黒鷲は東の未来より舞い降りる
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 どおん、と大気を震わせる音と共に、砲口から噴き出る炎。
 衝撃と反動で、小さな商船はぐらぐらと大きく左右に揺れ動いた。船員は海に投げ出されないように手摺に、柱にしがみつく。 両手が使えない者は、事前に体を身近な何かにローブで縛り、それぞれに対策を施していた。
 高いマストの上、ひときわ大きく揺れるその場所で、剣士は足を踏ん張り、なんとか揺れに耐える。 船に取り付けた即席製の大砲は、破壊力よりも火力、そして何よりも飛距離を最重点にされた設計となっている。 通常の大砲よりも格段に長い飛距離を可能にはしたが、しかしその代償として反動力が強い。 スライド式の台座を備えて緩和させてはいるが、それでも、小型で軽量の商用船が横転するかしないか、ぎりぎりの状態である。 理論上では何とか持つ……設計した菊はそう言っていたが、同時にあくまでも理論上、とも重ねて強調していた。 つまり、最終的な判断は、乗組員と船の指揮権を委ねた剣士に任せている。
 スイングが落ち着き始め、バランスを取ながら望遠鏡を覗く。空に立ち上るのは、ちらちらと炎を纏った黒煙。 よし、良いぞ。矢張りお前は耳が良い。そして賢い。ギリシャと菊の言っていた通りだ。抱いた子猫の顎下を、くすぐるように指先で撫でる。
「次っ、位置につけーっ」
 舵を修正しろ。体勢を戻し、砲撃の準備を整えろ。 爆音に負けない大声に、乗組員は速やかに作業をこなす。ここまでの航程中、幾度となく繰り返した訓練の賜物だろう、彼らの動きは悪くない。
 再び腕の中から、にゃあ、と声が上がった。 見下ろすと、子猫の耳が、視線が、一方向へと真っ直ぐに向けられている。あちらか。 マストの展望台の円形になった手すりにの目盛りを確認し、剣士は持っていたフラッグで方向を示した。
「百七十度に、構えっ」
 設置された大砲の角度を、同じく砲台に描かれた目盛りを目安に微調整する。 ぴたりと定まった様を見下ろし、息を飲み、タイミングを計り、手にある旗を大きく振り上げる。にゃあ、にゃあ。 腕の中の子猫が続けて二回鳴き声を上げた。ばさりと音を立てて大きく振り下ろす。撃て。
 全身に、船全体に、爆音と共に響き渡る振動。びりびりとしたそれを、しがみつきながら、叫びながら、祈りながら、耐え凌ぐ。
 子猫が聞き取り、その鳴き声の回数をなぞっているのは、軍船勢の彼方から届く特殊な笛の音だ。
 菊が耳に付けたイヤリングは、一見はただの装飾に見えるが、実は細い管状に極小さな穴を開けたものだ。 彼女が犬笛と称していたそれは、吹くと人の耳には聞こえない、しかし遠くまで響き、獣の耳には確かに届く、超高音の笛となっているらしい。 最初は半信半疑であったものの、だが確かに腕の中の猫水夫はその音を聞き取っているらしい。
 ギリシャが「凄く耳が良い」と言いながら連れていた猫は、飛び抜けて鋭い聴力の持ち主であった。 ギリシャ曰く、どんなに遠くとも、どんなに波の音や喧噪に紛れようとも、正確にこちらの声を聞き取るこの猫に助けられ、 オスマンの目を逃れ、密航に成功し、ローマにまで辿り着くことが出来たのだと言う。
 事実、菊が実験してみると、確かに船の上でも、波の音にまぎれるようなささやかな扉の音、離れた場所の足音、微かな声を聞き取っていた。 犬笛でも試したが、音の違いも聞き分け、しかも驚くべき正確さで、音の鳴る方向を視線と耳の向きで示した。 猫は教えたことをきちんと覚え、実行する頭の良さも備えていたのだ。
「位置につけっ、急ぐんだっ」
 即座に対応できるようにするんだ。間を空けるな。急げ。砲撃の準備を整えろ。子猫を抱きながら、剣士は声を張り上げ指示をする。
「し、しかし、この速度で砲弾を使えば……」
 マスト下から、焦ったように掛けられた声に、分かっていると剣士は頷く。
 元より、急場凌ぎに作られた武器だ。時間も材料も限られた中で作られたが故に、弾数も多くなく、それぞれに課せられた負担は大きい。 多少の補強を施したとはいえ、この船はあくまで速度を重要視した商用船に過ぎない。 みしみしと音を立てる船体が、果たして何処まで砲撃の衝撃に持ち堪えられるのか。
「この戦いを乗り切れば良い」
 半日だ。半日で片を付けると菊は言った。作戦通り、とにかく今を凌ぐんだ。 単身で乗り込んだあいつを、ここから全力でサポートしろ。菊を信じるんだ。
 腕の中の柔らかな鳴き声。翻るフラッグ。轟く大砲。
 立ち上がる煙は、船員も、船も、武器も、真っ黒に染める。そこに間髪入れず、転覆ぎりぎりの船の上、即座に横なぶりの波に甲板ごと洗う。 煤と潮にどろどろになりながら、ぎしぎしと音を立てる頼りなく船を寄る辺に、しがみ付き、堪え、攻撃する。
 今度こそ転覆するか、今度こそ分解するか。砲弾が切れるのが先か、船が壊れるのが先か。 あっちが根を上げるか、こっちがくたばるか。引くか、留まるか。信じるか、見切るか。
 ぎりぎりの正念場に歯を食いしばる中、腕の中の子猫が続けて三度、鳴き声を上げた。来たか。
「打ち方、止めーっ」
 合図だ。攻撃を終了する。張り上げた大声に、船員達は顔を上げた。
「荷を下ろせっ」
 攻撃を止めろ。武器を海へ捨てろ。舵を取れ。皆、配置に付け。打ち合わせ通り、次の作戦を開始する。
「移動だっ、これよりこの船はロードス島へ向かうっ」





