ANGELIC TONE <12> 机に向かっていた太公望は、うーんと一つ、伸びをした。 今日は、王立研究院へスープーシャンに会って、一日を費やした。 育成は順調だ。 土の曜日である今日は、他にする事もなく、何処も立ち入り禁止になっているので、 太公望は早めに寮に帰宅し、机に向かって新宇宙の育成の傾向と対策を練る。 それもひと段落ついた頃。 先に寝間着に着替えて、それから 来週の予定でも考えるかのう。ぼんやりそう思いながら手袋を外し、 するすると頭巾を解いた時。 ピンポーン。 チャイムが鳴った。見上げる時計は、もう夜中を示している。 こんな時間にこの部屋にやってくるのは、せいぜい貴媚ぐらいであろう。 同じ寮にいるので、こんな時間に遊びにくる事も珍しい事ではない。 だから、今回もまた気晴らしに 来たのかと思って、太公望は深く警戒することなく、部屋の扉を開けた。 そこで、大きな目をぱちくりさせる。 「遅い時間にすいません」 申し訳なさそうに、眉根を寄せて笑顔を向けるのは、 感性の教官、楊ぜんであった。 「…どうしたのだ、おぬし。こんな時間に」 「お休みになられるところだったんですか?」 いつもは頭巾で覆われている赤味を帯びた髪が、今はさらさらと晒されている。 「そうでもないが…」 「今夜はね、満月なんです」 紫の瞳で伺うように覗き込み、綺麗な笑顔を見せた。 「貴方と…二人でこの月を愛でたいなと思って」 「ほう、綺麗だのう」 誰もいない公園。 今宵は満月。 その明かりだけで、視界は充分利いていた。 しんと静まり返ったこの場所は、馴染んだ場所であるはずなのに、 昼間とは全く違った印象がある。 無邪気に空を仰ぐ太公望の横顔に、楊ぜんの笑みは絶えない。 「なんじゃ」 じっとこちらを見つめる視線に居心地の悪さを感じ、拗ねたように 太公望はぶっきらぼうな視線を送った。 「いえ、頭巾と手袋をされてないので」 丁度外したときに、楊ぜんが尋ねてきたのだ。日中でもなし、 誰かに合うこともないと思い、そのままで来たのである。 「何だか、いつもと違うように見えて」 月明かりの下、穏やかに紡ぐ言葉に、 太公望はむず痒く、ぷいとそっぽを向いた。 そこに座りましょうか。 二人は庭園の奥にあるベンチに腰を下ろした。 「わしの住んでいた星は、月が二つあったのう」 月が複数ある惑星は珍しくない。 「僕の故郷は、この聖地と同じく、一つでしたね」 懐かしそうに、一度ゆっくりと 目蓋を閉じた。そして、自嘲するように、何処かしら皮肉めいた笑みを唇に浮かべる。 長く息をつくと、何やら決意めいた響きを含めた声で。 「僕が幼い頃、玉鼎真人師匠の元へ預けられたのは、ご存知ですか」 「…うむ」 以前、闇の守護聖の私邸へお邪魔したとき、その話がちらりと出た。 とはいえ、詳しい事情は知らない。玉鼎はそれ以上話そうとはしなかったし、 太公望もまた、あえて聞こうとはしなかった。 「僕の父は、ある惑星の大貴族だったんです」 旧家でもあり、随分惑星では高い 身分を持っていたらしい。そして、それに見合う婚約者も、生まれる前から定められていた。 「僕の母とは、駆け落ち同然に結ばれたそうです」 庶民出身の母親とは、身分違いの為、 周囲に猛反対されたものであったらしい。 反対を押し切った父と母は、半ば強引に楊ぜんを身篭り、出産した。その後、元々病弱だった 母は、程なく他界してしまう。 世継ぎの無かった父は、説得の末に家に戻り、家督を継いだ。 楊ぜんは、正当な血族として父と共に旧家に戻ったものの、 卑しい血筋の子供として、随分卑下された目で見られていたらしい。 