ツインとダブルの方程式 <7> 昔から、高熱を出すと、何故か懐かしい夢を見る事が多かった。 勿論、夢なのではっきりしてはいない。 内容も無く、断片的であったり、事実と違っていたり、一部だけが誇張されていたり、感覚のみであったり。 しかし魘された頭にそれらは強烈で、時に夢と現の境目が曖昧になることさえあった。 人間は、辛いことがあると、幼い頃や、子供の頃に回帰するとも言われる。 身体が辛くなった状態でみるこんな夢も、その一つなのかもしれない。 は、と目が開いた後も、暫し意識が混乱していた。 瞬きしながら天井を見つめ、そしてゆっくりと、浸透するように現実を理解する。ああ、そうか。 どうやら、また子供の頃を夢見ていたらしい。内容を覚えていないのは、幸か不幸かどちらだろう。 枕元に置いてある目覚まし時計をちらりと見遣り、既に午後を示した針にぎょっと驚く。 どうやら、随分ぐっすりと眠っていたらしい。 もうこんな時間――思わず呟いた瞬間、ざらついた咽喉が咳き込んだ。 とりあえず、水分補給ですね。 肘をついて半身を起こしたところで、部屋の隅に置かれている、見慣れない加湿機に気付く。 スタイリッシュなフォルム、すんなり伸びた煙突の先からぽこぽこと漏れる蒸気を夢見心地で眺めていると、 不意に玄関の扉が開く音が聞こえた。続いて、家の中に入って来る気配。 部屋の前を通り、キッチンへと向かう足音に迷いは無い。 つまり、この家を良く知る人物だ。本田家において、その該当者は極限られている。 ゆっくりと立ち上がると、少々眩暈がしたものの、朝程の酷さは無い。 それよりも、寝ている間に随分と汗をかいたらしい、肌に纏わりつくパジャマの水分に我ながら驚いた。 そっと寝室のドアを開け、少し首を伸ばし、とりあえずキッチンへと向かう。 壁に手をつきながら、廊下から開け放たれたままの扉から一歩中へ。 ダイニングテーブルの前には、すらりとした後ろ姿。 こちらの気配に振り返ると、よおと彼女は笑った。 「目が覚めたか。どうだ?」 「……今日、平日でしたよね」 覚めきらないまま、ぽかんと間の抜けた顔での、微妙にかみ合わない受け答え。 ぷっと吹き出す。当たり前だろ。 だから今朝、お前に代わって桜を、ギルベルトと一緒に保育園に連れて行ったんじゃねえか。 「あの……ユールヒェンさん、お仕事は?」 「有給使った」 ま、たまには良いだろ。 言いながら、冷蔵庫の中からペットボトルを取り出し、キャップを捻ってから、それを菊に手渡した。 買った覚えのないスポーツドリンクに疑問詞が浮かぶが、しかし問いかけるより先に、身体が猛烈に水分を要求する。 口を付けると、そのまま一気に呷った。 ごくごくと咽喉仏を上下させ、ボトル三分の二まで飲んだ所で、漸く呼吸の為に一旦口を離す。 だが直ぐにまた口を付けて全てを飲み干すと、ふうとテーブルの椅子に腰を落として脱力した。 何だか、必至になって飲んでしまった。自分が自覚していた以上に、咽喉が渇いていたらしい。 瞬きする視線の先、差し出されたのは体温計。すいません、受け取り、脇に挟む。 「お仕事、お休みさせてしまいましたね」 「気にすんな、丁度消化分があったしな」 桜はちゃんと園に行きましたか? おう、良い子だったぜ。先生がお大事にって言ってた。 伝染ってないと良いのですが。園に連れて行った時は、咳をしてなかったと思うけどな。 ピピ、電子音が計測終了を知らせる。 取り出した体温計が示す数値を確認すると、どうだ? ユールヒェンの手にそれを乗せた。 「お、だいぶ下がってんな」 病院どうする、行っとくか? いえ、菊は首を横に振った。 しっかり眠ったお陰で、かなりすっきりした。