 空を染める黒煙に比例し、オスマン海軍にじわじわと動揺が広がる。
 突然の火災。連続する爆音。敵対する前線からではなく、後方を守る待機船からだという事実。 仮にキリストの軍勢がローマより来襲したならば、港に固まるオスマン海軍は、簡単に挟み撃ちにされてしまうだろう。 だが、敵の軍船勢らしきものは見当たらない。
 原因が判明しない混乱には、得体の知れない恐怖があった。 ロードス騎士団の援軍やって来たのか。スパイが潜入しているかも知れない。島民に扮した騎士団がいるようだ。 周辺の島民は、皆我らに敵対しているとか。なんでも、翼を持った人為らざる姿が見えたらしい。わが軍を、キリストの悪魔が襲っているのか。
 まことしやかに流される憶測は、船上と言う閉鎖空間、戦争と言う極限の状況の中、その正確性を放置したままの噂となる。 そして原型を変形しつつ、予測できない速度で広がっていった。
 それを眼下に、菊は疾走する。
 横なぶりの強い海風に晒される中、丸みのあるマストの上を全力疾走するには、鍛えられたバランス感覚と共に、強い集中力が必要だ。 油断するな。意識をしっかり持て。気を散らすな。急げ。マストからマストへ。船から船へ。 手首のブレスレットに仕込んだからくりを使いながら、マントを凧のように広げて風を操りながら、ひたすら跳躍を繰り返していた。
 だが、そろそろ限界が見え始めているようだ。
 最初に比べて、勢いを失くした装置のバネの引力。強い過負荷に寄る、肩への負担。ブレスレットの食い込みから生じる、手首の擦り傷と出血。 これ以上の使用は危険か。無表情のまま脳裏でそれらを計算しつつ、勢いのままにマストに飛び乗ろうと跳躍した途端、手首の装置がばちんと音を立てた。いけない。
 突然失われた引力。崩れたバランスの中、体制を整えつつ、腰のベルトに携えていた鉤縄を取ると、ひゅんとマストへめがけて錨を投げつけた。 くるくるとマストに絡む錨。がくりと落下が止まる体。辛うじて落下を留め、ほっと息をついた。
 勢いと全体重を支えた肩が、鈍い痛みを訴える。 唇を噛み締めつつ、縄を腕と体に巻き付けつつ、ゆらゆらと振り子のように体重移動させ、勢いを付けてた遠心力を使い、なんとか目的のマストに飛び移った。
 限界を見誤った自分の甘さに臍を噛みつつ、故障したブレスレットを外す。 ずきんずきんと音を響かせる肩は、熱を持っているようだ。強張った手で装置を外すと、そのまま海へと放り投げる。 締め付けられていた手首には、リング状の傷が皮膚を抉って血を滲ませていた。
 大丈夫。痛みはあれど、骨と筋に異常のあるものではない。まだ動かせる。まだ扱える。深呼吸を一つ、顔を上げた。
 ここまでは想定内だ。この手段での移動は、あくまで縄で固定された船同士だからこその可能であった。 この先は、縄で繋がれて居ない、通常の至近距離での船と船の距離がある。
 目を細める菊の視線の先には、ひときわ大きく煌びやかな軍船があった。 ここまで近づけた。目標まではあと少し。宮殿を思わせる豪華船に、猛る気持ちを抑えつつ、すくと立ち上がった。
 途端、ひゅう、と耳のすぐ横で、空気を裂く音が走った。
 はっと瞠った眼下、マストの下から大きな長弓を向けるオスマン兵が映った。一人ではない。 こちらに矢を構えるのは、複数の長弓兵隊。避けられない。咄嗟に、マントの裾を握り締める。
 合図の声に、待ち構えていた弓矢が放たれた。強い潮風を孕んで大きく膨らんだ黒マントは、青い空を背景に、実に分かりやすい的となる。 鳥のようなシルエットがバランスを崩し、ぐらりと揺れて宙へと投げ出された。当たったか。
 無防備に脱力したまま、まっすぐに落ちてくる小さな体。どっと歓声が上がり、ほっとした心地で、オスマン兵達は落下物を視線で追う。
 しかし、床へと到達する直前、しなやかな体が猫のように丸まった。
 曲芸のごとき器用さで綺麗な五点着地を果たしつつ、くるりと前転すると、その動きのままにバウンドするように飛躍する。 まるで無重力のような、よどみなき滑らかな動き。次の矢を構える暇を与えず、細い体がオスマンの兵士達へと飛びかかった。
 戸惑う年若い兵士の目元を、小さな掌が視界を隠すように鷲掴む。 同時に踵から足払いを食らい、兵士の体は仰け反ったまま足が宙を蹴り、大袈裟なまでの動きで後頭部から床に叩きつけられた。
 横から付き出された槍先を、右へ、左へ、紙一重で躱す。 柄を握ったかと思えば、くるりと体を翻して踏み込むと同時、長柄を脇に挟んで固定させ、持ち主の鼻へと肘を叩きつけ、長物を奪う。
 立ち塞がる巨体の兵士に翻した槍先で咽喉を突き、反動のままに背後から剣を振り上げる兵士の肩へ槍先を貫通させる。 もんどりを打ちながら倒れる体を飛び越え、その向こうで剣を振り上げた兵士の一撃を危なげなく避ける。 甲板に剣先がのめり込んだ隙に、兵の懐下へと飛び込み、勢いを付けた掌底を真下から顎下へと突き上げる。
 動きが読めない。
 次の一手をあらかじめ承知いるかのような所作には、一切の無駄が無い。 消耗を避ける為に敢えての最小限の動きではあるが、その纏う衣装とも相まって、まるで舞踊さえ思わせる。 兵士の中には、その鮮やかな身のこなしに見惚れる者さえいた。
