ツインとダブルの方程式
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がたん、と響いた大きな音に、菊ははっと顔を上げた。
食器洗浄機に汚れものを収めていた手を軽く水で流し、慌ててキッチンの直ぐ隣の音源へと向かう。 確かそこで、朝御飯を食べ終えた二人が、手を洗っていたと思ったのだが。
「どうしましたか」
ごうんごうんと洗濯機が音を立てる洗面所。 そこに菊が見たものは、洗面台の前ででんぐり返りしたようにころりと転がるギルベルトと桜。
数拍分の溜めの間を置いて、うわあんと上がるのはギルベルトの泣き声。 そして三つ数えたその後に、ぽかんとしていた桜からも引き攣るような泣き声が上がった。 倒れた踏み台。水が流れっぱなしの洗面台。 この状況から察するに、どうやら二人一緒に踏み台によじ登り、バランスを崩して転んだのであろうと推測する。
「何処か打ちましたか?」
怪我は? 痛い所は?  膝をつく菊に、わんわん泣きながら、ギルベルトは自らの耳の上辺りを示し、痛い所を主張する。 擦ってみるが、こぶは出来ていない。 このマンションは、子供が転んでも余り痛くないような床材を使っている。 恐らくは、痛みよりも、びっくりした事へのショックが強いのか。
大丈夫大丈夫。痛くない痛くない。打った所を撫でてやりながら。
「桜さんは、何処が痛いんですか?」
しかしこちらは答えない。 ちょこんと座ったままびええんと泣くのは、痛いからなのか、びっくりしたからなのか、 怒っているのか、ギルベルト君につられているのか、どれなんですか、教えて下さいよ。
感情が収まらないギルベルトは、小さな拳を振り回す。え、その矛先は私ですか?  泣きながら、桜もひっしと抱きついて来る。ちょ、そこで私に噛みつくんですか?
右から左から、二重音声になって向けられる泣き声の直撃。 しがみ付かれ、涙と涎でぐしゃぐしゃになったシャツ。付けっぱなしのテレビが知らせる、只今の時刻。
とほほと天井を見上げた背後、動きを止めた洗濯機が終了のリズムを奏でた。





もとより、菊もギルベルトも、互いの家には既にすっかり馴染んでいた。
どちらかが仕事で遅い時は、二人一緒に連れて帰り、そのまま帰宅まで預かる事も多い。 なので、お泊り自体には抵抗が無かったようだ。
心配はしていたものの、桜とギルベルトは仲も良い。 事情を伝えた保育園側や保育士が、何かとフォローもしてくれるも有り難かった。 なので、概ねの所は何とかなっている。
幼い子供が二人もいるのだ。それなりにそれなりな事があるは、当然の範疇なのだ。





「はい、到着しましたー」
二人の子供を園に迎えに行っての帰宅。 マンションの玄関扉の前までやってくると、菊は左右にそれぞれ握っていた桜とギルベルトの手を離した。 そして、スーツのポケットを探り、鍵を開ける。
さて、中にどうぞ。 二人を家の中に促そうと、そこで菊は、ギルベルトがじいっと隣室を見ている事に気がついた。 今は誰もいない、バイルシュミット家の扉。 不思議な色彩を帯びたもの言わぬ瞳に、菊は眉根を寄せた。
「……お家に帰りたくなりましたか?」
そりゃそうだろう。まだ甘えたい盛りの幼子だ。 自分の家、そして自分の母親の傍が一番良いに決まっている。
しかし、ギルベルトはふるふると首を横に振る。
「きくのところにいる」
ひたむきな頑なさの滲んだ声。
「ゆーるひぇんと、さくらときくといっしょにまってるって、やくそくしたからな」
だからちゃんと約束通り、良い子にして待っているぜ。
ふふんと胸を反らせるギルベルトに、ほっとすると同時に胸が締め付けられる。
一日目は、初めてのお泊り気分で乗り越えられた。 問題はその後だ。日が重なるにつれて、寂しさも心細さも募ってゆく。 五日という日数は、強がる心が挫けるのに充分な長さがあるのだ。
「ギルベルト君は、強い子ですね」
本当に本当に、とっても強い子です。ふわふわした髪を撫でると、嬉しそうにケセセと笑い声を上げた。 おう、当たり前だろ。なんてったって、俺様だからな。
「ゆーるひぇんに、おれさまはつよかったって、いってやるんだぜ」