この調子なら、今日一日休めば大丈夫だろう。 咽喉はまだ痛むが、これは明日の出勤前か後かに病院に寄れば良い。 正直、だるい身体で外出するのもおっくうだし、もう今日はこのまま家で寝ていたかった。 「先に着替えるか」 大分、汗をかいたみたいだからな。 ユールヒェンはカウンターキッチン内に入ると、タオルを絞って電子レンジで軽く温める。 出来上がった蒸しタオルを手渡されると、菊はクロゼットのある寝室へ戻った。 蒸しタオルで軽く体を拭い、新しいパジャマに着替えると、 タオルと脱いだものを手に、洗面所兼脱衣所へと向かう。 入って正面の洗濯機、その前に汚れものを入れる籠を置いているが、 脱いだパジャマを入れようとして、それが空になっている事に気が付く。 どうやら、ユールヒェンが今日の洗濯をしてくれたらしい。 女性にパンツ、洗わせてしまいましたよ。何とも言えない心地で、空っぽの籠に汚れものを落とした。 「ご馳走様でした」 とっても美味しかったです。丁寧に両手を合わせる菊に、お粗末さま、キッチン内から返される。 眠っている間に作ってくれていたらしい洋風リゾットは、 あっさりしてて、身体が温まって、朝から何も食べいない胃がほっとした。 食べ終えた食器をカウンター越しに手渡すと、座ってれば良いのにと笑いながら受け取り、流し台に置く。 静かな室内に、ざあ、と水が流れる音。 窓の外へと視線を向けると、心地好い青空、ベランダで洗濯物が揺れている。 昨夜放置したままの桜のおもちゃが綺麗に片づけられている所から、どうやら部屋の掃除までしてくれたらしい。 粗雑に見える彼女だが、実際の所は几帳面で、綺麗好きで、桜と共に時々頂く料理だっていつも美味しい。 きっと、良い奥さんになるでしょうね。 そう考え、ギルベルトという子持ちの親であったという事実に、そっと笑う。 ギルベルト曰く母親ではないらしいが、それでもきちんと息子を育てている、立派な一児の母なのだ。 カタカタと音のなる鍋蓋に、コンロを捻りながら。 「あいつらが帰って来るまで、もうひと眠りしておけ」 それで、様子を見てまだ辛いようなら、桜は今夜、俺の所に泊まらせるから。 桜にまで風邪が伝染ったら、目も当てられねえからな。 「何から何まで、本当に申し訳ありません」 「全くだぜ」 だから、今度俺様が風邪を引いた時は、ギルベルトの事を頼んだぞ。 ぴしりと指を突き付けて朗らかに笑うユールヒェンに、心の何処かを軽くされ、はいと菊は頷いた。 「あと。寝る前に、ちょっとこれ、やっとけ」 はい? 首を傾げる菊を椅子に座らせると、風呂場から持って来た洗面器を、彼の前に置く。 洗面器に注ぐのは、先程まで彼女が火を掛けていた鍋の湯。薄茶色いそれは、ふわりと林檎に似た香りがする。 「これは?」 「カミツレ」 まあ、塩の入ったカミツレのハーブティーだな。 それから……とテーブルに置いていた小さな小瓶を取り、一滴、二滴、その中に滴を垂らす。 途端、部屋中にすっきりした香りが広がった。 「……アロマ、オイルですか?」 「おう」 ユーカリのブレンドオイル。ウチでは昔から、これを使っているな。 アロマの瓶を置くと、菊の背後に回り、半身を軽く前に倒して、洗面器の真上に顔が来るようにさせる。 そして持っていたバスタオルを、テーブルの洗面器共々、頭からすっぽりと被せた。 「そのまま暫く、蒸気を吸ってろ」 タオルに包まれた閉鎖空間、洗面器の蒸気が、腫れた咽喉にじんわりと浸透する。 籠る熱気と水蒸気に顔が熱くなるが、確かにこれは呼吸が楽になる。所謂、アロマの吸入療法なのだろう。 「あと、紅茶作るから、それ飲んでから寝ろ」 「紅茶、ですか?」 