進行具合、公的施設や工場の設置、教育機関の施行、 衛生に対する意識の浸透、そして近代農地としての開拓の進展状況……。 纏められたそれにひと通り目を通すと、こちらを心配そうに覗うまだ幼い少女に、にこりと笑う。
「よくできました、台湾さん」
 まだ完全とは言えませんが、それでもこの短期間で、よくここまで頑張りましたね。 正直な評価を口にすると、台湾はえへへとくすぐったそうに笑顔を見せた。 はにかむおぼこい頬は、最初の頃と比較すると随分健康的な色である。
「阿片も抜けて来たようですね」
「ダッテ日本サンが、体によくないっテ、いっつもいうんだモン」
 彼女にとっては嗜好品として蔓延っていた阿片も、じっくりと期間を設けた政策の効果が表れたのか、 間も無く完全排除となりそうだ。 口煩い程に衛生概念を広げた結果、伝染病や風土病も、かなり収まりつつある。
 大航海時代に西側諸国も手を焼き、隣の大国も放置し、海賊まがいの事を繰り返し、法も知らず、 土地も荒れたまま、未開の地とされた彼女は「野蛮国」と称されていた。 しかし、時に反抗的な態度を見せるものの、きちんと説明すれば理解し、 納得さえすればこちらの指示に従い、そして何より吸収力がある。
 覚悟ながらに挑んだものの、彼女は見事「文明国」として、順調に成長を遂げつつあった。
「今作成中のダムが完成すれば、貴方は更に成長できるしょう」
 ダム作りは大変だと聞いていますが、近代農地としての発展には必要不可欠のもの。 完成した暁には、一層大きな国家的発達が望めます。 八田さんは、皆さんがとても協力的だとおっしゃっていました。 大変かとは思いますが、台湾さんの将来の為にも、是非頑張って下さいね。
「うんっ」
 嬉しそうに大きく頷く彼女が、ふと、何かを思い出したかのように瞬きをした。 ねえ、小さく首を傾げながら。
「ナンデ、日本サンは、ソンナにワタシを育てようとするノ?」
 末端とは言え、世界の五大国に数えられるとは言え、日本の経済は決して豊かではない。 自国を支えるのにも大変な筈なのに、台湾の近代化の為に、国内でもかなり優秀な学者や専門家を派遣させ、 相当の予算を割いていると聞いたことがある。
 日本にとって自分は、戦争の戦利品であり、植民地である。 今まで自分のもの呼ばわりしてきた諸国は、口で主権を主張こそするものの、 知識を与えたり、綺麗にさせようとしたり、病気を治療させようとする事は無かったのに。
「貴方は亜細亜近代化への、モデルケースなんですよ」
 同じ亜細亜のとある方とお話して、改めて気付かされました。 今の亜細亜を振り返ってみると、その殆どが西欧諸国の植民地となっているのが現状なのです。
 確かにこれでは、欧米諸国の視点から見れば、亜細亜は遅れて野蛮な未開の地と捉えられて当然であろう。 自分一国が野蛮国ではないと否定をしても、この現状が全てを物語っているのだ。
 しかし、どれだけ文明の遅れていようとも、きちんと教育を施し、成長を促せば、国は変わる事が出来る。 世界に通用する国家となり得る筈である。
「国の発展に、人種の違いはありません」
 大切なのは、過去ではなく、文化の違いではなく、知識と教育なのだ。決して、人種では無い。
「貴方には、それを証明して頂きたいのです」
 台湾さん自身の成長は、私の為は勿論、引いては亜細亜全体の未来にも繋がります。 私は、貴方を通じて、それが不可能ではないことを証明したい。
 台湾は眉を潜めた。自分と彼との話なのに、何故「亜細亜」にまで広がっているのか。 どうしてそんなに、何か切羽詰まったような顔になるのか。 自分以外の「世界」の広さを知ったばかりの台湾には、まだよく理解できない次元の話だ。