ほら、こんなの見つけて、買って来ました。
鞄から取り出したそれを手に、菊は床の上に腰を下ろした。 待ちかまえるように、右から左から、桜とギルベルトがその手元を覗き込む。 菊の肩に手を乗せたギルベルトはぴょんぴょんと跳ね、 腰と脇の隙間から顔を出そうと桜は頭をねじ込んだ。
床に開いたのは、シンプルでカラフルな地図の絵本である。
「これはね、地図ですよ」
「ちず?」
「ここがね、日本」
私達が今居る、ここですよ。日本。呟く桜にこくりと頷いた。
「そして、ここがドイツ」
今、ユールヒェンさんが居るのはここなんです。ドイツ。小さくギルベルトがその名を繰り返す。
ギルベルトは絵本に手を伸ばすと、小さな指先で日本と、それからドイツをなぞった。 いろんな国が隣接している欧州に比べると、今自分達の居る島国は、ぽつんと遠くに離れている。
「ちょっと、遠いですね」
「とおいですねえ」
ギルベルトは菊の口真似をして、日本とドイツを指で突っつく。 こことここ。ここからここまで。ドイツは遠い。ユールヒェンも遠い。凄く遠い。
「とおいですねえ」
同じく口真似をして、桜が指を伸ばした。 関節もちっちゃな人差し指と親指を立てると、尺取り虫のように日本からドイツへの距離を計る。 ひとーつ、ふたーつ、みっつ、よっつ。子供の指の尺、四つ分の距離。
次に桜は菊の膝の上に手を乗せて、ひとーつ、ふたーつ、みっつ、よっつ、 膝から太ももまで、桜の指の尺取り虫がぴょこぴょこ歩く。膝の上で計る四尺分の距離。 確かめるように見上げる桜に、菊は笑って頷いた。
今度は絵本の上。ちんまりとした指尺取り虫は、桜の元から歩きだし、 ひとーつ、ふたーつ、みっつ……そこで本の上に乗せていたギルベルトの指先まで到着し、 最後のもう一歩……よっつ、でギルベルトの手の上に乗り込んだ。
きゃあ、と上がった笑い声。ひとーつ、ふたーつ、みっつ、よっつ。 お返しに、ギルベルトの指が尺取り虫となって、桜の元へと突進する。
笑いながらそれを避けて、立ち上がり、走り、逃げて、追いかけて、捕まえて。 あっちの長さ、こっちの高さ、そっちの広さ。
開いた絵本をそっちのけで、部屋の中のあれこれに、ちびっ子尺取り虫達が賑やかに距離の確認を始めた。





菊は三本の指を立て、その内の一本を折り畳んで見せる。
「今日はもう眠りますから、後はこれだけです」
ほら、もう後二本。後に二回眠ったら、ユールヒェンさんに会えますね。
お休みの布団の中、にこにこそう告げる菊に、ギルベルトはじいっと立てられた二本の指を凝視する。 後二回、でも幼子にとってその二回の、何と長い事か。
なあ、ゆうるりとした瞬き一つ。
「ゆーるひぇんは、なんで、おれをおいてったんだ?」
一人で、俺を置いて、どうして? 純粋な疑問詞に、菊は首を横に振る。
「貴方を置いて行ったんじゃありませんよ」
ギルベルトは眉間に小さな皺を寄せて、しかめっ面をする。
「うそだ」
「嘘じゃないです」
秘密を明かすように、そっと声を潜めて、耳元での打ち明け話。
「私と桜が、ギルベルト君を連れて行かないでってお願いしたんです」
ユールヒェンさんがギルベルト君を連れて行っちゃうと、私と桜がすっごく寂しかったから。 一緒に保育園も行けないし、一緒に遊べないし、こうして一緒に眠る事も出来なかったでしょう。 だからギルベルト君を連れて行かないでーって、私と桜でユールヒェンさんにお願いしました。
大切な話を伝えるように告白すると、そっか、とギルベルトはびっくりしたように目を丸くした。 隣に寝転がっている桜を見ると、彼女は黒目がちの瞳でじいっとギルベルトを見ている。
「そうですよね、桜さん」
桜さんも、ギルベルト君と五日間も会えなかったら、すごく、すっごーく、寂しいですよね。 首を傾げると、桜は半分眠ったような顔で、こくりと頷いた。 そして手を口元に添えると、にじり寄り、そっと耳に寄せて、あのね、あのね。
「さくらはね、ぎるべるとくんと、いっしょがいいです」
こしょこしょした声は、耳にくすぐったい。ギルベルトは肩を竦めて、へへっと笑う。 そして同じ様に両手を口元に添えると、三人しかいない寝室で、菊と桜にこっそりと耳打ちする。 しょうがねえな。
「おまえたちのために、さびしくても、がまんしてやるよ」
俺様、強いからな。桜と菊の為に特別だぜ。