そんな中で家督や派閥の諍いが起こる。陰惨な問題から距離を取るために、 幼い楊ぜんは、母親の遠縁である玉鼎の元へ預けられたのだ。 「師匠はいつも、僕に言っていました」 父は、僕を守るために、師匠の元へ僕を託したそうです。 でも。 子供心ながらに、 拭いきれない不安と疑問がいつまでも残っていた。 父が死んだ知らせを受けたのは、少年と呼ばれるような年齢になってのことだった。 それまで、実家からの接触は皆無であった。 しかしそこにあるのは 冷たくなった屍だけ。長く会う事のなかったその姿を見ても、感慨らしいものは何も浮かばなかった。 そんな自分をひどく冷たい人間だと思った。 「随分経ってから、師匠が教えてくれたんですけど」 父には、最後までずっと身に付けていたお守りがあったらしい。火葬の際に、共に 灰になったそうだが、とても大切にしていたものだと、 父の関係者も言っていた。 「子供の頃のね、僕の髪が一房入っていたものだったそうです」 正当な後継ぎである楊ぜんは、あっさりとその権利を放棄した。実家との縁も完全に 断ち切る。 現在その貴族の家がどうなっているか、全く知らない。 「…すいません、何だか変な話をしてしまって」 楊ぜんは苦笑を滲ませ、 そして太公望へと目を向けた。 「こんな話、誰にもしたことなかったんですが」 ほんとにすいません。 今更ながら、自分の話に後悔したように、楊ぜんは紫の瞳を伏せる。 月の光の下でも、はっきりと判る長い睫毛を見つめながら、太公望は指で頬を掻いた。 「のう」 少し迷い、伺うように小首を傾げて、俯いた秀麗な顔を覗き込む。 「きっとおぬしは、ずっと、誰かにそれを話したかったのであろうよ」 胸の内にある、複雑な思いを、誰かに聞いて欲しかった。 そんな気がする。 「そんな話を、おぬしの口から聞くことが出来て」 太公望は、何処かはにかんだように、にこりと笑った。 「わしは、ものすごく光栄だよ」 一瞬、月の光に紫の瞳が見開き、揺らめいた。 驚いたような表情が、やがてゆっくりと 限りない優しさを含めた笑みに変わってゆく。その静かで鮮やかな変化に、 太公望は目を奪われた。 「貴方という人は…」 続く言葉は咽喉の奥へと押し留められる。 その代わりに紡ぐ言葉は。 「ありがとうございます」 そっと、大切なものを 包む見込むかのように、常には大きなグローブで隠されているはずの、 小さく華奢な太公望の手を取った。 「貴方に話すことが出来て、本当に良かった…いえ」 僕は貴方に、僕の全てを聞いて欲しかったのかもしれない。 音のない月明かりの庭園。 月明かりは、ただ静かに二人を照らしていた。 「すいません、こんな遅い時間まで」 庭園から寮まで送り、少し冷えた身体を温める為、 二人テーブルでお茶を飲む。 「いや、誘ってくれて嬉しかったぞ」 そう言っていただけると。 楊ぜんは、心底嬉しそうに笑う。 その笑顔に、太公望も嬉しくなった。彼のこんな笑顔が見れて、本当に良かったと思えた。 空になったカップをテーブルに置くと、楊ぜんは立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。 「それでは、失礼します」 「帰るのか」 見送ろうと立ち上がりかける太公望を、 そのままでいるように、やんわりと制した。 「今夜はとても、楽しかったです」 本当に、ありがとうございました。 そのまま戸口へと向かおうと、楊ぜんが顔を上げたとき。 はたと、あちらのチェストの上にある、小さなフォトスタンドが目に入った。 あの子の部屋に、写真立てはなかったかな。 