EYES
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目を開く。

現実がそこにある。





冷え切った夜の空気の中、薄い夜着のまま裸足で歩く。
寒さなどは感じない。 心の中には、外気よりももっと凍てついたものがあるから。
帰ってくると信じていた。
いままで、彼はどんな困難な戦いでも、切り抜けてきた。心配は消えることは 無かったが、それでも信じていた。帰ってくると、信じていた。
だってあの日だって、まるでいつものように、外にちょっと出かけるだけのように、 あんまりにも 気軽に行ってしまったから。
今回だって「いつもと同じ」。
そう自分に思い込ませ、心の中に 確かにあった嫌な予感を、無理矢理押さえつけてしまった。





何故、あの時止めなかったのだろう。
何故、あの時疑わなかったのだろう。
何故、あの時泣き叫んででも、「行かないで」と言えなかったのだろう。





すべてはもう遅い。





空ろな目には、何も映していない。ただ、空虚な心が 急き立てるように足を動かしている。
そして擦り切れて傷だらけになった 白い足が止まる頃。
眼下には、すべてを吸い込むような崖があった。
足元から吹き荒れる風は、下ろしたままの黒髪を吹き上げる。この下は瓦礫になっていて、 垂直に落ちて助かる見込みはまずありえないだろう。
いつも、何時でも待たされていた。
周りでは『地球の存亡』だとか、『宇宙の危機』 だとかご大層な事を言っているが、 そんな事どうでも良かった。
だって結果は決まっている。





『いつもたくさん傷を作る』
それを、ただ待たなくてはいけないのだ。何も出来ずに。

もう、残されるのは嫌なのに。





ひときわ強い風が、吹き上げた。それに体が巻き込まれ、ぐらりと体のバランスが崩れると、 そのまま前につんのめる。
ああ、落ちてしまうんだな。
頭の奥では、嫌になる程冷静にそれを実感していた。
だから、目を閉じた。
体が完全に宙に浮かぶ。落下する感覚。これは案外 心地よいかもしれない。
だってこれで、もう苦しいのが終わるから。
だがその心地よさは、予想に反してひどく短い。
短すぎるぐらいだった。
随分経ってから、自分ががっしりとした腕に 抱きとめらレている事に気がついた。
宙に浮上する浮遊感。鍛えられた腕。しっかりと、 でも壊れ物を扱うような力加減で。
ああ、でも、違う。
欲しかったのはこの腕じゃない。
この腕の感触は、求めているものと全く違うものだった。





「馬鹿な事を…」





いまいましげに告げる声に、悪いとは 思ったが、「やはり違う」とひどく落胆した。
ぼんやりと閉じていた瞳を開き、顔を上げる。
「全く…。 自殺を選ぶとはな」
白いマントをたなびかせ、武空術でチチを抱きとめたのは、この 戦いのために、三年間悟空と修行を共にしたピッコロであった。
今回の事で、悟飯とチチを、随分気にしていたらしい。日中も、幾度か悟飯の 様子を見に、訪ねてきたりもしてくれていた。
弱々しく、チチは唇だけで笑う。
それ以上の笑顔は、とても作れなかった。
「別に、死にたかった訳じゃねえだよ」
かすれた声で告げる。
「ほんとに…」
死にたかった訳ではなかった。
「じゃあ、 何をするつもりだったんだ」
こんな真夜中、夜着のまま裸足で崖の上までやってきて、 それどころか今正に、宙に身を浮かしたのだ。
この一連の行動に、自殺以外の何が思い当たると言うのであろう。
「苦しかったから…」
息が出来ないくらいに。
のんびりと視線を足元へ移す。 浮いた体の足元は、何処までも闇に吸い込まれていて何も見えない。
ああ、確かにここから落ちれば 死んでしまうんだろうな。
いまさらそれを自覚して、チチはくすりと笑った。





何故笑う?
その心理が読めないピッコロは、苦く目を細めた。
それにしても、と思う。
今回の戦いの為に、ピッコロは悟空と悟飯と共に修行をした。いわば毎日のように、 孫家を訪れていたので、悟空の妻であり、悟飯の母でもある彼女は、 よく見知っているつもりだった。
あの修行の頃のチチは、よく笑い、よく怒る。そんな 感情の起伏の激しい表情ばかりが、鮮やかに目についていた。
だからだろうか。こんな顔をした 彼女は知らない。
おまけに、何だ?この細さは。
もともとどちらかと言えば細身で あったとは認識していた。それにしてもこの軽さといい、弱々しさといい、こうして 腕にしていると、そのか弱さが痛々しい。
恐らく、悟空の死を聞かされて以降、殆んど食が進んでいないのであろう。 眠れてもいないのかも知れない。とにかく痩せ方が 異常だ。
「なあ、ピッコロさ…」
独り言のような、小さな声。





