ANGELIC TONE
<6>





日の曜日の早朝。
太公望は、聖地にある公共の庭園にやって来た。片手には、借り物の本を持っている。
今日は休日だと言うのに、珍しく朝すっきりと目が覚めた。二度寝するのももったいなく、 かといって、借りた本を返しに行くには、まだ少々早い時間。庭園を散歩でもして、 少し時間を潰そうか、とやってきたのである。
この時間では、まだ人は少ない。
この庭園で、こんなに人がいないのも珍しい。 うーんと伸びをしながら、のんびりと見回す。
そしてふと、その一角に気がついた。
庭園の入り口に程近く。何やら必死に、簡易テントを 組み立てる姿がひとつ。
黒いおかっぱ頭に、黒い服を来た細身の青年は、 一生懸命なようなのだが、どうにも見ていて危なっかしい。 器用ではありそうだが、力仕事には不向きであるようだ。
それにしても、この庭園でこんなテント、今まで見た事あっただろうか…。
「…のう。おぬし、何をしておるのだ?」
声をかけられ、青年は振り返る。
「あ、丁度良かった。ほら、そこ持ってよ」
早く早くと急かされて、示されたポールを支える。 次はそっち、次はあっち、と、結局太公望はテントの組み立ての殆んどを 手伝わされる羽目になった。
全てが終わった後。
「いやー、助かったよ。ありがとう、君」
悪びれた様子も無く、にこにこ笑う青年に、太公望は毒気を抜かれる。
「…あれ、君。もしかしてさ、女王候補なんじゃない?」
腰に手をあて覗き込む彼に、 こくりと頷いた。
「うむ、太公望という」
「やっぱりそっかー。 太公望ねー、うん、よろしくー」
調子の良い声で、ひらひらと手を振る。
彼の名は、太乙、というらしい。 休日である日の曜日限定で、この庭園で出店をしていると説明する。
「結構いいもんそろってるよー。どう?太公望」
危なっかしいながら、何とか組み立てた台の上に 商品を並べ、太乙は声をかける。
「わしは金など持っておらぬ」
あははと 太乙は明るい声で笑った。
「お金じゃなくていいんだよ。これはね、君の持っている、 女王候補の力と引き換え」
ほらほら、と促されて、商品を見てみる。
しかし並べられたものと言えば、人形だとか、 化粧品だとか、不思議な水晶球だとか、救急箱だとか、 (それに混じって、妙な機械もあったりするのだが…) どうにも統一性が感じられない。一体ここは、何の店なのだ?
「今日は特別にサービスするよ。手伝ってくれたしね」
どれでも好きなものを、一つどうぞ。 そう言って、ぽんと肩を叩いた。
…そうは言っても。
「桃はないのかのう…」
商品を見るが、どうにも太公望が欲しいと思えるものは見当たらない。
「じゃあ、さ。誰かにプレゼントすればいいよ」
きっと喜んでくれるよー。
呑気な声に、そうかと頷く。これから借りた本を返しに 行く所つもりだったし、手土産代わりに丁度 いいだろう。
「…では、それを貰おうか」





「あれ、天化くん」
風の守護聖、黄天化は、女王候補達の寮の戸口を出たところで 声をかけられた。
「あ、楊ぜんさん」
学芸館に執務室を持つ、青い髪の指導役の青年に、 くわえ煙草の守護聖は、人懐っこく笑って片手を挙げる。
守護聖がこんなところに来るとは珍しい。
「何かあったのかい?」
「ああ、スースに会いにきたさ」
僅かに細める紫の瞳。
「太公望師叔に?」
にっと唇を片側だけ吊り上げ、天化は楊ぜんの 端正な顔を覗きこんだ。
「楊ぜんさんも、スースに会いに来たさ?」
楽しそうな好奇心の目は、やんちゃ小僧そのままの印象を人に与える。
楊ぜんは、 どうとでも解釈できる笑顔を返した。
「も」と表現する事は。
「天化君は、そうなのかい?」
太公望に、会いに来たのだ。 へへっと歯を見せて笑う。
「この間、 ちっと世話かけちまったしね。お礼にでもと思って来たさー」
先日、わざわざ土の曜日に王宮に来てもらい、 貴媚の忘れ物を渡してもらっていた。面倒をかけさせたことだし、 ちゃんと一度、お礼を言っておきたかったのだ。
「でも駄目さ。スース、留守なんだとさ」
わしわしと髪を掻き、ちぇーっと唇を 尖らせて息をつく。
「…何処かに出かけられたのかな」
「なんでも、闇の守護聖んトコに行ったらしいさ」





