黒鷲は東の未来より舞い降りる
<29>





 ゆらりと揺れる波の上。 港を埋め尽くすように停泊するのは、地中海にその名を轟かせる、勇猛オスマンの軍船の群れである。
 ロードス島では陸上に上がった彼らと騎士団が、既に激しい戦闘が開始されていると聞く。 しかし静かに波間に身を任せるこちらは、前線から下がった待機状態にあり、 横切る海鳥のシルエットも相まって、いっそ長閑にさえ見えた。
「どうですか」
「まだだな」
 軍勢から距離を置いた船の檣楼、隣に立つ船員の声に、剣士は持っていた望遠鏡を差し出す。 腕に抱く猫と取り換えるように受け取ると、彼の覗いていた方向へとレンズを向けて覗き込んだ。
「……凄い数ですね」
 緊張した声音に、ああと頷く。
 このロードス戦にオスマンが駆り出した軍は、一宗教団体に対するには、過剰な程に大規模なものだ。 過去に幾度となくロードス騎士団とは交戦していたが、今度こそそれを集結させるつもりなのだろう。
「……我らは、勝てるのでしょうか」
 あれだけの軍を相手に、たった一隻の船と、この僅かながらの人員で。 やはり、共に戦うと申し出て下さったあのギリシャ人達に、残って貰った方が良かったのではないでしょうか。
 心細げな呟きに、剣士は眉間に皺を寄せる。
 この海域に入る直前、ローマから同行したギリシャ人の元奴隷少年達は、 ここまでの労働としての手間賃を渡し、小さな港町で船から降ろしていた。 ギリシャ同様、中には自ら共にオスマンと戦うと申し出る子供もいた。 しかし菊はそれらをすべて断っている。
 私達は、オスマンへ恨みを晴らす為に戦いに行くのではありません。 申し出は心から嬉しく思いますが、これはあくまでもドイツ騎士団としての行動であり、 国家間での問題に発展させる訳にはいきません。 それが、頑なに譲らない菊の主張であった。
「俺達は、勝利が目的ではないぞ」
 彼女が言っていただろう。俺達はオスマンに勝つ必要はない。 目的はあくまでも、ドイツ騎士団を救う事。その為の最善を尽く為にやって来たのだ。
 どう転ぶかは判らない。何事も無ければ、ここで彼女の帰還を待てば良いだけだ。 合図があれば、最初の打ち合わせ通りに動けば良い。それが、俺達の役目だからな。
 船員はこくりと頷いた。引き締めた唇が、僅かに震えている。無理も無い。 ローマで集めた船員達は皆、敬虔な信者ではあるが、あくまでも船乗りであり、騎士や兵士ではない。 それでも、こうして逃げる事無く決めた覚悟の深さは、流石はドイツ騎士団総長の人選に寄るものだろう。 戦う術は知らずとも、間違いなく彼らは勇者であった。
「……彼女は、本当に何者なのですか」
 ローマで雇い入れた船員の中には、そう問い掛ける者も少なくは無かった。
 なにせ見るからに異民族の容姿を持ち、しかも女であるにも拘らず、 しかしドイツ騎士団総長からは自分の代理として扱うようにと紹介される人物だ。 彼女自身が一介の信者に過ぎないと自称しているものの、 何も知らない彼らからすれば、さぞや不思議な存在に映るであろう。
「もともと、戦災孤児であったようだがな」
 戦渦に巻き込まれ、全滅となった村で死に掛けていた所を、 偶然通りかかったドイツ騎士団に助けられたとは聞いている。 その恩義から騎士団入団を希望したくだりに関しては、剣士自身も目の当たりにしていた。 共に居た少年騎士は、読書が好きで勉強熱心な秀才と評していた。 彼女の持つ多岐に渡った知識の豊富さは、そこから来るものであろう。
「本当に、それだけなのでしょうか?」
 船での短くは無い移動期間、共に生活をしていた仲だ。どのような人物であるかは、当然把握している。 真面目で、穏やかで、おっとりと物腰柔らかく、誰に対しても敬意ある態度を崩さず、 そして意外に美味しいものが大好きで、本人の意図せぬ所で天然にとぼけたような、 そんな人間らしさも備えている所も。
 しかし同時に、船長相手に複雑な海図を調整し、軍事に関して驚くべき作戦を練り、 専門的な武器の設計図や作成方法を指導する様も目にしている。 更には、時間を見つけては剣士や少年騎士相手に重ねる訓練も目撃していた。 小枝のような体で筋肉質な剣士を投げ飛ばす体術や、 少年騎士相手に瞬きの速度で刀を鞘から引き抜く剣術を目の当たりにし、呆気に取られたものだ。
「彼女、本当に人間なのでしょうか」
 なにせ、余りにも万能だ。その東洋的な容貌も相まって、どうにも神秘性が強調される。 天から遣わされた神の子か、いっそ魔女とでも言われた方が納得できますよ。
「いや、案外そうなのかもな」
 少年騎士によると、彼女が拾われた際、その手に黒の十字架を握り締められていたとの噂もあるようだ。 ドイツ騎士団を助ける為に遣わされた、天が遣わした特別な子……騎士団を守る黒鷲とも称されているだけに、 案外見当外れではないのかもしれない。
 からからと陽気に笑う剣士につられて笑み崩した瞬間、どおんと遠くで大気を震わせる音が鳴った。
 目を合わせた二人が、同時に音の方へと顔を上げる。 貸せ。船員の持つ遠眼鏡を奪い、剣士はそれを覗いて眉間に皺を寄せた。
 オスマンの軍船の群れの一角から、もうもうと黒い煙が上がっている。 狭間に垣間見えるオレンジ色の光は、炎か。
 どうやら始まったらしい。
「よおし、皆位置に着けっ」
 直ぐに合図があるはずだ。いつでも始められるよう、気を引き締めろ。
「頼むぞ、お前も重要な一兵士だ」
 腕に抱く子猫の頭を、大きな手の平で丁寧に撫でる。大きな水晶のような瞳が、ぱちりと瞬きした。





