黒鷲は東の未来より舞い降りる
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 突然城の中心部に現れたその侵入者に、ドイツ騎士団一同は目を丸くした。
 まず、見た目が異様だ。衣服も、髪も、顔も、全身が火薬に煤けて真っ黒になっている。 その上潮風と波に洗われたのか、どろどろに汚れて黒い滴を滴らせる様は、まるで浮浪者そのもの。 しかし逞しく盛り上がる上腕や、鍛えられた体は、見るからに戦士のものであった。
 一様に剣を抜き、身構え、驚きと警戒を露わにする騎士団員達に、だが驚くのは彼とて同様であったようだ。 向けられた剣先に、厳しそうな眼差しが、寧ろ意外そうに丸く開かれる。
「あいつは、まだ到着していなかったのか?」
 計画では、小舟で彼女と荷を引き渡した後は、商船に紛れつつ、先んじてロードス島へ上陸する予定であった。 ドイツ騎士団である彼が先に話を通して置けば、警戒されること無く我らも合流できよう、そう踏んでの流れあったのだが。
 つまり、ここに先に辿りつけなかった何かが生じたと言うことか。想定外の何かがあったのか。果たして彼は無事なのであろうか。 眼光鋭く眉間に皺を寄せる彼に、騎士団の一人が進み出る。
「見た所、ドイツ騎士団に所属している者ではないようだが」
 人員不足とは言え、出入りは多く、見張りはいた筈だ。しかしそれらをかいくぐり、何故この城に侵入知ることが出来たのか。 貴殿は何者か。そのマントの文様はフランス王国に準ずるものかと見受けられるが、敵か、味方か。聞きたいことは山とある。
 様々な面で切羽詰まる状況に押し迫る中、ぴりぴりと殺気立つ騎士団員に、剣士は慌てて首を振った。
「この城については、ギリシャに聞いた」
 城の位置、構造、そして誰も知らない秘密の抜け道など、全て船上で説明を受けていた。 しかし、騎士団達は一層警戒心を強める。現在、ギリシャはオスマンに支配されている。 しかも、彼の話すドイツ語には、フランス語の訛りが見受けられた。 この陥れられた現状を考えれば、依頼主であるフランス国王に不信を持つのは当然だろう。
 胸の内で舌打ちしつつ、男は胸元を探った。 なにかあれば、これを……彼女はそう言って、これを託してくれた。
「違う、俺はこれを預かっている」
 懐から取り出したのは、ドイツ騎士団の象徴、黒十字のペンダントだ。
 やや古びてはいるものの、一見して質の良いものであることが見て取れる。反応したのは、古参の騎士団兵達だ。 それは……奥に立つ騎士団長の一人が身を乗り出し、男の前に進み出た。
「拝見してもよろしいか」
 差し出す手に、大切な預かりものだと念を押し、男は丁寧に乗せる。受け取る黒十字をじっくりと見分し、納得した。 ああ、矢張り間違いない。古参のドイツ騎士団員であれば、見覚えがあるものも多いだろう。 噛み締めるようにぐっとペンダントを握り締めると、騎士団長はマントを翻して振り返る。
 諸君。高い天井に、声が響き渡る。
「待ち焦がれし光が遣わされたっ」
 諦めるのは早計だ。我らは見捨てられてはいない。胸を張れ。立ち上がれ。前を見よ。絶望にひれ伏す前に、希望を信じるのだ。
 高々と頭上に掲げた黒十字のペンダントが、天窓から差し込む光をきらりと反射した。