 難しい事は判らない。 きっと色んな事を知っている彼は、自分の知らない何かを見て、 自分にはまだ判らない何かを考えているのだろう。
 でも、ただ一つだけ、自分にも理解出来ることがある。
「ワタシが大きくなると、日本サン、うれしい?」
「勿論ですよ」
 師匠にとって、弟子の成長は何よりも嬉しいものです。
 ふわりと綻ぶ笑顔は優しい。嬉しいと彼は言った。彼の喜ぶ顔は好きだ。優しい所も好きだ。 教えてくれる事も自分の為を思ってのことだと判るし、それで彼が喜ぶならば、自分も嬉しい。 嬉しいと嬉しいが合わされば、きっともっと嬉しくなるに違いない。
「じゃあ、がんばるネ」
 ぐっと両手に握る拳を作る台湾に、日本はきょとんと目を丸くした。 そしてゆるりと目を細めると、彼女のまだ小さな頭を、優しい仕草で丁寧に撫でた。























 その船がやって来たのは、傾いた太陽がやや夕焼けの気配を帯び始めた、そんな時間であった。
 見るからに民間のものであろう小さなボートは、雄々しき巨人の如き軍船の群れの中を、 ゆらゆらと木の葉のような覚束なさですり抜けてゆく。 簡素なボートは軍船にぶつかれば木端微塵に粉砕しそうな頼りないもので、乗っているのはどうやら二人だけだ。 しかもその殆どを積み荷に占領され、今にも転覆しそうで何やら見ていて危なっかしい。
 高い位置からそれを見下ろすイスラムの兵士達の眼差しは、胡乱な色こそあれ、警戒は薄い。 軍勢に民間が紛れ込むのは、珍しいことではない。 ボートに積み込まれた荷物に、ああ、商売人かと流し見する程度である。 何より、警戒しようにも、この高い位置から見下ろせば、かのボートが如何に無防備であるかは良く判った。
 やがて、一隻の船に到着すると、ボートのオールを漕いでいた男が、ひらひらと軍船の上へと手を振る。 その合図に、やや間を置いた後、上から縄梯子が投げ下ろされた。
 乗船を許可されて縄梯子を上って来たのは、細身ながらも動きが機敏な少年と、 その少年よりももう一回り小柄な「影」であった。
 影、と称したのは、その姿が漆黒色のマントに包まれていたからである。 唯一伺えるのは、すっぽりと目深に被されたフードの下、覗く小さな顎の線と引き締められた口元のみ。 その鮮やかな色の紅に染まった唇から、どうやら女であろうと察する。
 一歩前に出たのは、船の責任者でもある将校だ。 その観察するような眼差しに、少年は恭しく胸に手を当てる。
「本日の分の砂糖を持ってきました」
 オスマン軍は事前に、近隣の島から必要物資の買取の交渉を済ませている。 本国から持参するよりも現地で購入する方が、備蓄の保存に気を使う必要が無い。 それに、近隣地区との関係を新たに築く為にも、ロードス島制圧後の交易にもプラスになるだろうとの判断だ。
「お前は、先日やって来た者とは違うな」
「我が島は、交代制で承っております」
 同じ島に住む者同士、利益に偏りが無いようにしておりますので。  交わされる言語は、オスマンのものだ。 ややたどたどしいながらも、どうやらこの少年はこちらの言語を理解出来るらしい。 尤も、珍しいことではない。 海上貿易が発展した地中海では、宗教に関係なく、古くから一般市民による交易が盛んだ。
 視線で促され、傍にいた兵士の指示の元、ボートの積み荷を移動させる作業が開始された。 小舟に降りた兵士達が、下ろされた縄にしっかりとした作りの樽を括りつけ、次々に船上へと引き上げてゆく。