はたと顔を上げると、ギルベルトは後ろを振り返った。
視線の先を辿ると、玄関へと突き当たる。閉ざされた扉の向こうを、かつかつと足音が遠ざかる気配。 どうやら同じ階の住民が、前の廊下を通り過ぎたらしい。 遊びに夢中になっていると思ったが、子供は時に驚くほど敏感になるのだ。
「……ゆーるひぇん」
ぽつりと零れる名前。
突然思い出したように、衝動に駆られるように、不意にギルベルトはユールヒェンの影を探す。 風呂から上がった時、保育園へ出かける時、テレビを見ている時、夜中に目覚めた時。 まるで猫が突然宙へと視線を定めるように、顔を上げ、玄関を伺い、扉を開け、振り返り、目を凝らし。 そして、彼女の居ない事実を把握すると、また何事も無かったかのように、元の作業に戻るのだ。
「ギルベルト君」
呼ぶと、玄関への視線を菊へと向けた。 カウンターキッチンの内側から、ほら見て下さいね、指を立ててピースサインをした。 そして、その内の一本を、もう一方の手で折って見せる。
残った指はあと一本。その一本を示しながら。
「今夜眠ってしまえば、残りはあと一本ですよ」
この一本が終われば、ユールヒェンさんが帰って来ますから。もう少しで会えますよ。 常にマイナス一本される、ちょっと姑息なカウントダウン。しかしギルベルトは、嬉しそうに笑う。
「おうっ」
今日寝て、それから後もう一回寝たら帰って来るんだよな。はい、そうです。本当に帰って来るんだよな。 勿論です、良く頑張りましたね、ギルベルト君。おう、だって俺様すげえもんな。
ケセセと笑いながら、ギルベルトは向き直り、画用紙のお絵描きを再開する。 その背中を眺めながら、そう言えばと、今まで何となく引っ掛かっていた疑問が口をついた。
「ギルベルト君は、ユールヒェンさんの事をお母さんって言いませんね」
「おう」
手元から目を離す事無く、ギルベルトは大きく頷く。
「ちゃんとお母さんって、呼ばないんですか」
自分の親を呼び捨てするなんて。それとも、欧米ではそれが普通なんでしょうか。 返されたのは、手元に夢中なのかあまり感心の無い声。
「だってあいつ、おれのむってぃじゃねえもん」
――え?
瞬きする菊の視線の先。自作の鼻歌を奏でながら、ギルベルトはベビーコロールの箱に手を伸ばした。