「黒鷲の守護神が、ロードス島に降り立ったのだっ」





 子猫のようにしなやかな体が、膝を立てた姿勢から、跳ねるように床を蹴った。 閃く刀身の煌めきに、トルコは我に返る。
 早い。やべえ。
 剣を構える余裕など無かった。躊躇無く頭上から振り下ろされた刀に、間一髪、なんとか横へと飛び退る。 咄嗟の動きは、我ながら上出来だ。だが、反射での動きに大きな体はどうと倒れ込む。打ち付けた肩を軸になんとか反転すると、素早く身を起こした。
 体勢を立て直すいとまは与えられない。
「うおっ」
 右に左に。繰り出される太刀筋の速さは、こちらに攻撃の隙を与えず、たたらを踏むように後退するのが精一杯だ。 早い。しかも正確。目が追い付くのがやっとである。 切り返しが速く、避けたと悟ればぴたりと制止する剣先から、力任せに振るうのではなく、完全に剣をコントロールしていることが読み取れる。 美しいまでの剣捌きとその動きは、並みの手練れではない。
 何者だ、一体。
 なんとか体勢を立て直そうとするトルコの目の端で、最初の閃光から、漸く回復を始めたパシャ達が、目をしばたたかせながら顔を上げた。 祖国と侵入者の対峙に気付くと、状況を把握し、慌てて手にある剣を握り直す。
 侵入者の背後に迫り、死角になっているであろう位置から、ゆるりと剣を振り上げる。しかし、それにトルコは慌てた。
「ま……っ、止めろっ」
 こいつは、見えて、いる。
 屈強で丈背のあるパシャが、構えた剣を袈裟懸けに振り下ろす。 少女のように小柄な体が肩から切り裂かれると思った瞬間、その背中がすっと屈み、滑らかな動きでくるりと横に転がった。
 驚くのはパシャだ。消えた彼女の背中の向こう、剣を振り下ろす先には、強張った顔で狼狽える祖国が居る。
「くっ」
 握る剣を振るい、トルコは己へと落とされるパシャの剣をはじき返す。辛うじて同士討ちを免れた。
 危なかった。どっと背中に汗を吹くが、しかし目の前で呆然とするパシャは、それ以上に動揺していた。 驚愕した顔のまま荒い息で呆然と目を見開き、己の仕出かしそうになった所業にわなわなと手を慄かせている。
 その失態を打ち消すように、もう一人のパシャが進み出た。
 彼はオスマン軍の中でも、剣術の手練れとして名高く、己が腕前を自負している。 安定した姿勢ですらりと剣を構えるが、しかし彼女の動きの方が速い。タイミングを合わせて一歩踏み込んだ彼女の剣先が、同時に目にも止まらぬ速さでくるりと正面に円を描く。 次の瞬間、パシャの手に握り締められていた剣がの姿が消えた。
 煙のように消えた己が武器に、パシャはぽかんとする。なんだ、今のは。この女は何をした?  訳が分からぬまま、何も持たない両手を見下ろし、きょろきょろと己の剣の行方を探す。当人の必死さに反して、その仕草はいっそ滑稽だ。
「上だ」
 唸るようなトルコの声に、その場に居た一同は一斉に見上げる。 薄暗く低い船室の天井には、彼女の剣先に絡め取られ、くるりと巻き上げられた剣が突き刺さり、びいんと振動に震えていた。
 それが、一瞬の隙になる。
 床に手をついた少女が勢い良く引き上げたのは、船室に敷かれていた豪華なキリムだ。 天井を見上げたパシャ達は、不意打ちのままに足をすくわれ、たたらを踏み、受け身も取れずに無防備に倒れ込んだ。 強かに打ち付けた後頭部にもんどりを打つ兵士に、そのまま緻密な文様のそれをばさりと被せ、腰のベルトから抜いた苦無でだんと床に縫い付ける。
 厚みのあるキリムに包まれ、出口が見つからずに芋虫のようにもぞもぞと動くパシャ。 己が失態に剣を握る手を震わせて戦意を喪失させるパシャ、失神したまま動かない兵士。 辛うじて戦う意思を持つ者もいるが、しかし突然現れた侵入者の脅威に、明らかに腰が引けている。
 この僅かな間に、なんというざまだ。ちっとトルコは舌打ちした。
「しっかりしろぃ」
 ここは戦場だ。ふぬけたツラ見せんじゃねえ。天下のオスマン兵ともあろう者が、娘っ子一人に翻弄されてどうする。
 喝を込めた怒声に、パシャ達はびくりと身を震わせた。 気を引き締めようと剣を持ち直すが、先程のショックで、このパシャは剣を振るう事に躊躇するようになるだろう。 顛末を見ていたオスマン兵も然り、この狭い室内での同士討ちの危険性を目の当たりに、尻込みするに違いない。 それをも狙っていたのだとすれば、彼女の剣は人の心も断ち切るらしい。
 まるで魔女。少女のようなあどけない風貌が、更に穿った疑惑を沸き立たせる。普通の人間が、キリストの魔女と果たしてまともに戦えるのか。
 ならば。機転の利く兵士が、くるりと身を翻した。その先は 部屋の隅、腰を落として驚愕に目を丸くするドイツ騎士団。
 勿論、彼女はそれを許さない。ドイツ騎士団とパシャとの間にするりと身を滑る込ませると、ひゅうと刀身が斜め下から袈裟懸けに振り上げる。 きん、と鉄と鉄がぶつかり合う音。宙へと舞い上がったのは、幅のある刀身のオスマンの長剣だ。
 がしゃんと重い音を立て、刀はドイツ騎士団の前に転がる。パシャは肩を抑えて倒れ込み、呻く声を抑えながら、鮮血に溢れる手首を抑えた。
 ドイツ騎士団を背後に、パシャ達に正眼の構えを崩さぬまま。
「立ちなさい、ドイツ騎士団っ」
 切り裂くように鋭い叱咤の声。幼い肩が、電流が走ったように震える。
 この命運の掛かった状況下、象徴である貴方がそのような状態でどうするのです。 まだ、隊は残っています。全滅した訳ではない。今もロードス島にて戦う騎士が居る。 なのにドイツ騎士団たる貴方が先に諦めるなど、言語道断。
「貴方が貴方を諦める事を、私は決して許さない」
 ぐうと唇を噛み締め、背を押されるように慌てて立ち上げると、ドイツ騎士団は傍に転がったオスマンの剣を手にした。 傍にあった騎士団員も、扉の前で倒れているオスマン兵の刀を手にし、構える。
 その様に、トルコはにいと唇を吊り上げた。成程、そういう事か。ならば、こちらもその心理戦を使ってやろうじゃねえか。
「惚れているな」
 床を蹴り、トルコは距離を詰める。両手で握った剣を力任せに横に薙ぐと、ひらりと彼女は剣先を寸で躱した。 幼さの残る小さなかんばせは、水面のように落ち着いている。冷静、などと生易しいものではない。これは、無、だ。 静かな闇の瞳からは、興奮も、感情も、闘志も、殺気さえ見えない。
 ならば、その内に秘めた感情を暴き、かき乱してやる。頭に血が昇り、判断が出来なくなるようにな。
「あんたは、その餓鬼に惚れている」
 象徴としてではない。所属する団体としてではない。チビで子供で幼い姿のままのそいつを、一人の男として愛している。
 右から、左から。充分に気迫を込めて振り下ろす剣を、きん、と彼女は横に払う。
「動揺を誘うつもりなら、無駄な事」
 残念ながら、私は貴方が思う程、少女ではありません。 秘めた想いや心の柔らかい部分を刺激されたとて、今更うろたえて隙を見せる程、可愛らしくも無ければ、年若くも無い。
 くるりと身体が入れ替わり、しかしひたりと向けられた剣先は外さない。視界の端には、こちらを振り仰ぐドイツ騎士団がいた。


