フロイライン彩時記
<3>





 はっと、唐突に目が覚めた。
 頭まですっぽりかぶった、柔らかく清潔な布団の中。 覚め切らない目を無理矢理瞬きさせると、気配を消してそろりと身じろぎ、うつ伏せる。 そのままの姿勢でまんじりともせず全身で周囲を窺い、危険な気配がないと悟ると、漸くふうと体の力を抜いた。
 大丈夫。ここは安全だ。危険はない。これはさっきまで見ていた夢の続きではない。 胸の内で何度も自分に言い聞かせ、ぎゅうっと目を瞑り、そしてそおっと目を開くと、漸くユールヒェンはゆっくりと、慎重に布団の中から頭を出した。
 清掃の行き届いた室内は、障子越しの朝日に照らされ、穏やかに明るい。独特の香りを放つ、柔らかい畳と呼ばれる絨毯。 清潔な布団とシーツ。枕元には、初日この家の主に手渡された、愛すべき家族の写真が収められたフォトスタンド。
 それらをゆるりと見回し、音も無く立ち上がる。そして紙と木で出来た、あまりにも警戒心の薄い引き戸を引いた。
 広がる景色に、ユールヒェンは色素の薄い瞳を細める。
 降り注ぐ木漏れ日。何処からか聞こえる水の音。心地よい風が、さわさわと木の葉を揺らし、やわりと湿った土の匂いを運んでくる。 見上げる空にはぽかりとした雲。何処からか届く小鳥の声に、ユールヒェンは肩を上下させ、深呼吸をした。
 この庭は不思議だ。何処までも自然に近いのに、しかし雨に洗い流されたような、清潔な空気で満たされている。 そして、壁一つ向こうは住宅の並ぶ街があるにも拘らず、まるで里を離れた穏やかな森にいるような錯覚があった。
 ぼんやりと庭を眺めていると、とたとたと近付く足音に、顔を上げた。
 板張りの縁側の向こうから小さな尻尾を振りつつやって来るのは、ふわふわと綿菓子のような毛並みをした子犬だ。 この家の主人からは、ぽち、と紹介された。
 愛嬌のある、何処か困ったような顔。賢そうな黒い瞳。忙しなく、ぱたぱたと揺れる尻尾。 それを見下ろしつつユールヒェンが腰を落としてしゃがむと、ぽちも前足を揃えてお行儀良く座る。
 見上げ、窺うように首を傾げるような仕草は、何処となく飼い主と似たものを思わせた。 大人しく、人の良さそうな困り顔に、ユールヒェンは目を細めて唇を吊り上げる。
 そして、その自分好みの撫で心地を持つ白い毛並みを、わしわしと撫で回した。





 ささやかな気配に、襷掛けの菊は振り返る。
 台所の引き戸が開いたままの入り口、音も無く現れ、引き戸に半分隠れた場所から向けられるのは、不思議なグラデーションを持つ視線。 じいっと観察するような、野生動物を連想させるような様子に、にこりと笑って軽く頭を下げた。
「お早うございます、ユールヒェン君」
 ドイツ語での挨拶。しかし返される言葉は無い。代わりに、空気を読んだ愛犬が、彼女の足元でふんふんと鼻を鳴らす。
「そろそろ起こしに行こうかと思っていた所でした」
 しかしその前に、どうやらぽちが彼女を呼びに行ったらしい。彼女がこの家に来てから、毎朝の事だ。
 最初の朝、まだ子供だとはいえ、果たして女性の寝室に未だ警戒心を解かれていない自分が足を運んでも良いものか……そう悩む飼い主の意を察した利口な愛犬は、 それがまるで自分の務めでもあるかのように、朝食の頃合いを見計らい、きちんと彼女を起こしに行く。 彼女もそれを理解しているのか、ぽちに連れられて、大人しくこうして姿を見せていた。
 ばささ、すぐ背中を横切った羽音に、ユールヒェンはびくりと体を震わせて振り返る。 縁側の庇の脇を横切るシルエット。黒い影が一直線にあちらの木へ向かうと、同時に甲高い雛鳥たちの鳴き声が上がった。
「雛鳥も、朝ご飯みたいですね」
 ぴいぴいと可愛らしい姦しさに、菊は目元を弓形にしならせた。
 この庭に新しく生まれた住民は、親鳥が離れると途端に静まり、しかし次の影がやって来ると、再び賑やかに声を上げる。 茂る枝葉の隙間から、ちらりと垣間見えるのは金糸雀色の羽毛。微笑ましい生命の営みにユールヒェンは瞬きし、そしてやわりと口元を綻ばせた。 その微かな笑みに、菊は柔らかく目を細める。
 はっと振り返り、一瞬気まずそうに視線を落とすユールヒェンににこにことしたまま小首を傾けた。
「私達も朝ご飯を頂きましょうか」





