ANGELIC TONE <8> 「太公望、お前、香水か何かつけているのか?」 「ん?え…いや、ああ…」 王宮にある執務室。女王候補は今日も守護聖に、育成を頼みに参上していた。 現在の新宇宙は、強さを司る炎の力を必要としている。その守護聖、燃燈道人は、 そこはかとなく香る甘い匂いに、手元の資料に落としていた目を、太公望へ向けた。 その視線を受け止めるでなく、そわそわとした女王候補の様子に、 あえてそれ以上突っ込む事はせず。 「…判った。私の力を宇宙に送ればいいのだな」 燃えるような赤い髪を持つ 炎の守護聖は、育成依頼を了解した。 「あー、うむ。よろしく頼む」 太公望は、ほっとしたように頷く。 優しさを司る水の守護聖、 竜吉公主と異母弟に当たる彼は、こうしてみると、ひどく彼女とは対称的な イメージがある。 公主は、たおやかで、何処か儚げな印象を受けるが、 彼はその守護する力そのままに、激しいほどの強さを、その内に感じるのだ。 「あれから、お前達は、湖に行ったのか?」 先日の日曜日の事を 言っているらしい。 「ああ…まあ、な」 ふっと燃燈は男っぽく笑った。 「静かで、なかなかいいところだっただろう」 「…うむ」 何となく視線をさ迷わせながら、 それでも太公望は頷いた。 「まあ、何だな。聖地にも、気の効いた所があるのだな」 「…そうか。やはりお前は知らないんだな」 ゆったりとデスクの上で指を組む。 「あそこは別名があってな…ほら、湖があるだろう」 滝が流れ込んでいた、 あの湖のことだろうか。 「あそこで思いを込めて祈りを捧げると、意中の人と会えるそうだ」 はあ? ぽかんと太公望は口を開けた。 その呆けた顔に、くっくっと燃燈は笑う。 「まあ、言い伝えだ。本当かどうかはわからんが」 なんなら、試してみるといい。 「だからあそこは別名、恋人達の森、とも呼ばれている」 恋人達。 何となく血の気が 上がり、太公望は唇を引き締めた。 そんなところに行ったのか?あの、楊ぜんと。 本当に知らなかっただろう。絶句する様子に、燃燈は、可笑しそうに目を細める。 「案外、自分では気がつかなかった心の内が、判るかも知れんぞ」 からかいを含めたような 声音に、むう、と太公望は頬を膨らませた。 「おぬし、面白がっておるだろう」 もうよい。 用も終えたし、ふんとそっぽを向いて戸口へ向かいかける背中に。 「で、その桃は、何処で盗ってきたんだ?」 「ん?さっき宮殿の中庭で…」 言いかけてぎょっとする。 しまったと懐を抑える太公望に、くすりと燃燈は唇を片方吊り上げた。 「うるさ方には、見つからないようにしろよ」 どうやらお見通しであったらしい。 「香を、変えられたのですか?」 闇の守護聖の執務室。いつも使っているものと、 微妙に違う香りに気がつき、楊ぜんは尋ねた。 「ああ、よく判ったな」 幼い頃からの、親子のように長い間柄である。他の者なら 気付かないような微妙な違いも、息子のように育てられた楊ぜんには、すぐに判別できるらしい。 「いい香りですね…でも師匠、こんな香木、お持ちでしたか?」 ふっと玉鼎は笑った。 「太公望に貰ったものだよ」 その名前に、はたと楊ぜんは目を丸くした。 「…太公望師叔に?」 「ああ、この前の日曜日に、私にくれたものだ」 思い出したかのように、玉鼎は薄い笑みを唇に滲ませる。 そんな表情を、何処か複雑に楊ぜんは見ていた。 「…何でも、私邸に、招待されたとか」 よく知っているな。弟子の情報網に、感心したように目を見開いた。 楊ぜんは、何かを言いかけるように口を開くが、躊躇し、結局言葉を飲み込んだ。 どちらかと言えば、目上の者に対してさえ、楊ぜんは遠慮なくものを言う性質である。 弟子のそんな、珍しいともいえる様子に、玉鼎は何処か楽しそうに目を細めた。 「そういえば、先日、太公望とデートをしたそうだな」 「あれは、僕が 強引に…」 ふてくされたようなそれに、くっくっと、玉鼎は笑う。 子ども扱いされたようで、楊ぜんは唇をへの字に曲げた。面白くない、といった声音を隠さず。 「…師匠、誰に聞いたんですか、それ」 「もう一人の女王候補だよ」 育成の依頼に来たとき、 何気に話してくれたらしい。そういえば、あの日、別れ際に会ったなあと思い出す。 「太公望の部屋には入ったことあるかい」 「…ええ、一度だけ」 そのデートの日、 迎えに行った際に、少しの間だけお邪魔した。 「あの子の部屋に、写真立てはなかったかな」 訝しげに、楊ぜんは眉をひそめた。 「…さあ、そこまでは…」 「もし今度機会があれば、見てみるといい」 含み笑いを隠さない師匠に、楊ぜんは瞬きをした。 恋人達の森、か。 まあ確かに。 雰囲気はあるし、静かだし、人目も少ないし。 好きな人と二人きりになるには、随分もってこいの場所ではあるだろうな。 公主はそれを知ってて、あの日の曜日、あえて二人に薦めたのだろうか。だとしたら、 完全に彼女に遊ばれているのではないか!? ぶつぶつと考えながら、太公望は王宮を出た。 