「ええ、好きです」
「私は、彼を愛しております」


 だからこそ。刺し違えても。己の全てを投げ打ってでも。私は彼を、ドイツ騎士団を守ります。
 真正面から目を逸らさず、潔くも凛と言い切る言葉には、断固たる説得力があった。 言うじゃねえか。男と違い、女は惚れた男を守る為、いつでも命を捨てる覚悟が出来ているという訳か。 仮面の下、したたかな唇がにいと吊り上がる。
「良い女だ」
 面白え。キリストの蛇共は、大した女神を隠し持っていやがる。 高揚する感情のまま、トルコは半月型の剣を構えて、唇を湿らせた。






























 夜の空を突き刺すが如く、高らかにそびえ立つ摩天楼。 最新の建築技術を施されたらしいホテルのロビーは、近代的な外観とは対照的に、妙にクラシカルな装飾が施されている。 欧州を連想させるそれらは、しかし欧州の何処の国にも属さない、不思議な無国籍さがあった。
 それを一瞥、せせら笑うように目を細めると、開放的なロビーラウンジに入り、亜細亜人の体格にはやや大きいソファに腰を乗せる。 ウェイターに水を注文し、腹の底から息を吐くと、改めて周囲へ視線を巡らせた。
 現代的なビル群、整備の行き届いた道路、眩いほどの街頭の灯に、溢れる最先端の自動車の列。 流石は世界で最も発達した近代国家、そしてその中心地。あまりに差のある自国の都市との有様に、くらりと軽い頭痛を覚えた。
 確かに先進国なのであろう。そこは認める。しかし、モダンだとか、シンプルだとか、新しいとかと持て囃されているが、こちらの目にはどうにも薄っぺらなものにしか見えない。
 大体調度品というものは、もっと豪華に、派手に、繊細に、煌びやかにしなくちゃ意味ねえある。 所詮、歴史が浅い国。こんな薄っぺらなものしか作れねえね。まあ、このソファの座り心地だけは、認めてやっても良いかも知れない。 尤も、我ならこれぐらい、同じようなものを自分で作れるね。
 ふんと小馬鹿に鼻を鳴らせ、背もたれに体を預けて息をついたところで。
「貴方は、一体何を考えているのですか」
 背後からの声に、ひくりと彼は肩を揺らせた。背中越しの気配に目を細める。 相変わらず、小さく、単調に、ぼそぼそと声を奴だ。しかしその奥には、怒り、憤りが混じり合い、抑えきれない感情が滲んでいる。 普段は努めて冷静であろうとする彼からそれを感じるのは、堪らなく楽しい。にいと唇を吊り上げて愉悦した。
「彼は、間違いなく貴方を狙ってるのです」
 欧州の亜細亜植民地競争に後れを取った彼は、ずっとあなたを狙っておりました。 中立を宣言していた筈の彼が、目に見えて貴方へ肩入れする理由を。貴方も解っている筈です。
 大国の市場は、現在飽和状態だ。 それでも増え続ける、そして増え続けなくてはいけない生産量の消費先として、都合の良い人口大国を選んだに他ならない。
 かの国は、甘くない。己の労に見合った分だけの、否、必ずそれ以上の見返りを求めるだろう。
 は、肩を竦めて小馬鹿にした笑いを上げた。今更、何を。
「それを、おめーが言うあるか」
 我の一部を奪ったその口で、それをおめえが言うあるか。
「全て、国際法に則っております」
 満州地方の租借利権は、正当な権利として認められております。それは貴方自身もご理解して頂いているかと。 第一かの地方は、北の大国が南下、占領する以前は、殆ど空白地となっておりました。
「かの地に居住する、我が国民を守る為です」
 利権を手に入れてからこちら、日本としては極力友好を掲げて、巨額の投資をし、土地開発に力を注いできたつもりだ。 しかし漸く経済が発展した途端、排斥論が高まり、最初に結んだ条約を次々と破棄し、有ろうことか居住する我が国民に対して迷惑行為を繰り返す。 貴方の土地だと言い張るならば、何故自国に対して法的且つ、建設的な処置を施さないのか。 阿片の不法栽培や、手を組んだ馬賊や匪賊らの人質商法や略奪行為で私腹を肥やすよりも、国家として為すべき事がある筈です。
「だから、雨亭を殺したあるか」
 元は北の侵略国のスパイであった奴を手懐け、己のスパイに寝返らせ、目障りになればあっさり切り捨てるとは、おめえも随分都合が良いことだ。 それとも、折角手に入れた土地の政権に就かせたは良いが、おめえの思い通りに動かなくて、腹が立ったか。
 ぐ、と日本は咽喉を鳴らす。
「……あれは、我が国の政治的意向とは異なるものです」
 実際、当時あの鉄道を警備していたのは我が軍です。犯行者自が国民であることを認めると、関係者を処分し、時の上司は総辞職を果たしました。 かの実行犯は、北の大国から広がる赤の思想の影響が強いとの疑惑さえあります。ならば、寧ろ裏で首謀をしていたのは……。
「おめえの国民の暴挙には違いねえある」
「では、貴方のプロパガンダは暴挙ではないと言うのですか」
 新たに入居してくる我が国民を疎ましく思うのは、ある意味仕方がないでしょう。 だからこそ、私達はかの地に貢献しました。指導者は貴方の国民から選びました。我が国の企業や経営者のみに課せられた、理不尽な特別税にも応えました。 現在あの地方の発展ぶりは、我が国を凌ぐ勢いです。
 だが、排日運動はエスカレートした。学校授業では反日運動歌を歌わせる。満州全土で襲撃事件が多発する。 特に先の爆殺事件で指導者が変わると、新政策として次々と条約破棄を打ち出されるまでとなっていた。 それらの積み重ねを考慮すれば、かの事変は、原因ではなく寧ろ結果だと言えよう。
 しかも、この排日論は、更に憂慮すべき事態に変化しつつある。
「何より、他国へ虚実を吹聴し、私を卑しめるのは控えて頂きたい」
 大陸独特の切れ長の目が、うっそりと細まる。
 これは心外だ。笑いを押し殺しながら、長い袖で口元を抑える。
「それは単に、おめえが嫌われている、の間違いじゃねえあるか」