もし今度機会があれば、見てみるといい。 ―――そういえば。 闇の守護聖玉鼎の言葉を思い出す。もしかすると、この写真の事か? 「楊ぜん?」 扉とは逆の方へと足を進める彼の視線の先に気が付き、太公望はぎょっとした。 「わっ、馬鹿!見るなっ」 椅子を倒して立ち上がり、慌てて追いかけるがもう遅い。 奪い返そうとする小さな手から、ひらりとすり抜けるようにして 高く掲げたフォトスタンド。それを下から見上げ、楊ぜんはぴたりと固まった。 「…この写真」 幼い頃の楊ぜんの無邪気な笑顔。 これは確か、初めて師匠と海に行ったときのものだ。 一瞬の隙を突き、飛び上がって、太公望は楊ぜんの手からそれを 奪った。 くるりと背を向け、写真を胸に抱いて俯く姿に、楊ぜんは瞬きする。 「それ…どうされたんですか」 うーと太公望は唇を引き締めた。 そして観念したように、 吐き出す。 「闇の守護聖の玉鼎から、譲ってもらったのじゃっ」 「え…と、譲ってもらったって…」 「前に私邸にお邪魔したとき、アルバムを見せてもらってのうっ。 今の取り澄まして優等生然としたおぬしにも、 こんな愛くるしい時があったのかーって思うたのだっ。珍しいし、ネタになるし、いざというときには 何かの脅しやら取引やらに使えるであろう?玉鼎は良かったら 貰ってくれって渡してくれるし、好意を無下にするのも失礼であろうし。 わ、わしの部屋も前女王候補の物ばかりがあって、ひとつぐらいはわしの物を 置いても悪くないではないか。でも何を置いて良いか判らないし。家族の写真など、 わしは一枚も持っておらぬから、こっこれぐらいは良かろうっ。何だ?何かおぬし、 わしに文句でもあるというのかっ?おぬしはそんな、心の狭い人間だというのかっ?!」 背中を向けたまま、一息にそこまで言い切ると、ぜいぜいと息を切らした。後ろから覗く耳たぶは、 興奮した所為だけではなかろう、真っ赤になっている。 「…いえ…えっと…」 ここで振り返っていたら、非常に珍しい楊ぜんの赤面した顔を、 拝む事が出来たであろうに。残念ながら今の太公望に、そんな心の余裕は無かった。 「…おぬし、もう帰れ」 小さな呟きのようなその声は、何だか涙声のよう聞こえる。写真を胸に、 丸めて頑なになった背中は、一際小さく見えてしまって。 そっと細い肩に乗せられた暖かい指の感触に、ぴくんと小さな背中が跳ねた。 ふわりと背中から覆い被さるように、青い髪が流れてくる。そのまま包み込むように、 後ろから抱きしめられて、太公望は身を竦ませた。 うわっ、うわっ、うわーっ。 心の叫びは声にならなくて、強く目を瞑った。 その緊張を解すかのように、 腕を宥められ、優しい手つきで肩を撫でられ。 そして。 そしていつもは 頭巾に覆われたつむじに、ちゅっと柔らかいものが当てられた。 …い、いいい今のって? ぱっちり目蓋を開いて、多分正しいであろうその憶測に、太公望はかーっと体温を上昇させる。 そして背後から頬を寄せられて。強く瞑りすぎて涙の滲んだ目尻に、 癒すように優しげな唇が当てられた。 「おやすみなさい、太公望師叔」 「いい夢を」 ぱたんと扉が閉じられる音を聞き届けて。 へたっと太公望は、その場に座り込んだ。 このイベントだけは、外せないでしょう。 「あっ、師叔。人がいますっ! 隠れましょうっ、さあ、さあっ!」 「わっ、ちょっとおぬし!」 「さあっ、早くそこの茂みに!」 「って、押し倒すなっ、まさぐるな〜!」 「静かに!大声を出すと見つかりますよ(妖笑)」 夜の公園デート、先客アリバージョン、拝読切実希望。 2002.03.14 |