宮殿は、土の曜日は立ち入り禁止となっているが、 日の曜日は開放されていた。
さて、いるのだろうか。 特に約束もしてなかったしのう。
太公望は、 安らぎを司る闇の守護聖、玉鼎の 執務室の扉をノックした。奥から帰ってくる低く通る返事に、とりあえずほっとする。
「失礼するぞ、玉鼎」
かちゃりと扉を開くと、 部屋の主はそこにいた。
「なんだ、太公望ではないか」
なんだはなかろうに。 そう言いながら、ほいと手にあった書物を玉鼎に手渡した。
「これを返しに来たのだ」
それと、ともう一つ手渡す。
「…これは?」
「庭園にいた商人から貰ったのだ」
華奢な作りの小箱。中に入っているのは、良質の香木であった。驚いて玉鼎は、太公望を見る。
「本を借りた礼だ、貰ってくれ」
わしが持っているより、おぬしが持っているほうが良かろう。 にこにこと太公望は笑う。
玉鼎が香道に趣旨が深いのは、他の守護聖との会話で、 聞いたことがあった。宮殿の執務室でも、いつも仄かに香が漂っている。
「いいのか?」
「わしには要らぬものだ…その代わりと言っては何だが」
ずいと太公望は顔を寄せ、ぴっと 人差し指を立てた。
「借りた本の続き、とっととわしに貸してくれぬか」
くるくるとした目を間近に、 ふっと玉鼎は笑った。
「…太公望。今日、これからは空いているか?」
「うむ」
この本の続きは、ここ執務室に置いていない。
「私はこれから、 私邸に戻る所だったのだが…よければ一緒にこないか」





守護聖は、聖地に各自、私邸があてがわれていた。
新しく聖地に来た教官たちと違い、 ここでの生活が長い為、そういったプライベートの場所を設けている。
「らしいといえば、らしいのう」
「なにがだ」
「いや、 おぬしらしい私邸だと思ってな」
案内された闇の守護聖の私邸は、簡素だが、細やかな手入れが行き届いた館であった。
初めて訪問する守護聖の私邸に、太公望は 面白そうに、視線を巡らせる。
広い間取りの応接室に通されると、太公望は広い窓から出られる テラスに身を乗り出し、眼下の庭を見下ろした。 緑の守護聖、普賢の執務室も顔負けに、たくさんの花が植えられてある庭は、 そこから見ると、鮮やかな色彩が一望できた。
無邪気とも取れる太公望の様子を横目に、 玉鼎は微笑みながら、お茶をいれる。
「では、少し待っていてくれ」
「うむ」
そのまま書庫へ、本を取りに 行った。
しばし、太公望一人、取り残される。
ぐるりと室内を見回した。流石は安らぎを司る、闇の守護聖というわけか。 初めて通された部屋ではあるのだが、妙に和むと言おうか落ち着くと言おうか。
はた、と、一点で、太公望の目が止まった。
備え付けられた、古びた暖炉。今は使われていないであろうその上に、幾つかの写真立てが 飾られてある。太公望は何気に、それらの写真を覗きこんだ。
写真は、玉鼎の母親や、父親らしき人が写っている。面影が似通っているので、何となく 判った。
そんな中、太公望は一つの写真立てを手にとる。
そこに写る子供。
見覚えのある青い髪をした 幼い男の子が、今よりもほんの少し若いであろう玉鼎と共に写っている。子供の瞳は、鮮やかな 紫色だった。
「待たせたな、太公望」
玉鼎が戻ってきた。片手には本と、甘い 菓子を携えている。
「…のう、玉鼎。この写真は…」
暖炉の前、写真立てを手に立つ太公望に、ああ、と笑って隣に立った。
「楊ぜんだよ、それは」
「やはり…」
懐かしそうに玉鼎は、切れ長の目を細めた。
「…あの子は幼い頃に、私が預かったのだよ」
だから半分、子供のような存在なのだ。
ほう、と太公望は声を上げた。 初めて楊ぜんに会った時の紹介で、剣の弟子とは聞いていたが。
玉鼎は小柄な女王候補を 見下ろし、少し考える。
「…お前なら、あの子を判ってやれるかもしれないな」
きょとんと太公望は、小首を傾げた。