 そんな所まで我の所為にするとは、酷い言いがかりだ。正に罪の擦り付け、残虐非道で極悪な日本人らしい、自分勝手な責任転換ではないか。 こんな謂れの無いことで、ちくちくと弱い者を虐めるなんて。やはり我は、いつでも被害者あるね。
 しおらしく且つ弱々しく項垂れる様に、歯噛みする。言いがかり? 責任転換? 被害者? そう言いたいのは、こちらの方だ。
「それが通用するのは、貴方を知らない国だけです」
 残念ながら、貴方はそんなに弱くない。 強かで、しぶとく、逞しく、計算高い。謀を巡らせることも、利用されることで利用することも知っている。 そしてまず、条約や国際法の意味を理解するつもりがない。
 亜細亜で最も民主的国家などではなく、国際的弱者でもなければ、やられるだけの被害者でもなく、欧米に根付くキリスト教的価値観を有してもいない。 あのまだ幼い大国が思い描く神秘的でロマンティックな東洋像は、あくまでも彼の中での幻想だ。
 チャイナスクールや大量に送った留学生、外国語が巧みな美しい女性外交官、創作の名探偵像を駆使してまで世論を広め、宣伝し、貴方は貴方までをも偽るのですか。 それは果たして正しいことだと、胸を張って言えるのですか。
「おめえはなーんにも解ってねえあるな」
 黙って正しく行動を続ければ、必ず認められる、きっと伝わる、いつかは理解して貰える……そんな馬鹿馬鹿しい勘違いを、いつまで能天気に続けるつもりなのか。
 真実など、幾らでも上書き出来る。歴史など、幾らでも書き換えられる。虚言は、簡単に真実に取って代わる。 引き籠りには解らないかも知れないが、この広い世界ではそれが当たり前である。
 世界は案外騙されやすい。特に大雑把な西側は、声の大きい方へとより注目し、関心を注ぐ。 第一、彼らのとって真実や正義などは重要ではない。こちらの方便を、自分の都合の良い形で解釈し、利用できればそれで良いのだ。
 だから、こちらはそれを利用する。大事なのは真実や中身ではない。どう見えるか、どう印象付けるか、どう勘違いされるか、なのだ。
「貴方に矜持はないのですか」
 己が身を欧米に切り売りし、媚を売り、哀れに泣き叫び、弱々しい被害者面をして、過剰な演技で同情を買って。 貴方の態度は自分自信を貶めるに過ぎず、ひいては亜細亜全体に対する間違った認識を、西側諸国に植え付け兼ねない。
「私が今必死で成さんとしている事は、本来であれば貴方の役目であった筈です」
 今の世界情勢は、貴方自身が身を以って理解しているのではありませんか。
 欧米の植民を退け、亜細亜を守り、導くのは、亜細亜の祖である貴方なら可能であった筈だ。 しかし現実は兄弟の危機を目の当たりにしながら、しかし何も成そうとせず、屈辱を甘んじて受け入れている。 亜細亜の大国と自ら称すのであれば、亜細亜の兄と名乗るのであれば、中心の国と名乗るのであれば、それが貴方の義務ではないのですか。
 こちらを世間知らずと罵るのであれば、世間を熟知する貴方こそが、亜細亜の基盤となるべきだ。
「我らの為にも、貴方は努力を怠るべきではない」
 断固たる口調に振り返る。重なる視線。その奥には、互いに言い知れぬ怒りが込められていた。
 ソファの背凭れに肘をかけ、やや小馬鹿にしたように老大国は、その昔、あらゆる世話を施した弟分を見遣る。 あの頃は素直で可愛かったのに、今は随分生意気な口を利くようになったものだ。
「思い上がるんじゃねえあるよ」
 世界に背を無けて、自分だけの空間に引き籠り続けたおめえに、一体何が解るのか。 まだ、世界の表面しか目にしていない癖に、何を分かった口を叩くのか。
「おめえは本気で、あいつ等と信頼関係が築けると思っているあるか?」
 だとすれば、本物の大馬鹿ね。 世間知らずだとは知っていたけれど、開国してこちら、様々な国を見てきたにも拘らず、未だにそんなお花畑な考えをしているなんて。 一度思い込んだら突っ走るところは相変わらずだが、いい加減学習する事を覚えた方が良かろうに。
「あいつらは亜細亜を見下しているよ」
 これは、不動の前提だ。
 こちらが如何に努力しようと、偉業を果たしても、彼らは決して認めはしない。 絶対的に立ちはだかる差別意識を目の当たりにしたのは、一度や二度ではない筈だ。 それを知っていながら、無駄な努力で、いつまで足掻き続けるつもりなのか。
 勿論、それはこちらとてよく知っている。開国して、世界を知り、そして身に染みて痛感した。そう、だからこそ。
「私達が手を組み、正しく前進すれば、西側に対抗できるのではありませんか」
「偉そうな口を叩いてんじゃねえある」
 手を伸ばし、ぐいとやや乱暴に日本の顎を取る。
 それが出来れば、苦労はしない。おめえが世界を知るずっと前から、ずっとずっと昔から、あいつらの事を知っているのだ。 漸く窓から顔を出したばかりの引き籠りが、何も知らねえくせに一端の口を利くんじゃねえある。
「第一、おめーがそれを、我に言うあるか」
 我の体を切り刻み、乗っ取ったのは、何処の誰あるか。立派な綺麗事を掲げる割に、やっていることはあいつらと同じある。
 爪が頬に食い込みそうな力と、不遜な仕草に、日本は眉を潜める。おやめください、その手首を取って剥ぐように引き離させた。
「私は、その土地の者に、自治権を与えたつもりです」
「建前はそうでも、実態はどうあるよ」
 まあ、おめーは昔はからそうあるね。いろいろと教えてやった頃は、にーに、にーにと、あんなに可愛くなついていたのに。 自分に都合の良い部分だけを学んだかと思えば、後はしれっと赤の他人宜しく距離を取る。そして自分は我とは違う、関係ないと主張する。
「おめえのその態度がムカつくある」
 如何にも品行旺盛な態度に見せて、考えること、やることは全く違う。おめーのその二面性には、うんざりするよ。
 兄を差し置いて、己一人さえ良ければいい差し出がましいその態度。 おめえも弟なら、兄の言う事を聞いておけばいいのに。おめえも弟らしく、兄の為に働き、兄を助けるべきなのだ。 弟子は師の為に全てを捧げる。それが長きに渡る東洋の真理、賢君の唱えた教えである筈だ。


