フロイライン彩時記
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 発見されたのは、街から少し離れた廃墟の村であったという。 無人である筈であるそこに、どうも人の気配がする……そんな近隣住民の噂を聞き、 念の為にと近くに駐屯していた軍が調査をしたのだ。
「見つけたときは、浮浪児のようだったそうです」
 身につける衣服はぼろぼろで、肌は人種の判別が出来ぬ程に汚れて黒ずみ、 殆どまともな食物を口にしていなかったのであろう、随分とやせ細っていたらしい。 現地の戦災孤児かと思いきや、明らかにモンゴル系ではない髪と顔立ちと特殊な瞳の色に驚き、調べたところ、あっさりと身元が判明した。
 幸いにも、たまたま部隊にいた責任者の一人が、こちらの事情を知っていた。 機転を利かせて帰国予定の部隊に連絡を取り、信頼できる部下に介添えを託すと、日本へ向かう戦艦に特例のゲストとして乗船させる。 でなければ、最も当然且つ妥当な処置として、ドイツ領事館へと引き渡していたであろう。
「そうですか」
 何はともあれ、彼女だけでも無事で良かった。ご協力、痛み入ります。
「保護の際も、随分と抵抗したようでして」
 痩せて衰弱しているのに、それでもぎらぎらと目を光らせて。 逃げ回る弱った体を捕まえたと思ったら、その兵士の腰からサーベルを引き抜き、見事な動きでそれを操り、最後まで抵抗をした。 子供とは言えその鮮やかな身のこなしから、まさか抵抗勢力の刺客かスパイか? とさえ疑った程である。
「まるで、手負いの獣のようだったと聞きました」
 こちらとて、正体の判別できない相手に対し、下手な攻撃を加える訳にもいかない。 警戒心を解こうと試みるが、何せこちらの部隊には中国語なら兎も角、ドイツ語を理解する兵士はいなかった。 なんとか保護しようとする兵士に問答無用で飛び掛かるものだから、負傷した者もいた程だ。
「確か、剣術指南を受けていたとの話を、聞いたことがあります」
 お転婆で、負けん気が強くて、女の子らしい遊びには目もくれず、剣や馬ばかりに興味を持って。 やんちゃを通り過ぎて、男児顔負けに暴れるものだから、ほとほと困っているんだ。 額に手を当てて弱り顔で語る恩師を思い出し、小さく笑み零す。しかし、直ぐに憂いに眉根を寄せた。
「……辛い思いをしたのでしょう」
 幼い子供が、異国の見知らぬ土地に取り残されたのだ。 頼るべき自国の軍に父親を連れ去られ、たったひとりぼっちで、自分の身をを守る為に、死ぬ物狂いで戦っていたのだ。 その心情を思うと、胸が締め付けられるような心地になる。
「ドイツ領事館へは、私が話を通します」
 フリードリヒ教授の行方は、引き続き独自調査を続けて下さい。 何か情報があれば、今後とも連絡を。ご面倒をかけますが、是非宜しくお願いします。
「判りました」
 絨毯の敷き詰められた細長い廊下を通り抜け、その奥。どっしりと重圧感のある扉の前で、二人は足を止めた。
「こちらです」
 こくりと頷くと、軽くノックをする。応対の声を耳に、そっとドアノブを回した。





