ツインとダブルの方程式
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朝は戦争、とはよく言ったものである。


「こーら、食べ物で遊ぶんじゃねえ」
「ご馳走さまするか? んじゃ手ぇ洗うぞ」
「ほら、今日は寒いから、もう一枚上着を着ろ」
「帽子は何処だ? さっき被せてなかったか」
「そのおもちゃは離せって言っただろ」
「だーかーら、絵本も置いてけ」


うわ、もうこんな時間じゃねえか。
壁の時計を見て、慌てて干した洗濯物をベランダのポールに引っかけた。 スーツのジャケットに手を通し、ハンドバッグを手にとって……あれ、昨日持って帰って来た書類は入れたよな。 しまった、保育園の連絡帳をテーブルの上に置きっぱなしだった。 テレビが流す天気予報の降水確率五十パーセントに、何だよ、それってどっちだよ、 慌ててベランダの洗濯物を風呂場に移動させる。 そうだ、先週買った新色ルージュ、今日こそ使うつもりだったけど、ああもういいや。 てか、目に付かなかったけど、あれって何処に置いていたっけ。


「いくぞー、ゆーるひぇーん」


玄関先に腰を落としぱたぱたと足を動かすギルベルトに、 マジックテープの付いたスニーカーを履かせてやる。 お気に入りの紺色の靴の履き心地に、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねる横、靴箱からパンプスを取り出す。
右と左の肩にそれぞれの鞄を引っかけて、ガスはチェックしたし、電気とテレビは消したし、窓は閉めたし。 これでもう、忘れ物はもうないな。
「よし、じゃあ行くか」
「やー」
行ってきまーす。
誰に伝える訳でなく声を重ねてそう告げると、扉を開けて二人は玄関を出た。





「さくらだっ」
「ぎるべるとくん」
殆ど同じタイミングで開いた隣の玄関扉。きゃあと声を上げる子供の頭上で、菊はぺこりと頭を下げる。
「おはようございます」
「よお、おはよう」
今日はちょっと冷えますね。曇っているからな。雨降るでしょうか。さあ、持ちそうな気もするけどな。
扉の鍵を掛けている間に、桜とギルベルトは、既にとっとと向こうまで駆け出していた。 おせーぞー。エスカレーターの前、ぶんぶんと手を振るギルベルトに、ユールヒェンは軽く手を上げる。
「朝から元気だよなー、あいつ」
呆れるユールヒェンに、くすくす笑いながら、よいしょと菊は足元に置いていたトートバッグを肩にかけた。 軽さと要領を重視したそれには、ユールヒェンのナイロントート同様、 通園に必要なあれこれが詰まっているのだ。
このマンションを選んだ理由の一つが、駅と保育園の距離であった。
敷地を出て徒歩五分程の場所にある保育園は、子供を持つビジネスマンにはかなり魅力的である。 横断歩道を渡り、自動車禁止の遊歩道を通ると、黄色い壁の保育園は直ぐそこだ。 この便利な立地条件は、非常に有り難い。
「おはようございまーす」
「お早うございます」
保育園内に入ると、早速張り切って教室内を走り回る子供達を横目に、親はそれぞれの作業をする。
入り口にある出席表に今日の入園時間の記入、 持参したおむつと着替え一式を指定の引き出しに収め、 連絡ノートを壁のウォールポケットに差し込み、 洗濯した名前入りのタオルをハンガーに掛けて、 それらを入れていたトートバッグをフックに引っかけ、 走り回る子供を追いかけて脱がせた上着と帽子をボックスの籠に入れ、 同じ様に送りに来た保護者にも挨拶を交わし、 担当の先生に一言二言気になっていた相談をして、 そして時々同じ園の子供にちょっかいを掛けられて。
「菊、もう行けるか?」
「はい、では今日もよろしくお願いします」
いってらっしゃーい。
元気良く手を振るギルベルトと桜と担任の保育士に見送られ、二人は駅へと向かうのだ。





