上海ムーン
<3>





高いビルから夜の街を見下ろすのは好きだった。
一晩中消える事の無い灯りが、 瞬きながら煌めいている。まるで夜空の星が大地に落ちたような景色は、本当に綺麗だと思う。
いっそ。このまま何もせず、一晩中でもこうして眺めていたい程に。
そんな自分の思考に、 人形のように整った顔が自嘲気味に笑った。
以前組織が用意した服があまりに自分の趣味に合わず、 不満を言って身につけなかった事がある。女の自分としては当然だと思っていたが、 双子の兄には人間らしい事を言うと呆れられた。美意識が人間らしさの基準の一つと言うのなら、 確かに自分にはまだその感情は残されているらしい。
下から吹き上げる風に、 金糸の髪がさらりと煽られる。それを手で撫でつけると、肩に担いでいた黒い鞄を床に置いた。
楽器のケースにカモフラージュさせたその蓋を開け、収められていた部品を丁寧に取り出す。 それらを一つづつ手に取り、確認しつつ、慣れた調子で事務的に組み立ててゆく。
最後の部品を取り付けると、脇に抱え込み、整った指先をトリガーにかける。 重みを確かめながら構え、スコープを覗き込むと、氷の色にも似た色の切れ長の瞳を細めて、 薄い唇を吊り上げた。
リー・エンフィールドMK1。
精度も威力も高い性能を持ち、 数キロ先の的をも射撃可能な、スナイパーライフルである。