 巻き上がる風。燃え盛る炎。飛び散る火の子。その中心で靡くのは、艶のある黒髪と漆黒のマント。 まるで揺らめく焔をしもべに従えるような立ち姿に、イスラム兵達は息を飲む。
 肩を小突けば転がりそうな華奢な少女が、今や得体の知れない魔性へと変化を遂げた。 騒動から爆発までの流れを、己が目で目撃できた兵士などほんの一部だ。 倒れた兵を盾に爆風から身を守った瞬間を見ていない者には、屈強な兵達が昏倒する中、 彼女一人が無傷で立ち上がる姿は、何故? という疑問と共に、理解できない不可思議さを印象付ける。
 そう、まるでキリストの使わした黒い魔女――静かに見据える闇色の瞳に、兵士達はぞくりと身を震わせた。
「何をしているっ」
 敵襲だ。捕えろ。相手は女、ただ一人だ。 鋭い将校の叱咤が、怯んだ背中を押す。いち早く我に返った兵士が、甲板の床を蹴った。
 細腰目掛ける、重心を落とした脳天からのタックル。 突進してくるその頭に、握り締められたままのタペストリーが翻る。 頭に被せられ、一瞬で視界を奪われた巨躯は、勢いのままに柱に激突、そのまま倒れ込んだ。 くるりと振り返る彼女の腰には、既にベルトを装着され、刀の鞘が馴染んだ位置へと収められていた。
 そして、頭上に振り上げた右手が、勢いを付けて下ろされる。
 瞬間、弾けるような小さな爆発音と、立ち上がる煙幕。 広がる濃度のある煙に包まれると同時に、咽喉に、鼻に、目に、途端兵達はその強烈な刺激に襲われた。 まともに目を開ける事も出来ぬまま、闇雲に剣を振り回し、恐れのままに逃げ出し、 声にならない叫び声を上げ、呼吸困難にもがきながら床に転がる。 へばり付くような粘膜への攻撃は容赦なく、船上の兵士達を混乱させた。
 潮風が吹きっ晒しの船の上、灰色の煙が拡散されるまでの時間は長くは無い。 手の甲で擦り、やがて薄まる灰色の煙の中、苦痛を押し殺しながら、なんとかオスマン兵達は瞼をこじ開ける。
 だが、しかし。
「……消えた?」
 周囲を見回せど、あの忌まわしき黒い影は見当たらない。
 どういう事だ。この一瞬で何処へ消えた。この船から逃げたと言うのか。 まさか、夢でも見ていたのではあるまいか。
 正に煙の如く消えた有り様にそんな疑惑も沸くが、しかし現実、 周囲に広がる劫火はめらめらと黒煙を上げたままそこにある。戸惑いながら、兵達は見回した。
「あそこにっ」
 痛みに滲む目を瞬かせ、声を上げた兵士を振り返る。 指し示すのは、 空。否、空へと伸びるマストの上だ。
 畳んだ帆を括りつける、メインマストのトップヤード。 宿り木に止まる鳥の如く、片膝を立てて腰を落とす小さな影がある。 どうやって、この一瞬で、あの高さまで登ったと言うのか。
 弓矢を。早く射止めろ。騒然となる甲板より、間も無く引き絞られた無数の弓が解き放たれた。 しかしこの高さでは届きようも無く、加えて強い横殴りの潮風が矢の進行方向を狂わせ、 彼女を守る見えない壁となる。
 遠くへと視線を巡らせた彼女は、その方角を定めると、すくと立ち上がった。 そして届かない矢先を無表情で見下ろし、右の耳にぶら下げるイヤリングをむしり取る。 垂れ下がる棒状のそれを唇に咥えると、丸太で作られたヤードの上を、全速力で駆け抜けた。
 端から端へ。その先が無くなる位置。そのまま海へと飛び込むつもりかと思いきや、 しなやかな左の細腕が、下から上へと勢いを付けて大きく振り仰いだ。
 ひゅんと空を切る音。放たれたのは小さな鉤。甲板の上から、極小さなそれを目視出来る者など誰もいない。 かしりとした手応えに、漆黒の瞳が細まった。
 ふわ、と風が黒いマントを煽る。あたかも、黒い鳥がその両の翼を広がるが如く。

