ツインとダブルの方程式
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桜の手にあるその造花に、菊はおやと目を丸くした。 ひらひらした花弁を持つそれは、どうやら保育園で作ったものらしい。
ああ、もうそんな時期なのか。 カウンターキッチン内の冷蔵庫、マグネットで張り付けたカレンダーを振り仰ぐ。 小さく印をした日は、そう言えば今年は丁度日曜日だ。しかも、偶然にもその日と重なっていたらしい。
微かに目を細めて思案すると、菊は少し腰を折り曲げ、小さな顔を見下ろした。
ねえ、桜さん。
「そのお花、お母さんの所に持って行きましょう」











二人が降りたのは、普段使わない沿線上にある、各駅停車の駅だった。
正面には商店街のアーケードが伸び、いつもその入り口近くにある生花店で花束を買う。 そして包んで貰ったそれを手に携え、 アーチを抜けた所を右折して直ぐの場所、小さくレトロな喫茶店に入るのがお決まりのコースだ。
母の元へ行く時にいつも寄るこの喫茶店が、桜は好きだった。 静かでクラシカルな内装は、いつも入るようなお店――バーガーショップだったり、 ファミリーレストランだったり、フードコートだったり――とは雰囲気が違い、なんだか特別な感じがする。 それに、この店のミックスジュースは、ミキサーで作ってくれるフレッシュなもので、 少しどろりとしているけれどとても美味しくて、ここに来ると必ずそれを注文するぐらいのお気に入りなのだ。
人もまばらで、何処か外とは隔絶した空気に満ちた店内。 いつもの窓際のテーブル席、差し込むセピア色の陽光。 静かな音楽と共にのんびりと流れる時間は、外とはその速さが違うような錯覚さえ起こす。 美味しいですか? 正面の席から頬杖をついて尋ねる菊のその笑顔さえ、いつもと違う特別なものに見えた。
ふと、テーブルの上に置いた携帯電話が振動する。
慣れた手つきで操作をすると、菊は携帯電話を耳に当て、腕時計へと視線を落とす。 はい……はい、判りました。本当に申し訳ありません、わざわざありがとうございます。 潜めた声でそう伝えてから通話を切ると、菊は顔を上げて桜に微笑む。
「さ、そろそろ出ましょうか」
ミックスジュースのグラスの中の氷は、いつの間にか殆ど形を無くしていた。





喫茶店の前の横断歩道を渡ると、途端に閑静な住宅街へと変わった。 大きく、立派な家屋が立ち並ぶこの界隈は、古くからの高級住宅が並ぶ区域でもある。 ゆったりとした道を通り、角を折れ、なだらかな坂道を登ると、 間も無く目的の場所――やや年期を感じさせる寺へと到着した。
桜と菊は、手を繋いだまま、その大きな門を潜る。
正面に建てられた風格ある本堂に菊が一礼すると、それを真似て、桜もぺこりと頭を下げた。 そのまま左手に折れ、椿の垣根の横を通ると、寺の裏手、檀家の墓地に辿り着く。 手前にある水場で桶に水を汲む菊を置いて、桜はとことこと先に中へと向かった。
三つ目の並びを曲がり、石造りの階段を一歩づつ昇り、奥に入って、 やや大きく立派な墓石の前に到着すると、その一段高い場所から桜は菊に手を振った。 それに応えるように、菊も手を振り返す。 彼女はちゃんと、場所を覚えていたらしい。そっと菊は目を細める。
墓を見ると、清められた墓石にはまだ水分がしっとりと残っていた。 百合をメインにした大きな花束は瑞々しく、供えられた花立てに、新たに差し込むスペースは見当たらない。 矢張り、今日は仏花をやめたのは正解だったようだ。
せめてと買ってきたのは、二本の白いカーネーション。 それを左右に一本ずつ差し込むと、持参した線香に火を付けた。
「桜さん、こちらに」
小さな手に一本だけ線香を持たせると、香炉に立てるように促した。 そして数珠を持たせると、一緒に杓子に手桶の水を掬わせ、墓石の側面に掛けさせる。
「さ、お母さんにお花を渡して下さい」
こくりと頷くと、斜め掛けしていた小さなポシェットから、 大切に持って来た白いカーネーションの造花を取り出した。 少しだけ草臥れてしまっているけれど、墓石の上の供台へ、桜は両手で丁寧に乗せた。





