ツインとダブルの方程式
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ごった返す朝のラッシュタイム、駅ホームのベンチに座っての電車待ち。
改札前のコンビニで買った栄養ドリンクを一気飲みし、うえ、とユールヒェンは顔を顰めた。 これ、不味くはないけど、すっげえ薬の味が強くて、なんだか舌がピリピリするぞ。
その横で、缶コーヒーを飲みながら。
「お疲れのようですね」
目の下、隈が出来ていますよ。欧米人特有の透き通るように白い肌、目の下がややくすんでいる。 元より、血色がそのまま表面化する肌色の持ち主だ。 しかし今や、それを隠す事にさえ頭と気力が回らないようである。
「この間仰っていた、例の件ですか?」
「おー、まあな」
ユールヒェンの担当する仕事に、トラブルが発覚したのは先週の事である。
その対処と処理に追われ、今彼女の所属部署は、てんやわんやの状況だ。 仕事は増え、時間に追われ、理不尽な対応を強いられ、連日重なる残業に皆がピリピリしていた。
時間短縮勤務であるユールヒェンも、当然その負担が掛かるのは仕方のない話だろう。 園への迎えが遅れがちになり、持ち帰った仕事の処理に寝不足が続き、 家事や身の回りに手を掛ける暇さえ惜しい。
「ほら、出張の話が出たって言ってただろ」
外資系に努める彼女は、ネイティブな語学力から、双方の窓口の役割を与えられる事も多い。 故にそのトラブルの内容や、原因、理由、経緯などを把握しており、 ドイツへ渡ってその説明と会議の参加、その他諸々を含めた出張を求められたのだ。
とは言え、流石に幼い子供を置いての渡欧には無理がある。 会社側も理解を示してくれてはいるが、しかしこの現状では、 どう考えてもユールヒェンが向かうのが最もベストであった。
「いっそ、ギルも一緒に連れて行って構わないって、言われちまったぜ」
その案に、一瞬ユールヒェン自身も考えてしまった。 しかしこちらが仕事をする間、共に引き連れ回す訳にもいかず、 だからと言ってホテルに一人残して放置することもできない。 何にしても、幼い子供の同行には無理があるのだ。
足を組みかえ、ふうとベンチの背もたれに身体を預ける。
「五日……五日あれば、何とかなるんだけどな」
行って、仕事して、帰って。飛行機の移動時間も含めての五日。 勤め人としては大したことのない日数だが、しかし子供を持つ親には、とてつもなく長い日数だ。
余裕の無さが伝わるのだろうか。ここ最近、妙にギルベルトがぐずつくようになっていた。 構って貰えない寂しさからの我儘なのであろうが、ついこちらも厳しくなってしまい、 その反発からか反抗的になり、更に苛々が重なる……そんな嫌な悪循環に陥っていた。
「なっさけねえよなあ」
「いえ、仕方ありませんよ」
やっぱり、どうしても。その気持ち、私も凄く良く判ります。
「でも……ついこんな時は、考えちまうんだ」
もし誰か、頼る人がいるのなら。
例えば、親だとか、兄弟だとか――シングルで無く、パートナーがいたら。
そうすれば。生活の事だって分担できるし、忙しいこちらのフォローも頼めるし、 疲れた時には甘えさせてもらって、五日程度の出張にこれ程悩む事はない。 たった一人で、何もかもを背負う必要はないのだ。
ユールヒェンは重い溜息をつき、そして直ぐに、にかりと笑って見せる。
「悪いな、愚痴っちまって」
解っている。こんなのは、単なる言い逃れだ。
一人でギルベルトを育てると決意した時から、こんな壁に何度も突き当たるであろうことは、とっくに了解済みだ。 自分で覚悟を決めた筈なのに。それでも乗り越えると決めた筈なのに。 こんな簡単にへこたれて、一番楽な言い訳にして、そんな弱い自分が一番許せない。
あーあ、俺様マジカッコ悪いぜ。 振り切るように、うんっとひとつ伸びをする。 手にあった空瓶を処分しようと、視線がゴミ箱を探したところで。
「あの……ユールヒェンさん」
名を呼ばれて振り返る。 隣に座る菊は、視線を落とし、持て余すように、手にある缶コーヒーを何度も握り直した。 少し間を置き、眉間に皺を寄せ、一つ呼吸をして、そっと彼女へと振り仰いで。
「よろしければ、私がギルベルト君をお預かりしましょうか?」











