上海ムーン <1> 頭上で鳴き声を上げた海鳥に、閉じていた目を開いた。 どうやら、 そろそろ港が近いらしい。うーん、と腕を伸ばして、日除け代りに顔に乗せていた本を取る。 眩しくなった視界に、瞬きを繰り返した。 むくっと半身を起こし、かしかしと頭を掻き、 着なれない洋装の襟元を寛げて、ついでに大口を開けて欠伸する。 海の向こうへ向ける視線を、やや細める。水平線の向こうにうっすらと浮かんで見えるのは、 何処か煙った大陸の気配。 あれが―――上海。 東洋のパリとも称される、華やかな東洋一の国際都市。 各国のスパイやマフィアが暗躍する、不夜城の魔都。 ぱたん、と持っていた本を閉じ、よしと頷く。曲げた足の反動でひょいとそこから飛び降り、 そのまま軽い動きで甲板に着地した。 「よお、もうすぐ港に着くぞ」 「みてえだな」 乗船中に顔馴染になった操縦士に、真横から声をかけられ、窓越しに笑顔を返す。彼が寝転んでいたのは、 丁度操縦室の真上の屋根の上。見晴しの良いそこが、彼のお気に入りの場所になっていた。 好奇心に満ちた目であちらを臨む横顔は、幼く少年じみて見える。どうやら、 岸に着くのが楽しみでならないらしい。 実際、彼は航海の間、 狭い船での生活に随分退屈していたようだった。ふらふらと船の中を、 散策代りにうろつき回ることも多かった。かと思えば、恐らくは武道をしているのであろう、 演武の型を繰り返し、鍛練もしている事もある。そして、本来人懐っこい性分なのだろう、 船員に気さくに声をかけ、ひょっこりと皆の輪に入ってくることもあった。 「あんた、大陸の人かい?」 彼はこちらとの会話に、大陸の言葉を使っていた。恐らく、 単純に船員たちの出身に合わせてのものだと思うが、それでも少々の訛りこそあれ、 彼の言葉はかなり流暢である。彼の舞う演武も、どちらかと言えば少林寺に近いものがあった。 彼はうーん、と腕を組む。 「どうだろう。もしかすると、そうかもなあ」 捨て子だった自分を育ててくれた祖父は、詳しい事を聞く前に既に他界してしまった。 大陸から渡って来たらしい祖父が、自分を何処で拾ったかさえ知らされていない。 尤も、たとえ何処の生まれだとしても、今の自分には興味が無い事だが。 「ま、名前は、それっぽいみてえだけどな」 ただそれは、 大陸出身の師匠であり祖父がつけてくれたものだから。 「何て言うんだ?」 にっと彼は、歯を見せて笑う。 「悟空。孫悟空って言うんだ」 不夜城都市、とはよく言ったものだ。真昼の様な眩しさの街灯を惜しげも無く街中に灯し、 明かりが途絶える気配は無い。 「じゃあ、よろしくね」 この上海でも、 間違いなく屈指である高級ホテル。煌く装飾と華やかな照明が眩いロビー。 それに気負い無く、慣れた調子でフロントマンに告げると、彼女はにこりと微笑んだ。 挑発めいた瞳の色は、異国の地から来た事を示す鮮やかなブルー。やや胸元の開いた小粋なスーツは、 欧米人らしいメリハリのある彼女の体を更に強調している。 チェックインを済ませた彼女は、 その豊かな胸を張った綺麗な姿勢で、優雅な曲線を描く階段を上る。肉感的な後姿に、 その場にいた複数の視線が誘われるように送られた。 その視線を鼻先で受け流し、 細やかな装飾のある昇降機に入ると、後ろからは洋装の制服を着たベルボーイが、 二人掛かりで彼女の大きな荷物を抱えて付き添う。 「他の荷物は?」 「全て、お部屋に運んでおります」 そう。彼女は満足したように、微笑んだ。 最後の仕上げにふっくら厚めに唇に乗せるのは、発色鮮やかな紅色のルージュ。 どうしても違和感を感じるのは、矢張り目に馴れないからだろうか。