「ラム酒とはちみつと生姜を入れたやつ」 風邪を引いた時に飲む、ドイツの定番ドリンクだ。 成程、どうやら日本の卵酒と似たようなものか。何処の国でも、民間療法はあるらしい。 洗面器の前、蒸気に咽喉を潤しながら、ふふと菊は小さく笑う。 「なんだかユールヒェンさん、お婆ちゃんみたいです」 ユールヒェンは片方の眉を吊り上げた。 「そこは、お母さんって言うトコじゃねえのか?」 一応ギルベルトもいるし、今更お母さんやおばさんの呼称に抵抗はない。 しかし流石にお婆ちゃんってのは、年齢的にアレじゃないか? 「私、祖母に育てられたんです」 冬には底冷えする地方の田舎。 田んぼに囲まれた古い家は、祖母と二人で生活するにはやけに広く、子供心に随分寒かった印象が残っている。 もとより粘膜が弱く、風邪を引いた時は大抵最初に咽喉をやられた。 診療所は遠くの町にしかなく、経済的な理由もあって、 体調を崩した時は、余程酷い場合でない限り、こんな昔ながらの民間療法で乗り切ったものである。 「早く独立して……祖母の居る田舎に帰るつもりだったんですけどね」 今は個人事務所に勤めているけれど、経験を積んで資金を貯めたら、 田舎に戻って自分で事務所を作るつもりであった。 だけど、田舎に戻る最大であり唯一の理由であった祖母は、就職して間もない頃、他界してしまった。 ここまで育てて貰った恩も、お礼も、独立の目標も、全て宙ぶらりんのまま。 苦い後悔と痛みと共に、今も根強く胸に残っている。 ――駄目だ。体調を崩すと、どうも気弱になるようだ。 熱の所為か、夢の余韻の所為か、妙に懐かしいことばかりを思い出す。 頭の上、バスタオル越しに、そっとしなやかな手が乗せられた。 優しく、優しく宥める感触に、タオルの中で菊はぎゅっと目を閉じる。 慈しむような手の平の下、熱に侵された頭が、ゆうるりとした温度を担って子供に戻る。 「……お婆ちゃんは、よく大根飴を作ってくれました」 大根飴? 昔ながらの、日本の民間療法の一つですよ。 へえ、どうやって作るんだ、それ。 大根を角切りにして、浸る程度に蜂蜜をかけて、タッパーに入れておいておくんです。 暫くすると大根のエキスが出てくるのですが、そのエキスをスプーンで飲むと、すごく咽喉に効くんですよ。 「甘くて美味しくて……時々こっそり嘘をついて、お婆ちゃんに作って貰いました」 ちょっと咽喉が痛いような気がする、そう主張すれば作ってくれているのを知っていたから。 でも恐らく、こちらの嘘なんか、祖母には全てお見通しだったのだろう。 「私は、お婆ちゃんに――嘘をついてしまいました」 微かに震える声。 普段から、それこそ桜に対してまできっちりとした敬語を使う彼が、 祖母では無く、「お婆ちゃん」と口にすると、落ち着いた印象との落差からか、妙に子供じみて聞こえる。 ユールヒェンは、柔らかく目を細めた。 「でも、きっとお婆ちゃんは判ってくれていたと思うぜ」 お前が、自分自身で気付かなかっただけで。 その場限りの誤魔化しや嘘でなく、本当はちゃんと咽喉が痛かったって事をな。 「ユールヒェンさん」 「おう」 「鼻水が出てきました」 バスタオルに覆われた内側、ぐすりと鼻を啜る音。 「そのまま流しとけ」 洗面器に垂らしておけば良いから。 「ユーカリって、結構沁みるんですね」 「そうかもな」 「すいません。もう少し……このままで居ても良いですか」 構わねえから。声に出さずに小さく笑う。 「だから、焦らないで、ゆっくり温めてろ」 子供の気配のない、二人きりの静かな東向きの部屋。 やけに背中が暖かかったのは、きっと窓から差し込む昼下がりの陽光の所為なのだろう。 ――そう、思った。 大根飴、効きますよね 2012.11.21 |