 並べられた樽の前を、将校はゆうるりと歩いた。 そして適当に目に付いた一つの前で足を止めると、腰に携えた小剣を取り出し、 鞘から抜くと力任せに振り下ろす。
 だん、と響く音の大きさに、少年はびくりと肩を震わせた。
 がっがっと、樽の蓋を刀で打ちつける。随分頑丈な作りの樽であるらしい。 しっかりと密閉された蓋が刃物に裂かれ、やがて縦にひび割れが走る。 その裂け目にナイフを差し込み、ぱきりと梃子の原理で蓋の一部を割り開けた。
覗いた麻袋を破くと、真っ白いさらさらとした粉末が零れる。 前回取り寄せた物に比べ、随分と粒子が細かい。
「粉砂糖です」
 前回は普通の砂糖をお持ちしましたが、こちらは我が島でも最も質の高い、選りすぐりの品です。 今後の取引の参考として、是非ともオスマンの方々にお知らせしたいと持参しました。 お気に召していただけると思うのですが。
 緊張した面持ちの少年を見遣り、部下であろう傍に立つ兵士に顎で示す。 示された兵士は、恐る恐るとした仕草でその粉末を人差し指と親指で摘み、そして僅かな量を口に含んだ。
 口の中で味わい、こくりと兵士が頷く。どうやら、本物の砂糖であるらしい。 納得したオスマンの兵の様子に、ほっと少年の身体から強張りが抜けた。
「その者は」
 向ける視線は、少年の後ろに佇む影のような存在に向けられる。俯き加減の小さな頭が、ひくりと揺れた。
 全身だけでなく、その面をも黒いマントで覆い尽くす姿は、一種異様であった。 身体の形さえ読めないカーテンのようなマントの内側には、何かが隠されていても不思議ではない。 警戒するのは当然であろう。
「スルタンがこちらに到着したとの噂を聞きまして」
 遅れて軍勢に合流した一際美しく豪華な船の存在は、我々の島まで伝わっております。 遥々長き航海を経て来られたスルタンの、その疲れの癒しと慰めになればと思い、 私の船に同乗したいと申し出てきた者の一人です。
 つまりは娼婦であるらしい。将校は眉を潜める。
 尤も、的外れな配慮ではない。古今東西、どの町にも春を売る店はあるものだ。 特にそれが戦場ともなれば、荒くれて興奮した兵士達が一般市民を無差別に襲わぬよう、 敢えて住民が相応に準備するケースさえある。 恐らく彼女は、オスマン軍に対する商売の交渉の為の遣いなのだろう。
「何を持っている」
 女が胸に抱え持つのは、どうやら緩く巻き付けた織物であるようだ。
「タペストリーでございます」
 我が島には、同じ様に思う女が数多くおります。 その彼女達がスルタンの為に用意した、特別な贈り物だそうです。
「顔を」
 顎で促され、動かない彼女に代わり、少年はそっとその顔の半分以上を覆う大きなフードに手をかける。 するりと外され、そしてその面が午後の日差しの下で露わになった。
 現れたのは、頬に柔らかな丸みを残した女であった。
 肩口で切り揃えられた見事な艶のある黒髪が、簾のように真っ直ぐに下ろされて顔の輪郭を縁取り、 神秘的な印象を醸している。 やや伏せられた瞼には艶やかな色彩を施し、その形を強調させるようなアイラインは妖艶さを演出していた。
 恐らく、モンゴルの血を受け継いでいるのか。 厚塗りされてはいるが、その堀の浅い顔立ちのオリエンタルさは見て取れた。 その所為だろうか、如何にも商売女らしく彩られてはいるものの、 塗りたくられたけばけばしい化粧に反し、何処か品のある印象を与える。
 つと、瞼が上がる。 暗い色をした瞳は、何かを見ているようで、しかし何も見ていないような曖昧さがあった。 そして、もぞりとマントの内側が動いたと思った瞬間、タペストリーを抱えていない腕が、 ばさりと足首まで下ろされた長い裾を翻す。
 一瞬、辺りに息を飲む気配が上がった。