やけに強調するそれに、 どうにも眉根が八の字に寄ってしまう。 ことりとそれを台の上に置くと、 改めて鏡に映る自分の全身を見回した。 わざと濃いめにした化粧は、 素顔をさり気なく隠したつもりだ。結い上げた黒髪には、派手な大きめの髪飾り。 白が基調の艶やかなシルクのドレスは、体の線がくっきり判るタイトなもので、 スリットが大胆に深めのもの。 仕上げに甘い香りの香水を振りかけ、何処か着崩した感じを出せば、 多分、恐らく、間違いなく、それらしく見えるだろう…自信はないけれど。だって実際、 自分がそんな人達を間近で見たことなんてないのだから。 こんな露出の高い服なんて、 今まで着た経験など無かった。慣れないとはいえ、足も肩も体の線も、あまりに心許無くて、 落ち着かない。これでこの街を歩くなんて、怖くて、恥ずかしくて、体が震えてしまいそうだ。 うう、と唇を噛み締め、振り切るようにぶんぶんと首を振る。 ええい、しっかりしろ、自分。 今は弱音を吐いている時ではない。これぐらいで恥ずかしがってどうする。自分で決めて、 ここまでやって来たのだろう。 「おっとう、待っててけれな」 きっと鏡の自分を睨みつけ、 よし、と気合いを一つ。 チャイナドレスの裾をひらめかせ、勢いに任せてくるりと踵を返す。 そして、夜の上海の街へと踏み出した。 目の前に立った彼に、フロントマンは丁寧な笑顔で向かう。 「ご予約頂いたお客様ですか」 否、と首を振る。 「宿泊客に、美國から来たブルマっつーのがいると思うけど」 差し出したのは白い洋封筒。薄いそれを手渡し。 「そいつに、これを渡してくれねえか」 畏まりました、お預かりします。フロントマンは恭しく受け取った。 「失礼ですが、 お名前を頂いてもよろしいですか?」 「カカロットって言えば判るさ」 その名前に軽く頷く。少々お待ちを…と断りを入れると、彼は奥の貴重品ケースから、 似たような一通の封筒を取り出た。 「こちらを、ブルマ様からお預かりしておりました」 「そっか」 サンキュー。手に取ると、無造作に背広の内ポケットに押し込む。 軽く手を上げて謝意を示すと、そのまま出入り口へと向かった。 豪華な飾りのついた扉は、 昨今流行りの回転扉になっている。硝子のそれに手をかけた。 くるりと回る扉。 出る者と、入る者。 厚みのあるガラス扉越しの対極。 彼は真正面だけを見つめ、 目を細めた。但し、その眼の端は、間違いなくすれ違う影をしっかりと捕えている。その背後では、 来客を迎えるフロントマンの声が聞こえた。 ゆったりとした西欧風建築のエントランスには、 今到着したばかりであろう、同じ車体の車が数台乗りつけられていた。車のドアには、 赤いリボンのマーキング。出てくるのは、同じマークの入った軍服姿の、 欧米系の顔立ちをした屈強そうな男達。 視界には留めるが、決して目は向けない。 むしろ顔を俯かせて、気配だけを背中で受け止め、不自然の無い速度で通り過ぎる。 そのままホテルの前の大通りに出た所で、ふと足を止めた。 道路の丁度向こう側の真正面。 入口からロビーがしっかりと窺える場所に立つ、ほっそりとした姿が目に入る。 チャイナドレス姿の小柄な彼女は、この辺りで仕事をする娼婦に見えた。 だがその拭えない違和感に、どうしたもんかな…と頬を掻く。 その視線に、 あちらが気がついたらしい。戸惑う素振りを見せた後、人波に紛れるように、 こちらの視界から逃れる動き。 そのまま見送っても良かったのだが、少し考え、 彼はその後を追った。 人の交差する大通りを抜け、路地を抜け、大通りの反対側へ入り込む。