「ちゃんと良い子にしてろよ」
「おう」
「菊のいう事を聞くんだぞ」
「わかった」
「我儘言って、困らせたりすんじゃねえぞ」
「やー」
「桜と喧嘩するなよ」
「しねえもん」
「直ぐ帰って来るからな」
「おれさまつよいから、ちゃんとまってるぜー」


「だから、はやくかえってこいよ。ゆーるひぇん」


着替えとか、消耗品は、一応揃えて渡したと思うけど。 足りないものがあるならば、預けた鍵を使って、勝手に家の中から出して使ってくれ。 買い足しした何かがあれば、ちゃんとレシートを纏めて必ず請求しろ。 注文しちまった宅配サービスの食糧品が玄関先に届くけど、本田の家で使う事は連絡済みだから。 新聞は取ってねえし、郵便物はそのまま放置で良いぜ。 あと、叱るべきときはきっちり叱ってやってほしい。 何かあったら、携帯に連絡頼む。時間は全然気にしなくて構わないから。
「本当にすまない、菊」
だけど、お前になら頼める。ギルベルトの事、任せたぞ。 心配と不安と申し訳無さが揺らめく視線に、菊ははいと頷く。
「了解しました。桜と一緒に、こちらは何とかしますから」
だからユールヒェンさんは、お仕事頑張ってきて下さいね。
月曜日の朝、保育園へと送った後、その足で向かった駅前の停留所。 到着した空港へのリムジンバスに乗り込んで、窓から見下ろすユールヒェンに、菊は笑って親指を立てた。 それに彼女は少し笑い、同じように親指を立てて見せる。
「いってらっしゃい、ユールヒェンさん」
エンジンが掛かり、発車して、手を振る彼女が見えなくなるまで見送ると、菊は駅の改札へと踵を返した。