保育園から駅までは、歩いておよそ八分かかる。
駅まで続く最短ルート、足音を立てて歩きながら、ユールヒェンは手首のグラスヒュッテに視線を落とした。 大丈夫、これならいつもと同じ電車に乗れそうだ。
出勤時間のタイミングが合うらしく、 本田家とバイルシュミット家が朝の玄関先で鉢合わせになるのは、既に日常茶飯事。 自然一緒に園へと送ると、その流れのまま、共に駅へと向かう。
なあ、今度の参観日、休み取れそうか。一応申請はしました、多分行けそうです。 最近あいつ、園の子と、おもちゃの取り合いをするみたいでさ。 連絡帳にも書かれていましたが、どうも給食をあまり食べないみたいで。 そう言えば、市から連絡は来ませんでしたか? ああ、予防接種だろ。 二種類あるみたいですが、あれはやっぱり日を開けた方が良いんでしょうかね。 どうなんだろう、念の為に保健所に問い合わせてみようか。 受付してくれる場所って、どのあたりか御存知ですか。
何せ、同じ時期に、同じマンションに引っ越しして来て、 同じ年頃の子どもを持ち、同じ保育園に通わせて、同じシングルで一人っ子だ。 そんな共通項から、駅までの会話は尽きない。徒歩八分の距離など、あっという間だ。
改札を通り抜け、エスカレーターを上がって、駅のホームに辿り着き、思わずふうと溜息をついた。
「お互い、朝は大変だよな」
「そうですね」
「まあ、園に行くのを嫌がらないのが救いかもな」
これで朝に愚図る子供だったら、更に大変だろうな。 桜は起きるのは早いのですが、何分動作がのんびりしてて。 ギルベルトなんて、御飯を食べたら、早速おもちゃを出すんだぜ。
軽快なリズムが流れ、ユールヒェンは顔を上げる。ああ、電車が来たか。 各駅停車の駅ではあるが、ラッシュタイムの本数はかなり多い。 がたんがたんとホームに入る電車に、最近のギルベルトは乗り物の絵本を良く見ているなと思い出す。
「じゃ、そっちも頑張れよ」
「はい、いってらっしゃい」
軽く手を上げて、乗車列の後ろに続く。 今日も込み合う電車に足を掛けたところで、別のリズムと共にアナウンスが流れた。 どうやら反対側ホームの電車も到着するらしい。 ちらりと振り返ると、あちらの列の最後尾に並ぶ、やや線の細い菊の後ろ姿が見えた。
同じホームの右と左。ユールヒェンは上り線、菊は下り線へと、それぞれの電車に乗り込んで。
ドアが閉まります。ピイとつんざく笛の音と共に、ぱたんと閉められる扉。 分厚いガラス越しにあちらを見ると、電車に乗り込んだ菊が軽くこちらに手を振った。