 しかし同時に、言い知れない恐怖を植え付ける。小柄な娼婦の女相手に、如何にも屈強なオスマン兵士が、手も足も出ないのだ。 この華奢な細い腕の何処に、大男を投げるだけの力が秘められているのか。 第一、マストの上の姿を、無数の長矢が貫いたのではなかったのか。まさか、本当にキリストの魔女なのか。
 勿論、魔性の力などではない。全て理に適っている。 矢が体へ到達しなかったのは、横なぶりの海風による威力の軽減に加え、それを孕んで風船のように膨らんだマントが母衣の役割をした為だ。 細腕ながら兵士をなぎ倒す力は、関節と体の腱の仕組みを知った上での日本武術の応用である。 その上、複数の兵士を相手取っているように見えても、狭い船上では囲まれるほどのスペースは無く、一度に対峙出来る人数は精々限られているのだ。
 だが、知らぬ彼らからすれば、人知を超えた不思議な力にしか見えない。 細身で小娘のような娼婦に成す術がないなど、悪夢以外の何ものでもなかった。
「怯むなっ。皆、かかれっ」
 しかし、様々な器具や用具が固定し、備え付けられる狭い船上ではそれこそが難しい。 仲間が入り乱れる中で弓を引く事もままならず、素早い動きに翻弄され、惑わされ、苛立ちに振り上げた剣が、図らずとも味方を傷付けてしまう始末だ。
 そんな中、剛力自慢の筋肉質な兵士が進み出た。立ちはだかり、菊の振るう槍を交わすと、がしりと柄を鷲掴む。 ぐいと力を入れて引き寄せられ、武器を奪われまいと菊は槍を握る手に力を込める。捕まえた。 兵士はにやりと笑うと、ふんと腕の筋肉を盛り上げ、その怪力で以って、ぐうんと槍ごと小さな体を持ち上げた。
 足が完全に宙に浮く。
 棒にしがみ付いた小リスのような小さな体は、高々と兵士の頭上まで掲げられた。放り投げるような勢いにバランスが崩れ、だらりと小さな体が無防備にぶら下がる。
「矢を構えよっ」
 このまま、取り囲む弓矢の的になるか。滑り落ちて、兵士に拘束されるか。さあどうする、キリストの魔女よ。
 オスマン兵達の視線にさらされ、菊は後ろ腰に手を回す。
 だが、矢を放て――その号令がかかるより早く、小さな体がぼんっと「爆発」した。 なに? 驚愕に呆然とする中、爆発から発生した濃度のある煙が、瞬く間に辺り一面に広がる。
 強い刺激を含んだ煙霧は、警戒なく見上げていた兵士達の目鼻に降り注がれた。 途端、猛烈に粘膜を刺激する粉塵に、オスマンの兵士は咳き込み、目を抑え、喘ぎ、蹲り、のたうち回る。 なんだこれは。目を開けていられない。呼吸が出来ない。あの魔女は、己が命と引き換えに、毒の呪いでも撒き散らしたと言うのか。
 そんな、得体の知れない煙に混乱したままの船の下。木の葉のようにぷかりと浮かぶのは、各船への伝達や物資の供給を務める、連絡用のボートだ。
 その、最も近くに浮かんでいた一つの上にて。


「私の言葉が理解できますか」


 船に乗る伝令兵の耳元に囁く声は、如何にも急場に覚えたような、ぎこちないイスラム語だ。
 突然騒ぎ出した船を不審に見上げていると、突然上がった煙と共に、何かがすとんと船から落ちて来た。 なんだ? 振り返る間も無く背中から羽交い絞めにされ、不自然な体制のままに強張った体は、力が入らずぴくりとも動かない。
 質問の返答を待つことなく。
「肯定なら首を縦に、否定なら横に。返答は一カウント以内」
 首元にひたりと当てられた、硬く、薄く、冷たいもの。その正体を悟り、年若い兵士は身を固くした。


「オスマン皇帝は隣の船にいる」
「皇帝は船長室にいる」
「キリスト騎士団の捕虜は陸地にいる」
「捕虜船にいる」
「この船にいる」
「皇帝のおわす船にいる」
「同じ船室にいる」
「捕虜は十人以上」
「五人以下」
「一人」
「二人」
「捕虜には子供の姿をした兵がいる」


 一カウントは短い。矢継ぎ早の質問は、咄嗟の嘘や誤魔化しを考える暇を与えず、頭に浮かんだまま回答のまま即答するしかない。
「ありがとうございました」
 ほっとしたと同時、咽喉に回されていた腕に、ぐっと力が込められた。かくりと兵の体に力が抜ける。 意識を失ったイスラム兵を横たえると、菊は向こうに伺う船を見据えた。
 あそこに、いるのだ。ドイツ騎士団が。























 近代的ながらも、欧州らしい歴史を感じさせる、今回の世界会議の会議場。 各国へ宛がわれた休憩室へ続く静かな廊下を歩きながら、こほこほ、と日本は咳を零した。
 頭が重い。体が熱っぽい。咳がなかなか止まらない。かなり気を付けていた筈なのに、相応な処置も施した筈なのに、今回はやけに長引いているようだ。
 仕方あるまい。資源を持たず、大国への輸出入に頼らざるを得ない自国経済は、その大国の経済状況に大きく左右される。 現職の大臣の積極的な経済政策がなんとか功を示し、これでも随分と楽になった方だろう。
 会議の議題の中心は、世界に広がる経済危機対策だ。
 暗黒の木曜日から始まった世界恐慌は、瞬く間に世界の資本主義国を巻き込んだ。 それぞれの国で深刻なハイパーインフレが起こり、ドミノ式に多くの企業が倒産し、失業者が溢れ、自殺者が後を絶たない。
 植民地を有する大国は、ブロック経済で関税対策を施した。世界一の経済大国は、今までの金本位制からの離脱を図り、自国産業と通貨を保護することが可能だった。 対して、植民地を持たない国々は、八方ふさがりのまま、低迷からの脱出に後れを取っている。 特に深刻なのは、先の戦争で巨額の賠償金を課せられたドイツ、恐慌の煽りを受けて大銀行が破綻したオーストリア、そして金融危機に対して充分な準備金を有しない東欧諸国であった。