「悟飯ちゃんには、言わねえでけろな」





「あの子は優しい子だから、すんげえ自分を 責めちまってて…。おらのことも、心配しちまってなあ」
こんな事が知れたら、 また自分を責めてしまう。ただでさえ、父親を死なせたのは、自分だと思い込んで いるから。
「おらが、もっとしっかりしなきゃなんねえのにな」
今だって、死のうとしたわけじゃ決してないのだ。
ただ、疲れていたから。 ものすごく苦しかったから。気がついたらこうなっていたに過ぎない。
ほんとに。本当に。
ピッコロは舌打ちした。
「帰れ。送ってやる」
「ええだよ。悟飯ちゃんに、気付かれちまう」
親しい者や強い者の気配に、悟飯はかなり 敏感だから。きっとピッコロの気配も、近づいただけで察してしまうだろう。
「大丈夫。独りでちゃんとけえれるから」
「送る」
見ていられない。
「ほんとに大丈夫だ」





だから、降ろしてほしい。





すう、とピッコロは地に足を置いた。 丁寧にチチを降ろしてやる。
「すまねえな」
一度見上げ、笑顔になりきれない 笑顔で、とりあえず笑ってみせた。
「ありがとう。また悟飯ちゃんの事、見に来てやってけれな」
悟飯の名を出すときだけは、 本当に母親らしい表情を見せる。
わからんな、と思う。今心配すべきは、他でもない、 彼女自身なのではないか。
影の薄い背を向けて、心もとない足取りで家路へと向かう。
しかし数歩のところで、ぐらりと揺れた。
「危ないっ」
慌てて支える。 そのピッコロの腕に、ああ、と自分の状況を把握した。
いらいらと肩を支える手に力を込める。何故だか判らないが、 腹が立った。
「しっかりしろ。お前、それでもあの孫悟空の妻か?」
ぴくんと細い肩が揺れた。
きっと振り返り、肩を支えられた腕を振り切ると、 ピッコロを睨む。
「そうだ、おらは悟空さの妻だ」
ぼろっと大きな両の目から、涙が零れる。
それは唯一、まだ彼女が生きていると言う 証のようにも見えた。





「知らねえくせに」
「二度も旦那を無くす妻の気持ちなんて知らねえくせに」
「旦那にもう帰らなくてもいいって言われる、妻の気持ちなんか知らねえくせに」





























「…すまん」
ピッコロはうな垂れて謝った。
悟空が死んで一番堪えているのは、誰でもない、 家族であった悟飯と、このチチなのだ。
静かなピッコロの言葉に、 チチは大きく深呼吸をする。
「…おらこそ…すまねえ。気ぃ高ぶっちまって…」
忘れてけれな。
誰かに当たる事で楽に慣れるなら、どんなに良かっただろう。
しかし今回は違う。ドラゴンボールがあれば生き返れるところを、悟空は自分の意思で、 それを拒否したのだ。
「なあ…なんでかな」
俯き、白く細い指を組む。
「何で悟空さ、帰ってこねえかな」
ぼろぼろと両の目から涙が溢れた。
泣きたくはなかった。
泣けばきっと止まらない。止まらなければ、目が腫れてしまう。
それを見たとき、「自分の為に父は死んでしまった」と思い込んでいる悟飯は、 どんな思いをするだろう。
「ピッコロさ…一つお願いしてもいいだか?」
「言ってみろ」





「当て身でも、殴りつけてでも、なんでもいいから。
おらが泣かねえように、気を失わせてくれねえか」





ピッコロは目を伏せた。
「…わかった」
そしてそっと手を伸ばした。
チチの白い額に手をかざす。一瞬の間を置き、一気に気合を込めると、かくりとチチの体から 力が抜けた。
地面に倒れこむ前に、支え、横に抱き上げてやる。チチに負担は かけなかったはずだ。 穏やかな呼吸を確かめ、ピッコロは小さく息をつく。
やはり細い。 小柄で子供の悟飯よりも、ずっと、ずっと軽いのではないかと思う。
「孫よ」
虚空に向かってピッコロは声を張り上げる。
聞こえているわけではないであろうに、それでも 言わずにはいられなかった。
「この女は死ぬぞ」
死ぬつもりなんてなかった。
彼女は さっきそういった。恐らくそれは本当なのだろう。
チチは、無意識でこんなことをしている。
そして自覚がないだけに厄介だ。
「きっと、何度も同じ事を繰り返すだろう」
そう。





「生きる希望でも与えない限りはな」





苦味を含んだ声は、ただ夜空に染みこんでいった。









ストレスを測る基準のひとつ
一番最大値に負担がかかる出来事は
「肉親、配偶者の死」らしいです
チチさんストレスたまりまくり
2001.12.03







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