フロイライン彩時記
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 停車した自動車の扉が開き、菊は先に降車すると後部座席へ回り込み、ばくんと扉を開く。 そして軽く腰を屈めて、中へと手を差し伸べた。
「お疲れ様です、到着しました」
 乗せやすい位置に差し出された手の平を見ることなく、ユールヒェンはさっさと自分一人で車から降りた。 宙に浮いたままの手を手持無沙汰に引いて、菊は抱えていた荷に添える。 片手で持てる程の小さな風呂敷包みは、ユールヒェンの持ち物だ。 軍に保護された際に与えられた衣類が僅かばかり……それが今の彼女の持つ全てである。
 送迎車は軍のものだ。同様に運転手も軍人らしい。 見るからに文人然とした菊と軍とは接点を感じられないが、しかし運転手に会話を交わす様子は、何処か慣れているようだ。
 菊が身を離すと、車は煙を上げてそのまま走り去った。 暫しそれを見送り、そして改めたように柔らかくユールヒェンに微笑む。すいません、お待たせしました。
「ここが、私の家です」
 目の前の建物を、ユールヒェンは見上げた。
 風格のある木造の門。瓦屋根のついた壁。内側から零れるように茂る樹の枝。 今まで住んでいた大陸のものともまた違う風情に、思わず立ち尽くす。
「どうぞ、中へ」
 大門の横にある小さな勝手口の扉を潜ると、ユールヒェンはその後に続いた。 そして、一歩中へ足を踏み入れると、独特のグラデーションを持つ瞳を瞠った。
 外から見るよりも、中は随分広く感じられた。 石畳になった細い道の周りに敷き詰められた、細かくとも形の揃った小石。 まるで山の中の風景をそのまま縮図にしたような、アシンメトリーな庭。 何処からか聞こえてくる、清涼な水のせせらぎ。 瑞々しさを湛える草木と、柔らかな湿度を感じさせる緑色の苔。
 今まで住んでいた国の隣りに位置するものの、ここは全く別の国だと改めて実感した。 建物の造形は何となく似ているが、しかし雰囲気が全く別物だ。 中国では派手やかで鮮やかな色彩を良く目にしていたが、こちらにはそれが見当たらず、 渋みのある落ち着いたトーンで纏められている。 何より、大陸の風はひたすら乾いていたが、ここの空気はしっとりと緑の湿度を含んでいる。 同じアジアと言えど、こんなに違うのか。不思議な心地で、ユールヒェンは辺りに視線を送った。
 周りに視線を移しながら、先を歩く菊に着いて行く。 まるで人の手を加えられていない山や森に辿り着いたように思うが、しかしそうではないらしい。 これだけの木々が植えられているのに枯れ草一つ見当たらないし、晴天にも関わらず雨が降った後のように足元が濡れている。 人の手が加えられている証拠だ。
「こちらです」
 足元、気を付けて下さいね。そう言いながら、菊が向ける爪先に違和感があった。 大きな門を潜った目の前には、青々と茂る草木の向こう、大きな邸宅が見えている。 あれがこいつの家か、そう思ったが、しかし菊が進むのはややそこから逸れた方向だ。
 歩幅に埋め込まれた石の上を渡ると、竹で出来た背の低い柵が見える。 その一角にある小さな戸を開くと、その奥にはこじんまりとした日本家屋が見えた。
 大きな家の敷地内に、大きな家と小さな家が建っているのか。 不思議な心地で眺めるユールヒェンの前で、菊はからりと玄関の扉を横に開く。
「ただいま帰りました」
 日本語でのそれに、はあいと奥の方から声が聞こえた。 ぱたぱたという忙しない足音。 奥の廊下からひょこりと顔を出したのは、にこやかな笑顔を湛えた歳若い女性だ。
「お帰りやす」
 着物の裾を払いながら正座で迎えるその人に、菊は彼女です、そう後ろに立つユールヒェンを紹介する。 目を細めて笑う彼女は、明るい笑顔で彼女に軽く会釈をし、差し出された菊の荷物を受け取った。
「部屋の用意は」
「もう、できてますわ」
「まずは……そうですね、お風呂に入れて上げて頂けますか」
 体がすっきりすれば、気持ちも落ち着きますからね。 判りました。頷くと、改めてユールヒェンを眺め、何やら楽しそうに菊に告げる。 この国の言葉を、ユールヒェンは理解できない。訝しげに眉を潜めるユールヒェンに、菊はにこりと笑う。
「貴方がとても可愛らしい、と言っていますよ」
 色が白くて、目がぱっちりとしていて、瞳の色が綺麗で、まるでお人形さんのようだと。 ドイツ語に訳しての菊の言葉に、ユールヒェンはつと彼女へと視線を向ける。 感情の乏しいそれに、怯む様子はなく、寧ろにこにこと笑いながら手を振って来た。
「さあさ、どうぞおあがり下さい」
 ああ、あかんあかん。この家では、上がる時には靴は脱ぐんです。ほら、こっちこっち。 風呂場は向こうで、後でお手洗いの場所も教えますよって。
 彼女の言葉は全て日本語ではあるが、しかしその身振り手振りと話し方で、何となくは伝わっているのだろう。 一方通行で話しかける彼女に大人しく従う小さな背中を、菊は微笑ましそうに見送った。




「ここで着てるもん、全部脱ぐねんで」
「えっらい汚れてんなあ。別嬪さんが台無しやで」
「こっち座り。ほら、背中流したるから」
「お嬢、肌が真っ白やん。綺麗やなあ」
「こーらっ、逃げたらあかんって」
「さ、ゆっくり湯に浸かりや。体、ほっとすんで」