 金融は血液に例えられる。血流は速過ぎてはいけない、遅過ぎてもいけない。 程よい速度で体中をくまなく循環させることにより、各器官が活性化し、正常な機能を果たし、健康を保つことが出来る。
 好景気に後押しされて異常な速度で循環していた金融は、一度躓くと、そこを中心に一気に滞り、むくみ、膿み、他の機能を麻痺させ、弱っていた箇所を悪化させ、予想外の疾患を併発してしまう。 猛烈な勢いで走り出した車は、急ブレーキに耐えられない。今、世界は正に、そんな状態なのだ。
「やあ、日本君」
 背後から掛けられた声に足を止め、前を向いたままそっと溜息を一つ。表情を変えぬまま振り返ると、日本は丁寧に姿勢を正して、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは」
 純朴な、そして何処かはにかんだような笑顔を湛える北の大国は、嬉しそうに歩み寄ると、その巨体でこちらを見下ろし、えへへと笑う。 それを無表情に見上げるが、ふと呼吸が詰まり、小さく咳を零した。失礼。顔を背け、口元にハンカチを当てる。
「大変そうだね、君の所も」
「そう……ですね」
 曖昧に頷き、小さく咳払いをして、呼吸を整える。目の前の彼に、自分の弱みを見せることの危険さは、充分承知していた。
「まあ、大変なのは皆さんも同じですから」
 軽く会釈をすると、さり気なくその場から離れるべく、歩みを再会した。ふうん、軽く首を傾けると、彼は隣に並んで歩く。 互いの身長に差がある為か、こちらに比べると彼の足取りは鷹揚だ。
「でも、僕のところは大丈夫だよ」
 そう。世界が不況に苦しむ最中、例外の最もたる国が彼であった。
 資本主義とはその経済体系が異なる社会主義国たる彼の国は、今回の恐慌による経済不況の影響を全く受けていなかった。 それどころか、自国産業の改革が好転し、今まで以上に経済力が発達を遂げ、今や世界第二の経済大国へと躍進を遂げる勢いさえある。
 実はこの恐慌を機に、資本主義へと懐疑の目が向けられ、代わりに見直されているのが、ロシアを中心とした社会主義思想であった。
 実際、資本主義を巻き込んだこの経済危機を、その特殊な経済体制により、主要国の中で唯一ロシアは一切の影響を受けず、高い経済成長を誇っている。 特にこれだけ世界を飲み込む世界的不況の中、その例外たる経済構造は、確かに見直される余地もあるだろう。 新たな活路や、希望的展望を反映させようとする学者も増えつつあった。
「僕の言う通りにすれば、皆の体調もきっと良くなるんだけどな」
 しかしそれは、危険も含んでいた。
 彼が抱く独自の経済体制は、赤い思想を根底に成り立ったものである。 彼を中心に広がるその主義は、確かに正しく反映されるなら、まさに理想国家になり得るものであろう。
 だが、全ての人間が「正義」に忠実であるとは言えない。頭上にどれ程輝かしい理想を掲げていても、世界は矛盾に満ちている。 それは日本自身、開国から世界を見回し、肌身に染みて感じたことだ。
 彼が掲げる理想の「平等社会」が如何に虚空の産物であるか、この白い肌の持ち主には到底理解できないだろう。 この世界に「平等」は存在しない。そして、自分はどんなに努力しても、どんなに成果を上げても、決して「平等」とは認められることが無い存在なのだ。
「……皆さん、それぞれに見合った方法がありますから」
 国には個性がある。歴史も、文化も、国民性も。たとえ社会構造や経済体制を真似たとて、それが上手く適応されるとは限らない。 師からの受け売りの言葉だが、確かにその通りだと実感している。
「日本君はどうかなあ」
 ふふっと小さな笑みを含んだ声。
「だって僕と日本君、似ていると思うんだけど」
 流石にこれには怪訝な表情を浮かべた。彼と? 自分が? 思わず奇妙な視線を向ける。
「……まさか」
 今まで考えもしなかった予想外の言葉に、咄嗟に返答が出来ない。 そんな反応を気にする様子も無く、彼は実に嬉しそうに頷いた。
「だから君は、僕と同じになれば良い気がするんだけどな」
 無邪気なままのそれに、脱力する。なんだ、つまりはそれを言いたかったのか。 胸の内で深く長い溜息をついて、視線を外す。
「我が国は、なんとか回復傾向にありますから」
 小国と言えど、自分の事は、自分で考えて、自分で何とかしますから。御心配は無用です。 いつもの標準装備されている曖昧さの消えた、はっきりと判りやすい拒絶。しかし北の大国は、気を害した様子も無く頷く。
「うん、そうみたいだね」
 君って、案外しぶといもんね。
 実は意外にも、欧州諸国に先んじて不況回復の兆しを最初に見せたのは、日本であった。
 勿論、世界恐慌による日本への打撃は、決して生温いものではなかった。 しかも国内では、関東大震災、昭和金融恐慌、金輸出解禁等が立て続けに襲う中、さらに追い打ちをかけられたような状況である。 多くの企業の倒産し、失業者が溢れ、長らく続くデフレ状態に、新転地を求めて大陸へ渡る者も少なくはなかった。
 それでも、遼東半島や台湾を含めたささやかなブロック経済を命綱に、時の大臣の積極的な経済背策が功を示し、ゆるりとした速度ではあるものの、なんとか回復傾向を維持しつつある。 とは言え、所詮資源を持たない軽工業中心の輸出産業では、いつまた諸外国の煽りを食らうか解らない。 早急に国内産業を転嫁する必要があった。