 隣室にある卓袱台に食事を並べ、二人で向かい合わせに座る。 正座で両手を合わせ、頂きますとひと声。箸を取る菊を一瞥すると、胡坐をかいたユールヒェンは自分の前に置かれた銀のフォークを手に取った。
 この家には椅子やテーブルは無かった。この卓袱台でさえ、彼女が来てから新たに調達したものだ。
 最初の日は普段使用している膳に並べた食事を出したが、その一人分のみの小さなテーブルは、ユールヒェンには慣れないものであったらしい。 それを読み取り、翌日にはこの小さな丸い卓袱台、 箸の代わりに銀製のフォークとスプーン、正座が出来ない腰の下には厚みのあるクッションがそれぞれ用意された。
 ドイツのテーブルマナーとは違うものの、箸の使用、器を手に持つ、スープの器に直接口を付けて啜る等、大陸との共通点が多いらしい。 目の前の菊を眺めつつ、ユールヒェンは不器用ながらもフォークで素朴な味の料理を口にした。
 時折聞こえる鳥の声を耳に、二人の食事は随分と静かだ。
 さもありなん、ここには二人しかいない。この離れは表通りから離れているし、菊自身、どちらかと言えば口数が少ない方だ。 何より、菊は未だ、ユールヒェンの声を聞いていなかった。
 軍医の話では耳や咽喉に疾患は見当たらず、精神的なショックで口がきけなくなったと言う訳でも無いらしい。 つまり、彼女は自分の意志で、口を利きたくないという事なのだ。心の内で、菊はひっそりと溜息をつく。
 当然だろう、彼女にとって大陸での出来事は強烈な恐怖であり、刻み付けられた心の傷はそう簡単には拭えない。 彼女にとって亜細亜、および亜細亜人は、脅威と警戒の対象になっているだろう。
 ただ幸いなのは、彼女はこちらに対して反発心や、嫌悪感らしきものを持っているわけではないらしい。 ひたすら強い警戒心と、どう接するべき相手なのかを見定める、野生動物にも似た本能だけが見受けられた。
 ならば、要は切っ掛けだろう。
 焦ることは無い。お互いの人間関係は、時間をかけて育むしかない。 彼女はまだ幼い子供だ、偏屈な大人と違い、しなやかな柔軟性と貪欲な学習能力を持っている。 どれ程時間がかかるかは判らないが、それでもきっと、こちらに敵意が無いことを悟る日が来るであろう。
 突然――甲高い鳥の声がつんざいた。
 菊とユールヒェンは同時に顔を上げる。 ばさばさとした忙しない羽音と続く囀りは、ここ数日の微笑ましさが滲むものではなく、狂ったように切羽詰まったものだ。 何かあったのか。嫌な予感に眉を潜める菊の前、かたんと手にした器を卓袱台に置くと、ユールヒェンは立ち上がった。
 縁側に出て、沓脱石に置いていた菊の草履を突っ掛けると、そのまままっすぐに鳴き声の方へと駆け出す。 その間にも、尋常ではない囀りと羽音は止まらない。
 鳥の巣は、庭の奥まった場所にある、樫の木に巣を作っている。 卵が孵ったばかりであろう親鳥を慮り、菊もユールヒェンも、そしてぽちも、そちらには意識的に近付かないようにしていた。 少々高い場所にあるこんもりとした鳥の巣からは、ここ数日、微笑ましくも賑やかな小鳥の合唱が零れていたのだが。
 しかし、今それを目の当たりに、ユールヒェンは息を飲んだ。
 ぴいぴいと幼くも心細い鳴き声は、頭上からではなく、樹の根元から。 細かな羽毛を四方に撒き散らしながら、淡い金糸雀色の雛鳥が、必死に羽をばたつかせていた。 その上では親鳥が二羽、ぐるぐると旋回している。 描く円の中心でばさりと黒々とした翼を広げるのは、親鳥の優に三倍はあるであろう、大きなカラスであった。
 悪魔を象徴するような、耳障りな鳴き声をひとつ。 まとわりつく親鳥を蹴散らし、大きく急降下するその先が雛鳥だと気が付いた時、ユールヒェンは戸惑わなかった。