 飛んだ――オスマン兵達は目を瞠った。

 小さな体が、完全に宙に投げ出される。マントを靡かせ、空中に羽ばたく。 まるで引き寄せられるかのように空を横切ると、隣の船に到着し、 同じ高さにあるそのヤードに手を掛けてくるりと逆上がり、その上に飛び乗った。
 目撃した彼らは、今度こそ絶句する。幻でも見ているのだろうか。 夢か、魔法か、でなければ、あの女の正体は鳥の化身か。そうでも無ければ、これだけの跳躍を誰も説明できまい。 大勢の見守る中、彼女は隣の船のマストまで、空を飛翔して移動したのだ。
 彼女はこちらに目をくれる事無く、再びあちらの船のヤードの上を走り切る。 そして先程と同じ動作を繰り返し、更にその隣の船へと飛び移っていた。 立ち並ぶマストと帆と、空をも覆う煙にその姿が見えなくなっても、彼らは呆然と目を奪われてた。
 それを遮断したのは、耳をつんざく爆音だった。
 体を震わせる衝撃、同時に船が大きく揺れる。 斜めに傾いた甲板に、立ち尽くしていた兵達は皆、成す術もなく横倒れ、手に当たるなにかにしがみ付く。 続く爆発、更にもう一つ。 鼓膜を震わせる轟音と全てを揺るがす爆風に煽られ、オスマン兵達はその場から動けない。
「何事だっ」
 将校は大声で叫ぶ。しかし立ち上がる炎に掻き消され、パニックになる兵士達には届かない。
 めりめりと不吉な音に顔を上げた。 頭上にあるミズンマストが折れ曲がり、炎上しながらじわじわとその角度を増してゆく。 まるでスローモーションのように、耳障りな音を立てながら、太い柱が真っ二つに折れる。 衝撃に、船が大きくバウンドする。飛沫を上げて流れ込む海水に、デッキが洗われる。 飛び上るように、転がるように、幾人もの兵士が海へと投げ出される。
 なんとか船の縁にしがみ付いて凌いだものの、その惨状を目の当たりに、将校は成す術も無い。 なんとか転覆は免れたようだ、偶然にも船同士を縄で結んでいたのが幸いであったらしい。
 しかし、それが逆にも作用する。 こちらの船の揺れが、隣接船へとダイレクトに伝わり、隣に停泊していた船も散々の有様だ。 船尾楼は破損し、帆は破れ、兵は負傷し、折れたマストを橋渡しに炎が燃え移り、 被害は更にその隣へ、更にその隣へと拡大している。
 唖然とする中、将校の視界の端をころころとなにかが横切った。 見覚えのあるそれは、島民に成りすました彼らが船に持ち込んで来た樽である。 どうやら、最初の連爆から免れたものらしい。
 何故、これが爆発した。確かに粉砂糖に間違いなかった筈なのに。 転がる樽は、船の揺れのままに、右に左に覚束無く移動しながら、やがて燃え上がる炎の中へと飛び込んだ。 そこから数拍、突然ぼんっと弾けるような音を立てて、炎が更に勢いを増して立ち上がる。
 それに、はっとした。
「火を消すのだっ。早くっ」
 船にとって火災は命取りだ。舞い上がる炎は、火の子を散らす。 海から陸へと向かう強い風向きは炎を煽る。 しかも今、難破と揺れ対策の為に縄で船を繋ぎ、船同士が極端なまでに密着させている状態では――。
「急げっ。他の船に火を移らせるなっ」
 将校は声を張り上げた。





 ヒントは、中国三国志の赤壁の戦いで名高い連環の計だ。