「彼……ってさ、結構無茶言うよね」
 皆が大変な時に、君だけが景気が良いっておかしいじゃないか。君も経済回復に協力してくれなくちゃ困るんだぞって。 そんなの、僕には関係ないよね。大体、そうなった原因は自分だったじゃない。 その癖、僕のところみたいに、皆でひとつになって、社会全体で理想を掲げて頑張ればいいじゃないって薦めたらさ、それは駄目だって切り捨てるし。 じゃあ、どうすればいいのさ。ねえ。
 困ったように眉根を寄せる彼の言葉に、固有の名刺は使わずとも、誰を示したものかは簡単に察することが出来た。
 大国に困惑するのは、彼だけではない。 現在日本は、輸出産業の転嫁を図っている。その主力にと目論んでいたのが、造船をはじめとした、重工業であった。 だがそれも、先だっての会議で、大国の主張によって制限をされたばかりだ。 仕方なくそれ以外の産業を推し進めているものの、しかしこちらの技術が上がれば上がるほど、貿易摩擦と言う新たな問題を生み出している。
 公的な場でも大きな主張や目立つ発言を控え、その場の空気に合わせ、出来るだけ当たり障りの無いように、あくまで正攻法を模索しているつもりだ。 しかし、彼にとっては違うらしい。
 他国と波風を立てずに自国を成長させるには、果たしてどうすれば良いと言うのか。 ふと、自国の身ですべてが集結していた時代を振り返り、懐かしくも遠い心地が胸を過った。
「ねえ、君も僕の所に来なよ」
 確かに敵として戦った過去はあるけど。でも僕は、それでも君と仲良くなりたいんだけどな。本当だよ。
「貴方はまだ、そんなことをおっしゃるのですか」
 敵意を向けると言うより、寧ろ呆れた心地で日本は溜息をついた。ふふっと彼は笑み零れながら。
「僕は彼みたいに、君をオレンジ色に塗ったりはしないんだけどな」
 何でもないことのようにさらりとした口調に、日本は眉を潜める。何のことを?  伺うように見上げた彼は、その北の国独特の色素の薄い瞳を、曖昧な笑顔で細めていた。























 連行された部屋に通された途端、思わずぽかんと口を開いた。
 まず、豪華だ。外観も然る事ながら、船内は更にゆったりと広く、連れられた室内には床には足が沈むほど毛足の長い絨毯が敷かれている。 設置された調度品には金銀や宝石に装飾され、キリスト教圏とは違う美意識のままにそこここを煌びやかに彩っていた。 まだ日の高い時間から惜しみなく灯されたランプは、室内を煌々と照らし出している。 今正に最盛期を向かわんとするオスマン帝国の力と、富と、文化。その圧倒的な違い。 それを、まざまざと見せつけられたようだった。
 半ば呆けたような二人の捕虜騎士団員を、オスマンは顎髭を撫でながら、じいと見遣る。
 連行された騎士団兵は二人だ。 がっしりとした体躯の壮年の男は、腰を据えたような貫録や、隙の見えない身のこなしから、数多の戦場を潜り抜けた手練れであろうことが伝わる。 煤汚れたマントや、肩から肘にかけての痛々しい傷はあるものの、身なりはきちんとしており、気品さえ感じる横顔や、 敵地に身を置きながらも尊厳を失わない態度から、相応の地位にある者であろうと察した。
 そしてもう一人は、まだほんの子供であった。薄汚れてはいるものの、見事なプラチナブロンド、そして禍々しいまでに鮮やかな真紅の瞳。 人目を惹くには充分な要素が揃っているが、しかし彼からはそれだけではない、もっと別の異質さが感じられる。 人為らざる存在同士、肌で感じる存在感。間違いねえ。どうやらこっちは、自分と同類であるらしい。
 だが、しかし。ばちりと視線が交差し、オスマンは片眉を吊り上げた。
「……餓鬼じゃねえか」
「ガキじゃねえっ」
 通訳無用の即答に、矢張り自分と同じ存在なのかと納得する。 それにしても、幼い。こいつぁあのギリシャよりも、更に年嵩の低い容姿だ。
「おめえ、ロードス騎士団じゃねえな」
 かの団体とは、幾度となく戦を遣り合っていた関係上、当然ながら互いをよく認識している。 何より、ロードス騎士団は赤地に白抜きした十字をエンブレムとしているが、彼らのマントは白く、そして十字は黒だ。
 ロードス騎士団が別の後継団体を作った話も聞かない。ならば恐らくは、傭兵として雇われた修道院騎士団か。 珍しいことではない。特に宗教派閥は、国と言う枠組みを超えたネットワークを持っていた。それはオスマンとて同様だ。
 白いマントに黒い十字架という特徴のある印は見覚えがある。 聖地奪還騒動の際、幾つもの騎士団がエルサレムを目指して押し寄せて来た。 そんな中、他の大きな騎士団に後れを取り、押し退けられながら、精一杯の虚栄を張って、皆に追い付こうと必死になって食らいつく、妙に場違いな騎士団がいた。 チビで、ラテン系が多い騎士団の中で、他とはちっと毛色の違った、北の大地を彷彿とさせる目鼻立ちを持っていたような。
 なんと名乗っていただろう、そう、確か。
「ドイツ騎士団、ってのがいやがったな」
 ひくり、まだ幼い肩が小さく揺れた。
 ふい、とそっぽを向く幼い横顔に、トルコはにやにや唇を吊り上げる。どうやら当たりらしい。 ちら、とパシャへと視線を向けると、得たりと彼は二人の捕虜騎士団員に向き直った。
「我が名は、アーメッド・パシャ」
 クァジム・パシャ、ペリ・パシャ。三大臣がそれぞれ名乗りあげる。揃って、イスラムの重鎮の高官ばかりだ。 そして、奥に佇む姿を視線で示し、アーメッド・パシャは姿勢を正した。
