上海ムーン
<6>





さて、こんなもので良いだろう。綺麗に片付いた部屋をぐるりと見回し、 チチは腰に手を当てて頷いた。
がらんとした部屋は、 元々生活をするのに必要最低限のものしかなく、掃除はあっという間に終了する。 上海にやって来た時も、鞄一つ分のほんの僅かな荷物しかなかった。 だから荷造りするのも、随分早いものだ。
ここに転がり込んできた時は、 不安と悲壮感しかなかった。先が全く見えず、切羽詰まった焦燥だけが胸中を占め、 早く田舎に帰る事ばかりを考えていた。
しかし今こうしていると、 妙な名残惜しさを感じてしまうから、実に現金なものである。
国営軍から逃亡を図った牛魔王は、このまま国内に滞在するのは難しいらしい。 なので、武道の師である武天老師を頼り、一旦日本へと渡り、 そこでその後を検討する事になった。
全ての手筈を整えてくれたのは、 孫悟空だ。
軍から父親を連れ去り、日本軍の船に匿い、 そしてその連絡の為にここまで足を運んでくれた彼に感極まり、 思わずその胸に飛び込んでしまった。
大泣きしながらしがみ付く自分を、 彼は困ったように頬を掻きながら、それでも不器用な仕草で背中に腕を回してくれた。 途方に暮れたような緩い力加減が、そっと撫でる掌の温かさが、 苦しいくらいに優しかった。
その後、何かお礼をしたいと訴えると、 悟空は笑って、飯を食わせて欲しいと虫の鳴るお腹に手を当てる。だからその日も、 腕によりをかけてテーブルに一杯の料理を作った。
山のようなそれを、 彼は満面の笑みで、全て綺麗に平らげた。特別大きな体つきには見えないが、 この男はやたらと良く食べる。その見事な食欲を最初に目の当たりにした時は、 巨漢の父親の食べっぷりを見慣れていた筈なのに、かなり驚いたものだ。
出したものを残さず綺麗に食べてくれるので、こちらとしては作り甲斐もある。 あれだけの量がみるみる胃袋に収まる様は、壮観で、 いっそ頼もしささえ感じてしまう。
お礼がこんな事で良いのか、と不安に問うと、 おめえの作る飯はうめえから、と臆面もなくのたまわれ、思わず赤面してしまった。
だから、せめてと思い、朝から頑張ってお弁当を作ったのだ。
両手で抱き抱えるほどの大きなそれは、本人に直接手渡せるかは判らない。 もし無理だとしても、届けて貰えるように、誰かにお願いするつもりだ。
だけど、出来る事ならば、直接渡したい。
日本は遠い。約束もしていない自分達が、 ここでこのまま別れた後、次に再会できる補償は何も無かった。
悟空は日本へ行くことを、本当に喜んでくれていた。恐らく、彼に他意はない。 こちらの身上を察し、心より案じてくれているからだとは思う。
でも、 何処までも屈託の無い彼の笑顔が、小さく胸に痛かった。