今日はとりあえず、炎の守護聖に、一日分の力を送ってもらうように頼んだ。 もう力は無くなったし、育成も学習も出来ないな。ぼんやり考えながら寮へと足を向け、 はたと岐路で立ち止まる。 まだ日も高い。 少し…散歩ぐらいして帰ろうか。 いや別に、これは燃燈に言われたからじゃないぞ。 心の中で、 何度もそう言い聞かせ、太公望の足は、湖の森へと向けられた。 「…あ、れ?」 そこにあった先客の姿に、太公望は目を丸くした。 珍しい、といえば非常に 珍しいか? 金の髪に、しっかりとした長身のごついマント姿。 その背中が、後からやって来た来訪者の気配に振り返る。 「…なんだ、女王候補か」 「聞仲ではないか」 守護聖の筆頭であり、光の力を司る守護聖、聞仲であった。 「何しに来た、こんなところに」 「それはこちらの台詞だわい」 お堅い守護聖筆頭が、 こんな森の湖に一人佇んでいるなど、一体誰が想像したであろう。 「おぬしこそ、こんなところで何をしておる」 ぱたぱたと歩み寄る太公望を一瞥。 「ふん、気分転換に散策に来たまでだ」 ふい、と顔を背ける。 ならば、目的は同じだ。 それ以上の会話を交わそうとせず、太公望は並んで滝を見上げた。 会話にうるさくない程度の水音。小さな鳥の声。二人、何を話すでなく、ただぼんやりと 並んでそこにいる。 時が止まったかのような、暫しの静寂の後。 「…そうじゃ」 太公望は懐から桃を二つ取り出した。 「ほれ、おぬしにやろう」 ぽん、と聞仲の手に乗せると、川辺に座り込み、太公望は まくまくと桃を頬張りだす。 呆気に取られたような聞仲に、ぽんぽんと隣を叩いた。 どうやらここに座れと言う事か。その当たり前のような仕草に、ふっと笑いが洩れ、 示されるままに太公望の隣に腰をおろす。 「安心せい。雲中子からのものではないぞ」 一応念を押しておく。 この女王候補が、散々地の守護聖の実験体にされた事は、聞仲も勿論知っている。 可笑しくなって、珍しくも口元をほころばせる様子に、太公望も頬を緩ませた。 笑顔は人の心を軽くする。 心地よい風が、ふわりと額にかかった髪をすくいあげた。 「ほう。おぬし、前回の女王試験を知っておるのか?」 「ああ」 何かを深く思い返すように、ゆったりと頷いた。 「前回の女王候補となれば…やはり妲己と貴人かのう」 「いや、違う」 実は前回行われた女王試験では、女王は生まれなかったのだ。 理由は一つ。試験も申し分のない 成績を収めていたにも関わらず、候補者が途中で資格を辞退をしたのである。 その話に、太公望は大きな目を、更に大きくした。 「そうなのか?」 自嘲するように、聞仲は頷いた。 「何故だ?」 「守護聖の一人と結婚したのだ」 絶句した。 そんな太公望を横目に、聞仲は流れる滝を見上げる。 そういえば。太公望は、ふと公主を思い出した。彼女も以前、同じような事を言っていた。 もしかすると、このことを示していたのかもしれない。 しかし、それにしても。 「折角の資格を、あえて蹴ってしまうとはのう…」 一体どんな女王候補 だったのか。 感心するように溜息をつく太公望に、聞仲は目を細めた。 「そうだな…私より年上で…明るく、親しみやすく、とても生命力に溢れた方だったな…」 呟くような聞仲の横顔は、酷く懐かしく、 優しく…そしてほんの少しだけ、苦しそうにも見えた。不思議な心地で太公望は、 そんな横顔を見つめる。 「とても魅力的な女性だったよ…特別美しい方ではなかったが…」 否、違う。 「…とても…私にとっては、美しい方だった…」 厳しいと皆に称される 事の多い、光の守護聖の瞳。でもその一瞬は、何ものにも変えがたいほど、深い穏やかさを 滲ませていた。 「…ふむ」 太公望は、食べ終えた桃の種を、ぽいっと湖に投げた。 ぽちゃん、と波紋が広がる。 そうか。 「とても素敵な方だったようだな」 ああ。噛みしめるように、聞仲は頷いた。 そして、改めたように太公望を見る。 「…お前も、随分女王候補らしくなってきたな」 「そうかのう」 そういわれても、自分自身ではぴんと来ない。 「ああ。この聖地で、お前の話はいろいろと 聞いている」 その言葉に、太公望は複雑な顔をした。 この聖地での噂など、 雲中子の実験台にされた事とか、庭園の桃を勝手に取ったとか、あんまりろくな物では なさそうなのだが…。 だが聞仲の言う「話」は少々違う。 確かに、あまり 女王候補として相応しくない噂も、それなりにあるのだが。 しかしそれにも増して、この女王候補は、 不思議と人を惹きつける人望があった。聖地の人々も、 守護聖たちも、この女王候補を皆、親しく思っている。 ああ。 そんなところは。 「お前は、かの女王候補に似ているのかもしれないな」 「…で、この桃は、何処から盗ってきたのだ?」 「…(汗)」 …聞太にあらず。とりあえず。 管理人の中では、聞仲さんも武成王もノーマルです。 朱氏さんと賈氏さまの話は、とても好きでした。 2002.01.23 |