ANGELIC TONE <13> ピンポーン。 軽やかなチャイムの音に、太公望はびっくんと身を硬くした。 こんな朝早くから、女王候補の寮の私室を訪れる来客。瞬間、脳裏に深い蒼天の彩が掠める。 あの日以来、太公望は感性の学習へは行っていない。当然、感性の教官とも出会ってはいなかった。 太公望としても、故意に避けているわけではない…避けてなどいない「つもり」なのだが。 ただ…その。 一体どんな顔をして、彼に会えばよいのだ? もう一度チャイムが鳴った。わたわたと太公望は慌てふためく。 どうしようどうしようどうしようどうしよう。 そして導き出された答えは。 ―――無かった事にしよう。 居留守である。 布団を頭まで被り、 ベットの真ん中で真ん丸くなってじっと息を潜める。どくんどくんとうるさい心臓の音に、 太公望はぎゅっと目を閉じた。 その時。 「ぼーうちゃんっ」 「どわああっ」 いきなり思い切り良く布団を引っぺがされ、太公望は大袈裟なぐらいに声を上げた。 「やっぱりいたんだ」 駄目だよ、居留守なんて使っちゃ。 にっこりと柔らかい笑顔を向けるのは。 「お、おぬしっ」 豊かさを司る緑の守護聖、普賢であった。 執務室の机に頬杖をつきながら、感性の教官楊ぜんは、憂い顔で溜息をついた。 あの夜以来、女王候補とは会っていない。 学習に力を使う事を惜しまない人だから、 ローテーションを組んで、各執務室へはまめに通っていることは知っている。 この感性の執務室だって、勿論繁盛に足を向けてくれていた。 しかしそれが、 あの夜の公園へ誘って以来、ぴたりと止まってしまったのである。 教官が執務室を留守にして、すれ違ってしまう事は珍しくない。 しかしあの日から楊ぜんは、この執務室を離れた記憶はなかった。 これは、やっぱり。 「…避けられているのかな」 呟きと同時に、また一つ溜息。 嫌がられたのだろうか。仮にも大切な女王候補相手に、失礼な奴だと憤慨されたのかもしれない。 …でも。 思い出し、楊ぜんは口元を抑え、顔を赤くして俯いた。 でも、あんな女王候補の 様子を見ていたら、本当に、本当に堪らなくなってしまって。 「何やってるんだ、僕は」 とりあえず、何とかすべきであろう。 少なくとも、 これ以上避けられるのは辛すぎる。せめて、何かの誤解があるならば、きちんと解いておきたい。 それに…それに―――。 何だか、居ても立ってもいられない。とにかく立ち上がり、執務室から出たところ。 「おお、楊ぜんどの」 丁度王室研究院から帰ってきたばかりであろう、 精神の教官、黄飛虎と鉢合わせた。 「武成王と…」 その隣には、 守護聖筆頭であり誇りを司る光の守護聖、聞仲もいた。 この二人が旧知の仲であることは知っている。 ちなみに武成王とは、黄飛虎が軍にいた頃使われていた呼称だ。 丁寧にお辞儀をする楊ぜんに、丁度良かった、と精神の教官は手を打った。 「良かったら、ちょっと寄ってくれねえか」 「全く、返事も聞かず、勝手に私室に入って来おって」 「だって、最初のチャイムの時、 部屋の中で気配がしたからね」 ぶつぶつ唇を尖らせる太公望を見ながら、 悪びれずににこにこ笑う。 「それよりさ、今日は僕に付き合ってよ」 今日は、何だか望ちゃんと一緒に過ごしたくなったんだ。おいしい桃も持ってきたんだよ。 そう誘われ、とりあえず本日の予定を取りやめ、太公望は普賢と一緒に過ごすことにした。 何処に行きたいかと問われ。 「どうせならのんびりしたいのう」 「じゃ、湖の森だね」 とりあえず、二人は湖の森へとやって来る。 「ふいー、ここは気持ちいいのう」 うーんと太公望は伸びをした。 誰もいない森の空気を、胸いっぱいに深呼吸する。心地よさに誘われ、ふわあ、と欠伸が洩れた。 「あんまり眠ってないんじゃない?望ちゃん」 少し目が赤いよ。覗き込む普賢に、んー、と 曖昧な返事をした。 眠れない、と言えばそうなのかもしれない。先日、感性の教官、楊ぜんと 夜の庭園に来たその夜から、どうにも寝つきが悪いのだ。 目を閉じると、瞼の裏に蒼い影がちらつく。つむじと、それから目尻に当てられた 柔らかい感触が何度もリアルに思い出され、体温が上昇する。 彼の言葉や交わした会話が頭の中でリプレイされ、気恥ずかしさがぶり返す。 我ながら、つくづく恥ずかしい奴だと思うのだが、何だかもう、 ほんとにどうにもしょうがないじゃないか。 あんな行為、彼にとっては大層な意味などなかったのかもしれない。 でもこっちはそんな事に、全然全くこれっぽっちも慣れてないのだ。 再び思い出し、うう、と俯いてしまう太公望に、普賢は眉をひそめる。 