ぱさり、と太公望は、どっしりと重みのあるアルバムをめくった。大切に保管されていたのが よく判るそれを、のんびりと眺める。
それにしても、これだけの写真を、後生大事に聖地まで 持ってくるとは、闇の守護聖は随分子煩悩らしい。
…と言うより、親馬鹿か。
ふいに おかしくなって、太公望は肩をひそめて、笑いを漏らした。
「どうした?」
「いや…」
数冊に及ぶアルバムは、太公望が強請ると、玉鼎は快く書庫から持ってきてくれた。 沢山の写真はどれも、幼い頃からの楊ぜんの成長の記録である。
しかし気になるのは、どの写真も、何処かその瞳に暗さを潜めた 、大人びたような、そんな表情ばかりであること。可愛い子供には違いが無いのだが、 必要以上にしゃちほこ張って「いい子」じみて見える、そんな印象を受けた。
「真面目な子供だったようだのう、楊ぜんは」
玉鼎は、苦笑をもらした。
「昔から、人の期待に答える事を、 優先に考えるような子だったな」
諸事情により、玉鼎が引き取るようになった、その頃からすでにそうだった。 幼いころの環境が、楊ぜんをそうせざるを得なくしてしまったのかもしれない。
遠くを見るような玉鼎に、少し眉をひそめ、ぱらりとページをめくった。
だが、そんな中で、一枚だけ。
「…のう、玉鼎。この写真は…」
尋ねる太公望に、玉鼎は、体を伸ばして覗き込み、 ああ、と相槌を打った。
「初めて楊ぜんが、海を見た時のものだよ」
写真の中、楊ぜんは、驚いたような、はしゃいだ笑顔をこちらに向けていた。
他の写真に比べて、取り澄ましたような表情はなく、生き生きとした、そんな満面の 笑顔。幼い子供の生きた表情に、見ている太公望は口元をほころばせる。
本当は夏に来るつもりであったのだが、仕事の都合上どうしても無理になり、時期をずらして 秋に初めて楊ぜんを海に連れて来た時のものだ。 流石に、もう海で泳ぐ事は出来なかったが。それでも楊ぜんは、 その大きく広い、生まれて初めて目にする海に、随分はしゃいだものだった。
玉鼎は、懐かしそうに、瞳を細める。
「なんだか、かわゆさ炸裂だのう」
特にこの写真は。
「そうだな」
今指導役としてこの聖地に来ている、 優等生然りとした姿を思い出せば、妙におかしい。そのギャップが、 かえって微笑ましくさえある。
「随分気に入ったようだな」
いつまでもページをめくらず、 にこにこと眺める太公望に、玉鼎は微笑んだ。
「うむ、いい写真だ」
「そんなに気に入ったのなら、貰ってやってくれないか」
丁寧にその写真を抜き取り、そして手渡した。





「ほんとに良いのか?」
「香木のお礼だ」
大切にしてやってくれ。
「…うむ」









玉太にあらず。
個人的には、非常に魅力なのですが。
2001.12.26







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