 少人数で大軍と戦うのに火を使うのは、兵法の基本である。 僅かな人数で大軍へ対峙するには、正面からではなく智謀と計略で当たらなくてはならない。
 爆発した樽に内蔵したのは、ごく原始的な黒色爆弾だ。爆発自体は大したものでは無い。 ただそれに、煙幕弾の構造で粉砂糖を飛び散らせ、粉塵爆発を起こすように工夫を施している。 爆発や殺傷力よりも、燃焼力を優先させた爆弾だ。
 予めギリシャから、この時期のロードス島の風は、沖から島へと向くと聞いている。 島民と偽り、波風対策にとオスマンに売った縄は、切断し難く、導火線のように炎を伝える工夫を施していた。 波風邪対策にと密接に繋げられた軍船勢は、消火と対策に追われ、混乱するだろう。
 その隙を、狙う。
 隣の船のマストに乗り移った菊は、その上を端から端へと向かって駆け抜ける。 そしてぐっと左腕を引き、一番末端までの距離をタイミングに合わせ、下から上へと振り上げた。
 からからと乾いた音を鳴らすのは、左腕に枷のように装着した、厳ついブレスレットだ。 かちりと隣の船のマストに掛かる手応えに、軽く手首を返すと、そのままきりきりと細い紐が回転して巻きつき、 あたかも空を飛ぶように小さな体を引き寄せ、隣船に飛び移らせる。
 難しいものではない、釣具のリールの構造を使った「からくり」だ。 ローマで手に入れた鯨の髭をぜんまいに使い、軽い動きで遠くまで鉤を飛ばせるよう、 謂わば鉤縄の進化形として船上で作成したものである。 日本国内でからくりが作られるようになったのは早い。江戸の頃より精密機械は得意分野だ。
 但し、宙を飛ぶような移動を可能にしたが、しかし左肩への負担が思っていた以上に酷いようだ。 小型化と軽量化を優先させた為、安全性と耐久性を落としたのは自覚していたが、 矢張り連続利用すると肩関節への過負荷が免れず、ぜんまいの勢いも衰えるようだ。
 兎に角、一日。否、半日持てばそれで良い。だからお願い、それまでどうか持って下さい、私の体。
 宥めるように肩を抑え、菊は飛び乗ったマストの上を駆け抜ける。 そしてその勢いを助走に、再びマストの端から隣の船へと腕を振り上げた。
 ぐん、と引き寄せる動力。空を跳びながら、唇に挟んだ「笛」を強く吹いた。音は全く聞こえない。 しかしたっぷり十のカウント後、今さっきまで居た隣の船に、どおんと爆発が上がる。 幾つかの砲弾が海水に沈む様子に、そろそろ飛距離に限界があるようだ。 三度、リズムを付けて強く笛を吹くと、菊は唇に挟んでいた笛を外した。
 そして、改めて目標の方角へと視線を上げる。
 錚々たるオスマン軍船勢。中央よりもやや沖側に位置するのは、煌びやかなオスマンの船の中でも、 際立って贅を尽くした豪華船が浮かんでいる。
 あれか。
 遅れて到着した船の事は、近隣に住む島民から聞いていた。 日本の歴史に間違いが無ければ、オスマン帝国最盛期を築き上げたスレイマン一世は、 積極的に領土拡大の前線へと足を運ぶ、活発で行動的な人物と伝えられている。 そしてそれは、このロードス戦においても例外ではなかった。
 恐らく、オスマン帝はあの船に居る。
 どうか、もう少し。あと少し持ち堪えて下さい、ドイツ騎士団。
 爆風と潮風が、背中を後押しする。ぎゅっと拳を握ると、次の船へ向かって菊は駆け出した。