「貴方は、間違っている」
「おめえは、大馬鹿あるよ」


「何をやっているんだい、君達は」


 割入るようなその声に、同時に顔を上げた。
 腰に手を当ててこちらを伺うのは、この国の、今や世界で最も経済力と影響力のある、若き超大国の象徴だ。 眼鏡のレンズの向こうから、状況を見極めるようにブルーの瞳が見据えてくる。
 それに、老大国はいち早く反応した。痛いっ。突然大声を上げる彼に、思わず日本ははっとする。
「痛い、痛いね。早く助けて欲しいあるよ」
 哀れっぽい声を上げ、如何にもしおらしく肩を竦める彼に、呆気とられる。なんの事だと思えば、引き離す為に取ったままだった手首を、彼は力無く揺さぶった。
「放すんだぞ、日本っ」
 乱暴は止めるんだ。大人しい彼に暴力を振るうだなんて、俺が許さないんだぞ。
 どん、と肩を押され、元より力の入っていなかった手が離れた。
「今のを見たね。解ってくれたあるか、こいつは本当に酷い奴ある。我はこうやっていつも苛められるよ」
 大袈裟なまでの大声は、閑静なロビーに響き渡る。幾つもの怪訝な目が向けられる中、彼は如何にも颯爽と立ちはだかった。
「こんな所で騒ぎを起こして……。君はどうして彼を苛めるんだい」
 弱い者苛めをするなんて、正義の国として見過ごせないんだぞ。腕を組んで胸を反らせる彼に、しこりをぐうと飲み込んで、姿勢を正して向かい合う。
「……失礼しました」
 この場を収める為、理不尽を腹に押し留め、それでも一旦身を引く。
 やったやらないの押し問答をするのは、この場では相応しくない。 謝罪は、この落ち着いたロビーで騒ぎを起こしたことについてのものだった。だが、それを彼は決して見逃さない。
「ほら、聞いたね。こいつ、謝ったよ。自分が悪いと認めたねっ」
 鬼の首を取ったかのように、身を乗り出し、指をさし、更に声を高らかに周囲一帯へと主張する。 こいつが悪いと自分で認めたね。悪い事をやっている自覚があるね。我が悪いんじゃねえある。悪いのは全てこいつね。
「おやめ下さい」
 抑えた声で鋭く制す。たとえどのような形であれ、諍いの場を公に晒すのは見苦しい。 全く関係の無い第三者の前でなら尚更だ。単純にはた迷惑であろう。そう感じるのが当然なのは、こちらの文化だ。
 しかし、彼の文化では違う。このお誂え向きのシチュエーションは、己が正当性を大々的に主張する場であり、味方を増やす為の絶好の機会なのである。
「やめるのは、おめえの方あるっ」
 自分の非を認めている癖に。自分が悪いと判っているのに。おめえのやっていることは、何もかも間違っているのに。さあ、おめえからも何か言ってやるよろし。
 背後からぐいぐいと押され、促され、若い彼は軽く肩を竦めた。そして何かを告げようとする、それを遮るように。
「満州の正当性は、既に認められております」
 確かに関東軍が実効支配しているのが現状だ。だが、あくまでも独立国として、日本人ではない国王も立てております。 第一、満州は、女真族中心に建設した国家なのです。西洋から見れば、支那人も、満州人も同じかもしれない。 でも、実際は違う。彼の国は、欧州以上の他民族の集まりなのです。
 彼の言葉は一理あるかもしれない。しかし、それはあくまでも一方的な視点のみの見解だ。 民族問題で絡みついた感情も含め、もっと多方面から亜細亜のそれぞれの主張を検討すべきではないでしょうか。
「おめえは、人の家庭事情にまで、いちいち口出しするんじゃねえある」
 第一我は、おめえにあの土地を貸しただけね。なのに、勝手に独立し、満州国などと言うふざけた国を作り、我から分離させ、自分の好きなように動く傀儡国家に仕立て上げ。 古来から世話になった兄に対して、よくもまあ、そこまで酷いことが出来るものかと感心するあるよ。
 双方それぞれの言い分に、若き超大国は片方の眉を吊り上げ、そしてバター臭い仕草で肩を竦めて見せた。やれやれ。言葉にしなくとも、呆れたようにそう呟くのが聞こえる。
「まあ……とりあえず、今は調査の結果待ちだろ」
 先日大陸で勃発した事件について、当事国双方が国際連盟に提訴した。 現在は連盟で構成された調査団が両国を調査し、報告書を作成している最中である。
 だけどさ。大国の少年は、眼鏡をきらりと反射させた。
「大体、ノンホワイトである君が、なんで植民地を持つんだい?」
 欧州なら兎も角。僕でさえ持っていないのに。アジアの君が。先ず前提として、それがおかしいんだぞ。
 日本は小さく息を飲んだ。
 ノンホワイト。黄色人種。野蛮国で無いことを証明すべく奮闘する度、果たして幾度、その枕詞を耳にしたであろう。 追い付こうと努力を重ね、遅れまいと苦汁を飲み、気を配り、学び、取り入れ、研究し、力を尽くし……だが、全ては常にその一言で、一言のみで一蹴される。
「俺としては、君はもう彼から手を引くべきだと思うんだぞ」
 何も無かった僻地を、あそこまで立派に整えた君の努力は認めるよ。 でも後は、俺達が管理するから、君はもう手を引くべきなんだ。同族に対してそんな仕打ちが出来るなんて。兄弟である相手にそんな事が出来るなんて。 やっぱり彼の言う通り、君は随分と残虐な民族性の持ち主なんだぞ。
「昔からこの子はそうある。我も随分困っていたね」
 何も知らない子供だと思って、我が何でも教えてあげていたのに。まさかこんな形で裏切られるなんて、思っても見なかったあるよ。 我は今でも、同じ亜細亜の姉弟として、大切な弟だと思っているのに。 可愛い弟に残虐な暴力を受けて、我は兄としてどう接すればいいのか解らないあるよ。
 酷く寂しげで、悲しげで、弱々しく告げる彼に、表情に出さずに絶句する。確かに彼は自ら兄と称していたが、こちらは彼を兄だと思っていない。
 第一かの地は、合法的に手に入れた利権だ。身を削るようにして戦い、賠償金もろくに手に入れられないまま、それでも辛うじて勝ち取った権利である。 この混乱する世界経済の中、資源を持たない我が国にとって、かの大陸は必死で繋ぎ止めた命綱なのだ。
 北の大国も、決して南下を諦めた訳ではない。今もこちらを伺う中、その立地的な防波堤としてもかの地は需要な要である。 四方から不安が教え寄せるこの世界情勢、今更砦となるそれを手放し、丸腰になることなど出来るはずがない。
「中立である俺から見ても、やっぱり君のやり方には感心しないんだぞ」
 その言葉に、耳を疑った。
 中立? ならばなぜ、頼りなく身を寄せる彼の言葉のみを鵜呑みにし、公認の軍を用いて大陸の為の義勇部隊を用意しているのか。 ひたすら国際法を守ろうと律するこちらより、条約違反の常習国を信じるのか。 何より、ここで大陸との太いパイプを得ようと精力的に働きかけているのは、貴方自身ではないか。
 若い彼は、亜細亜の長寿大国に対し、的野外れた幻想を抱いている。
 そして同時に、敵を見誤っている。
 本当の敵は、北の大国からじわじわと広がる、赤い思想の勢力なのだ。その事に、超大国はまだ気付いていないのである。




