「こいつだ」
廃港に佇む、使われずに放置されたままの倉庫の一室。
広げられたのは、幾枚かの顔写真。テーブルの上におざなりに腰をかけ、 暫し眺めた悟空が指差すそれに、クリリンはげっと顔を引き攣らせた。
露骨に見せる嫌な顔に。
「知ってんのか?」
「知ってるも何も…」
最悪だよ。はあ、と溜息をついて顔に手を当てる。
「ギニューだよ、こいつ」
ギニュー特戦隊と呼ばれる、特殊傭兵部隊の隊長だ。戦争でも、誘拐でも、 ボディーガードでも、金さえ積めばどんな汚い仕事も引き受けると言われているが、 それがまさかこんな所にいるなんて。
「あと…こいつと、 少し離れた所にこいつもいたな」
とん、とん、と指で示し、 それぞれの写真をクリリンに手渡す。
バータにリクーム…二人とも、 同じ特戦部隊の隊員だ。ギニュー特戦部隊は、特殊能力を持つ五名で構成されている。 この分だと、他の二名も会場内に居たかも知れない。 フリーザがギニュー特戦隊を雇ったという話は、本当らしい。 漏れ聞いた情報から予感はあったが、改めて突き付けられると、頭の痛い話だ。
「兎に角。これで、フリーザとレッドリボン軍の繋がりは確認出来た訳ね」
チチと悟空が潜り込んだ先日のパーティーには、 レッドリボン軍の重鎮が複数招待されていた。 表向きは高級カジノクラブが主催となっていたが、 裏ではフリーザの息のかかったクラブである。やや不自然さを感じてはいたので、 まさかとは思っていたが、どうやらこれで確定したようだ。
「ねえ、孫君」
ブルマが雑誌の見開いたページを突き出す。
「この男は、パーティーにいたかしら」
やけに暗い目つきの老人の顔写真に、 眉根を顰める。
「…見なかったと思うぞ」
ではやはり、 まだ行方不明と言う事なのだろうか。ブルマはうーん、と眉根を寄せる。
「こいつがドクター・ゲロよ」
悟空に見せたのは、古いサイエンス誌だ。 彼は昔、この世界でもかなり有望視されていた科学者だったのである。
「多分、清國にいる事は、間違いないと思うんだけど」
彼の研究は、 宗教的な倫理観に反する要素が強い。「神の子」思想が根底にあるキリスト教圏では、 特に受け入れられ難いと判断したのだろう。故に東洋に研究所を移し、 有力な援助を期待したのは納得できる。
最終的に彼を援助したのが、 英國に拠点を置く私軍だったというのは、実に皮肉な話だが。
「それにしても。 フリーザは、何でこれに目をつけたんですかね」
軍や国家なら、 力の裏付けや敵への牽制として、ドクターゲロの発明を求めるのも判る。 しかしフリーザは一介のマフィアだ。取引や金としてなら、 確かに魅力的な切り札にもなり得るが、それにしてはリスクが大きすぎるだろう。
「不老不死…を真に受けているクチじゃないかしら」
果たしてそれが本物かどうかは、甚だ疑問に残るのだが。
「俺はそう思えないけどなあ」
不老不死ねえ。だって、単純に気持ち悪くないですか。 苦笑するクリリンに、ブルマは肩を竦めて笑った。ブルマとしても、 あれが不老不死だなんてとても思えない。
「もともとは、 医療の一環として進められていた研究だしね」
実際、研究者の中には、 そう解釈する輩も少なくはなかった。科学や医学分野における定義の一部を取り上げると、 確かに理論上、間違いは無いかもしれない。
ドクター・ゲロは、 その方向性を根本的にはき違えてはいるが。
「で、レッドリボン軍も、 ドクター・ゲロを探しているんだろ」
返されたサイエンス誌を受け取りながら、 ブルマは軽く頷いた。
「国営軍にもいないみたいだしね」
軍に潜り込んでいる天津飯からの情報では、それは間違いないようだった。 牛魔王の件についても、それで納得がいく。何らかの情報を握っているであろう人物を、 何が何でも確保しておきたかったのだろう。
今回の牛魔王救出の際、 悟空は襲った国営軍の車内に、赤いスカーフを残していた。 かの軍の象徴でもあるその痕跡に、 国営軍は現在レッドリボン軍のマークを更に厳しくしている。 国営軍は、彼らが重要な秘密を握る牛魔王を保護したと認識しているようだ。
つまり、双軍が共に、お互いを疑っている。
尤もこの程度の小細工で、 いつまでも誤魔化せる程、向こうも単純じゃない。しかし多少の時間稼ぎは出来るだろう。 その隙に、牛魔王親子が日本へ逃げ出すことが出来れば、こちらとしてはそれで充分なのだ。
「もう、船は出てしまったわよね」
ブルマは綺麗に装飾された、手首の腕時計を見る。 そう言えば、もうそんな時間か。窓から入る日差しに、クリリンも目を細める。
「孫くん、何でチチさんを見送りに行かなかったのよ」
ん?と小首を傾げる悟空に、 そうそうとクリリンも身を乗り出した。
「そうだよ。お前、何で行かないんだよ」
何でって言われても。
「だって、ヤムチャが行っているんだろ?」
別に自分が行かずとも、確認や報告ぐらい一人いれば充分だ。
けろりとしたそれに、 ブルマとクリリンは同時に溜息をつく。判ってないな、この男は。
「チチさん、 孫くんにすっごく感謝してたのよ」
二人でパーティーの準備をしていた時も、 いろいろ助けて貰ったって、何度も何度も言っていた。 悟空が牛魔王の救出に向かったと連絡した時も、いじらしいくらいに、 本当に心配していたのだ。
それに悟空は、はははと笑う。
「そんな、てえした事してねえって」
感謝をされるような何かをしたとは、 悟空は露程も思っていない。彼女は確かに困っていたが、こちらの目的が、 たまたま彼女の願いと沿っていただけの話である。
「チチさんさあ、お前に見送りに来て欲しかったんじゃないのか?」
深い意味を込めて言ってやるも。
「何でだ」
当の悟空は朴念仁よろしく、 きょとんと眼を丸くするだけ。これだけ鈍感だと、我が親友ながらいっそ腹立たしい。
ああ、もう。わしわしとクリリンは丸めた頭を乱暴に掻いた。
「お前な、 あんな可愛い子に、あれだけ心配して貰っといてなあ」
ちくしょう、羨ましいぞ。 涙目にすらなって睨みつけるクリリンに、悟空は困ったように眉根を顰める。 そんな事言われたって。
「日本に渡っちゃえば、もうチチさんと、 暫く会えなくなっちゃうのよ」
あんた、それで寂しくないの?
「でも、 日本にいるんだろ」
日本ならば、武天老師がきちんと保護してくれる。 安全が保障されている分、ここにいるよりずっと安心だ。
遠いとか近いとか、 毎日会えるとか会えないとか、その辺りに何の懸念も無い。 だって、何処にいるか判らなくなった訳でも無く、会いたくなれば、 自分が会いに行けばいいのだから。
彼女がそこにいるという確かな事実があるのなら、それで良い。
もう、とブルマは溜息をついた。
「…男って、皆そうなのかしらね」
自分で勝手に納得して、満足して。女の気持ちなんて、まるで判っちゃいないんだから。
「結局、あいつも似たようなものなのよね」
遠い視線でのブルマの小さな呟きに、 悟空は瞬きをした。