人気の少なくなったそこで、 漸く彼女は足を止めた。 どきどきする心臓を押さえ、煉瓦造りの壁に凭れて呼吸を整える。 気付かれた、と思う。ホテルから出てきた洋装姿の彼は、明らかにこちらを見ていた。 直ぐにその場を離れ、ここまで走って来たのは良いが、振り返りもしていない事を後悔する。 でも、これだけの人混みの中を走ったのだ。きっと追ってはこれまい。大丈夫、 自分は娼婦の姿をしている。お金の為にああして立っていたのだ、不自然ではない。 何度も自分にそう言い聞かしている内に、何だかそのまま逃げ出してしまった事が、 逆に酷く惜しい事にも思えてしまった。だって彼はあそこのホテルから出てきたのだ、 いっそ客として近付いて、何か話だって聞けたかもしれないのに。 なあんて。 ほんの少し余裕を取り戻した心地で、さて、と壁から体を離したその時。 「なあ」 はっと顔を上げた。街頭の光が逆光になり、シルエットに目を細める。 足音さえ立てずに近づく気配。やがてはっきりとその顔が先程の彼だと判ると、 どくんと心臓が鳴った。 息を呑む。落ち着け、落ち着け。自分は娼婦だ、 あんな所に一人で立っていても、全然不思議はない存在だ。 「おめえさ、 さっきあっちにいた奴だよな」 「そ、そうだべ」 呑気そうに声をかける彼の顔を、 きっと挑む様に睨み上げる。しらばっくれる知恵は、箱入り娘の彼女には無い。 「な、何だべ。娼婦があっだら所にいるのが、そんなに可笑しいだか?」 仕事の邪魔しねえでけろ。 つん、とそっぽを向く彼女に、子供のように邪気の無い目をぱちくりさせて、 ふうん、と彼は軽く頷いた。一度、ぐるりと周りを見回し。 「でも、ここじゃ、 客は取れねえんじゃねえか?」 こんな裏道、誰も人が通らねえぞ。その指摘に、あ、 と間抜けた声を上げてしまう。じいっと探るように見つめられる視線が、 真っ直ぐ過ぎていたたまれない。 思わず視線が泳いだ途端、しっかりした腕がするりと腰に回された。 あっと思う間もなく、そのまま引き寄せられ、思わず体を固くする。 「な、何を…」 咄嗟にその腕に手をかけるが。 「おめえ、仕事に来てたんだろ」 にっと笑い、間近に顔を寄せられる。ぐっと言葉を詰まらせた。 「き、今日は、 もうお終いだ―――っ」 言葉が途切れたのは、腰に回せらた腕がするりと下に降りたからだ。 ゆるりと丸みを確かめる様に撫でられる掌の感覚に、全身の筋肉が緊張する。 必死で震える体を抑え込むその耳元で。 「娼婦にしては、随分鍛えた尻してんなあ」 熱の無い、のんびりした声にぎくりとする。 ばれているのだろうか、まさか。 焦りに後押しされ、ならば、いっそと覚悟を決めた。大丈夫、父親から譲り受けた武芸の技は、 並の武道家にも劣らないと自負している。 彼女は伸ばした腕を、 彼の首にしな垂れる様に絡める。 隙を窺う目を押し殺し、紅色の唇を吊り上げて。 「な、なんつっても、大事な商売道具だからな」 何なら直接見てみるだか?その挑発に、 うーんと小首を捻り。 「…でもよお」 何処か間の抜けた彼の声に、 逞しい首筋にたどたどしく指を滑らせ、唇を寄せて何?と笑う。 「そんだけ殺気漲らせていると、おっ立つもんも立たねえぞ」 露骨なその言葉を、 一拍の間をおいて理解すると、おぼこ娘は顔を真っ赤にして彼を見上げた。 「なっ、な…」 思わず身を引いて声を上げてしまう彼女に、彼は人懐っこい笑みを浮かべ、 そのままするりとスリットから手を差し入れる。 素肌に走る感触にはっと身を引くが、 腰に回された逞しい腕がそれを許さない。払いのけようとした腕を、一瞬の理性が何とか押し留める。 