「こちらにおわすのが、我らがオスマン大帝、スルタン・スレイマンである」
 聞き及ぶその名に、騎士団の両名は目を見開いた。
 理知的な眼差し。威風堂々たる物腰。意志の強そうな目元と、トルコ人らしい特徴のある鷲鼻。 やや小振りの口ひげを蓄える、ほっそりとした顔立ち。彼が、噂に高き、あのオスマンの皇帝なのか。
 若きこの皇帝の名は、当然欧州にも轟いている。附随する高い評価と共に。 遠征にも積極的に参加する王であるとは聞いていたが、まさかこのロードス島戦にも足を運んでいたとは。
「貴殿らはロードス騎士団の傭兵であると見受けられるが、如何に」
 ちら、と壮年の兵士は、隣に立つ幼き子供兵へと視線を流した。不機嫌そうな面持ちの彼は、唇を尖らせたまま返答の様子を見せない。 向けられたパシャの視線に、オスマンは軽く肩を竦めた。
 小さく息を一つ、質問を変更する。
「本隊たるロードス騎士団の部隊がいずこに兵を配置しているか、貴殿らに聞きたい」
 オスマン側が最も疑問に思っていたのは、このロードス島に城を構えるロードス騎士団らしき隊が、全く姿を見せない事であった。 彼らは長きに渡ってこの島をイスラムとの最前線として守り続け、この遠征も、そんなロードス騎士団との因縁に終止符を打つ為のものだ。
 だがしかし、この交戦の間、当のロードス騎士団が全く姿を見せないのだ。オスマンの困惑も当然だろう。今回の遠征の最大の謎だ。
 彼らはキリストの騎士を「蛇」と蔑むが、軽んじてはいない。 開戦からこちら、常に慎重なオスマンの攻撃は、姿を見せないロードス騎士団への警戒心の表れだ。 つまり、裏を返せば、ここでロードス島で交戦するのが少数部隊のドイツ騎士団のみだと知れば、一息に総攻撃をかけるであろう。 その流れが容易に想像できるだけに、ドイツ騎士団は返答に黙秘するしかない。
 しばしの沈黙。考慮する時間も含めた間の後、パシャはスルタンへ視線を流し、軽く頷き合った。
「我らは、貴殿らに休戦を提案する」
 意外な言葉に、二人のキリストの騎士は顔を上げた。
 だが、これは当初からオスマンの狙いでもあった。
 オスマン側の目的は、長期に渡って占領されたロードス島と、そこにそびえるキリストの騎士団が構えた砦の開城だ。 戦争という形を取ってはいるものの、平和的な解決が可能であるならば、それに越したことは無い。 交戦を長引かせ悪戯に自国の兵力を失わせたく無いのは、理知ある国なら当然であろう。 何より、この聡明なる若きスルタンは、無用な暴力を嫌う性質を持っていた。
「当方の意を承諾するならば、和平条約への交渉に応じる用意がある」
 審議の必要があれば、協議期間の申請を受け入れる所存である。話し合いが必要であるとの判断があるなれば、正式な場を設けよう。 もしこちらへの不信があるようなら、それに応じた交換捕虜を差し出しても良い。
 その申し出に、ドイツ騎士団は我が耳を疑った。
 非文明的な異民族。悪魔の教えを信仰する異教徒。理解不可能な人ならざる種族。それが、キリスト信者における、イスラムへの認識であった。 だが、オスマンからの平和的且つ理知的な持ちかけは、騎士団が持っていた、野蛮なイスラムの印象からかけ離れたものだ。 彼らは傭兵たるこちらに対し、強引な命令ではなく、対等な話し合いを持ちかけている。
「信じられねえってぇ、ツラだな」
 腕を組んでドイツ騎士団を眺めるトルコは、仮面の下の唇をにやにやと歪めていた。だが、これが、我らがスルタンのやり方なのである。
 無用な暴力を嫌うスルタンは、同時に契約は必ず守ることでも知られていた。 後に立法帝とのあだ名で知られるスレイマン一世は、法に対して非常に厳格で、法典や帝国の制度を整備するという偉業を果たす人物であった。 彼にとって一度交わされた約束事は、自国の利に反することでさえ、尊ぶべき最重要項なのである。
「我らは誇り高き、オスマンである」
 我が誇りにかけて、諸君と交わす契約の厳守を誓おう。アッラーの神の名において。
 丁寧に胸に片手を当て、彼らの信じる神の名の元に、はっきりとパシャは言い切った。 オスマンは名誉を重んじると言われている。オスマン皇帝の前での宣言は、恐らく違われることは無かろう。
 だが、ドイツ騎士団には、眼差しに敵意を込めて睨み据えた。
「てめえらはイスラムだ」
 志高きキリストの少年騎士達を、奴隷として売り飛ばした。高尚なる聖職者に、男色の辱めを与えた。 暴力で捉えた人質に、法外な保釈金を要求した。我らが聖地を、汚らわしきソドムへと堕とした。
 そんな野蛮で未開な異教徒相手に、卑しくもキリストの騎士が契約など交わせるものか。
 きりりと睨み据える幼き象徴の主張に、隣に立つ騎士がパシャへと向き直る。
「我らはイスラムには屈しない」
 ここでオスマンとの契約に従うと言う事は、今までイスラムとの最前線であり続けた、ロードス島を奪われることである。 宗教上の理由だけではない。飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を増すオスマンは、今の欧州にとって、大いなる脅威でもあった。
 そんな騎士に、パシャは落ち着いた様子で否定した。そうではない。誤解しないで欲しい。
「我らは、相互にとっての最善を模索している」