 長い浸水から、ざぱりと海面に顔を上げた。
 はあはあと肺に酸素を取り入れながら、一旦振り返る。 離れた船に上がる炎と自分の位置を確認し、喘ぐように息を飲むと、 大きく腕を振り上げて、前へ、前へと泳いだ。
 入水後、まず真っ先に靴を、そして特に下半身の服も脱ぐように。 泳ぎ疲れても、体の力を抜けば浮力で浮かぶから、決して焦らないこと。 海上では自分の位置の感覚が鈍りがちであるから、目標となるポイントを見つけたら、 極力それ以外へ意識を向けないように。 余計な事を考えてパニックになるぐらいなら、この泳法を頭の中で唱えて下さい。
 教えられた言葉に忠実に、少年騎士はひたすらに海を泳ぐ。大丈夫、焦らずに、落ち着いて、意識を逸らさずに。 水を掻きながら、指導された言葉を何度も頭の中で繰り返した。
 幸いながら、オスマン軍には見咎められていないようだ。 否、気付いているのかもしれないが、それよりも突然の船での爆発に注目しているのだろう。 ならばその隙に、少しでも早くここから離れる。それが、自分に課せられた任務だ。
 彼女は無事であろうか。可能であれば、娼婦と偽ったまま作戦を進めたいと言っていた。 しかし、失敗した。否、最初からその可能性は低いと言っていた。 だが……不安が胸に渦巻き、慌ててそれらを打ち消す。
 大丈夫。最初からこれは想定内だ。幾つものシュミレーションを考えている。 まだ、始まったばかりなのだ。意識を逸らすな。早く目標に泳ぎつく事だけを考えろ。
 軍船の群れから離れた位置に、小岩が連なる座礁がある。 オスマン軍からは見え難い岩陰、ゆらゆらと揺れるボートの舳先を認めると、 少年騎士は更に勢いをつけてそちらへと水を掻き分ける。
 もうひとかき、もうひとかき。あともうひとかき。 そう自分を励まし、水面上を掻いた手が、漸く船の横面に触れるすると、どっと胸に安堵が広がった。
 予め垂らしておいたロープをぐるぐると腕に巻きつけ、しがみ付くように縁に手をかける。 ぐっと体を乗り出すと、忘れていた重力に、ずしりと全身が重たくなる。 どうやら、自分が思った以上に、体力を使っていたらしい。 疲労と倦怠感に、手の力が抜け、ずるりと滑る手を、素早く延びたしなやかな手が捕まえた。
 えっと思う間もなく、力強い腕が、少年騎士の身体をボートの上へと引き上げる。 倒れ込むようにして乗り込むと、ぜえぜえと荒い息のまま、何度も少年騎士は瞬きを繰り返した。
 何故、人が? 揺れる船の上、見上げたその手の持ち主の姿に、目を細める。 切れ切れの呼吸。はあと息を大きく吐き、そして口元を乱暴に腕で拭った。
「貴方は……」
 どうして、ここに。
 続く言葉が声にならず、少年騎士は気管に入った海水に、激しく咳き込んだ。