 厳つさと豪華さを兼ね備えた調度品の並ぶ、ゆったりとした広さのある執務室。 正面奥には大きなデスク、その前には来客を迎える為の、品の良いテーブルとソファが並んでいた。
 扉を開けて入室する来訪者に、貫録のある中年の部屋の主人が、おおと目尻に皺を寄せてそのソファから立ち上がった。 久しぶりだな、元気そうだ。はい、そちらもお変わりなく。互いに歩み寄り、旧知の間柄のまま、親しげに笑顔を交わす。
「この度は、誠に有難う御座いました」
 軍の任務とは無関係に関わらず、閣下のお手を煩わせてしまって。 丁寧に頭を下げる姿に、彼は軽く手で制す。いやいや、これは本当に偶然だったんだ。 それより、君が予てより探していた人物が見つかって良かったよ。
 言いながら、ちらと視線で向かい側のソファへと促す。 得たりと頷き、失礼しますと断りを入れると、ソファに回り込んだ。
 膝をつき、僅かに見上げる高さから覗き込むのは、大きなソファに埋もれるように、ちょこんと腰を落とした小さな子供。 人形のように整ったかんばせに反応はない。 筋張った膝の上に乗せた己が手の甲を、じいっと見下ろすだけであった。
 頑ななまでの無関心さに、瞬きを一つ。そっと息をついて、仕切り直すように柔らかな笑みを唇に浮かべた。
「初めまして」
 低い声が流暢に紡いだのは、この国の言葉ではない。 ここから遥か遠い欧州、ドイツの言語であった。
 懐かしい母国の響きに、やや切れ長の目元がひくり、と動く。 ゆるりと向けられるのは、朝と夜を混ぜた独特のグラデーションを湛える、透き通る虹彩。 ああ、話に聞いた通りだ。間違いない。
「フラウ、ユリア・バイルシュミット。君が、ユールヒェン、君……ですね」
 ユールヒェン。父や母が日頃自分に使っていた懐かしい呼称を耳に、僅かに目が丸みを増す。 ガラスのような瞳に浮かんだ感情の色に安心し、中世的な面影を持つ青年は、黒目がちな目を柔らかく弛ませた。 良かった。大丈夫。心はまだ失っていない。
「私は、本田菊と申します」
 初対面ではありますが、私は貴方の事を良く知っております。 こんな形でではありますが、こうしてお会いする事が出来て光栄です。
「貴方の父君には、ドイツ留学の際、とても世話になりました」
 ご存知ないでしょうが、師を通じて、ご家族のお話は良く伺っておりました。 とても美しい奥方様の事も。生まれたばかりの、愛らしい下のお嬢さんの事も。 そして、お転婆だけどとても妹想いな、優しく聡明な姉君でいらっしゃる貴方の事も。
 じいっと言葉の奥を探るような視線を受け止め、笑顔のままこくりと頷いて見せる。 そのまま、驚かせない動きで伸ばされた指先が前髪に触れる直前――少女の肩がびくりと跳ね上がった。
 過剰な反応に、はっと手を引く。しまった。蘇芳色の瞳に浮かぶ張り詰めた警戒心と、その内側に隠された純度の高い恐怖心。 それを読み取ると、失礼しました、菊は外見の繊細さに似合わぬ、意外に関節が太い手を握り締める。
「髪を、切られたのですね」
 少女の荒れて艶を失くした銀の髪は、つんつんと短い。 身に纏う衣服――恐らくは兵士の誰かの古着であろう袖の余ったダボダボのシャツと、ずれないように何とかベルトで留めたハーフパンツだ――と相まって、 成長期を迎える前の体では、まるで細身の男児にしか見えなかった。
「大陸ではぐれた際、自分で切ったようだな」
 女と悟られるよりも、男の姿をしたが危険を凌ぎやすいと判断したのであろう。 まだ幼いが、随分聡い子供のようだ。その頭の回転の良さが尚更に切なく、痛ましげに目を細める。
「これを渡しておこう」
 差し出されたのは、大きな茶封筒。収められていたのは、束になった書類だ。軍病院の診察カルテの写しである。 彼女に関する発見当初の様子から、健康診断の結果、世話係兼相談員が彼女から聞き取った発見までの経緯や、その後の記録等が、細やかに記されていた。
 極端な栄養失調、手足に打撲と軽い裂傷、心的外傷による情緒不安定と恐怖や不安反応の様子。 逃亡期間はおよそ三か月、件の村に移住したのは二か月前から。その間、殆ど枯れかけた井戸水と雨水、木の実や草の根で飢餓を凌いでいたらしい。
 夜盗に遭遇したのは一度きり。 機転を利かせて即座に逃亡し、幸い大事には至らなかったらしいが、その直後に髪を切って男装をするようになる。 頬に張られた絆創膏は、発見時に兵士と揉み合った際、自ら刃物で切り付けた傷だ。 直ぐ様適切な治療を施されたが、しかしこれは一生後が残る傷となるらしい。 幼い少女にそこまでの行動を起こさせた事実から、彼女に降り掛かりそうになった身の危険の形が、否応無しに推測させられた。
 体の弱い母と生まれたばかりの妹と別れ、父親と共に遠く離れた異国である東洋の大陸にやって来た少女。 まだ親の保護を必要とするそんな子供が、戦渦に巻き込まれ、父親とはぐれ、 その父が反政府側の人間と疑われた為に自国軍に頼る事も出来ず、美しかった長い髪を切り、言葉さえ通じない異国の地で、 不安や恐怖と戦いながら、それでもたった一人で生きる為に死に物狂いで逃れ回っていたのだ。
 我が国の同年代の子供に比べるとやや大人じみて見えるものの、それでも未だ親に甘えたい盛りの齢である。 感受性の一番強いこの時期に、恐ろしい体験をした心の傷は、きっと生涯消えることなく、深い部分に痕を残し続けるだろう。
 さっと目を通した書類を丁寧に仕舞い、横のテーブルに乗せる。そして、彼は少女を正面から見つめた。
 棘のように尖らせた瞳の奥には、言いようのない怯えがゆらゆらと見え隠れしている。 活発で、勝気で、負けず嫌いで、自信家で……恩師の口から、幾度もそんな形容詞を聞いていた。 だが今の彼女からは、そんな面影を窺うことが出来ない。 ただ己を守る為にひたすら身構える、そんな悲しい、小さな子ウサギのように見えた。
「もう、大丈夫ですよ」
 膝の上に乗せられた両の手を左手で掬うと、右手で上からしっかりと包み込む。 そして敵意の無い笑顔と訛りの無いドイツ語で、はっきりと告げた。
「貴方は、私が責任を持って、その身をお預かり致します」
 なにも心配する事はありません。 母国から遥か離れた外国の土地故、慣れない環境で戸惑う事もあるかと思います。 でも、私に出来る限りのことはさせて頂きます。 そして必ず、お父上様と共に無事本国へとお帰しすることをお約束しましょう。