綺麗な人だ、とチチは思った。
欧米人特有のはっきりとした目鼻立ち。 透き通るような青の瞳は自信に満ち、服の上からも覗える豊満な体は、羨むほどの女性らしい色気を、 惜しげもなく強調していた。
自分とはあまりに真逆なその魅力に、思わずチチは目を奪われる。
「ごめんね。ホント、乱暴な奴ばっかりで」
全くもう、レディの扱い方を知らない連中なんだから。 腕を組むと、戸口の前に立つヤムチャとクリリンをきりっと睨みつける。それに、 二人は困ったような苦笑いを返していた。遅れてやってきた彼女は、 既に二人から詳細を聞いたらしい。
どういう人だろう。ぼんやり見上げるチチに、 彼女はにこりと笑って自らをブルマと名乗った。そのまま正面の悟空を押しやって、 割り込む様に空いた椅子に腰を下ろす。それを気にした風も無く、追いやられた悟空は、 少し離れた椅子に背もたれを前に座った。
「それで、レッドリボン軍を嗅ぎまわって、 どうするつもりだったの?」
テーブルに肘をつくと、広めに空いた胸元の谷間が強調される。 やるせない心地で、チチはコンプレックスでもある自分の胸元に、つい手を当ててしまう。
「…それは…その、研究の資料を…」
「奪って、国営軍に渡して、 お父さんの無実を晴らすつもりだった訳?」
やや気後れしつつ、こくりと頷く。 その通りだ。チチには、それ以外の方法は思いつかない。
ブルマは、はあと溜息をついた。参った、 この田舎育ちのお嬢さんは、本当に何も判っていないのだ。
「えっと、チチさん…だっけ?」
こくりと頷く。あどけない仕草が、彼女がいかに穏やかな環境で育ったかを物語っていた。
ブルマはすらりとした綺麗な足を組み替え、やや身を乗り出す。異国の青い瞳が近づくと、 その綺麗さにどきりとした。
「貴方、本気でレッドリボン軍から、 例の資料を奪えるって思ってた訳?」
レッドリボン軍は、世界でも類を見ない大きな私軍である。 一介の人間、ましてや何も知らない箱入り娘のお嬢さんが、立ち向かえるような団体ではないのだ。
「だども…」
だからと言って、じっとしている事も出来ない。たった一人の肉親だ、 自分が出来る事ならば何でもしたいのだ。
「本当に、悪い事は言わないから。 手を引いて、田舎に帰りなさい」
それが貴方の為でもあるんだから。 きっぱりと切り捨てる彼女に、むっと唇を尖らせる。そんな事、判っている。
「だども、そうすれば、おっとうはどうなるだよ」
軍に掛け合っても、 資料を渡せの一点張り。政府に掛け合っても、曖昧に受け流される。ならば、 自分がこうして動くしかないじゃないか。
「あのねえ。これは、 そんな次元の問題じゃないのよ」
家族を助けたい気持ちはよく分かる。しかしこれは既に、 国家間の問題になっているのだ。しかも例の件になると、むしろ国家どころの話ではない、 全人類の未来の明暗さえ掛かってくる事になる。
この国の軍とか政府とか、 資料を渡せば解放だとか、そんな単純な話だったら、苦労はしない。自分がわざわざ合衆国から、 こうして乗り込んでくることも無いのだ。
「えっと…良いかな」
傍に佇んでいた、クリリンと呼ばれていた小柄な青年が声を上げる。 凄く言いにくいんだけど…その前置きがあって。
「多分、資料を渡しても、 国営軍がチチさんのお父さんを解放してくれる可能性は低いと思うよ」
「なして?」
「クリリンくんっ」
制止するようなブルマの声に、困ったように肩を竦める。 この際だから、はっきり言った方が彼女の為にもいいよ。そう言われると、ブルマは苦い顔をして、 腕を組んだ。
「チチさんは知らなくて当然だけど。そのレッドリボン軍の資料って、 本当に大変で、もの凄く危険なものなんだ」
もしここで、軍に資料を手渡したとしても、 むしろその情報を外部に漏らさない為に、乱暴な方法での口封じの可能性の方が高い。 それだけの機密性と価値が充分にあるのだ。
「危険なのはあなただって同じなのよ」
「おら?」
そんな機密を持っていると疑われている牛魔王の娘が、 田舎からこの魔都に来ているのだ。そこに疑いをかけてもおかしくはない。
「上海で、フリーザが動き出したって情報もあるのよ」
その名前に、 ヤムチャはげっと顔を引き攣らせて声を上げる。
「フリーザって、あのフリーザか?」
美國や欧洲に強い力を持つマフィアのドンの名前に、黙って聞いていた悟空も目を細める。 今度は亞洲にも、勢力を伸ばそうとしているらしい。
「チチさんの気持ちは判るけど、 一人で何とかなる問題じゃないのよ」
もっと厳しい方をすれば、計画を練っていた、 こちらの足を引っ張る真似はしないでほしいのだ。一人で無鉄砲に動き回り、 その火種が降りかかってはたまらない。
「なあ」
少し離れた場所から、 黙って聞いていた悟空が声を上げる。椅子の背もたれの上に腕を組み、顎を乗せた姿勢のまま、 視線だけを向けて。
「おめえの父ちゃん、牛魔王って言ったな」
んだ。頷くチチに、ふうん、 と頷く。
「ブルマ、亀仙人のじっちゃんに連絡とれっか?」
「…大丈夫だけど」
ホテルに持ち込んだ無線機はかなりの高性能だ。日本にいる亀仙人の元への連絡可能を基準に、 設計されたものである。
「亀仙人のじっちゃんにさ、日本から助けて貰えねえかな」
それに、はあ?と片眉を上げたのはクリリンだ。
「お前、無茶言うなよ」
相手は国営軍だ、そしてその後ろには勿論政府も絡んでいるだろう。身柄引き渡しの取引となると、 政治的な問題になってしまう。それを避ける為に、政府とは無関係の自分達がここにいるのに、 本末転倒じゃないか。
「第一、名目も無く、国がそんなこと出来る訳ないだろ」
軍に捕らわれた容疑者、しかも元はただの地方の大地主であっただけの人物を、 国家が引き渡しを要求するなんてあまりに不自然だ。それが可能だとしても、 レッドリボン軍の件も重なっている今、国営軍に必要の無い不信感を植え付けてしまう。
「牛魔王のおっちゃんってさ、亀仙流だったよな」
「んだ」
「だったらさ、 自分の弟子を助けるって名目があるじゃねえか」
「それでも…武天老師様も、 表立った交渉は出来ないぜ」
保護する理由はそれでも良い。 しかし牛魔王が今回の件の関連で拘束されているとすれば、日本政府の重鎮である武天老師が、 表立って交渉が出来るとは思えない。
「じゃあ、亡命すりゃいいんじゃねえか?」
軍から逃げて、日本へ行く。そこでかつての師匠である亀仙人に保護を願う。 そこで師匠が拒否すれば、それこそ不自然だ。
クリリンはこめかみに手を当てた。
「そうは言うけど。お前、軍から逃亡するって、簡単な事じゃないんだぜ」
そりゃそうかもしんねえけどさ。
「でも、天津飯がいるだろ?」
幸いな事に、 現在軍事施設関係は、天津飯と餃子が潜り込んでいる手筈になっている。 直接の手助けは流石に頼めないが、彼らに連絡が取れれば、 もしかすると有力な情報を流してくれるかもしれない。
「なあ、ブルマ。 じっちゃんに頼んでみてくんねえか?」
頼むよ。にかっと笑う悟空に、 むうっとブルマは唇を引き締める。そして、呆れたように肩を上下させた。
「…解ったわよ」
あのスケベじいさんに頼み事をするのは、どうも気が引けるけどね。
「サンキュー」
へらっと笑うと、姿勢を起こし、悟空はチチへと顔を向けた。
「良かったな、チチ」
じっちゃんの事だ、何だかんだと言っても、きっと良くしてくれるさ。安心させるような、 懐の深さを感じさせる笑顔。不安な瞳が揺らめく。
「…本当に、 おっとうを助けてくれるだか?」
まあ、出来るかどうかは、やってみなくちゃ分かんねえけど。
「おめえの、たった一人の家族なんだろ」
こくりと頷くと、へへっと肩を竦める。
オラも、たった一人の家族だったじっちゃんが死んじまった時は、すっげえ寂しかったからな。 照れくさそうにそう言って、指先で頬を掻いて。そして、うんとしっかり頷く。
「大丈夫。おめえの父ちゃん、きっと助けてやれるさ」
上海に来て、初めてチチが笑顔になった一瞬であった。