「ごめん下さい」
鍵の掛かっていないドアを開けて、菊は奥へと声を掛ける。 詰め所と兼用の開放的な居住家屋の玄関口、間も無く姿を現したのは、きちんと袈裟を纏った寺の住職である。 菊と桜の姿を見ると、目元を皺くちゃにして相好を崩した。
お久しぶりです。やあ、いらっしゃい。桜ちゃんもこんにちは、ちょっと背が伸びたねえ。 朗らかに笑いながら、菊の足元に並ぶ桜に朗らかな笑顔を向け、その小さな旋毛をぽんぽんと撫でる。
「本当に申し訳ありません、ありがとうございました」
こちらの勝手な都合で、わざわざ電話をさせるような真似をお願いしてしまって。 深々と頭を下げる菊に、いやいやと住職は制した。二人の立場は理解している。 古い檀家との繋がりが深い彼は、菊と桜の事情を良く知る者の一人だ。
よろしければと誘われ、菊と桜は寺の本堂へと上がった。 天井の高い本堂の大きな仏像の前には、焼香の香りが強く残っている。 法要が終わってから、まだ間が無い。 もう位牌は無いものの、しかし菊は丁寧に頭を下げ、両手を合わせて目を閉じる。 それを暫し見つめ、桜も同じように、並んで両手を合わせた。
寂しい法要でしたよ。ぽつりと零した住職の言葉に、菊は辛く眉根を寄せる。
普段の法要で有れば、なかなかに親族が集まる大きな檀家であるが、 しかし本日執り行われた逆修法会は、故人の両親のみ、たった二人きりでひっそりと行われた。 恐らくは、人目を憚ったのであろう。 肩書や外聞を気にする彼らにとって、未だに彼女は汚点として残っているのだろうか。 ならば、なんと哀しい事か。
直接突き付けられた言葉に従い、菊は桜共々彼らに会う事を避けていた。 命日であった今日、住職の協力を得てまで、法要が行われる時間を外して参内したのもそれが理由だ。
何より、母を亡くし、その意味さえ理解できていない幼い桜に対して吐き捨てられた暴言は、 忘れたくても忘れられない。 対象が自分なら兎も角、実の祖父母から向けられるそんな言葉を、二度と、絶対に、桜には聞かせたくなかった。 その顛末を知るからこそ、住職は菊に協力を惜しまない。
貴方も、本当に苦労をされますね。 本来、何の咎も無い第三者であった筈なのに、不必要な責を引き受けているようなものです。 住職からの労わりの言葉に、とんでもないと笑って首を振る。
確かに子供を育てるのは大変だ。 だが、それを帳消しにするだけの喜びがあり、それを上回り余りあるだけの力を与えられ、 それ以上に日々支えられているのは寧ろこちらである。 今の自分がこうしてあるのも、間違いなく桜の存在があるからだ。
そして、何よりも。
「血の繋がりはなくても……桜は、私の大切な娘ですから」
隣に並ぶ桜を見下ろし、そっと引き寄せる。 不思議そうにこちらを見上げるが、しかし抵抗する事無く、桜はその腰に腕を回してしがみ付いた。 ほわ、と零れる幼い笑顔に、それを見守る住職も笑み零れる。
しかし、まだお若いのに、お一人で大変でしょうな。 でも今の家に越してからは、お隣の御家族が何かと助けて下さって。 そうですか、それは良かった。本当に、いろいろお世話になっているんです。 あちらも、桜と同じ年の男の子がいらっしゃって。成程、親子共々、お友達と言う訳ですな。
和やかに続く大人達の会話に、やがて取り残された桜が、疎外感と退屈を持て余し始める。 うろうろと視線を彷徨わせ、もそもそと指を弄り、ぶらぶらと足を伸ばして、うだうだと身体を揺らす。 それでも、いつまで経ってもこちらを蔑ろにする大人達に、堪り兼ねたように、その腕をぐいと引っ張った。
どうしましたか、見下ろす菊に。
「おとうさん、かえろ」
もう、早くお家に帰ろう――お父さん。
桜の口から零れたそれに、菊はその目を大きく見開いた。
ゆっくりと解けるように笑みがこぼれ、そしてくっと眉根を寄せて唇を噛みしめる。 こぼれそうな涙を誤魔化すように俯くと、菊は膝を突き、小さなその体を、 大切に大切に、包み込むように優しく抱き締めた。