タクシーの後部座席、どっかりとユールヒェンは腕と足を組んだ。 苛々がオーラの如く滲む乗客に、触らぬ神に祟りなし、運転手は言葉無く車を走らせる。
ふざけんなふざけんなふざけんなマジふざけんな。
人が一番助けてほしかった時に、別れを切り出した癖に。 こちとらすっかり忘れてたよ、顔さえ思い出さなかったよ、このビルに移動になっていたなんて知らねえよ。 君も疲れているみたいじゃないかって、当たり前だよ、時差ボケだっつーの。 付き合っている人なんて、今は仕事が恋人だよ、キャリアウーマン舐めんな。 第一、今更てめえにそんな事言われたって、虫唾が走るだけだ、腐れ(自主規制)野郎が。
全く、偶然とは言え、昔の男になんて会うもんじゃねえな。 腹の奥のもやもやを吐き出すように、ふーと深く長く息をつく。駄目だ駄目だ。 これから取引会社に赴くのだ、こんな苛々した気持ちのままじゃ、またトラブルを引き起こしかねない。 ふるりと首を横に振る。
とりあえず、今は気持ちを落ち着けよう。 ユールヒェンはバッグに手を差し込み、現在最高の癒しの源、携帯電話を探った。
出張してからこちら、ユールヒェンの携帯には、毎日必ず菊からのメールが届いていた。 内容は、どれも他愛もないものである。 夕食のハンバーグの中にこっそり刻んだピーマンを入れたら、気が付かずに食べていました。 園でカブトムシを飼い始めたみたいで、昆虫図鑑が今はお気に入りみたいです。 歯磨きが上手ですね、ギルベルト君を真似て、 桜も一緒に自分から磨くようになりました――こちらは大丈夫ですよ、 ギルベルト君は良い子でした、お仕事がんばって下さい。
それと同時に、必ず写真も添付されてくる。 桜と並んでテレビを見ている後ろ姿とか。絵本を膝に乗せてこちらを振り返る変顔だとか。 お布団でぐっすり眠っている寝顔とか。朝の保育園で行ってらっしゃいと手を振る笑顔とか。
渡独してこちら、彼から送られるそれらは、ユールヒェンの精神安定剤として、確かな効能を与えていた。
そして、どうやら本日分も届いていたらしい。 取り出した携帯電話の着信のランプに、ユールヒェンは口元を和ませてメールを開いた。
先月園で行った苺狩りの写真が、壁に貼り付けられていました。 購入希望の申し込みは今月いっぱいです。ギルベルト君、沢山映っていましたよ。 そんなメールと共に添付された画像は……あれ、どうやら今日は、写真では無く動画のようだ。
動画は初めてだよな、そう思いながら再生させると、 水色のスウェットパジャマに着替えたギルベルトが座っていた。場所は、本田家の寝室らしい。
ほら、ギルベルト君、どうぞ。 撮影者であろう菊の声にこくりと頷いて、動画の中のギルベルトはじいっとこちらを見つめ、瞬きして。
「ぐーで、なはと。ゆーるひぇん」
ちっちゃな両手をハグを求めるようにこちらに伸ばし、んーと唇を突き出して目を閉じる。
ぶはっと思わずユールヒェンは噴き出した。 つまり、これはあれだろう、いつもやっていた眠る前のお休みのキスなのだろう。
キス顔のギルベルトの隣、チェックのパジャマに着替えた桜の姿が映った。 目を閉じたままのギルベルトに並んで腰を下ろすと、真似のつもりなのだろう、 不器用に唇を尖らせて、同じく画面こちらへと顎を突き出す。 てか、その顔。キスというよりタコみたいだぞ。顔が天井向いているぞ。 差し出される腕が、それじゃハグ待ちじゃなくて、パンチになっているじゃないか。
薄目を開けたギルベルトが、隣で真似っこしている桜を見て。
「きくー、きくもー」
こっちこっち。半眼のまま撮影者を呼ぶと、え、私もですか?  笑いながら、ごそごそと画面が動き、ギルベルトを挟んだ桜の反対側、自分撮りをする菊の姿が映った。 つーか、その位置。顔半分しか見えてねえよ。
「お休みなさい、ユールヒェンさん」
私達は大丈夫、何とかやっていますよ。
ひらひらと手を振ると、ぐらぐらと揺れる画面。 二人の子供に倣って、目を閉じる菊の顔が、いやだから、既に半分どころか三分の一も写ってねえし、 肝心の唇は一ミリも見えてねえし、てか、誰か桜の首の角度を調整してやってくれ、咽喉しか見えねえよ、 ギルベルトも変に薄目を開くから、顔が――ぴたりと画面が停止した。どうやら、動画はここまでのようである。
途端、ユールヒェンの涙腺が崩壊した。
なんだよ、こいつら。もう、なんなんだよ、こいつら。 皆で仲良さそうだし、ほのぼのしているし、枕が三つあったから、これから三人で寝るのかよ。 みんな揃って変な顔しやがって、笑っちゃうじゃねえか、泣いちまったけどよ。 心配したけどギルだって、俺が居なくても全然平気そうじゃねえか。
いいなあ、楽しそうだなあ、俺様ドイツで一人楽し過ぎるじゃねえか。 ぼろぼろと涙を流し、ひっくと泣きじゃっくりを上げる。 うん、頑張る。うん、負けない。ふうと肩を上下させて、深呼吸をひとつ。
「よっし、癒し成分充電完了っ」
こんな所で腐って堪るか。
決意を新たに携帯電話を握り締めると、静止したままの三人のキス顔画像にぐりぐりと頬をすり寄せた。








バイルシュミット家は、普通にちゅっちゅしてそうです
2012.11.08







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