 恐らくは、時間の問題であろう。 言葉にせずとも、ドイツ騎士団員達の中にはそんな諦めと、沈痛が漂い始めていた。
 城壁の一角が破られてからの、オスマンの猛攻は凄まじかった。 元より、極少人数で編成された部隊だ。砦が壊され、人対人で戦えば、人数の多い方に分があるのは当然。 後援も望めない中、それでも最後まで戦った彼らは、非常に勇敢であったと言えよう。
 只でさえ人員の少ない中、それでも辛うじてここまで持ち堪えることが出来たのは、 開発した大型武器と、ロードス騎士団が作り上げた強固な城壁の恩恵が強かった。 それが失われた以上、人海戦術で責められれば、こちらに歩は無い。
「オスマン軍は」
「一旦引いた模様です」
「砦の補修状況は」
「急いでおりますが、しかし……」
 聞き取れなくとも読み取れる、先細りの声。孤立したこのロードス島内、物資不足は深刻だ。 急場凌ぎの補修に力を割くよりも、いっそ兵の休息に費やす方が先決か。だが、しかし……。
「ドイツ騎士団はどちらへ」
「それが……まだ見つかりません」
 剣を握り、破られた城壁の元へと走ったきり、かの象徴の姿が見当たらない。 未だこうしてドイツ騎士団が存続している以上、まさか戦闘に紛れて命を落とした訳でも無かろう。 恐らくは他の騎士団員に紛れて奮闘していると思われるが、それを探すのに兵を割くのも今は惜しい。
 増える負傷兵。戦闘可能の者でさえ、蓄積した疲労に、果たして何処まで戦えるか。 持参していた武器も底をつき始め、その補充もままならない。 先の見えぬ状況下、退く事さえ出来ず、じわりじわりと身を削がれるように戦意を削られているようだ。
 異変が伝わったのは、そんな最中であった。
 先ず最初に情報がもたらされたのは、見張り兵からだ。 城の楼閣に配置された見張り兵は、港に停泊した船の炎にいち早く気が付く。 恐らくは火災であろう。軍船に積んだ火薬で火事を起こす事は珍しくは無い。 その報告に、これでほんの少しでも時間稼ぎが出来れば、その程度の反応しか持てなかった。
 だが、直後の報告で一転する。こちらは、島の漁民からの情報であった。
 戦争が行われていたとして、島の住民はそれぞれの生業で生活を続けている。 停泊するオスマンの軍船勢の脇を通り、日々漁へ出る者も多い。 偶然にも最初の爆発の瞬間を見たと言う漁民がいたと言うので、騎士団員がその詳細を聞いたのである。 元よりキリスト教徒であったり、長らく駐在するロードス騎士団に好意的な者も多い。 問われ、漁民は素直に受け答えた。
 爆発の音を聞いた。火災は広がっているようだ。船では随分な騒ぎになっていた。 どのような事故か、そこまでは判別できない。連続した爆発音は、何処からかの攻撃かと思った。 しかし、オスマン軍以外の軍船らしきものは見当たらない。 唯一、オスマン風でも無く、島のものでも無く、変わった商船を遠目に見掛けた。 この戦争に乗じて、遠方からやってきた商人だろう。
 そんな報告の後、そう言えば、と付け加えられる。
 妙なものが見えた。遠目で見たので、単なる錯覚かもしれない。黒い影を見た。 爆発したその場所から、なにかが空へと飛んだ様に見えた。あれは幻だったのだろうか。 そう、まるで翼を広げた大きな黒い鳥のような……その言葉に反応したのは、古参の騎士団員達だった。
 騎士団の危機の中、イスラム軍を惑わせる、黒い翼を持つ鳥――否、それは鷲だ。
 ドイツ騎士団を守る、黒い鷲だ。











