ツインとダブルの方程式
<5>





こんな事、本来ならば、とてもじゃないが他人に頼める訳がない。
第一、菊は単なるマンションの隣人だ。 例えばこれが実の親兄弟や親戚ならまだしも、子供の命を預けるのだ、 取り返しのつかない何かがあった際を思うと、双方の為にも絶対に避けるべきである。
なので、勿論最初は断った。 気持ちは本当に嬉しいけれど、流石に隣人のお前にそこまではさせられない。でも、ありがとうな。 そんな風に言ってくれる人が傍にいるって解っただけでも、気が楽になったよ。
ユールヒェンの尤もな返答に、そうですよねと菊も頷く。 自分でも、いきなりな申し出をしたという自覚はあるのだ。
「でも、まあ、今日一日考えてみて下さい」
確かに我ながら考えなしかとは思いますが、でも口に出してみると、 案外悪くないんじゃないかって気がしてきました。
幸い、出張は月曜日から金曜日までの平日であり、日中は殆ど保育園に預けている。 普段から、二人一緒に保育園から連れて帰り、どちらかが帰宅するまで預かる事は多く、 そのまま夕食を一緒に食べることさえ珍しく無い。 ちょっと大雑把に考えれば、その延長でそのままお泊りし、 その流れで一緒に保育園に行くようなものではなかろうか。
「いや……またそれとは違うぞ」
そんな突っ込みに、あれ、やっぱり違いますかね。えへへと笑う菊に、ユールヒェンは呆れて肩を落とした。 繊細そうに見えて、時に彼は、こちらが驚く程おおらかになる。
「ほら、子供って、結構逞しかったりするじゃないですか」
こっちが思っている以上に、しっかりしていたり、ちゃんとこなしていたり、いろいろ考えていたり、 そして案外ちゃっかりと強かだったり。
「なんなら、一度ギルベルト君にも聞いてみて下さい」
うちでも、桜に聞いてみます。多分、桜は喜びそうですけれどね。
言われるままに、怒涛の仕事をふらふらになりながらこなし、帰宅してからギルベルトに向き合った。
五日間。五日間だけ、俺が仕事で遠くに行っている間、お隣の桜と菊の家で待っている事が出来るか?  五日間だけ、俺と会えなくなってしまうけど、お前は桜と菊の家で我慢する事が出来るか?
すると、瞬き二つ分考えた後、ギルベルトはあっさり頷いた。


「さくらときくのとこで、ゆーるひぇんをまってる」
「おれさまつよいから、ぜんぜんへいきだぜ」
「だから、ゆーるひぇんは、おしごとがんばれよ」


ケセセと笑って偉そうに胸を張るギルベルトの健気さに、 思わずユールヒェンは涙目になりながら、その小さな体を力いっぱい抱き締めた。











ピンポーンと響く音に、キッチンカウンターの内側にいた菊が顔を上げた。
「あ、帰ってきたみたいですね」
その声に、桜と共にブロック遊びをしていたギルベルトは、素早く振り返る。
「ほんとか?」
オートロックマンションの入り口からでは無い、部屋の扉前からの呼び鈴だ。 連絡のあった時間を考えても間違いない。
「ギルベルト君、玄関を開けて来てくれますか」
「おうっ」
立ち上がると、今までで一番速いスピードで玄関へと走り、背伸びをしながら扉の鍵を開ける。 かたんとノブが動き、ゆっくりと開いた扉の向こう。 隙間からぶわと入り込む風に煽られ、思わず細めた眼の端に、きらりと長い銀の髪が揺れた。
「ギル……」
随分急いだのか、長い髪は乱れ、名を呼ぶ声は掠れ、やや息が上がっていた。 スーツケースを傍らに、隣の自宅よりも先に、何よりも真っ先に、最優先で、 ギルベルトの居る本田の家にやって来たのだ。
ずっと待っていたその姿に、ギルベルトは今までで一番の笑顔になる。
「おかえり、ゆーるひぇん」
伸ばされた、小さな両の腕。
笑顔が同時にくしゃりと崩れる。切羽詰まったような必死さで手を伸ばす。 膝をつき、背伸びをし、しっかりと確かめるように抱き合う。 この世の何よりも馴染んだその感触に、堰き切った涙が溢れた。
「ただいま、ギル」
ごめんな。寂しかったよな、俺様も寂しかったぜ。すっごく、すっごく寂しかったんだぜ。 会いたかった。心配した。ごめんな、本当にごめんな。
べそべそとした涙声が、やがて大きくなり、抑えることなく二人は泣きじゃくった。 涙ながらに、頭を撫で、顔を寄せ、覗き込み、しゃくりあげ、 ぐしゃぐしゃになった頬をすり寄せ、外聞も無く、震えながら慟哭する。
そんな二人に、数歩遅れて玄関までやって来た桜も顔を歪ませた。
つられたのか、伝染したのか、煽られたのか。 ふええんと声を上げる桜をユールヒェンは引き寄せて、ギルベルトと一緒に抱き込む。 そしてそのまま三人でひとかたまりになって、ひしと抱き合いながら咽び泣く。
ややカオスな玄関先。暫しの間を置いて、菊が顔を覗かせた。
「お帰りなさい、ユールヒェンさん」
見事に化粧も剥げ落ち、目も鼻も真っ赤にしたユールヒェンに、持って来たタオルを差し出して。
「良かったら、一緒に夕飯食べませんか」
今夜はカレーライスなんですよ。





