ツインとダブルの方程式 <6> 「椅子に座らなきゃ、ご飯が食べられませんよ」 「お日様印のヨーグルト、好きでしたよね」 「駄目です、絵本は投げるものじゃありません」 「ほら、もう保育園に行く時間ですから。ね?」 「ちゃんとお風呂に入らないと、笑われちゃいますよ」 「危ないっ。これは触っちゃ駄目って言ったじゃないですかっ」 「いやっ」 どうやら桜は、所謂「イヤイヤ期」に入ったらしい。 「今朝も、服を着るのをずっと嫌がってましてね」 着替える時に、引き出しから取り出したデニム地のハーフパンツを見た途端、イヤイヤと首を横に振って逃げ出した。 ズボンが嫌なのかと、サロペットスカートに取り換えてもイヤイヤ。 スカート付きのレギンスを取り出してもイヤイヤ、ワンピースにしてもイヤイヤ。 パジャマを脱いだすっぽんぽんのままふるふると首を振り、 埒が明かないと無理矢理着せようとすると、がむしゃらに泣いて暴れて抵抗された。 「だから、今日の桜はジャージ姿だったのか」 てかあんな典型的な芋ジャージの子供服、売っているもんなんだな、しかも買うんだな、お前は。 園へと子供を送った後の、駅へと向かう道のり。並んで歩きながら、ユールヒェンは快活に笑う。 こほこほと零れる咳を抑え、菊は心底困ったように溜息をついた。 「兎に角、何が気に入らないのか、判らないんですよね」 おっとりしている桜は、口数が少なくて大人しく、自分の考えている事をあまり言葉にしない。 辛抱強く問いかけ、顔色を読み解き、こちらが汲み取るしかないのだ。 「その点、ギルベルトは判りやすかったかな」 少し前、ギルベルトにも似たような時期があった。 とにかく、何でもかんでもイヤイヤイヤイヤエンドレス。拗ねて、叫んで、暴れて、泣いて。 寝言でイヤイヤ言っているのを目にした時は、いっそ感動したものだ。 ただギルベルトは、はっきり口に出して主張する所があった。 その内容が凄まじく意味不明で理不尽であろうとも、判り難いという事は無かったように思う。 「ユールヒェンさんは、どう対処しましたか?」 「いろいろやったぜー」 落ち着くまでひたすら抱っこをするのは、まず基本形。テレビやビデオを付けて、気を逸らせるとか。 「あっ」とあらぬ方向を指して、そっちに意識を向けている隙に、あれこれ済ませてしまうとか。 暫くこっそり隠れておいて、泣き疲れた頃を見計らって姿を見せて、抱っこしてやるとか。 つい声を荒げて叱りつけた時もあったが、ギルベルトの場合、それは全くの逆効果だった。 意固地になってパニック泣きになってしまい、それを宥めるのに、いつもの倍は消耗する結果に陥ったのである。 「この時期の子供の主張なんて、あって無いようなもんだからな」 おやつにあげた動物型ビスケットを齧ったら、小鳥の頭が無くなったと言ってイヤイヤ泣き出した事さえあった。 無くなったんじゃなくて、それはお前が食ったんだろうに。訳判んねえよ。 これも、子供の成長段階の一つなのだ。 こんな時期だからと、笑って、受け流して、開き直って、 いっそ自分も馬鹿になって、能天気に乗り切るのが一番だろう。 「あんまり真に受けて子供に振り回され過ぎると、脳味噌沸騰するぞ」 成程、そうですよね。頷いた所でけほけほと咳が零れ、菊は慌てて顔を背けた。 「いーやーっ」 イヤイヤイヤイヤ……今夜の桜は、どうやら眠るのが嫌らしい。 なかなか布団に入ろうとせず、いつものお休み時間になってもリビングに居座ったまま。 ごろごろもそもそしているから眠くはあるのだろうが、 しかし抱き上げて寝室へ運ぼうとすると、ピチピチ活き良く海老反りながら抵抗される。 悪い傾向とは思わない。ユールヒェンの言う通り、これも大切な子供の成長段階の一つだ。 