 何が起こったのか。その場にいた殆どのトルコ兵達は、今目の前で繰り広げられた一幕に混乱し、理解が追い付いてこなかった。
 最初に侵入者に気が付いたのは、船の縁の傍に立っていた伝令役の兵士だ。 空に上がる不気味な黒煙を眺めながら、果たして火災が如何ほどのものなのか、第二、第三の伝達役の兵士が来るのを、決められた場所にて待機していた。
 繰り返される波の音の狭間、かつりと金属を感じる音を聞いた気がして振り返る。 なんだろうとそちらに歩み寄り、手すりに掛かった小さな鉤に気が付いた。 がちりと手摺を掴んだ小さな鉤には、細いロープが繋がれており、きしり、きしりとそれが、微かな振動を伝えているようだ。
 疑問詞のまま海を覗き込んだ瞬間、突然、下方から目の前へと飛び出したのは、ばさりとはためく黒い影。 兵士は一瞬、鳥かと思った。海面から急上昇した海鳥かと。
 そこで、視界と記憶が途切れる。
 次に気が付いたのは、甲板の上に倒れ込んだ自分の現状だ。何があった。目を瞬かせながら身をよじったと同時、項の下に鈍痛が走る。 どうやらそこに衝撃を与えられ、意識を途切れさせてしまったらしい。 歯を食いしばりながら首根を擦り、伏せた体勢から肘を立て、辺りへ視線を配ったところで惨状に絶句する。
 もうもうと立ち込める煙と、濃厚なそれに視界を遮られる船上。倒れ込み、咳き込み、もんどりを打つ無数の兵士。 昏倒したのは僅かの時間だ。しかしその間に何があったのか。
 手にした槍を杖代わりに立ち上がると、突き刺すような刺激臭に噎せ、口元を抑えて咳き込む。 涙で滲む視界を手の甲で擦りながら足を進めると、目を、鼻を擦りつつ、咳き込みながらも、何やら必死に会話を交わし合う兵士達の一団に気が付いた。
 半円を描いた中心は、船室へ続く扉だ。
 どうやら、侵入者はそこへと身を滑りこませたらしい。その先は、我らが大帝がおわす部屋へと繋がっている。
 扉には、内側から鍵が掛けられた。 なんとか閂を壊したはいいが、しかし扉を開けた途端、中に充満していた煙が噴き出し、直撃した兵士達は涙を流しながら、咳と呼吸困難に転げ回る。 さらに広がる煙に、兵士は慌てて再び扉を閉めた。
 中には我らが大帝スレイマンがおわす。共にいる護衛はオスマンでも選りすぐりの兵士達、それに加えてパシャも、そしてトルコも共にいる。 滅多なことは無いと思うが。しかしこのままでは。だがどうやってこの中に入ると言うのか。オスマン兵が押し問答に立ち尽くす中。
「通して」
 ずい、とやや強引に分け入って来る男に、兵士達は怪訝に振り返る。 簡素な衣服は軍人のものではなく、一見すると、近隣の島民が紛れ込んだのかとさえ思った。 邪魔だ、下がっていろ。しかしそれらの言葉は、彼を振り返った瞬間、咽喉の奥へと押し留められる。
「あ、貴方は」
「大丈夫……直ぐ、煙はひく、から」
 最初の刺激臭が無くなれば、後は目くらましの煙だから。そう、言ってた。扉を背にして抑え込む兵士を、やや強引に押し退ける。
「俺が、行く」
 だから、内側から開かれるまで、決して扉には触れちゃ、駄目。






 しまった。
 懐に入り込んできた小柄な影に、トルコは咄嗟に胸の内で叫ぶ。 声に出なかったのは、的確な角度と位置から受けた鳩尾への体当たりに瞬間、呼吸が完全に止まったからだ。
 かは、と咽喉の奥で喘ぐと同時、足を掛け払われ、船トランクの上に無様にのけぞるように仰向けに倒れる。 がつんと受ける後頭部へのショック。目の前に光が走る。ぐうと顔を顰めると、耳の横に、だん、と小柄に見える身体が、強く足場を踏みしめた。