 飾り気のない、首元を止めただけの素っ気ない黒マントの内側は、随分艶めかしいものだった。 じゃらりと重たげなネックレスで飾った、際どい露出度の胸元。 細い肩紐で吊るされたトップスは、丸い膨らみを包むだけの最低限の面積を隠すのみに留められている。 清楚な臍の窪みをちらりと見せ、腰の位置で穿かれたヒップハングのボトム。 ふわりと裾が広がり、足首で詰まったそのハーレムパンツの生地は薄く、 しなやかなふくらはぎからなだらかな曲線を描く太腿、腰を包む臀部にかけて、 うっすらと透けて見えそうな際どさのあるシースルータイプだ。
 何も隠していない……寧ろ隠す場所さえ無い彼女のマントの内側に、将校はもう良いと軽く手を振った。 その仕草に、彼女は開いた腕を元に戻す。柔らかそうな肌の色が、途端黒に遮断された。
「お前の意は、パシャに伝えよう」
 今は、司令船にてスルタンと共におられる筈だ。 伝令兵を回す故、その返答があるまで、ここで待機する許可を与える。 その言葉が理解出来たのか、娼婦は膝をついて丁寧に首を垂れた。
 そのタイミングで、失礼しますと兵士が一人走り寄って来た。 どうやら、ロードス島へ上陸した部隊からの伝令らしい。
「我が軍が、捕虜を捕えた模様です」
 きびきびとしたオスマンの言葉での報告に、ふむと頷く。
「何人だ」
「正確には判りませんが、恐らく小部隊はあるかと」
 西の外壁からの突破を果たし、その戦闘の際に捉えた模様。 負傷者は我が軍も含めて多数、間も無く陸からの移動を開始します。
 軍勢の一段の後方部に位置するこの船は、 体調を崩したり負傷した兵士を収容する医療用船の一つでもある。 医療手当てが必要なのは、何も味方だけではない。 この時代であっても、捉えた敵兵に治療を施す、最低限のルールは備わっている。
 オスマンの言葉で交わされたそのやりとりに、ひくりと少年は顔を強張らせた。 さり気ない仕草で前に立つ娼婦に身を寄せると、その耳元で何やら囁く。 仮面のように表情を消した女が、タペストリーを抱いた手を僅かに震わせた。
 同時に、将校の鋭い目元がきつく細まった。
「ギリシャ語ではないな」
 確信を持った指摘に、身を寄せ合った二人は固まる。
 軍勢の後方を守る船は、相応の役目を担っていた。 医療船としては勿論、その一番端にある位置的に、最も民間との接触の機会が自然多くなる。 近隣の島の使者や商船などの窓口として、敵の捕虜を収容する船として、 他国語の知識に精通した責任者が抜擢されるのは極当然の人選だろう。
 そして、波の音にかき消されがちな声を正確に汲み取る為に、自然読唇術も心得ている。
「キリスト教圏で広く使われるラテン語でもない」
 フランス語とも響きが全く異なる。 恐らくはもっと北東の……恐らく、ゲルマン系の民族が使うものではないか。 そんな民族の言語が地中海の島で使用されるとは、これはまた随分不自然な話ではないか。
「……ロードス騎士団のスパイか」
 それとも、オスマンに反発心を抱く組織か。どちらにせよ、このまま帰す訳にはいかない。 威圧感を込めた将校の声。 ぴりりとした空気の中、兵士達がゆるりと二人を取り囲む。
 少年が口を開くよりも早く、がしりと左右から兵士達にその腕を取られた。 背後に捻り上げられると、力を込める事も出来ず、身じろぐしかできなくなる。
 その隣、娼婦も同様に腕を取られ、背中へ捻じ曲げられた。 体格のある兵士の手で掴むと、手の大きさが余る程に細い腕は、力を込めるとそのまま折れそうに頼り無い。 だが、間近から見下ろした兵士は、おやと目を瞠る。
 この女――娼婦にしては、随分身体に傷が多くないか?