「どうもー、迎えに来ましたー」
夕方のいつもの時間、園児を迎えに来た保護者に、傍にいた保育士が笑顔で声を掛ける。 お帰りなさい、バイルシュミットさん。今日もありがとうございます。いえいえ、お仕事お疲れ様です。
会話を交わしながら、フックに引っかけていたトートバッグを取り、 今朝持って来た着替え、汚れたタオルや連絡ノートを収めてゆく。 その間にこちらに気がついた桜が、ほんわりした笑顔を浮かべて、ユールヒェンの元にやって来た。
「おう桜。今日も菊、遅いのか?」
膝をついて視線を合わせると、こくりと頷き、ユールヒェンの膝にちょこんと揃えた手を乗せ、 えへへと小花を散らせた笑顔を向ける。 ささやかに甘えるようなそれが可愛らしく、思わず笑み崩れると、両手でその小さな頬を包み込んだ。
今の所定時で帰宅できるユールヒェンと違い、菊の方は少々立て込んでいるらしい。 帰宅時間にばらつきがある為、園に迎えに来る時間が一定せず、桜は少々心細い思いをしていると聞いている。
そうだよな、いつもの時間に親が来なかったら、子供は不安になっちまうよな。 それでも文句も言わず、只黙って迎えに来るのを待つ、甘えることでしか自分を主張できない年頃の幼子。 健気でつぶらな瞳に、ユールヒェンは胸が締めつけれるような心地になった。
その背中に、どーんと後ろから覆い被さってくる衝撃。 ぶ、と思わず声を上げて、肩越しに振り返ると、案の定そこにあるのはいつものによによ顔。
「ゆーるひぇん、おせーぞー」
「いつもと同じ時間だっての」
全く、このやんちゃっ子は。わしわしと銀の髪をかき混ぜると、腕白小僧はケセセと嬉しそうに声を上げた。
「よし、じゃあ帰るか」
ほら、上着と帽子、取って来い。 肩に顎を乗せる小さな頭をぽんと叩くと、のたのたと背中から降りて、ギルベルトは教室の後ろへと向かう。 そこに設置されたボックスの籠の中には、登園した際に脱いだ園児達上着や帽子が収めてあるのだ。
ややじれったい動きながらも、今日着て来た上着を羽織り、ゴムのついた帽子を被ると。
「さくらー」
名を呼ばれ、桜はユールヒェンから離れると、とっとことギルベルトの元へと向かう。 あ、どうやら今日もか。ユールヒェンは半ば諦めたように肩を落とす。 そして、バッグの中から携帯電話を取り出した。
大人しい桜は、園の子供達の中でも一番おっとりしているらしい。 何かと皆に後れをとりがちな桜を、いつもギルベルトが気にかけているというのは、 担任の先生からも聞いていた。
一番後ろを歩く桜の手を引っ張ったり、靴を履くのを手伝ったり、給食を食べ終わるのを待っていたり。 時々遊びの延長でちょっと変な構い方もするけれど、 まるでお兄ちゃんみたいで微笑ましくて……そんな話を聞いた時は驚いたと同時に、 ギルベルトの成長ぶりが嬉しかった。
いまのあれが、そうである。
呼び付けた桜の上着を籠の中から取り出すと、はいとギルベルトは彼女に手渡す。 表を見て、裏を見て、うんしょうんしょと袖に手を入れる桜に、 役に立っているのか立っていないのかよく解らない手助けをして、 上から下からややこしそうに二人してボタンを止め合って、最後に頭の上に帽子を乗せてやった。
その微笑ましい一連に、きゅうんと胸を高鳴らせて、ユールヒェンは頬に手を当てる。 なんだよ、もう、やるじゃないか、このイケメンが。 但し、その乗せてやった桜の帽子のゴムを引っ張って、ぺちっと離すのはやめろ。台無しだ、馬鹿。
「じゅんびできたぜー」
とことこと小走りにやって来るギルベルトとやや涙目の桜に、携帯を構えていたユールヒェンは苦笑して、 ゴムの当たったであろう顎下を擦ってやった。 ごめんな桜、痛かったよな。お前はもう少し抵抗しても良いんだぞ。
「かえろうぜ」
ああ、うん。帰るのは良いけどよ、困ったように首を傾けて。
「桜は、後で菊が迎えに来るんだぞ」
だから、今から帰るのはお前だけだ。 そう言ってやるものの、実に元気良く、実に偉そうに、何故か自信たっぷりに、ギルベルトは胸を逸らせる。
「さくらはな、おれさまがつれてかえってやるぜ」
ユールヒェンは、俺様を連れて帰るんだろ。俺様は桜を連れて帰ってやる。菊は迎えに来なくていいぞ。 謎の理屈を披露するギルベルトに、隣の桜は良く判っていないのだろう、立ち尽くしたまま瞬きする。
「さくらは、おれさまといっしょがいいんだからな」
ユールヒェンだってそうだろ。な、そうだろ。な? な?  桜の手を握り締めたまま、訳の解らない同意を求めて見上げる、無駄にきらきらと眩しい眼差し。 うっとユールヒェンは引き攣った。
本当は、こう言うのはあんまり良くないのだろうけど。
きょとんとしたままの桜の頭を宥めるようにひと撫でし、ユールヒェンは携帯電話を操作した。





「すいません、ユールヒェンさんっ」
マンションの玄関先、何度も頭を下げる菊に、いやいやとユールヒェンは肩を竦めた。
「悪いのは、ギルベルトの方だから」
お前と桜の所為じゃねえよ。むしろ、こっちの都合で、桜を一緒に連れて帰ったようなものだ。
何せ、自我の強いギルベルトの駄々っぷりは凄まじい。 いつぞやのように、教室の四方の隅から隅まで盛大にごろんごろん転げまくり、 宥めるのにひと汗かくような羽目は御免被りたい。 だったら、菊が帰宅するまでの短い間、大人しい桜を預かる方が全然楽なのである。
「本当に、申し訳無いです」
「気にすんな」
二人でいると、勝手に一緒に遊んでいるから。 こちらが構わなくても良いし、その間に家の事も出来るし、逆に助かったりするぜ。
「そうそう。帰る時の動画、見るか?」
ほら、前にも言っていただろ。今日、ギルが桜の帰りの準備を手伝っている所を撮ったんだ。 お前見た事無いって言ってたもんな。すっげえ可愛いぜー。
によっと笑ってポケットから取り出す携帯電話に、おおおと菊は目をきらきらさせて頷く。
「是非っ」
というか、それ、赤外線で送って下さいませんか。おう、良いぜ。ちょ、ちょっと待って下さいよ。えーっと。
かちかちと携帯電話を操作し、楽しそうに動画転送の準備をする大人達の足元で。


「さくら、またあしたな」
「はい、ぎるべるとくん」


それぞれの保護者の足に捕まりながら、えへへと笑い合う。
そして、ばいばいと手を振って、遠くて近い明日の再会の約束を交わした。








タイトルがどうも思いつかなかったので
別ジャンルで書いた自作小噺のものと被っています
2012.11.03







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