上海ムーン <5> ふわりと吹き抜ける風に、頭にのせた帽子を押さえる。 着馴れない民族衣装は、この地域で遊牧を生業をする少数民族独特のものだった。 重ね着た一番上の襟を引き合わせながら、ぐるりと周囲へ視線を走らせる。 低木が茂るこの辺りは、赤茶けた岩肌に囲まれた渓谷になっていた。 遥か昔は水も流れていたようだが、それが今は完全に枯れ果て、 流れた跡がそのまま人や獣の道となっている。元が渓流であっただけに、幅は狭く、 弧を描きながら入り組み、視界を制限させていた。 手綱を引くと、馬はこちらの意を解し、 願い通りに足を進める。乗馬を学んだ経験は無いが、祖父と田舎で過ごしていた幼い頃は、 よく野生馬を捕まえて遊んでいた。かなり自己流ではあるが、実践的に体で覚えているので、 扱いに問題は無い。 器用に手綱を操りながら、少し高めの岩の上に登る。 やや視界が晴れた高場で、目を閉じ、耳を澄ます。岩場に共鳴しながら近づいてくるのは、 特徴のある軍用車のエンジン音。 目を細めて遠くを窺うと、遥か向こうの谷間に、 微かに砂煙が立っている。天津飯の情報通りだ。 見上げると、空は雲ひとつない晴天。 太陽は良い塩梅で、西へと傾きかけている。そろそろ時間だろう。 よし、行くか。 首に巻いていた真紅のスカーフを、ぐいと鼻の上まで引き上げる。 にっと笑うと、 悟空は手綱を握りしめた。 一体今は、どの辺りを走っているのだろう。 箱のような軍の軽装甲機動車の中、 捕われていた牛魔王は憔悴した顔を俯かせて考える。軍用車の窓は、 全て鋼鉄の窓がきっちりと閉じられ、外の様子は一切伺えない。 辛うじて運転席と繋がった小窓はあるのだが、それも今はぴたりと閉じられている。 薄暗い車内には、姿勢を正して座る兵士が、左右に一人ずつ、そして正面にも一人いた。 運転席に座る二人も含め、全員が銃を携帯している。 そして同じ人数を乗せた車両がもう一台、この車の前を先導している。 両手、両足をそれぞれ鎖で繋がれた、身動きのできない囚人一人を輸送するには、 やや物々しい警備と言えるだろう。 別の収容所へ移動との話を聞いた時、 牛魔王が一番最初に思い出したのは、たった一人の家族である愛娘、チチの事だった。 移動先の収容所は、今まで住んできた土地とは、随分と離れた場所にあった。 政治犯や重犯罪人ばかりが集められる特殊なそこは、一度収容されれば、 二度と生きては出て来れないとも噂されている。 それを聞いた時から、 牛魔王はもう生きて娘に再開する可能性を、半ば諦めつつあった。 世間知らずではあるが、自分の身を守れるだけの武芸は、一通り身につけている。 真っ直ぐで、心根も優しく、死んだ母親にそっくりの可愛い娘だ。 自分の目には届かない所ででも、幸せになってくれればそれで良い。 ただ、 父親が重犯罪人となってしまった事で、彼女へとその咎が降りかからない事だけは、 願ってやまない。 実際、囚人として捕われて、最も牛魔王が懸念したのは、 軍に娘の身の安全を盾に取られる事だった。どれだけ願い出ても、 面会さえ許可されない身の上だ。せめて、無事でいる事を祈ることしか出来ない。 突然。 不規則な振動を伝えていた車体が、がたんと停まった。 不自然な停止に、正面に座っていた男が、運転席に繋がる小窓を開く。 小声で交わされる会話。先導車両から無線機で連絡が入ったそうだ。 どうやらこちらへ向かって、野生牛の群れが近づいてきているらしい。 連なって走っていた二台の車両は、この渓谷に入ってから、 やや距離が出来てしまっている。曲がりくねった道と岩肌に邪魔をされて、 前方車両の姿は既に見えなくなっていた。 道幅が狭く、足場の悪いこの場で、 野性動物の群れとすれ違うのはかなり危険だ。 もう少し先に進むと安全な場所があるらしく、 先行車は一足先にそちらへ向かって待機するらしい。遅れ気味のこの車は、 ここで一旦停車して、群れが行き過ぎるのを待つのが安全と判断された。 沈黙の中、暫しそのまま待機していると、やがて遠くから地鳴りが伝わってきた。 牛の鳴き声や無数の足音が、ゆっくりと、押し迫るように近づいてくる。 それは、不安の気配にも似ていた。 切迫するような夥しい数の足音、 共鳴する野生牛の鳴き声。やがてそれらに、車両の周囲がすっぽりと包まれる。 思ったよりも、大きな群れであるらしい。