お父さん。
桜が、菊に対して初めて口にした名称だった。











「書けたか、ギル」
ぱたりと色鉛筆を置いたギルベルトに、ユールヒェンは首を伸ばす。
おう、と自慢げに頷いて差し出すメッセージカードには、 赤、オレンジ、水色、緑、ぐるぐると、真っ直ぐと、波打って、 紙面一杯に、カラフルに、伸びやかに、想いの丈が彩られている。 受け取ったそれを、ユールヒェンは丁寧に二つ折りにした。
少し大きめの封筒には、ドイツ語の住所、その隅には赤字でエアメールの文字を記載してある。 その中に、受け取ったカード、管理人宛てに綴ったユールヒェンの手紙、 そしてギルベルトが保育園から持ち帰って来た、手製の白いカーネーションの造花を収めた。
「明日、郵便局に持って行くからな」
中に手紙も同封したし、気の良いあの墓地の管理人なら、きちんと墓に供えてくれるだろう。 きっとギルベルトのメッセージも伝わると思うぞ。 にかりと笑ってそう言うと、ギルベルトは嬉しそうに椅子の上で飛び跳ねた。
きっちりと封をした所で、ピンポンとチャイムが鳴った。 あ、とユールヒェンとギルベルトは顔を見合わせる。メールで連絡のあった時間にぴったりだ。
ギルベルトは椅子から降りると、いち早く玄関へと走った。 よいしょと背伸びをしながら、音を立てて玄関の鍵を開ける。 重たいドアを開くと、そこに佇む姿に、ぱあっと笑顔になった。
「こんにちは、ギルベルト君」
扉を開く手助けをしながら穏やかに笑う菊と、その足元からひょこっと顔を出す桜に、 ギルベルトの後ろからよおとユールヒェンも出迎える。 今日の桜は、品のある紺色の少しばかり畏まったワンピース姿だ。 見上げると、菊も暗い色のスーツを纏っている。何処かに出掛けていたらしい。
「お邪魔します」
すいません、急に。桜がどうしても、ユールヒェンさんに会いたかったみたいで。 玄関の上がり端、ちょこんと背中を向けて座る桜のエナメルの靴を脱がしながら、 そうか、俺様に会いたかったか、ユールヒェンはぐりぐりと小さな頭に頬擦りする。
「で、こちらがそうなんですが」
持っていた紙袋を差し出そうとする菊に、靴を脱いで立ち上がった桜が、慌てて阻もうと手を伸ばした。 どうやら、自分でユールヒェンに手渡したいらしい。
菊が笑いながら桜にその紙袋を渡すと、両手で受け取り、膝をついたままのユールヒェンを振り返る。 そして、小さな腕を目一杯伸ばして、はいと差し出した。どうしても、どうしてもこれがしたかったらしい。
「ありがとう、桜」
受け取り、感謝を込めて片手でぎゅっと抱き締めると、くすぐったそうに桜は肩を竦めた。
「夕飯、食ってくだろ」
ちょっと早いけど、今御飯を炊いているから。 今日はな、スシだぞ、チラシズシ。あったかご飯に混ぜるだけの奴だけどな。 良いですね、お吸い物作りましょうか。 リビングに向かうユールヒェンと菊の後ろ、桜の手を引っ張りながらギルべルトが纏わりつく。
「なあなあ、それなんだ?」
「ん、何だと思う?」
夕食前だけど、先にちょっとだけ見てみようか。
テーブルの上に乗せると、ギルベルトと桜はよいしょよいしょと椅子へとよじ登る。 ぐいぐいと頭を寄せ合いながら覗き込む紙袋の中、傾けないように取り出したのは四角いケーキ箱であった。
帰宅の途中に通りかかったショップにて見掛けた、本日を過ぎれば意味のないデコレーションケーキ。 既にプライスダウンが始まったそれは、あまりにも可愛くて、綺麗で、 どうしてもユールヒェンにと桜が強請ったものである。
「これはな、夕飯の後のお楽しみだぞ」
良いか、人参としいたけを残した子にはあげないからな。 神妙な顔で告げると、ギルベルトと桜は真剣な面持ちでこくこくと頷いた。 それを確認してから、やや勿体ぶった仕草で、ユールヒェンは組み立て式のケーキ箱をゆっくりと開く。
わあと、同時に声が上げった。
「すっげーっ」
「可愛いなーっ」
登場したのは、やや小振りなホールケーキ。 苺と桃のヨーグルトムースがベースとなっており、 レースのように薄く削られた薄桃色の苺チョコがカーネーションの花弁を模し、華やかに飾られている。
まるで大きなピンク色のカーネーションの花が乗せられたようなそのデコレーションケーキに、 ユールヒェンとギルベルトは目をきらきらさせた。


中央に乗せられているのは、赤いメッセージカード。
そこには、「お母さんありがとう」の文字が記されていた。








最近は、敢えて母の日をスルーする保育園も多いそうです
アンテ○ールの「ルージュ」という限定ケーキが可愛くてだな
2012.12.05







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