ちょっとしょっぱいじゃが芋たっぷりのカレーライスを、おかわりまでして食べた後。 ユールヒェンは、五日にしてはやや大きめのスーツケースを開いた。
「ホテルの近くとか、空港とかで、適当に買ったんだけどな」
取り出すのは、フランケンワイン、ビール、チョコレート、グミ、シュトーレン、スナック、 クーヘン――コーヒー飲みますか? ああ、コーヒー淹れるならほら、 これ使ってくれよ――湯を沸かそうと台所に立った菊に、ユールヒェンはあちらで人気のコーヒーを差し出した。
「お前達にはこっちな」
イラストが綺麗な字の入っていない絵本と、手作りの木製おもちゃ。 信号機のキャラクターがプリントされたTシャツは、ほら、白いのは桜で黒いのはギル、 色違いのお揃いなんだぜ。
それから、とスーツケースとは別に持っていた紙袋から取り出したのは、耳にタグのついた大きなテディベアだ。 ライトブラウンはギルベルトに、ベージュは桜に。 それぞれに手渡すと、両手いっぱいのもふもふした抱き心地に、きゃあと二人は声を上げた。
「桜さん。なんて言うんですか?」
菊に促されると、桜は受け取ったばかりのテディを抱きしめて、 ふにゃふにゃ笑いながら、気恥ずかしげにユールヒェンを見上げる。
「ありがとう、ございます」
一生懸命伝える桜に、菊はこくりと頷いて見せる。はい、良く言えました。
「どう致しまして」
俺の代わりにギルベルトと一緒にいててくれて、本っ当にありがとうな、桜。 ぎゅっと抱き締めてぐりぐり頬をすり寄せると、桜ははしゃいだ笑い声を上げた。
その背中に、間にぬいぐるみを挟んで、ギルベルトものっしと体重を掛けてのしかかって来る。 ちょっと拗ねたような顔に、なんだよお前、やきもちか?  ユールヒェンは二人一緒に抱き込むと、纏めて頬をすり寄せる。ああもう、これなんて楽園だよ。
「桜にまで、わざわざすいません」
何だか気を使わせてしまったみたいですね。 恐縮する菊に、開きっぱなしのスーツケースを探りながら。
「お前にもあるぜ」
ほらよ、差し出すのは大小重なった二つの箱。 それから、一週間ぐらいしたら、空港で注文したヴルストも到着するから。 本場のヴルスト、お前にも食べさせたかったんだよな。マジ、美味いんだぜ。
受け取った箱に記されたブランドロゴを目に、ぎょっと菊は瞠った。 そちら方面に詳しくなくとも見覚えのある、業界では随一とされる有名メーカー。 丁寧に蓋を開くと、品良く収められているのは、インクボトルとセットになった、黒いボディの高級万年筆。 キャップのゴールドリングに記載された数字は、余りにも名高い149。 小さい箱の方は、同メーカーの万年筆用の革製ペンケースだ。
「ユールヒェンさん、これは……」
「なかなか、じっくり選ぶ時間も無くってな」
正直、同性なら兎も角、男が貰って嬉しいものがイマイチ良く判らない。 好みとかもあるだろうが、まあ有名な定番品だし、こういうのってステイタスみたいなものだから、 持ってても損はないだろ。
「お前に、と思って買ったんだ。受け取ってくれるよな」
「でも」
「俺様がもう少し高給取りだったら、BMWの一台でも買ってくるんだけどな」
残念ながら、そこまではちょーっと難しかったから。だから今回はこれで勘弁してやってくれよ。 にかりと笑うユールヒェンに、戸惑ったように視線を彷徨わせ、手元の箱へと落とす。 少しだけ間を空けて、そしてくすりと肩を竦めて笑った。
「駐車場の新規契約を、申し込まなくちゃいけない所でしたね」
ここの駐車場料金、私の安月給では苦しそうですからちょっと安心しました。 おどけたように首を傾げると、そうだろうそうだろう、ユールヒェンはケセセと笑った。
「ありがとうございます」
正直、とっても嬉しいです。大切に使いますね。 押し抱くように胸に受け取る菊に、おうとユールヒェンは胸を逸らせた。
「なあなあ、ゆーるひぇーん」
ほら、これ。 片手にテディベアを抱いたまま、もう片方の手でこちらに差し出すのは、見覚えのない絵本。 なんだ? 首を傾げながら受け取るユールヒェンに、ああと菊は笑った。
「地図の絵本ですよ」
ユールヒェンさんが出張に行っている間、皆で読んでいたんです。
へえ、こんなのあるんだ。 床に腰を下ろして絵本を開くと、右と左と、ギルベルトと桜が彼女を挟むように覗き込んで来た。 どうやらいつも、こうやって一緒に見ていたらしい。
そうそう。菊が笑いながら、ユールヒェンの後ろから腕を伸ばして、ぱらりと捲る。 世界地図が描かれた見開きページを開けると。
「さて。ユールヒェンさんの行っていた、ドイツは何処でしょうか」
ここ! 先を争うように、ギルベルトと桜は、欧州の中央にある一国を正確に指した。
「じゃあ、私達の住んでいる、日本は何処でしょうか」
ここ! 競争するように、ギルベルトと桜は、東にある細長い列島を指した。 へえ、とユールヒェンは感心する。どうやら、菊が教えたらしい。
「じゃあ……日本とドイツの距離は、どれぐらいでしょうか」
振り返らない彼女の背後、こっそりと菊はユールヒェンを指で示す。によ、とギルベルトと桜は笑った。
人差し指と親指を立てて、ひとーつ、ふたーつ、みっつ……ぴょこぴょこ前進する二人の小さな尺取り虫の指が、 ユールヒェンの足元までやって来て……よっつの掛け声で、二人が一斉にユールヒェンに飛びかかった。
きゃあきゃあ叫びながら、小さな四本の手がユールヒェンをくすぐる。うわ、ちょっと、タンマ。 腰、弱いから、お前ら、二人掛かりなんて卑怯だぞ。まてまて、苦しい、うわ、つぶれる、つぶれるから。
のしかかる二人からのくすぐり攻撃に、涙を滲ませながら、じたばたともがきながら、菊を振り返る。
「こら、菊っ。てめえ、笑ってないで助けやがれっ」