 疑問に凝視する前に、細腕に力が込められた。あっと言う間も無い。 どういう作用なのか、くいと軽く手首が回され、あっさりと手が離れたと思ったら、 逆に捻るようにこちらの手首を掴まれ、気が付けばその巨体はがくりとその場に膝をついた。
 その呆気ない立場の逆転に、見ていたオスマン兵士達からは、驚くよりも笑いが込み上げる。 何せ、小枝のようにほっそりとした娼婦の左右対象、その倍はあろう体格の男二人が、 まるで彼女に傅くように、片手首を掴まれたまま膝をついて動かないのだ。
 おいおい。まったく、何をしている。二人同時に、何も無い所で躓くのか。 そうとしか思えない状況に、周りの兵達は失笑する。 しかし彼女の両サイドで蹲る兵士達は、脂汗を流してその肩を震わせたまま、彼らに反応さえ返せない。 噛み締めた唇からの絞られるような苦悶の声に、漸く兵士達は目の前の様が、尋常でないことを悟った。
 すっと彼女が身を屈めて膝をつくのと同時に、そのしなやかな両の手を大きく前に回す。 すると、鎧を纏った岩のような巨躯が、完全に宙に浮き、くるりと舞った。 一番驚いたのは、当人だろう。 だあんと背中を打ちつけ、何があったのか判らないまま、その痛みにもんどりを打つ。
 悶絶する彼らを見遣る事もなく、彼女はひらりとマントを翻すと、その隣で少年を抑える兵士へと手を伸ばした。 どう見ても女のしなやかな手で肘を掴まれたと思ったら、そこを中心にぴりりと肩まで激痛が走る。 無意識に少年を掴む力が緩んだ一瞬、軽く足を払われ、バランスが崩れた所で、 掴まれた腕そのままに見事に長身が背負い投げられた。
 瞬きする間の出来事に、反対側から拘束していた兵士は呆気に取られる。 生まれたその隙を突き、少年は自ら腕を振り切ると、渾身の力で拘束していた兵士の脇腹に肩から体当たりした。 声を上げた体は、そのまま船の手すりに身体を打ちつけ、被る兜の重みに引き摺られ、頭から海へと落下する。
 どぽんと重たげな水音。俄かに、船上に殺気が満ちたと同時。
「行って下さいっ」
 どん、と彼女は彼の背を押した。 口から発せられたのは、オスマンの彼らには馴染みの薄いドイツ語である。早くっ。 急くと言うよりも、叱咤するような声に追い立てられ、少年の体は船の手すりから海へと勢い良くダイブした。
 あっと兵士達が視線をそちらへと寄せられた隙に、女はマントの内側に腕を入れ、身を翻す。 振り上げた手が握っているのは、手の平にすっぽりと収まる小さな丸い球。 投げつけたのは、彼らが船上へと持ち込んできた樽を並べた一角。
 瞬間、爆発が起こった。
 最初の衝撃が次を誘発し、船上一面に次々と爆音が鳴り響く。 耳につんざく炸裂音と共に起こる、強い爆風。反射的に将校は顔を背け、腕で面を庇う。
 ごうと空気が鳴る。頬を焼く熱気。恐る恐ると腕を下ろし、そこに広がる惨状に絶句した。
 一面の炎だ。黒煙を上げる炎は瞬く間にロープを、マストを、甲板を、舐めるように広がる。 爆発の衝撃をまともに受けて、無造作に転がる死体。 飛び散った破損片に、頭から、顔から、肩から、足から、血まみれになって悶絶する兵士達。 炎にまみれた兵士は、ぎゃあと声を上げながら、自ら海へと飛び込んでいた。
 一瞬で生まれた惨事に、呆気に取られる。 一体これは、どういう事だ。何が起きた。あの――女は?
 視線を巡らせる中、めらめらと燃え上がる炎を背後に、ゆらりと黒い影が動いた。 ごろりと転がるのは、白目を剥いて動かない巨体のオスマン兵。 最初に娼婦を拘束し、投げ飛ばされて床に這いつくばっていた兵士だ。 その下から、漆黒色のマントを纏ったほっそりしたシルエットが立ち上がる。
 炎を纏わりつかせながら、しかし奇妙な事に、火がその熱風に煽られるマントに乗り移る気配は無い。 その暗い色に隠されてか、焦げ付きさえ見当たらなかった。
 火影に縁取られ、俯いていた小さな面が上がり、凛と向けられる黒檀色の瞳。
 見据えた正面から逸らす事無く、彼女は抱え持っていたタペストリーの芯へと手を差し入れた。 巻き付けた織物が、風に靡く旗のように波打ちながら大きく翻る。


 現れた手に握り締められるのは、膨らみのあるポケットが連なった、厚みのある革製のベルト。
 そして、燃え盛る焔に照らされる、ひと振りの剣。





 艶やかな漆黒の鞘に収められた、日本刀であった。








パシャ=オスマン帝国高官の称号……としております
2013.07.11







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