 真上から見据える漆黒の眼差し。その奥に秘められる感情の消えた殺気を、トルコは正確に読み取った。
「動かないで下さい」
 凛と響く声は、しかし細い。そして高い。しなやかに花開く、その一歩手前の。
 眩む瞼を瞬かせながら、改めて自分を伏す相手を見遣る。丸みのある顔立ち。 剣を構える成長しきってい無いような細腕に、どうしてこれだけの力が秘められているのかと疑問を浮かべざるを得ない。
 しかし現実は、この様だ。
 腰の据えた構えに隙は無い。細身の剣は、真正面から正確にこちらの喉仏を狙っていた。 さらりと流れる髪は、どう見ても欧州ものでは無い。 それに違和感を感じた。異教徒嫌いのこいつらが、異民族を飼っている話など聞いた事が無かったが。
 絶体絶命の状況下。トルコは隙を探りつつ、強かに笑いを浮かべる。
「こんな事をして、只で済むと思ってるのかい、お譲ちゃ――」
 ひくりと腕を動かしたと同時に、仮面の上、目尻の辺りにとんと何かが当たった感触があった。 何だ? それを認識するよりも早く、軽く窄めた彼女の唇に気がつく。
「次は目を狙います」
 唇の隙間からちかりと垣間見えるのは、極小さな針だった。


「ひとつ、騎士団所有物の島外持ち出しの権利」
「ひとつ、騎士団撤退に三日の猶予」
「ひとつ、猶予期間中における一マイル以上のトルコ軍の戦線後退」
「ひとつ、ロードス島民における宗教の自由の保持」


「以上を了承するならば、我らは敗北を認め、二度とこの地に足は踏み入れません」
 陰影を作る彼女のかんばせを見上げながら、トルコは慎重に息を飲んだ。
「てめえ……何者だ」
「ドイツ騎士団総長の名代として参りました」
 名代? こんな、少女が? 思わず片眉を吊り上げる。
「正式な和解と騎士団撤退の契約書も携えております」
 刀の鞘の内側に仕込んでおります。偽物ではありません。ドイツ騎士団総長の著名と、神聖ローマ帝国からの仲介の書簡もあります。
「それを受け入れ、見逃せって訳かい?」
「虫が良い事は承知」
 向けられる瞳に迷いも動揺も見られない。大した肝の座りようだ。 何処までも凛と己が矜持を保つ少女に、トルコは面白い、とにやりと笑う。
「おいおい、今更それが出来ると思うのか?」
 突然、我らが皇帝の御前に乱入し、これだけの無礼を働いた敵将相手に。 散々引っ掻き回された挙句、そっちの言い分を全て無条件に飲み込んで、そのまま大人しく見送れとでも言うのかい。
「オスマンは、名誉と義を重んじる文明大国であると認識しております」
 法を尊び、約束を違わず、義理堅く、そして勝者としての寛大と敗者への慈悲を備え持つ高潔の士であると。 寛大なる処置は、間違いなく歴史に刻まれるでしょう。今ここで選ぶ決断こそが、名誉あるスルタン・スレイマンの今後の在り方を決定づけます。 呪いと怨恨の連鎖を紡ぐのか、類まれなる賢君を掲げるのか。選ぶのは貴方です。
「随分、都合の良いことを言うじゃねえか」
 そいつはあくまでも、あんたらにとっての好条件でしかない。 御大層な屁理屈ばっかり並べやがって、実質てめえらを見逃がせと迫られているだけじゃねえか。
「で、俺達が手に入れるものはなんだ」
「最小限の損害と、ロードス島の所有権」
「それは当然の権利だ」
 軍の被害は既に受けている。ロードス島の所有権も、自らで手に入れることが出来る。その上で、お前さんの要求を受け入れるだけの利点は?
「何事にも、対価は必要なんだよ」
 へっとせせら笑うトルコに、菊は瞬きを一つ。