「ユールヒェン君っ」


 転がるように駆け寄ると、膝をついて雛鳥をすくい上げ、包むように胸に抱き込む。 目標を失ったカラスは、なんとか寸で急停止したものの、蹲る少女の頭上で非難するようにばさばさと威嚇した。
 賢いカラスは、邪魔者を理解している。 耳元でかあかあとがなり立てる声を振り切ろうと、ユールヒェンは片手で雛を守り、片手を闇雲に振り回した。
「ぽち君っ」
 得たりと忠犬は走る。 そして、カラスとユールヒェンの間に素早く割入ると、小さな体に似合わない低い唸り声を上げた。 勇ましくも果敢に飛び掛かる爪と牙。 見かけに寄らない忠実な警衛を避けようと空中へ逃げる隙に、菊は小柄な少女を抱き寄せて庇う。
 哮りと共に猛攻され、ばさばさと黒い羽根をまき散らしながら、カラスはなんとか空高く上がる。 それを待ち構えていたのは親鳥だ。間髪入れずに二対の嘴で攻撃され、真下からは激しく吠え立てられ、観念したようにカラスは翼を翻した。
 遠ざかるぽちの咆哮と、憔悴したような羽音。見えなくなるまでそれを見送り、そして漸くほうと菊は肩の力を抜いた。
「……もう、大丈夫でしょうか」
 ぽち君は偉い子ですから、きっともう寄って来ないところまで、追い払ってくれるでしょう。 菊はそっと腕に囲うユールヒェンを見下ろす。
「怪我はしていませんか」
 返事はない。ただ、そっと両の手で受けていた雛鳥を見下ろしている。ぴいぴいと元気の良い囀りから、こちらも無事であるらしい。 彼女を親と勘違いしているのか、ぱかぱかと大きく口を開く様に、思わず笑み零れた。
「今の内に、巣に返してあげましょうか」
 親鳥が帰って来る前の方が良いでしょう。土間に脚立がありましたっけ。梯子を出した方が良いでしょうか。 よっこらしょ、と些か年寄りくさい掛け声で菊が腰を上げるより早く、ひょいとユールヒェンが立ち上がった。
 雛鳥を胸に抱き寄せたまま、巣を見上げ、そのしっかりとした木の幹を撫でると、ごつごつした表面に足を掛けた。 雛を抱かない方の手を伸ばし、樹の引っ掛かりを探りながら背伸びする様に、ぎょっとした。
「こら、駄目です。ユールヒェン君っ」
 その細い腕を引き、肩を支えて木の幹から引き剥がす。むっとするユールヒェンに、やや険しい目で眉を潜め。
「女の子が木登りなんてしてはいけません」
 なんて危ない。片手で木登りする気ですか。落ちて怪我でもしたらどうします。 それに貴方、今は着物を着ているんですよ。女の子がはしたない。
「貸してください」
 掬い取るように、菊はユールヒェンの手から小鳥を攫う。有無を言わせない、だが決して小さな命を傷つけたりはしない、優しい手付きだ。
 ぴよぴよと鳴き声を上げる小鳥を、そのままだらりと垂れた着物の袖の内に丁寧に収めると、草履を脱ぎ、よっと樫の木に手をかける。
 巣のある枝は意外に高い。己の背丈の二倍ほどの場所にあるそこに、慎重に足場を確保しながら、菊はじりじりと、しかし確実に迫ってゆく。 はらはらとその様子を見上げていたが、漸く目的の枝へと手がかかると、ほっとユールヒェンに笑顔が零れた。
 よいしょと枝へと乗り上げ、やや不安定ながらも身を乗り出し、ここからなら手が届きそうですね……菊は袖に収めていた小鳥を取り出した。 金糸雀色の雛鳥は、ぽわぽわした羽毛を毛羽立たせ、ぴいぴいと甲高い声を上げる。
 巣には、兄弟雛が三匹残っていた。近付く菊に、警戒心を知らない雛鳥は、元気な囀りと共に、こちらもぱかりと大きく口を開く。 その無防備な顔を真正面に、菊はくすりと笑うと、雛鳥を乗せた手をそおっと、驚かせないように巣の方へと伸ばした。
 それを許さないのは、戻って来た親鳥だ。
 凶暴なカラスを必死に追い払い、そして巣に近づく新たな不審者に、攻撃的な鳴き声を上げて急降下した。
「わっ」
 子育てに逆立つ警戒心は、巣に迫るもの全てに敵意があると見なす。 ぴいぴいと翼をはためかせながら嘴で攻撃してくる親鳥達に、先ずは雛を巣に返さなくてはと、菊は枝にしがみ付きながらも腕を伸ばす。
 大切な我が子を鷲掴まれた目の前の事実に、興奮に荒ぶる親鳥は容赦などしない。 小さな爪が鋭くも確実に肩を、腕を、頭を掠める痛みに、声を出して余計に怯えさせる訳にもいかず、菊は顔を顰めて息を詰めた。