不意に鳴った小さな電子音に、ブルマはバッグの中を探る。
取り出したのは、 手のひらサイズの小型無線機。通常、ここまで小型のものは見られない。 工学博士の天才と異名を取るブルマが自らの手で制作した、特殊なものであった。
ボタンを押すと、耳障りなノイズ音に交じって、周囲にも聞こえる音量の声が届く。
「ブルマ、悟空は一緒にいるのか」
ヤムチャの声だ。焦りが滲む声音に、 悟空とクリリンが顔を見合わせる。
「いるわよ、どうしたの?」
今、港で船を見送ってるんじゃないの?
「チチさんがいないんだ」
瞬間、悟空の目が厳しく細まる。
「ちょっと…それ、どう言う事?」
手首の時計は、出航予定時刻から随分経過していた。もう、 とっくに船は出港したと思っていたのに。
「港に来ないんだよ」
真面目な彼女が、こんな時に遅刻するとは考え難い。
「一応オレ、 彼女の住んでる部屋まで行ったんだけどさ」
チチの住んでいる部屋の場所は、 事前に悟空から聞いていた。念の為にそこまで足を運んでみたのだ。
「でも、部屋も片付いていて、もう引き払ったみたいなんだ」
周辺の住居人にそれとなく話を聞くと、荷物を持った彼女に、短い間世話になったと、 きちんと挨拶をされたらしい。
チチは確かに、港へ向かったようだ。 途中で擦れ違ったかもしれないと、港の軍船に連絡もしたが、 矢張り彼女はまだ来ていない。
悟空は、ブルマの手から無線機を取る。
ヤムチャ。名を呼ぶと、ああと声が上がった。
「悟空、チチさんと約束なんてしてないよな」
最後に顔を見せに行くとか、 何処かで会う約束とか。
「彼女、お弁当を持っていたらしいんだ」
あまりにそれが大きいから、随分沢山食べるんだなって指摘すると、 これは人にあげるもんだって笑っていたって聞いたから。
「オラ、知らねえぞ」
最後に会った時も、出航の時間と、 簡単な説明をしただけだ。出発の日に会えるか判らないとさえ告げていた。
嫌な予感に、こくりと息を呑む。
普段はこちらの気が抜けるほど、 自然体でマイペースな横顔。それが今まで目にした事が無いような、 怖いほどの真剣さを帯びる。
「船には、出発するように言ってくれ」
犯罪者として軍に捕らわれていた牛魔王はともかく、チチは只の民間人だ。 牛魔王と同じ軍の船でなくても、日本へ向かう手段はいくらでもある。
「ブルマ、レーダーは持っているかっ」
はっと思い出し、ブルマは頷いた。 ショルダーバッグの中を探り、掌よりも一回り大きめの、 懐中時計にも似た形のそれを取り出す。
かちりとスイッチを押すと、 画面には点滅する光が映った。それに、ほっと悟空は息をつく。
彼女をパーティーへ連れて行った時、万が一の為にと渡した真珠のピアスには、 ブルマが作った小型の発信器が組み込まれている。 本当はパーティーが終わった時点で不要の物であったのだが、 悟空がそのままチチに身につけているように言ったのだ。
彼女は悟空の言葉通り、 あれからずっとピアスをつけているらしい。
「これ、借りるぞ」
手にあった小型無線機と取り替えに、奪うようにそれを取り、軽く掲げる。 そのまま横をすり抜けて、戸口へと走った。
「おい、待てよ悟空っ」
「クリリンは予定通り、例の研究所跡を頼むっ」
ドアに手をかけ、振り返る。
「ブルマ、牛魔王のおっちゃんに伝えてくれ」
約束する。必ずだ。





「チチはオラが絶対に助けっから」








宗教倫理云々は聞きかじりなのでご容赦を
2008.11.20







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