「要求は?」
「あんたが欲しい」

 表情を変えぬまま、あくまでも静かな眼差しで真意を探る。突飛な要求にも理知を失わない。そんな彼女にトルコはにいっと笑う。この肝の座りっぷり、たまんねえ。
「良い女だ、本気であんたが欲しくなっちまった」
 奴隷か、人質か、捕虜か、勝者のトロフィーか。どうやら己は、その価値があると認められたらしい。 ドイツ騎士団の存続の対価が一人の女兵士とは、随分と買われたものだ。
「私が隷属すれば、先程の要求を了承頂けますか」
「だめだ、キクっ」
 声を上げるドイツ騎士団を余所に。
「約束するぜい」
「本当ですね」
「俺はあんた信じる。あんたは俺を信じろ」
 見くびっちゃ困る。この俺が、オスマントルコが、ちゃちな小細工なんかするわけねえ。
「ふざけんな、てめえっ」
 いきり立つドイツ騎士団に。
「うるせえ糞餓鬼。今は大事な大人の話をしているんでい」
「ガキじゃねえっ」
「引きなさい、ドイツ騎士団」
 今は何をなすべきか、何を優先すべきか、聡い貴方が判らぬ筈がありません。背中越しの厳しい声に、ぐっと言葉を噛締める。
「俺は、約束は守る」
 俺の信じる神の名において。決してあんたの悪いようにはしない。さっきの要求を踏まえた上で、出来うる限りドイツ騎士団に便宜を図る。 勿論あんたに対しても、最大限の敬意を払うことを誓う。
 迷う条件ではない。迎えるように差し出された手に、既に敵意は見当たらない。たかが女兵士一人で騎士団の存続が保証されるのだ。ならば、もう決まっている。
 菊は剣を下ろした。
 明確な意思を示すように、かちゃりと刀を床へと落とす。その音にドイツ騎士団は目を見開き、トルコは満足そうに笑った。 懐へ受け入れるように、指の太いがっしりとした手を差し出す。
 細い指が、その肉厚な手へと伸ばされ――。

「駄目……キクに触るな」

 トルコと菊の間に遮るように割り込んだきたのは、しなやかな巾広の剣先だ。気配を感じさせないその登場に、菊は顔を上げ、そして目を瞠る。
「ギリシャさんっ」
 うん、こくりと頷くと、中途半端に伸ばされたままの菊の手を取り、しっかりと握り締めた。
 良かった、間に合った。そのまま優しい仕草で、庇うようにぽかんとしたままの菊を背後に押しやる。 開かれたままの扉の前には、ロードス島へ向かう筈だった少年騎士兵も立っていた。
「ギリシャ……てめえ」
 トルコが鼻に皺を寄せて歯噛みした。
 こんな所に、今頃のこのこ現れやがって。突然姿を消したてめえを探すのに、どれだけオスマンで騒動になっているか、解っているのか。 全てを放り投げ、逃げ出し、舐め腐った面で、よくも俺の前に姿を現せたもんだ。
 怒りと苛立ちを露わに睨むトルコを、静かな眼差しでギリシャは受け止める。
「キクは、お前には渡さない」
 とん、と軽く菊の肩を押しやる。自然、数歩下がると、そこにいたドイツ騎士団が己の背後へと引き寄せた。 それを目の端に、ふっとギリシャは目を細め、改めてきりりとトルコを見据える。
「どけ」
 地を這うように低い声には、本気の怒りが宿っていた。だが、ギリシャはひるまない。いやだ。
「自分が何をしているのか、判っているんだろうな」
 これはオスマン対騎士団の戦争だ。てめえには関係ねえ。それを解った上で、お前は割り込み、俺と対立を深めるのか。
「俺が戻る、から」
 仮面の奥の瞳が見張られた。
「俺が、オスマンに戻る。だからキクは、騎士団に返して」
 抵抗はしない。お前の言う通りにするから。だから彼女には手を出さないで。
 無名の一少女と、ギリシャ。オスマンにとって、どちらが有益な存在か。それが分からない訳はなかろう。
 絶句したまま瞬きを繰り返す菊に。
「キクは……俺を助けてくれた、から」
 だからこれは、その御礼。
「今度は、俺が……キクを、助ける番」
 ギリシャは肩越しに振り返り、にこりと笑った。




 ロードス島、開城。
 ロードス島を巡るイスラムとキリストの戦いが、この瞬間、収束を迎えた。









大陸の反○政策は、現在に限らず
実は結構昔から行われていた模様
2015.05.14







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