上海郊外、居住地区。
ここまで来ると、街の街灯も随分乏しくなっている。薄暗い道を、 チチと悟空は二人並んで歩ていた。
「じゃあ、この辺りで良いか?」
街の中心部から離れたこの界隈に、チチは部屋を借り、今は一人で住んでいた。 箱入り娘とは言え、幼い頃に母親を亡くしているので、人住まいの生活に抵抗も不都合も無い。
「ありがとうな、悟空さ」
丁寧にお礼を告げるチチに軽く頷き、 少しだけ厳しく目を細める。
「もう、あの辺りはうろつかねえ方がいい」
ブルマの言う事は正しい。いくら腕っ節に自信があるからと言っても、相手は国や軍やマフィアなのだ、 普通の民間人が太刀打ちできるような相手ではない。無策で、しかも娼婦の姿で嗅ぎ回るなんて、 無茶もいい所だ。
「おっちゃんの事で何か判ったら、こっちから連絡入れっから」
だからおめえも下手に動こうとするな。むしろ、自分の身の安全を優先するんだ。こくりと頷くチチに、 悟空は満足したように笑う。
「あ、あの…」
ん?と小首を傾げる。少年じみたその表情が、 妙に可愛らしかった。肩を竦め、視線を落としながら。
「その…本当に、すまねえだな」
何から何まで、お世話になってしまって。恐縮する彼女に、悟空はいやあと笑う。
「おめえが謝ることはねえって」
むしろチチは巻き込まれた立場にある。 それにこちらも、今はまだ何もしていない、口約束のみの状態だ。
「それに、 おめえとは他人じゃねえだろ」
亀仙流の門下だとすれば、お互いは兄弟弟子に当てはまる。 ならば、無関係な赤の他人ではない。
「牛魔王のおっちゃん、助けられるといいな」
ブルマも早めに連絡してくれると思うし、じっちゃんから返事さえ貰えれば、 きっとすぐに行動に移せると思うから。
ぽん、と軽く肩を叩く悟空に、チチは心底ほっとする。 そして黒目がちの目をきりっとさせて。
「あのな、おらに出来る事があったら、 何でも言ってけろ」
おら、本当に本当に、何だってするからな。
意気込んで身を乗り出し、 一生懸命訴えるチチに、わかったと頷く。それに、チチは本当に嬉しそうな笑顔になった。 根が真っすぐで、素直で、自分を隠さないのだろう。彼女は感情が、そのまま表に出る。 それが悟空には面白かった。
「サンキュー」
向かい合って、微笑み合って。 じゃあな…の言葉が口から出る直前。
ぐう、と妙な音が上がった。


「へ?」
「…あ」


きょとんと瞬きするチチに、お腹を押さえて、はは、と悟空は照れたように笑う。
すまねえな。指先で頬を掻きながら。
「オラ、腹減っちまったみてえだ」
あけっぴろげなそれに、チチは言葉を失った。子供がそのまま大きくなったような、 あどけないそれに、ちらりと自分の住む部屋の方へと目を向ける。
少しだけ迷った後に、 くすりと笑って悟空を覗き込む。
「…良かったら、何か作るけど」
御飯、 食べて行くだか?
その言葉に、実に判り易く、悟空は目をきらきらさせた。








ライフルの知識は持ち合わせてございません
2008.10.30







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