だがそれが無遠慮に下着の内側に差し込まれると、大きな瞳が零れんばかりに見開かれた。 「い、いや…―――いたっ」 細い体が戦慄く。が、それはすぐに離れた。 「通り掛かりの男を誘うにしては、随分乾いた体してんな」 最奥に触れた指先を、 確認するように己の唇に当てると、いっそ憎たらしいくらい無邪気に笑う。 「ん?」 探った指を、ぺろりと舐める。あまりの事に、思考が完全に真っ白になる。顔を真っ赤に染めたまま、 彼女はかちんと固まった。 だが。 「おめえ、何が目的だ」 低く落ち着いた、 やけに冷静なそれに、はっと我に帰る。瞬間、腕を振り切られたその鮮やかな手腕に、 おっと彼は声を上げた。 逃げようとする彼女に手を伸ばすが、間髪入れずに閃く手刀の威力を察知し、 速やかに引っ込める。 間合いを取り、腰を落とした彼女の構えは、付け焼刃でない安定感がある。 先程までとは違った緊張感。その漲る闘志に、こちらも反射的に腰を落として構えた。 彼女はきりっと目を細めると、滑らかな動きで拳を繰り出した。丁寧で的を得たその攻撃に面食らう。 何だこいつ、かなりの使い手じゃねえか。細い腕だけに力こそ無いものの、その急所を狙う正確さは、 並の武道家ではないことが窺える。 それを受け流しながら、妙な既視感を覚える。 「…な、なあ、おめえ」 ちょっと待ってくれよ。 武人としての確かなその動きに、 戸惑いを隠せない。だが彼女は、鮮やかな攻撃を止めようとはしない。 「待てって」 ちょっと聞きてえ事があるんだよ。 とにかく、彼女の動きを何とかしようと、一歩踏み出した所で。 「わっ…と」 「―――っ」 気付かぬ内に解けていた、彼の革靴の紐。それを踏んだのは、恐らく彼女の方だったのだろう。 崩れたバランスに前のめる。咄嗟についた手が、彼女の胸だったのは、全く考えもしなかった。 「…あ、わりい」 この緊張した状況に反して、どうにも間の抜けた言葉。 見た目よりも充分な丸みと柔らかさのあるその感触に、あっさり、速やかに、 何事でも無かったように、己の掌を引っ込めた。 止まってしまった、二人の動き。 沈黙にも似た、妙な間が流れる。 突然、彼女はがばりと自分の胸を、 庇うように両手でかき抱いた。そして、先刻までとは全く違った怖い目で、きっと睨みつけてくる。 その目がありありと涙を湛えている事に気がつくと、思わず場違いにうろたえた。 「す、すまねえって」 わざとじゃねえよ。慌てて謝る彼に、彼女は唇を噛み締める。 「馬鹿っ」 耳の奥まできいんとつんざく大声に、思わず怯む。その隙に飛んできたのは、 見事に力の入った平手打ち。 「ってえーっ」 今までの攻撃は全て見切っていた筈なのに、 どうやらこの一発は違ったらしい。あっさりと腰をついてしまった不甲斐無さに、 驚いたのはむしろ自分の方だった。 「えっちーっ」 あ、いや、ホントにわざとじゃねえって。 言い訳のように伸ばされた彼の手を振り切って、 彼女はそのまま脱兎のように駆けだした。 行き場を失った手を引っ込めて。 「いってえなあ、もう…」 張り倒された頬を掌で撫でながら、 彼女の消えた方へと目を向けた。 唇を尖らせて、ちぇっと舌打ちする。何だよ、もう。 ぶつぶつ呟きつつも、先刻の彼女の動きを頭の中に反復させた。 やっぱりそうだよな、 あの動きは。多分、間違いなかろう。 うーん、と少し考え、かしかしと頭を掻き。 そして思い出したように、解けていた靴紐を結び直した。 そうして、ま、いっかと立ち上がる。 見上げる空。 高い建築物の間に、ぽかりと上海の月が浮かんでいた。 えっちの指摘はそこなのか? 2008.10.17 |