 元々は、修道院病院が始まりであった。 キリスト教圏で差別されがちのゲルマン人を救済する為、必要とされ、求められ、生まれた。
 それがやがて十字軍騎士団へと変化し、しかし聖地巡礼が下火になり、 あまたにあった十字軍が姿を消し、消滅するにつれて、己の存在が問われるようになる。
 必要とされなくなれば消えるのは自然の流れだろう。 実際、そうやって消えてゆく仲間の騎士団も、目の当たりにしてきた。 土地も持たず、民族も持たない単なる一宗教団体だ。 時代に求められて生まれたと等しく、時代に不要と見なされて淘汰されるのは、致し方ないのかもしれない。
 それでも、まだ諦めたくは無かった。


「あなたに救われたこの命、あなたのために捧げたい」
「でも、私はどうしても、ドイツ騎士団を守りたい」
「私は、大きくなった貴方に会いたい」


 たとえ単なる一団体であったとしても、その存続の為に全てを捧げた無数の人がある、数多の命がある。 彼らは皆、ドイツ騎士団を愛し、守り、誇りとした。先へと続く未来を信じて、全てを捧げた。 血と、骨と、忠誠心を礎に、ここまで来た。 その積み上げた歴史と軌跡を、簡単に手放したくはない。
 団体の意味が消えるのならば、新たな理由を見つければいい。 存在が不安定であるならば、確固たる形を作れればいい。 時代に失われつつあるならば、無視できない存在になればいい。
 騎士団では存続が出来ないのであれば、いっそ国になってしまえばいい――そう思った。










「で、爆発の原因は」
「それが……」
 現場は随分混乱しているようだ。 特に火の回りが異常に早く、既に周辺に停泊させた船へも炎が広がっている。 沖から吹く強風も、それから波対策として船同士を繋いだ縄も、それを助ける要因となっていた。
「尚、侵入者がいるとの報告もあります」
 パシャは眉根を寄せた。 詳しく、との促しに、報告の兵は正式な報告ではありませんがと前置いて、少々言い淀みながらも口を開く。
 島民に成りすまし、その人数は一人だとか、十人だとか、否周辺に漂うボートに乗る島民が全てだとか。 爆発は侵入者によるもので、手を振りあげただけで火を操る不思議な術を使ったとか。 中には、魔女だの、タタールの偵察だの、黒い鳥に襲われただの、荒唐無稽な噂まで流れているらしい。
 片足を立てた姿勢で座って聞いていたスレイマンも、その報告には流石に苦々しく笑った。
 どうやら、余程取り乱してしているらしい。戦場では、時に妙な集団心理を生む。 特に船の上と言う限られた空間で混乱が生じれば、張り詰められた兵士の心に、 異常な心理作用を働かせることもあるだろう。
 爆発の可能性として、船底に収納していた火薬が何らかの形で引火したと考えるのが、最も自然であろう。 珍しい事ではない。火薬は不安定で、ほんの少しの埃や刺激で、簡単に火が付く。 ロードス島までの航海ででも、小規模の火災は幾度か発生していた。 兵士達には細心の注意を払うように徹底させているが、それでもその手の事故は後を絶たないのだ。
「待機している兵士を、消火に当たらせろ」
 侵入者がいると言うのなら、直ちに捉えるように手配を。 負傷兵の避難と、収容予定の捕虜兵には、別の船を用意させよ。 必要であれば、この船を守る警備兵を向かわせるように。 騒ぎで錯乱しているから、妙な流言が飛び交うのだ。 速やかに事態を収束させよ。これ以上混乱を広げるな。
 パシャからの指示を受け、直立した兵士が忙しなく退室する。 それを見送り、ふうとスルタンは軽く首を横に振った。 片眉を吊り上げるトルコに、スルタンは自嘲を浮かべる。
「イブラヒムがおらぬと不便だな」
 あれが居れば、全てを任せられるのだがな。
 スルタンには、皇太子の頃から誰よりも信頼を寄せている、元ギリシャ人奴隷の右腕がいる。 常に彼の傍にあり、彼を支え、当然この遠征でも共に遠征の予定であった。 しかしスルタンの出港直前、それが叶わなくなった。ちっとトルコは舌打ちする。
「あんの糞餓鬼ぁ、まだ見つからねえのかい」
 理由はギリシャの不在である。 共に失踪したギリシャ奴隷は、まだ幼い子供ばかりであり、特に不都合が生じる程の問題はない。 しかし象徴たるギリシャが逃亡した事により、ギリシャ人に対する不信感が強まるのを恐れ、 彼は象徴の捜索を自ら買って出たのだ。
 あんの大馬鹿野郎が。僅かな奴隷を引き連れて逃げたとて、それが何の解決が出来ると思ってやがるんでい。 逃げた奴らはそれで良い、しかしオスマンに残ったそれ以外の大多数のギリシャ人はどうなる。 ギリシャ人の中には、確かに奴隷も多いが、中にはきちんと役職についた者さえいるのだ。 象徴たるあいつがこんな形で逃げ出したとなれば、そんな彼らの立場はどうなるのか。
 だからまだ餓鬼だって言うだよ。反抗だけは一人前で、国としての在り方も、立場も、なあんにも判っちゃいねえ。 群雄割拠のこの時代、そんな奴が一人でまともに独立なんぞ出来るものか。オスマンは苛々と歯噛みした。
 失礼します。扉の前の声に、パシャは声を返す。

