魔女と拾い猿
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 あんれまあ。
 山道にころりと転がった赤黒い毛玉に、チチはきょとりとその艶のある目を瞬きさせた。もそりと動いたそれの前にしゃがみ込み、首を傾けながら、そっと窺う。
 僅かに上下するのは、呼吸なのだろう。時々震えるのは、痙攣しているのか。息苦しいのか、ひゅうひゅうと喉を鳴らす音は途切れがちだ。元は生命力の強い生き物であろうに、しかし随分と衰弱しているらしい。
 無意識であろう、守るように丸めて抱えたその頭部には、流れる血で赤い体毛がごわごわになっているようだ。高いところから落ちたのか、なにかに追われて負傷したのか。どちらにせよ、このまま放っておけば、こと切れるのは時間の問題か。
 弱肉強食。それが自然の摂理ではあるけれど。
「……ま、たまにはええか」
 チチは手を伸ばすと、そっと丸まった弱々しい体を引き寄せた。
 くたりとしたそれは、すっぽりとチチの細腕の中に収まる。どれ、とその顔を伺うと、どうやら小猿であるらしい。すんなりとした尻尾が、力なく垂れた。
「とりあえず、治療はしてやんべ」
 でも、生きるも死ぬも、おめえさの生命力次第。
 少し様子を見て、見た目が良いなら、何処かに売り飛ばせばよかろう。手先が器用なら、家のことを取り仕切る小間使いをさせるか。頭が良いなら、知識を与えて後継者に仕立て上げるのも面白そうだ。従順な性質であれば、契約を施して使い魔にしてやってもいい。
 潜在能力は高そうだし、まだ幼い。どのような成長を見せるのか、見守るのもまた一興。
 生き物を育てるのは初めてではあるが、人とは違う永い時間を過ごす中、偶にはそんな時期があっても良かろう。これもまた、己の学びのひとつとなるやもしれない。
「どんな子になるか、楽しみだべな」
 くふくふとチチは楽しそうに笑って、腕の中の毛玉に頬を寄せる。
 まずは、屋敷に連れて帰ろうか。治療をして。体を洗って。綺麗な服を着せて。その後は、美味しいご飯を与えよう。
 ああ、でもその前に。
「おめえに、名前を付けてやるだよ」
 さて、この小さな幼子に、なんという名が相応しかろうか。















 と、まあ。
 あの時は夢を見たものだ。















 チチは、フライパン山に住む魔女だった。
 魔力はそれほど高くはないが、薬の知識はある。なので時折、人間から薬の調合の依頼を受けつつ、薬草畑を耕しながら、ひとりのんびりと生計を立てていた。


 ――少し前までは。















 へらりと見下ろしてくるその顔に、チチはわなわなと唇を震わせた。
「よっ、チチー。たっでえまー」
 悪ぃな、思ったよりも遅くなっちまって。
 屋敷の玄関口、敬礼するように片手を掲げながら笑顔で帰宅の挨拶をする男に、チチは震える体を拳を握って押さえつける。そして黒目がちの目を吊り上げ、ぎっと睨み付けた。
「今までどこに行ってただっ、悟空さぁ……」
 地を這うような低く抑えた声に、彼女の本気の怒りが滲み出ている。玄関の向こうでは、不穏な気配に小鳥ががばさばさと飛び立った。流石に気まずく、悟空はいやあと笑ってぼさぼさに乱れた頭を掻く。
「ホントはもっと早く帰ってくる予定だったんだけどよぉ」
 修行ついでに、東に強い奴らがいるっていうから見に行ってさ。そいつがまた、すんげえ奴でさあ。結構大変だったんだぜ。これでも、急いで帰って来たんだって。
 ははっと笑いながらの軽い口調での言い訳に、チチは腕を組む。その背後から立ち昇るどす黒いオーラを察知し、流石に悟空の笑顔も引き攣る。やべえ。すげえ怒ってる。
「おめえ、なーんも言わず、何日返ってこなかったと思ってんだ?」
「えっと、ひと月……あ、いやっ、ふた月、かなっ?」
「三カ月半だべっ」
 修行? 強い奴? この男はいつもこれだ。己が強くなる為に貪欲で、体を鍛えることに全てをかける。そして一度その事に集中すると、それ以外の全てを、すっかり忘れてしまうのだ。
「大体、おめえはな――っ」
 続く怒声は、ぐうう……と間の抜けた腹の虫の音に遮られた。
 悟空は逞しく割れた自分の腹を擦って宥めると、気まずくちらりとチチを伺う。はくはくとチチは怒りの言葉を履き出そうとするが、やがてがっくりと肩を落とした。もう、ええだよ。大きく当てつけの溜息をつくが、悟空はへへっと笑う。絶対、この男は解っていない。
「とりあえず……風呂さ、入って来てくんろ」
 まともに体も洗ってなかったのだろう。薄汚れて、泥だらけで、ボロボロで、何より臭い。このままずかずかと上がり込み、屋敷の中を汚されたくは無い。
 疲れた気分でのろのろと背中を向けると、了解とばかりに悟空はバスルームへと向かった。