 戦である以上、そこに勝敗が生まれるのは致し方ない。 だがそんな前提の中でも、力のみで推し進めるのではなく、互いの損害を最小限に食い留める手段もあるだろう。 今スルタンが提案しているこれは、譲歩に至る前の段階、打診の為の猶予の提案だ。
「これは、双方の利を優先する為の協約に過ぎない」
「我らは海洋商人とは違う」
 キリストの騎士は、己が利を優先させたりはしない。イスラムとの協約など有り得ない。断固と騎士は言い切った。
 十字軍騎士団が、イスラム国との協約を極端に嫌うには理由がある。 キリストの守り人たる騎士団にとって最も忌み嫌う存在は、イスラムをはじめとする教徒だ。 しかし同時に、最も苦々しい存在が、ヴェネチアをはじめとした、地中海に面する通商国家の存在であった。
 交易によって経済を支えるそれらの国々は、高潔な理想を掲げる騎士団と違い、あくまでも現実的だ。 キリスト教徒でありながら、相互の利益を推し量り、気安く異教のイスラム国と契約を交わす彼らは、清貧、服従、貞節を重んじる騎士団にとって耐えがたかった。 ここでオスマンと契約を交わすことは、蔑む彼らと同等に成り下がることになる。
 勿論、彼らには彼らの生活がある。理想だけで生きることが可能なのは、極一握りの存在であることも承知している。 時代に取り残された頑なな思想であるとは理解している。 しかし大義名分である聖地奪還が過去のものとなった今、騎士団が騎士団である為には、この生き方しか残されていない。
「キリストの騎士は、たとえ最後の一人になろうとも、野蛮な異教徒と戦う所存である」
 聖地巡礼の意味を失ったこの時代、それこそが騎士団の誇りであり、生きる証であり、存在意義なのだから。
 捕えられた身でありながら、しかし臆する様子も見せず、堂々たる答弁だった。 追い詰められた側の立場でありながら、しかし彼らは己の信ずる信仰への誇りを失わない。
 それこそが、彼らの矜持であった。
「……おう、糞餓鬼」
 黙って聞いてりゃ、好き放題言ってくれんじゃねえか。
 威圧感を纏ってゆうらりと立ち上がるトルコに、ドイツ騎士団は圧されぬようにぐっと腹の底に力を込める。 大股で歩み寄り、目の前に立ち塞がれると、その身長差も手伝って強い圧迫感がある。 しかし、ドイツ騎士団は怯むことなく、睨み据える目を逸らさなかった。
「聖地奪還だか何だか知らねえが、先にちょっかいかけてきやがったのは、おめえらじゃねえか」
 ぐいと襟首を掴むと、乱暴な力で引き寄せて、その鼻先まで顔を近づける。 吐息の触れる距離での、殺気を含めた強い視線。爪先立ちの姿勢のまま、襟ぐりを絞られる息苦しさにドイツ騎士団は唇を噛み締めた。
「野蛮だあ? 俺に言わせりゃ、てめえらの方が余程野蛮人だってんだよ」
 おめえらは、自分達が何をしたのか覚えてねえのか?  土足で人の領地に上がり込み、老若男女問わず、無差別の虐殺した。 無抵抗でモスクに逃げ込んだ市民に火を放ち、手足を切り裂き、死体を積み上げ、戦利品として略奪の限りを尽くした。 エルサレムから逃れた人々でさえ執拗に追いかけて殺し、司祭たちを残虐な方法で拷問した。 その中には、イスラムやユダヤの教徒だけでなく、東方正教会等のキリスト教徒さえ居た。
 そんな狼藉を目の当たりにしながら、あんたたちの聖職者は言ってたな。 この報いは当然だと。聖地を穢したアラブ人の罪だと。神の裁きは当然であり、称賛されるものだと。全ての暴虐を、神の名を免罪符にしたよな。
 忘れたとは言わせない。知らないとは言わせない。そんなつもりはなかったとは言わせない。 十字軍騎士団とは、その為に生まれた存在なのだ。
 仮面の奥から伺える瞳の奥には、ぎらぎらとした憤怒の炎が垣間見える。 興奮に力がこもるトルコの手に、ドイツ騎士団は喘ぎながら顔を顰めた。
「ふざけるな。てめえらの都合で、神を冒涜するのもいい加減にしろぃ」
 言葉以上の感情が込められた、唸るような低い声。
 元より姉妹宗教でもあるキリストとイスラムは、その教えに差異こそあれど、同じ唯一神を崇拝している。 つまり、キリストが己の神を冒涜しているのなら、同時にイスラムの神をも冒涜していることにも繋がるのだ。
「てめえらのそれは、既に信仰じゃねえだろうが」
 何が、キリストの聖なる騎士、だ。何が、卑しき海洋国家とは違う、だ。 笑わせやがる。残虐行為を正当化させる為に、都合良く信仰を利用しているに過ぎない癖に。
 本当に十字軍は何処までも、清貧、服従、貞節を重んじていたのか?  ここまでにおける一切の行為は、信仰に寄るものであり、私利私欲権力金銭的関与は皆無だと断言できるのか?  その自覚が無いなんて言ってみやがれ。その腐った舌で、そのご立派な態度で、精々虚言の戒律を破って見せろよ。
「紛い物の信仰で、今更神の名を騙ってんじゃねえっ」
 その癖、如何にも己は清廉潔白然としているから、尚更虫唾が走る。 生きるために割り切ってルールに則る海洋国家の方が、余程信頼が置けるってもんだ。
「なあ。おめえは、何者、だ?」
 含めるような声。首を傾け、仮面の奥の目が細められる。
 聖なる信仰から生まれた存在だった筈だろ。でも、その信仰がひん曲がってねえと断言できるのか?  全てを噛み捧げ、私欲を捨てて戦っている筈だろ。お前らは本当に、宗教の為だけに闘っているのか?  聖地奪還の為に誕生した筈だろ。でも、十字軍活動が途絶えて、どれだけの年月が経っているのか? 