スーツケースや、今まで預かっていたギルベルトの荷物を、皆で隣のバイルシュミット家へと大移動。 全てを終えたところで、玄関先で向かい合い。
「世話になったな。菊」
「せわになったな」
ユールヒェンの足にしがみ付きながら口真似するギルベルトに、こらとその頭を指先で突っつく。 いえいえ、笑いながら、菊は軽く首を横に振った。
何だかんだ言いながらも、あっという間の五日間であった。 確かに大変ではあったが、良い経験になったし、逆に勉強になったり、何より楽しかった。
「明日明後日のお休みは、たっぷりギルベルト君を甘やかせてあげて下さい」
貴方がいない間、本当に、とってもいい子だったんですよ。
「おう」
大きく頷き、太腿に頬を寄せるギルベルトを引き寄せた。 わしわしと頭を撫でると、くすぐったそうに笑い声を上げる。 ちっちゃな身体で、生意気言いながら、でも本当にこの五日間頑張ったもんな。
「またな、さくら」
菊の背後、テディベアを抱きながら、隠れるように見送る桜に、ギルベルトは嬉しそうに手を振る。 久しぶりに自分の家に帰るのだ。はしゃぐのも当然だろう。
しかしそんなギルベルトとは対照的に、桜は無言で俯いた。ああそうか。 この五日間、保育園では勿論、家も、寝る時も、朝も、ずっとギルベルトと一緒にいたのだ。 これは少しばかり、桜に寂しい思いをさせてしまったかもしれない。
菊は膝をつくと、桜の顔を覗き込み。
「今度、ギルベルト君のお家に、お泊りさせてもらいましょうか」
そうだな、いつでも来いよ。ユールヒェンも同意して、腰を屈めると桜を見下ろす。 ちらと上目がちに大人二人を見比べて、桜はこくりと頷いた。
なあなあ。ギルベルトは手を伸ばし、桜のおつむを撫でる。 少々不器用な力加減に首が揺れ、しかしされるがままに、きゅうと桜は目を閉じた。 まるで小鳥のようなそれに、へへっと笑うと。
「ぐーで、なはと。さくら」
小さくて低い鼻の頭に、ちゅ、とお休みのキスをした。








お土産文化は、日本独特の習慣ではあるみたいですね
ギルに黒、桜ちゃんに白のTシャツを着せて並ばせたら
髪の色とも相まって、反対カラーで面白いと思ったのですよ
2012.11.12







back