 離れの建物から独立した場所にある風呂場から届く、なかなか賑やかな声。 それが聞こえなくなった頃、ぱたぱたとこちらに走り寄る足音が聞こえた。
 開けっ放しの縁側の障子。気配に振り返ると、ああと菊は顔を綻ばせる。
 庭を背にして現れたのは、入浴を終え、濡れた頭に手拭を被せているユールヒェンだ。 慣れない日本の入浴の習慣に戸惑ったのだろう、不貞腐れたように、文句がありそうに、むすっ唇を尖らせて菊をねめつける。 それでも緊張に身を固くしていた先程までに比べると、緊張も緩み、肌の血色も随分良く見えた。
 その姿に、菊は眩しそうに目を細める。
「……良かった、着丈も丁度良いみたいですね」
 とてもお似合いですよ。ドイツ語での言葉に、どうやら着せられた着物のことを言っているのだと気付く。 体に巻きつけるような、袖のひらひらしたこの服は、この国の民族衣装であるらしい。 腰が苦しいけれど、まあ悪くはない。
 視線を落とすユールヒェンの後ろから、ひょいと入浴の介助をしていた彼女が顔を出した。
「軍の人らも、えらい雑な服しか用意したげてへんのですなあ」
 女の子やのに、もっとちゃんとした服着せてあげな。着てたやつかて、仕方あらへんかったとはいえ、ぼろぼろですやん。 もう着いひんやろし、捨ててしもてもええですな。ぽんぽんと軽妙な軽口を続ける彼女に、菊は困ったように笑って頷く。
「でも……ほんまによかったんですか?」
「ええ」
 いつまでもそのまま仕舞っておいても、仕方のないものでしょう。 こうして着てくれる人がいるのなら、着物もきっと喜びますよ。
 穏やかに告げる菊に、それ以上の言葉はない。ほんなら良いんですけど。納得し、一度彼女は姿勢を正して膝をつく。
「ほな、今日はこれで失礼しますわ」
 明日また来ますんで。お食事はいつものように、台所に作って置いておりますさかいに。
「いつも助かります」
「じゃあな、お嬢」
 また明日な。言いながら、ユールヒェンの腕をぽんぽんと叩き、菊に一度頭を下げて彼女は立ち去った。





 気配が離れ、二人きりの部屋には、風の音と静寂が残る。なんとは無しに、彼女の消えた方へと視線を向けていると。
「この離れには、私一人で住んでいます」
 先程の彼女は、昔からこの家をお手伝いしてくれている人でして、近くのお住まいから通って下さっています。 母屋の方も今は主が留守をしているので、実質この広い邸宅には、現在私一人で生活をしております。
「ですから、気兼ねする必要はありませんよ」
 気を使わずに、自分の家だと思って下さい。 家の者が帰りましたら、その都度紹介させて頂きます……まあ、いつ帰って来るかは、全く分からないのですけどね。
 言いながら、菊は傍にあった座布団を進めてきた。どうぞ、促され、彼の前に腰を落とすが、しかしどう座って良いのかわからない。 結局足を前に投げ出して座ると、菊は苦笑しながら書机の上に置いてある小さな文箱を手に取り、ずいと膝を進めた。
「貴方に、これをお見せしたかったのです」
 漆塗りの黒い蓋を開け、中から一枚の紙を取り出す。そして丁寧にユールヒェンへと差し出した。 両手で受け取り視線を落とし、は、とユールヒェンは息を飲む。
 それは、くすんだセピア色の一枚の写真だ。
「これは、私が帰国する際、貴方の御父上が私に下さったものです」
 ソファの上、たおやかに微笑む夫人と、その腕に抱かれる健やかな嬰児。 その後ろには穏やかな笑顔を浮かべた恩師フリードリヒと、そしてそっと肩を抱き寄せるのは、腰まで長い髪を伸ばしたドレス姿のユールヒェンだ。
「教授は、貴方や、夫人や、貴方の妹君の事を、とても大切に思っていらっしゃいました」
 優しく、時に厳しい恩師は、良く写真を手にして、愛する家族の話を聞かせてくれていた。 一人一人を指差しながら丁寧に、蕩けるような笑顔になったり、困ったように顔を顰めたり、嬉しそうに目尻を下げたり……そんな様子から、 どれだけ彼が家族に対して深い愛情を注いでいるのかが、良く伝わってきた。
「教授は、とても立派な方です」
 崇高で、卓越した見識を持ち、誠実で、家族は勿論、国の事も愛する、素晴らしい学問者です。私は今も変わらず、師を尊敬しております。 政府軍の誤った情報で、今は政治犯として追われて行方知れずではありますが、私にはとても彼が犯罪者であるとは思えません。 だからこそ彼の身を案じ、軍の知人に情報提供をお願いし、ずっと足取りを探しておりました。
「この写真は、貴方に差し上げます」
 私にとっても大切なものなのですが、でも貴方がお持ちになっている方がきっと良いでしょう。
 ユールヒェンはくるりと丸くした目で、手元の写真と菊を見比べる。構いませんよ、大切に持っていてください。
 大陸で住む家を追われ、身一つで日本へ渡って来たユールヒェンには、自分のものと言えるものは何一つ持っていない。 せめて、これが彼女の所有品となり、そして心慰めることが出来るのなら。
 写真立て、丁度良いのがあったように思うのですが。ちょっと待ってて下さいね、立ち上がり、菊は部屋を出た。
 遠ざかる足音を耳に、じいっとユールヒェンは手にある写真を眺める。 先細りの指先で、まだ産毛のままの妹の頭、すっきりとした母の頬、腰に手を当てる父の肩、それらをそっと優しい手つきで撫でた。
 そして、微かに唇を震わせて泣き笑うと、ぎゅっとその写真を胸に抱いた。








一話ごとに性別をシャッフルさせる
実験的設定で書き進めるお話の予定でした
2014.09.02







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