「なんで、まだ、居る?」
 あれだけ欧州中を熱狂させた聖地巡礼も、人々の関心も失われ、今や遠い過去の熱病だ。 星の数ほどあった騎士団の数も、僅かばかりが残るだけ。 しかも本来の活動が行われる訳でなく、辛うじて形が受け継がれただけの、最早騎士団と言う名の別物に過ぎない。
 それが、一体何を意味しているのか。
「本当はおめえ、判っているんだろ」
 時代は移った。
 もう欧州の信者は、聖地巡礼を求めてはいない。 聖地奪還が崇高なる宗教の目標ではなく、それが権力による誇示の一つであり、誕生した敬虔なる真の意味を失っていることを知っている。 つまり、それを助けるべく生まれた騎士団の存在は、既に過去の遺物なのだ。
 体裁だけを必死で繕い、団員は先細り、本来の活動さえままならず、目的を得る為に迷走し、団体が生まれた理由はとっくの昔に置き去りの状態だ。 それが何を意味しているのか、象徴たるおめえが理解できない筈がない。
 認めたくないのなら、ここで俺が引導を渡してやるよ。


「てめえは、もう必要とされていねえんだよ」


 突きつけられるその現実に、ドイツ騎士団は真紅の目を瞠った。
 消えた抵抗と、失われた表情。力が抜けた幼い子供の体を、トルコは片手で放り投げる。 絨毯の上、どさりと横たわったまま動かない様を見遣り、腰に手を当て背筋を伸ばした。
「交渉は決裂した」
 てめえらの望み通り、キリストの蛇共を一人残らず殲滅してやろうじゃねえか。 未練たらしく時代に縋りつこうとも、必要とされない存在は、果たしていつまでその形を持ち堪えられるのか。
 それを今、確かめてやろうじゃねえか。
「海上の待機兵を上陸させろ」
 攻撃の準備だ。陣幕を張れ。十字を掲げる者は、全てキリストの敵兵だ。 動けない敵兵は全員奴隷として捉えろ。他のキリスト信者への見せしめだ。なあに、構う事はねえ、あいつらと同じことをしてやるだけの話だ。
 オスマンの総力をかけて、ねぐらに潜む毒蛇共を根絶やしにしてやる。
 トルコ、戒めるようなスルタンの声が上がるが、知ったこっちゃねえ。法を重んじようとする上司の意向は理解しているが、しかし国全体の感情は別の話だ。 元より、国民の持つキリスト教への感情は、随分長く抑圧されたままであった。積もり積もった怨念は、今も根強く残っている。
 こいつらが望んだんだ。だったら遠慮はいらねえ。今こそ決着を付けてやる。トルコは凶悪に唇を吊り上げた。 さあ野郎ども。積年の恨みを、今こそ晴らしてやろうじゃねえか。
「ロードス島へ総攻撃をかけるぜい」
 その瞬間――がん、と大きな衝撃音が届いた。
 はっと室内にいた誰もが顔を上げ、動きを止める。音源は、船室の扉の向こう。この船室まで通じる細い廊下でのものであるようだった。
 続いて、がん、がん、がん、鉄製の扉か壁を強く打ち付けるような、あまりに直接的で乱暴な不審音。何だ。 眉を潜めてそちらを視線で探るトルコとパシャの耳に、空気が破裂したような爆発音が聞こえた。
 ぴりりと室内の空気に緊張が走る。二人の警備兵が腰の剣に手をかけつつ、扉の左右に身を寄せた。 パシャはスルタンを部屋の奥へと下がらせ、それを背中に庇いながら、二人のパシャがすらりと剣を引き抜く。
 この船室は、甲板から一つ下の階に位置していた。 スルタンの専用船だけあり、敵兵の襲撃を考慮し、入り口には頑丈な鉄製の扉が設置され、部屋までの通路が細く長めに設計されている。 恐らく階段への入り口の扉からか。一体何事だ。扉の向こうで何があった。
 ゆうらゆうらと揺れる船。息を潜めて扉の向こうの気配に意識を集中させるが、しかし扉はぴくりとも動かず、そしてやけに静かだ。 扉の前で構える警備兵がちらちらと目配せし、そして一度伺うように振り返った。 こくりと頷くパシャに、一人の警備兵は剣を構え、もう一人の警備兵は手を伸ばし、ドアノブを握り締める。
 扉に注視する一同を見回し、タイミングを伝えるために一度頷くと、肩に力を込めて一気に扉を引いた。全開にされた扉の向こうには――何もない?
 そう認識したと同時、光が弾けた。
「な……っ」
 眩い閃光弾の炸裂に、視界が奪われる。直撃した光の暴力に、脳天を直撃される。真っ白い世界に放り出され、ぐわんぐわんと頭の奥に警笛が鳴り響く。 顔を背け、目を抑え、身動き出来ずに無防備に立ち尽くす。
 誰もが目をつぶり、顔を覆い、頭を庇って動けない中、いち早く瞼をこじ開けたのは、トルコであった。
 目元を覆う仮面に助けられたが、しかし余波と言えども光の攻撃は強烈であった。 ちかちかと瞬く世界に目を細め、瞬きを繰り返し、点滅の向こうへと懸命に目を凝らす。どうした、これは。何があった。
 ぎゃあと上がる叫び声。どさりと倒れ込む音。白いモノクロームの世界の中、残像を残しながら真っ黒い影が翻る。 左右に大きく広げられるのは、漆黒色の翼か。


 黒い、鳥?


 スローモーションの如く片膝が付けて腰を落とした姿勢に、広がったマントがふうわりと覆い被さる。 逸らされることなく真正面を見据えるのは、深淵を秘めた闇色の瞳。 紅に彩られる、引き締められた唇。柔らかな頬に掛かる黒髪の一筋さえ、壮絶なまでに美しい。ごくりとトルコは咽喉を鳴らせた。
 両の手でいっそ恭しいほどに丁寧に目の前に掲げるのは、黒塗りの鞘に納められた剣。その鍔を、親指が押し開く。
 すらりとした刀身が、銀の閃光のように真横一文字に振り払われた。








所謂、カラーコード戦争計画
オレンジ計画のことです
2013.11.19







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