「違うっ。やめろっ。こいつは悪い奴じゃない」
「こいつは、お前らを助けようとしているんだっ」
「こいつは絶対、お前らを傷つけたりしないっ」


 初めて耳にする、響きのあるドイツ語。思わず菊は振り返った、その途端。
「うわっ」
 ずるりと滑る足元に声が上がる。がりり、と爪が嫌な音を立て、反射的に指の力が抜けた。いけない。
「菊っ」
 どさりと腰から身を打ち付けたものの、木の根や彼女の上に落ちなかったのは僥倖だ。 いたたと打ち身を擦りながら体を起こす菊に、ユールヒェンは膝を突いて手を伸ばす。
「大丈夫かっ」
「ええ。雛鳥は……」
 顔を上げるが、この位置からは良く見えない。 しかしそのひと際大きな囀りや、巣に戻る親鳥の様子から、どうやら無事、兄弟たちの元へと返せたようだ。 ほっと菊は口元を綻ばせる。良かった。
 そして改めて、ユールヒェンへと視線を向けた。じいっと向けられるその視線に、ユールヒェンは不思議そうに瞬く。ふふっと菊は笑う。
「とても素敵な声をしていらっしゃいますね」
 何の事だろうと眉を潜めるが。
「貴方の声、初めて聞きました」
 はっと目を瞠り、そして気まずく視線をゆらゆら彷徨わせる。彼女としても、咄嗟の事だったのだろう。 にこにこと酷く嬉しそうな菊に、どう返していいのか解らず、気恥ずかしさを不機嫌な顔で覆い隠した。
 その頭上、ぴいと甲高い雛鳥の声が響いた。
 見上げると、先程の産毛の雛鳥が、巣から身を乗り出した。 そのまま巣から飛び立つと――否、寧ろ、巣から落ちると――必死の面持ちで未発達な翼をばたばたさせ、 飛ぶと言うよりは重力に精一杯抵抗する程度の浮力で、ゆっくりと落下してくる。
 着地を果たしたのは、短い銀の髪の上。
 ユールヒェンの頭上に身を落ち着けると、そのまま実に誇らしげに、ぴちぴちと賑やかに囀った。
 力の抜けそうな可愛らしい声。きょとんとしたまま菊とユールヒェンはお互いを見つめ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。 そして数拍の間を置くと、どちらからともなく、むずむずと笑いが込み上げ、殆ど同時に耐えきれずに吹き出した。
 お前、変な顔。貴方だってそうでしたよ。お腹を抑えながら、咳き込みながら、堪え切れない笑いに体の震えが止まらない。 揺れる頭に堪え切れず、頭上からぴょんと肩へと移動する雛鳥に、またしても笑いがぶり返してしまう。
「この子は、ちゃんと分かってくれたみたいですね」
 涙目になりながら、はあはあと呼吸を整えて。
「ああ、羽根が付いていますよ」
 失礼しますね。ゆるりと手を伸ばし、菊はユールヒェンの髪に絡まった、ふわふわの羽毛を払う。 そうだ。彼の手はいつだって、こちらを驚かせないよう、そっと、何処か遠慮がちに伸ばされていた。
「お前だって」
 同じようにユールヒェンも手を伸ばし、菊の髪に幾つも付いていた小さな羽を、ひとつ、そしてもうひとつ摘まんだ。
 いつまでもくすくすと笑いが収まらないまま座り込む二人に、戻って来たぽちが、不思議そうにくうんと鼻を鳴らせた。









切っ掛けがあれば、あとは
2015.05.17







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