こうして我儘を言うのは、つまりこちらに甘えている証でもある。 今までの彼女を考えれば、歓迎するべきであり、喜ばしい事だろう。 とは言え。 「やーだーっ」 いつまでも愚図つく彼女に、疲れた頭で溜息をつく。 早く寝かし付けたいのは、桜の寝不足は勿論、こちらの体調にも不安があるからだ。 どうも、ここ数日、風邪気味で身体が辛い。 咽喉も痛いし、頭痛もするし、咳き込むとなかなか止まらない。 伝染してはいけないからとマスクをかけたが、それも桜のお気に召さないようだ。 ならば今夜は部屋を別に寝ようとすると、今度はイヤイヤ虫が引っ付いて離れない。 ああもう。こうなれば、強行突破行使です。 半ば無理矢理布団の中に押し込んで、上から布団を乗せて抑え込むと、 小さな塊は内側からこちらを足蹴りを繰り返してきた。 それでもぽんぽんと上から辛抱強く宥めていると、布団の中のポップコーンは少しずつ弾け終え、 包み込まれた暗闇と温もりに眠気を誘われたらしい。 ゆうるりとした呼吸で上下する子山に、ああ漸く眠ってくれましたね、 だるい頭でほっと安心し、そのままうつらうつらと目を閉じた――のが間違いだった。 後悔は、朝。 自然に目が覚めたのは、日々の生活習慣のお陰だろう。 しまった、昨夜はタイマーのセット、し忘れてました。え、今何時ですか。 目覚まし時計へと首を巡らした瞬間、ぞくりと身体が震えた。 熱い? 否、寒いのか? むくりと半身を起し、そこで布団も被らず眠っていた自分に気が付く。 そうか、昨日はあのまま眠ってしまったのか。 ぐらぐらする視界と熱っぽい頭、関節に走る痛みに顔を顰め、額に手を当てた。 駄目だ、これは完全に風邪ですね。 風邪気味だから早く寝ようとしていた癖に、何やってんですか、自分は。溜息さえ、ぜえぜえと苦しい。 兎に角、早く起きないと。 纏わりつく気だるさに眉間に皺を寄せて耐え、ごろりと体の向きを変えたところで、 ぱちりと瞼を開いた桜と目があった。 いつもよりも少々遅い朝、どうやら自分で目が覚めたらしい。 「……さくら、さん」 その声の変わりように、自分で驚く。これは酷い。 砂を飲んだ様にざらざらとした感触に、咽喉を抑えてぐうと息を飲んだ。 途端、痛みを担って咳き込む。血でも出そうなそれに眉根を寄せ、慌てて口を手で押さえ、桜から顔を背けた。 止まらない咳に背中を丸める菊に、桜も布団の中から這い出てくる。 心配そうに伸ばされた小さな手を、いけない、伝染してしまいます、咳き込みながらやや乱暴に押し遣る。 咽喉が痛い。熱い。水。その前にうがいを。苦しい、息が吸えない。だるい。薬はありましたっけ。 リンパが腫れてますね。咽喉。桜さんは大丈夫でしょうか。寒い。眩暈が。 あ、駄目だ。 桜から距離を置こうと立ち上がった身体が、ぐらりと揺れ、そのまま膝をつき、崩れるように横倒れる。 床に打ちつけた身体が、腫れたリンパ腺に響き、普段では感じない痛みに蹲ったまま動けない。 咳で呼吸が上手く出来ず、ひゅうひゅうと咽喉が鳴った。 それにびっくりしたのは、桜だ。 慌てて菊へ走り寄り、どうしたの? 大丈夫? 小さなその手でぱたぱたと背中や肩を叩く。 ささやかなその力さえ、熱に侵された菊の身体には、過剰に強い響きを与える。 痛い、痛いですって、桜さん。 訴えは、止まらない咳で声にならず、菊はイヤイヤと首を横に振った。 熱で潤んだ目、細めた瞬間、じんわりと涙が滲む。 がばりと桜は立ち上がった。 目に見えておろおろすると、パジャマ姿のまま、ぱたぱたと寝室から飛び出す。 菊の耳に届くのは、がちゃんと玄関の鍵を開ける音と、重い扉を開く気配。ああ、そうか。 あのまま寝たから、ちゃんと戸締りにチェーンを掛けていなかったんですね。 