 拾った小猿は、治療を受けるとすくすくと育った。
 元より、生命力が強い種族らしい。小さな体で纏わりついてくる様子は可愛らしく、チチも我が子を見守る心地で、玉のような小猿を慈しんだ。
 だがそれも、小猿が成長期を迎えるまでのこと。
 長らく人の幼子と同等であった小さな体は、成長期を迎えると、途端にかの種族特有の体つきを成し、あっという間に変化する。拾った時の、おぼこい面影はどこへやら。今はすっかりと様変わりしてしまった。
 筋肉隆々に。



 まさか、こんなに逞しくなるとは思わなかったべ。
 さっぱりした顔でバスルームから出てくるその姿に、チチはひっそりと溜息をついた。
 背中から腕へと生え揃う赤い体毛が包むのは、全身が鎧でもあるかのように鍛え抜かれた筋肉である。頑健、なんてもんじゃない。チチに言わせれば、もはや岩山である。
 彼に不満をぶつけるつもりはないが、しかしこれほどまでにムキムキと盛り上げるとは、流石の魔女にも予測がつきませんでした。いや、別に筋肉に罪は無いけれど。
 雄獅子のようにボリュームのある黒髪に、赤い隈取に縁取られた目元は鋭く、厳つく、ごつく、なんかもう見るからにものすごく強そうだ。否、実際強い。その強さは、この辺境ではもはや敵う者はおらず、自らの強さを追い求め、遠征修行に赴くまでになっている。どうしてそうなった。
 濡れた黒髪をタオルで拭いながらやって来た悟空は、テーブルに乗せられた料理に、実に判りやすく笑顔を浮かべる。
「うひゃー、美味そーう」
 なあなあ、チチ。食って良いか? はいどうぞ。やったあ。
 無邪気に目を瞬かせながら椅子に座り、ぱんと両手を合わせると、いただきますのひと声。チチの作った山のような料理に、嬉々として箸を伸ばした。
 その気配を背中に、チチは急かされるように火にかけたフライパンを手早く揺する。はい、一丁あがり、そしてもう一丁あがり。次々に出来上がる料理を皿に盛り、テーブルの上へと並べてゆく。
 なにせこの男、その立派な体格見たままに、やたらとよく食べる。普通の食事量ではとても足りない。今も、あれだけ山と並べた料理皿が、みるみると空になって行くのだから。





 最初は、それなりに夢を見ていた。
 ちょっとした気紛れとは言え、幼い子供を育てるのだ。折角だから、自分好みに育ててみようかな……なんて、ちらりと思ってたりもいた。
 例えば――すらりとした長身のハンサムに仕立て上げ、子宝に恵まれないお金持ちに高く売り飛ばし、家族幸せに過ごす様を時々そっと覗きに行くとか。物憂げそうな睫毛の長い美形紳士に雑用を任せ、調合に疲れたタイミングでさっと紅茶を入れて貰い、最近根を詰め過ぎですよなんて優しく叱られたりとか。知的で幸薄そうな美丈夫に勉強を教え、いつかは自分を超えるほどの天才となり、お陰様で都会の学校に首席で卒業できましたとにこやかに報告されたりとか。線の細そうな美少年をとことん甘やかし、大好きだから絶対離れないよ、ずっと傍にいるからねと可愛らしく懐かれたりとか――等々、エトセトラエトセトラ。
 そういうのも憧れていなかったといえば、嘘になる。夢見るぐらいは良いじゃないか。女は誰しも乙女の心を持っている。例え魔女であろうとも。



 しかし、得てして夢と現実は違うもの。



「なあなあ、チチ。これ、おかわりあんのか?」
「今作ってるだよ」
「ひゃあ、これすっげえうめえな」
「はいはい、お待たせだべ」
「おおーっ、すっげえ豪華ぁ」
「どうせ、ずーっとろくな飯、食ってなかったんだべ」



 まったくもう。なんでおらがこんなことを……そう腹が立つことも多いのだが、しかし彼は、自分が作った料理を本当に美味しそうに食べてくれる。元より料理は嫌いではない。
 何より。

「やっぱチチの作る飯が、一番うめえや」

 ついその顔にほだされてしまう自分は、やはりこの拾い子に甘いのだろう。
 得てして、夢と現実は違うもの。
 子育てとは、なかなか自分の理想通りにはいかないものである。









魔女集会で会いましょう
2020.04.06







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