「騎士団の捕虜を連れて参りました」

 奥に座るスレイマンと、その傍らに佇む象徴がそっと視線を交わし合う。 軽い頷きを確認し、パシャは中へと促した。
 豪華な絨毯が敷き詰められた部屋に、泥まみれの靴がじゃり、と音を立てる。 入室してきた、白いマント姿の二つの影。登場した彼らを迎えるべく、象徴は向き直る。
「いよう、キリストの蛇」
 お初にお目に掛かるぜ、異教徒の騎士殿。
 にいと唇を吊り上げると、仮面の奥の瞳が、実に愉快そうに細まる。 そして、地中海の雄らしい貫録で、鷹揚な仕草でオスマンは片手を広げた。























 当時、世界一を誇る超大国は、嘗て無い景気に弾んでいた。
 第一次世界大戦による欧州の被害は、甚大であった。 金融は勿論、労働力の要となる国民は戦争で失われ、工場は破壊され、農地は荒らされ、都市は破壊された。 過去に経験したものとは比べ物にならない程のそれらは、戦勝国、敗戦国問わずに各国に深刻な影響を与える。
 その例外が、欧州から国土の離れた超大国だ。 戦地とならなかった新興の大国は、自国の大陸に直接的な被害が無く、近年取り入れた工業化も進み、 「永遠の繁栄」とも歌われる好況をもたらし、順調なデフレーションを巻き起こす。
 欧州は戦争の爪痕により、物資不足に悩まされていた。 そのため、大国は求められるままに輸出を進め、好景気経済を生み出す。
 しかし、ゆっくりと復興がなされ、各国の生産率が上がる中、 それでも輸出を続ける大国の生産量の多さは、世界の価格破壊を招きはじめた。 更には、大量消費の望まれた北の大国が社会主義を掲げると、世界市場から撤退する。 余りある物資に株価は著しく下がり、それが世界を巻き込む形となる。
 膨らむゴム風船が限界を迎えたように、ウォール街にて爆発した。
 それが、後に「暗黒の木曜日」とも称される、全世界を巻き込む金融危機へと発展する。





世界恐慌の始まりである。








世界恐慌の解釈は、本家を優先させました
2013.09.30







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