桜が真っ直ぐに向かったのは、お隣、バイルシュミット家の扉。 インターホンに手は届かない。だから、桜はどんどんとドアを叩く。 力一杯。小さな拳で。必死になって。泣きながら。イヤイヤと首を横に振りながら。 呼び鈴は鳴らさずとも、流石にその尋常でない音は届いたらしい。 ドアの内側に気配が近づき、暫くの間を置いて、そっと扉が開かれる。 「桜?」 どうした? こんな時間に。 隙間から見えたダイニング、こちらに気付いたギルベルトが走って来るのが見えた。 思わず桜は隙間に手を差し込み、助けを求めて夢中に伸ばしてくる。 判った、判ったから、大丈夫だから、一旦ちょっとだけ離れて。 扉を閉めないと、キーチェーンが外せねえよ。だからギルも、引き込もうとするな。 宥め、少々強引に押し退けられ、一度扉が閉じられると、間を開ける事無く全開に開かれた。 「何かあったのか?」 見下ろすユールヒェンに、しかしいっぱいいっぱいになってしまった頭はパニックになり、 どの言葉を告げたら良いのか判らない。 あの、その、えっと。意味を成さない単語の羅列。 眉を潜めるユールヒェンに、桜はわなわなと唇を震わせて、大きく息を吸い込んだ後。 「ごめんなさーい」 うええんと大声で泣き出した。 体温計が示す数値に、ユールヒェンは苦笑する。どうやら彼は、違う意味で脳味噌が沸騰したらしい。 そういや昨日も、随分咳をしていたもんな。 「桜は、ギルと一緒に保育園に連れて行くから」 だからお前は、今日は仕事を休んで、このまま一日ぐっすり寝てろ。 「……すいません」 見下ろす布団の中、弱々しく返される他人のような声。熱っぽい顔は随分苦しそうだ。 きっと、こうして会話しているのさえ辛いのだろう。 ユールヒェンの隣、べそべそと涙を流している桜に。 「桜さん……今日は、ユールヒェンさんとギルベルト君と一緒に、園に行って下さい」 それに、イヤイヤ、菊は激しく首を振る。 菊は眉尻を下げ、何かを言おうと口を開くが、だが咽たようにげほんげほんと咳き込んだ。 肩を竦め、ユールヒェンは桜の頭をぐりぐり撫でる。 「あーあ。桜がイヤイヤばっかり言うから、菊が病気になっちまったぞ」 ほら。菊、苦しそうだな。 桜がちゃんと言う事を聞かないから、こんなんなっちまったんだ。あーあ、あーあ。どうする? 桜。 お前がここでまたイヤイヤ言って保育園に行かなかったら、 菊の病気はこのままずっと治らなくて、ひょっとすると死んじゃうかも知れないぞー。 わざと意地悪く大袈裟に言ってやると、桜は涙顔でユールヒェンを見上げ、 そして菊を見下ろし、思い詰めた顔で立ち上がった。 ととと……と小走りに寝室から出て行ったかと思いきや、間も無く戻って来る。 その手にずるずると引き摺っているのは、保育園へ行く際、菊が毎朝持って行くナイロン製のトートバッグ。 桜の通園セットは、昨日の内に菊がきちんと整えていたので、きちんと収まっている。 はやく、はやく。このままじゃ、死んじゃう。 必死な顔で腕を取り、保育園へ行こうと引っ張ってくる桜に、ぷっとユールヒェンは吹き出した。 「よーし。菊の病気が悪くならないように、イヤイヤ言わずに保育園に行こうな」 先ずは、お着替えか。その前に、朝御飯食ったか? 桜が良い子にしていたら、きっと菊も直ぐに良くなるぜ。 小さな力に逆らう事無く立ち上がり、連れられるままに、寝室の出口へと向かう。 そして、心配そうに視線を向ける菊に一度振り返り。 「イヤイヤ言わずに、お前もちゃんと静かに寝てろよ」 桜と二人、しいっと人差し指を唇の前に立て合って、そっと寝室の扉を閉めた。 イヤイヤ病は、とっても強力なのだ 2012.11.16 |