車体に体が当たるのか、 あちらこちらでぶつかる音が上がり、屈強な機動車に振動を与えていた。 ばたん、がこん。鋼鉄で作られた車両は、意外に音と振動をはっきり伝えてくる。 思ったよりも長時間続くそれは、車中の者達に、奇妙な閉鎖感と圧迫感を与えた。 がたん。 ひと際大きな振動。 兵士たちが怪訝に顔を見合わせたのは、 その振動が車の側面や外部からではなく、明らかに壁一枚隔てた距離の、 運転席内部から伝わったものだったからだ。 牛魔王の前に座っていた兵士が、 後ろを振り返る。運転席への小窓に手をかけると、ゆっくりと開けた。 そおっと覗き込んだ顔が、垣間見えるそれに驚愕し、身を乗り出す。その様子に、 残りの二人の兵士は顔を見合せ、ホルスターに収められていた銃をそれぞれ取り出した。 運転席の兵士はハンドルにうつ伏せて倒れ込み、助手席の兵士は体を滑らせて仰け反っている。 出血は見えない。銃声らしき音も全く無かったので、恐らくは当て身を食わされて、 気を失っているのか。 互いに目配せしつつ、兵士達は銃を確認し、静かに構える。 言葉の無い速やかな動き。一人が静かに側面の扉に手をかけ、後の二人は壁に背中を押しつけた。 手足に枷されたまま動かない牛魔王の前で、兵士達が目で頷き合う。 一気に横にスライドさせ、全開になったドア。 訓練された動きで、 兵士三人は銃を構えた。 途端、入って来たのは、攻撃的なまでの強烈な光。 薄暗い車内に馴れた眼に、西に落ちかけた強い日差しが、絶妙な位置から突き刺さる。 銃を構えた兵士達の目が眩んだ、その一瞬。 ひゅっと黒い影が飛び込んだ。 車上に潜んでいたのであろう影は、ドアの上部に手をかけたまま、手前に立っていた兵士を、 勢いのついた足で突き飛ばす。倒れ込む体は、奥にいた兵士の一人を巻き込んだ。 もう一人の兵士が慌てて銃口を向けようにも、蹴り飛ばした動きのままに、 既に懐に入り込まれる。それを悟るよりも早く、銃を握りしめる手を片手は払い除けられ、 もう片手の拳が正確に鳩尾を叩きつけていた。 ずるりと兵士の体が倒れ込む間もなく、 安定感のある回し蹴りが、巻き込まれてバランスを崩していた兵士の手から、 銃を払い飛ばしている。間髪入れずに閃く手刀は、首根の急所を撃ちつけた。 三人の体は、同時にどさりと崩れ落ちる。 全ては一瞬の出来事だった。 兵士達が受けたのは、それぞれ一撃。声を上げる暇さえ無い。 早い。 武天老師の下で武芸を修めた牛魔王ですら、一連の動きに驚愕する。 とんでもない達人だ。呆気に取られたまま、敵とも見方とも判別できない侵入者に、 手足を戒められたまま牛魔王は身を固くした。 彼は構えを解くと、振り返る。 深く被った帽子と、口元を覆う赤いスカーフで、僅かな隙間からはその双眸しか見えない。 しかし、良い目だと思った。真っ直ぐ人を見つめる、澄んだ目だった。 「牛魔王のおっちゃんか?」 こくりと頷くと、その眼が穏やかな弓型を描いた。 ぐい、と口元を覆っていた真紅のスカーフを引き下げると、意外な程に少年じみた顔が現れる。 人懐っこく覗き込んでくる見覚えの無い青年に、牛魔王は怪訝そうに瞬いた。 「チチから話は聞いている。おっちゃんを助けに来たんだ」 愛娘の名前に、 牛魔王は瞠目する。 「チヂは無事だべか?」 「大丈夫だ、ぴんぴんしてっぞ」 にかっと笑うと気が緩んだのか、父親の目に涙が滲んだ。そうか、よかった。 大きな体が、ほうと力を抜く。 「動けっか?」 「あ、ああ」 巨体を動かして立ち上がろうとするが、じゃらりと音を立てる鎖に動きが制限される。 鍵はここには無い。先頭を走っていた車両が所持している。鍵穴に針を通して解く事も出来るが、 それでは時間がかかり過ぎるだろう。 足元に転がる銃の一つを手に取ると、 青年はその銃弾を確認する。 「おっちゃん、こっちに」 腕を取って床に座らせた。手と足、それぞれを戒める鎖を並べる様に寄せて、 ぴんと張りつめるように固定させる。牛魔王の肩越しに覗く位置に立つと、 上半身を軽くもたれて体勢を安定させ、片手で銃を構えた。 「ちょっとじっとしててくれよ…」 狙いを定め、引き金を引いた。 銃声は続けて二つ。 打ち抜かれた手の鎖、そして足の鎖が、音を立てて外れる。 久しぶりの開放感に、牛魔王はほっと息をついた。 それにしても、 驚くべきはこの青年だ。 