「信じて下さい。私が貴方を守ります」





 無表情のままの白磁の顔。しかしその整った唇がきゅっと引き締められたと思った瞬間、ほろりと葡萄染色の瞳から滴が零れた。 流れる涙は透明だ。不思議な瞳の色と同じではないことが、何故か酷く不思議な心地がした。
 一度堰を切った涙は、止めどなく頬を濡らし、それを隠すように俯くと、痩せ細った少女の肩が小刻みに震える。
 はあと息を吐き、そしてしゃくり上げ、上手く息継ぎが出来ないまま、咳き込み、ぐうと押し殺した呼吸が漏れる。 泣きたくないのに。弱い自分を見せたくないのに。手の甲で口元を抑えるが、戦慄く唇が止まらない。
 それを目に、菊は繊細そうな眉根を辛く寄せる。まだ幼い少女なのだ、もっと感情のままに泣けばいい筈なのに。 しかしそれをさせない、彼女の自制の強さが悲しい。
 辛かったですね。その言葉さえひどく薄っぺらく、適切な言葉さえ出てこない自分が情けなく、臍を噛む。 せめてと懐から手巾を取り出し、零れる涙を抑えてやる。その労わるような仕草に、途端作り物めいた少女の顔が、くしゃりと歪んだ。
 止まらない泣きしゃっくりを上げる少女に、判っていますよと頷く。そして、その華奢な痩せた肩を、控えめな力でそっと抱き寄せた。









一年程前に九割方書き上げ、公開にかなり悩んだネタ
葡萄染色は、蘇芳と縹を重ねてた、着物の襲から
2014.08.31







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