悩まなかった訳ではない。不安が無い訳ではない。心配していない訳じゃない。 人様の子供を預かるという責任の重さは、充分理解しているつもりである。
しかし、ユールヒェンが漏らした心の弱い部分は、どれもこれも、 いちいち身に沁みて共感するものばかりであった。
ざっくばらんな態度に反し、彼女は人一倍真面目で、責任感が強く、そして自分に厳しかった。 故に、ストレスの矛先を内に向けてしまう性分も、自分に似ていると思った。 とても他人事とは思えず、我が身に詰まって、上手い言葉さえ見つからなかった。 だからこそ、言葉だけで無い、自分を責める彼女を否定できるだけの力になりたかった。
まあちょっと。我ながら、思い切った提案をしてしまったかなとは思うけれど。
「……ま、何とかなるでしょう」
子育ては、あまり気張らず、気を楽に。程良く手を抜き、考え過ぎず、何とかなるよと楽観的に。 うん、大丈夫。きっと、何とかなりますよね。
「きくー」
あーんと口を開けるギルベルトに、菊は自分の歯ブラシを咥えたまま、はいはいと小さな体を引き寄せた。 磨き直しをしてやって、洗面台の前に置いてある子供用の踏み台に乗せ、水の入ったカップを渡すと、 ギルベルトは水を含んで、くちゅくちゅと口を濯いで吐き出す。
それが終わると、今度は桜の番だ。 歯ブラシを咥えたままんーんーと声を上げる桜に、歯磨き直しをしてやると、踏み台に乗せずに抱き上げた。 不器用な桜は上手に口を濯ぐ事が出来ず、吐き出す時にはよくパジャマの前を濡らす。 なので、いつも菊が抱き上げてやらなくてはいけないのだ。
やんちゃであの調子だから、本当に手が掛かって……と日頃ユールヒェンは口にしていたが、いやなんのなんの。
食がしっかりしているので、出されたものはちゃんと食べる。 服を用意すると、自分で着替えようとする。 名前を呼べば、直ぐに走り寄ってくる機敏さがある。 気に入らない事があれば、はっきりと顔に出し、言葉にして文句を言う。 桜とは違う意味で、ギルベルトは手の掛からない子供であった。
勿論、どちらが良いという話ではない。 しかし、ユールヒェンの教育の賜物なのであろう。見習う所は多々あった。
この歯磨きもそうだ。 どうやらバイルシュミット家では、お風呂から上がったら直ぐ歯磨きをするものだと、 一連の流れとして覚えさせているらしい。 何も言わずに率先して洗面台に向かう様子に、菊は感心した。 これは良いですね、歯磨きを嫌がる桜にも、この機会にしっかり習慣付けさせましょう。
「さて。ギルベルト君の寝る所は、ここですよ」
玄関直ぐ右側の部屋は、本田家の寝室だ。まだ幼い事もあり、菊と桜は同じベッドで一緒に眠っている。 寝ている間にころころ転がる子供を考慮し、脚無しマットレスベットは余裕のダブルサイズである。 三人で眠っても窮屈は感じない。
バイルシュミット宅から持ち込んだ自分の枕を真ん中に置くと、その上にころんとギルベルトは頭を乗せた。 四つん這いになりながら隣に移動する桜共々、えいっと頭まですっぽり布団を掛けてやると、 きゃあきゃあとはしゃぎ声が上がる。
人の家の匂いのする布団から、もふっと顔を出して。
「ゆーるひぇんも、もうねたのかな」
「どうでしょう。でも、もうドイツにはついているでしょうね」
日本からの直行便で、ドイツまではおよそ十二時間。時差を考えると、向こうでは何時になるだろう。 リモコンを操作して、豆電球一つ分の明るさに照明を落とすと、並んだ二人の隣に寝そべった。 それぞれの胸を布団の上からとんとん、とんとんと順番に宥めると、やがて瞼の動きが緩慢になっってゆく。
「なあ。あしたは、ゆーるひぇん、かえってくるかな」
ねむねむした声での質問に、菊は困ったように苦笑した。 出張日数が五日間である事は教えている。しかし子供の時間感覚は曖昧だ。 そして子供は気になる事、不安な事があれば、何度でも何度でも、 まるで言葉遊びのように大人に問いかけ、答えを求める。
「明日はまだ帰って来ませんよ」
指を四本立てて見せて。
「ギルベルト君が、後これだけ眠ったら、ユールヒェンさんに会えます」
今から一回眠るから、後はこれだけですね。立てた指を一本折り、残った指は三本。 これだけこの家で眠れば、彼女に会えるのだ。
判ったような、判っていないような顔で、ギルベルトはその指を見ながら瞬きする。 隣に寝転ぶ桜は、既に目を閉じていた。
「……ん」
もみじよりも小さな手が、求めるように菊に向かって伸ばされる。ハグだろうか。 菊はギルベルトに身を寄せて、大切なものを包む力加減で、小さな体を抱き締める。 頼り無い腕がきゅっと抱き返す、この世の何よりも愛おしいその力。
「ぐーで、なはと」
すり寄せた頬に、ちゅ、と柔らかな感触。
え? と瞠る菊から離れると、そのままギルベルトはころりと横に転がった。 そして、反対側で寝息を立てる桜に手を添えて首を伸ばし、 そのまんまるいほっぺたにちゅっと可愛らしいキスをする。
ああ、そうか。どうやらこれは、バイルシュミット家での習慣であるらしい。 キスを交わす二人を脳裏に、その微笑ましさにふふっと笑みが零れた。


「……しまった。今の、動画に撮っておけばよかったですね」
明日の夜は、携帯電話持参で寝室に連れて来なくては。 ホームビデオ、何処に仕舞ったでしょうか。今の内に充電しておきましょう。
くうくうと平和な寝息を確認すると、そおっと布団から抜け出して、 音を立てないように寝室の扉を開け、布団にならぶ小さな二つの子山を振り返り。
「おやすみなさい」
ぱちりと寝室の電気を消した。








書いてる本人的には
四つ巴だと思っております
2012.11.05







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