彼の使った銃はかなり大きなリボルバーで、 発砲の反動がかなりある筈だ。にもかかわらず、それを片手で、 躊躇の無い二発の連射で、正確に狙いを打ちつけた。銃の扱いに相当馴れているか、 さもなくば、かなりの腕の筋力の持主なのだろう。 「馬には乗れっか」 シリンダーを開き、装備されていた残りの弾丸をばらりと床に落とす。 転がっていた他の二丁の銃も、同様に施した。 「おお、大丈夫だべ」 田舎では、毎日のように乗っていただよ。独特の地方訛りが、 チチと全く同じものだった。そっか、と青年は笑う。 「よし。じゃあ、こっちだ」 そう言って、襟元から真っ赤なスカーフを引き抜くと、意図的な仕草で車の中に脱ぎ捨てた。 車から少し離れた岩場の陰に、二頭の馬が用意されていた。それに乗ると、 二人は渓谷を駆け抜ける。 先程の兵士達が意識が戻れば、直ぐに軍に連絡を取り、 追跡を開始するだろう。それまでに少しでも早く、ここから離れなくてはいけない。 「ここを抜けたら、車があっから」 もうちっと頑張ってくれな、おっちゃん。 にかっと笑う青年のそれは、先程の気配さえ感じさせない程、酷く無邪気なものだった。 「本当にすまねえだな」 だども…と牛魔王は眉根を寄せる。 「これから何処へ向かうつもりだべ」 相手は政府の国営軍である。何処へ逃げたとしても、 追っては必ずやって来るだろう。 「上海だ」 真っ直ぐ前を見ながら、 青年は告げる。 「上海の港に今、日本海軍の船が逗留している」 大使館に逃げ込んでもいいが、いっそそちらの方が手っ取り早い。 如何な国営軍と言えども、流石にそこまでは手出しは出来まい。 「おっちゃんは、それで日本へ行くんだ」 丁度これから日本へ帰還予定の軍船だ、 それに便乗させてもらう。 それに、牛魔王がぎょっとした。 「なっ、 何で日本軍が…」 「亀仙人のじっちゃんが、根回ししてくれたんだ」 「武天老師様が?」 「おっちゃん、亀仙流だろ」 チチに話を聞いたぞ。 へへっと笑う青年に、そうかと合点した。先ほど彼の見せた鮮やかな動きは、 正しく亀仙流のものだろう。成程、あの恩師が日本政府の重鎮に精通している事は、 牛魔王も知っていた。 「おめえも、武天老師様の下で教えを受けただか」 ああ、と頷く。 「正確には、おらのじいちゃんから習ったんだけどな」 「おめえのじいさま、何て名前だべ」 「孫悟飯って言うんだ」 「悟飯さんかあ?」 その大きな反応に、青年はきょとんと眼を丸くする。 「おっちゃん知ってるのか?」 牛魔王は、大袈裟な程に何度も頷く。知っているも何も。 「悟飯さんは、 おらの兄弟子だべ」 修行当時、彼が一番弟子、牛魔王が二番弟子として、 共に武術を学んでいたのだ。世話になり、互いに切磋琢磨した、大切な大切な兄弟弟子だ。 「そうなんか」 青年の頬が、穏やかさを持って綻ぶ。 「じゃあ、 おめえは悟飯さんの孫だべか」 子供を拾って育てているとは聞いていたが、 まさかこんな所で、こんな形で出会うとは思っていなかった。 不思議な縁に、 そうかとしきりに頷き、嬉しそうに声を上げる。 「で、悟飯さんは、 今どうしているんだべ?」 元気にしているんだべか。もう随分逢っていなかっただに、 久しぶりにきちんと御挨拶してえだよ。感慨深く声を上げる牛魔王に。 「じいちゃん、死んじまった」 もう、随分前になるけどな。表情も変えず、 あっさりと告げられた衝撃的な言葉に絶句する。 「そうだったんだべか…」 声を落として消沈する牛魔王に、彼はにこりと笑う。そこに影は無く、 牛魔王は少し慰められるような気がした。 「おめえ、名は?」 「孫悟空だ」 そうか。あの強くて優しい兄弟子の孫らしく、良い名である。 きっとかの兄弟子は、この青年を正しく鍛え、育てたのであろう。 まるで親戚の甥っこでも見るような牛魔王の視線に、くすぐったく笑う。 「チチも、おっちゃんの事、すげえ心配していたぞ」 早く会わせてやりてえや。 きっと物凄く喜ぶぞ。 「そっだな…」 娘の名前に、目元が優しく和らぐ。 「…なあ、牛魔王のおっちゃん」 真正面を見つめる目が、 真剣実を帯びて引き締められる。 「教えてくんねえかな」 尋問された軍に対し、 全く何も知らないと牛魔王が告げていたとは、話に聞いていた。 でも。多分、違う。 「知ってんだろ、セルの事」 軍用軽装甲機動車は主にWW2から活躍の模様 2008.11.13 |