「どうしたの?望ちゃん」 「あ、いや、その、何でもない」 そう?怪訝そうに小首を傾げる。 「今日はここで、少しお昼寝すればいいよ」 何だか寝不足気味みたいだし、 ちょっと疲れているのかもしれない。湖に桃を浸しながら、普賢は笑顔を向けた。 「桃が冷えたら起こしてあげるから」 「むー、そうだのう」 それでは頼むとするか。 お言葉に甘え、太公望はころんと寝転がった。 精神の教官の執務室で渡されたのは、王立研究院で毎週配布される、育成物の成長データの資料。 そしてそれと一緒に。 「今朝、学芸館の入り口で頼まれちまってな」 ぱさりと手に乗せられたのは、 綺麗にコーディネイトされた花束と、淡いピンク色のリボンでラッピングされた プレゼント。中身はどうやら、手作りのお菓子であるようだ。 聖地には、何も守護聖や教官ばかりが住んでいるわけではない。ごく普通に生活を営む 住民もいるのだ。 そんな中で、特に女性には、女王試験のためにやってきた美貌の感性の教官は、 ひどく人目を引く存在であるらしい。 「武成王…」 困ったような、咎めるような楊ぜんの口調に、悪い悪いと苦笑いを返す。 これが初めてではない。幾度となくこういったプレゼントが、感性の教官宛てに届けられていた。 楊ぜんは全て受け取らないように断りを入れているのだが、 人の良い精神の教官は、頼まれるとどうにも断りきれないらしい。 「まあ、でもほれ。くれるってんだから、素直に貰ってもバチは当たらねえって」 人の好意を、あんまり無碍にするのもな。言いながら、ばんばんと 楊ぜんの背中を叩く。力任せなそれは結構痛いのだが…。 「ウチの天化なんかも、時々聖地の若い女の子から、いろいろ貰ったりしてるらしいしな」 甘いお菓子なんぞも喜んで、ばりばり食ってるしな。ああ、そう言えば楊ぜん殿は、 あんまり甘いものは好きじゃなかったか。 「いえ、あの、そういう問題では…」 「甘いのが苦手なら、女王候補が来たときにでも出してやればいい」 黙ってやり取りを傍観していた 光の守護聖が、何気ない口調でアドバイスをする。 「太公望師叔に、ですか?」 「私の執務室に来たときも、 散々食べ散らかして帰ったぞ」 たまたま、お茶にしようとした時依頼に来て、 そのまま相伴に預かったらしい。 「俺の所に学習に来たときも、作った杏仁豆腐をたくさん食って帰ったなあ」 そういや天化の奴も、同じ事言ってたっけ。確か、水の守護聖も似た事を言っていた。 まあ、つまりは何処でも同じらしい。 楊ぜんは呆れたように瞬きをするが、 ふっと苦笑を滲ませた。 「何だ、感性の教官」 いえ、軽く首を振り。 「太公望師叔は、本当に人気者だな、と思いまして」 きょとんと精神の教官と光の守護聖は 目を見開く。 そして。 「…そうだな」 ふっと聞仲は笑みを滲ませ頷いた。 「違いねえや」 くつくつと武成王も笑う。 あの人は、皆に好かれている。 その事実を、他人の口から改めて認識した途端、楊ぜんは、ひどく胸を締め付けられる思いがした。 「美味いのう」 一眠りして、頭もすっきりして。 冷えた桃をまくまくとほお張りながら、いたく満足そうに太公望は声を上げた。 「良かった」 僕の母星から取り寄せたんだよ。隣に並んで座り、にこにこと普賢は太公望の 横顔に笑顔した。 「おぬしの故郷の星は、美味い桃があるのだな」 流石は豊かさを司る 緑の守護聖の出身惑星。妙な関心をしながら、太公望は二つ目の桃に取り掛かる。 「うん、緑がいっぱいでね、とっても綺麗な星なんだ」 ふと、優しげに目が細まった。 「いつか…望ちゃんにも見せてあげたいなあ」 言いながら、手を伸ばす。そして 桃の果汁でべたべたになった、まあるい頬を拭ってやった。 おとなしく、 されるがままの太公望に、とろけるように優しい笑顔を一つ。 「…ねえ、望ちゃん」 こつんとこめかみをごっつんこさせ、そのままちゅっと額に唇が当てられた。 ゆっくり離れて、 間近で覗き込む。それに、むーっと太公望は頬を膨らませた。 「やめんか、だあほ」 おぬしまでからかいおって。 露骨に不機嫌な顔をして、ぐい、と押しのけてそっぽを向く。 「大体おぬしだからこそ、戯れで済ませられるのだぞ」 他の者ならそうはいくまい。 そのまんまの言葉に、普賢は困ったように肩を竦めた。 「やだな、戯れなんかじゃないよ」 本気だよ。 切ない響きを含んだその言葉が、じれったい速度で頭の中に浸透してゆく。 改めたように、太公望は呆けたように目を丸くして、ゆっくりと向き直った。 そこにあるのは、冗談事では済まされない真剣な眼差し。 「僕、望ちゃんが好きだよ」 いえ実は、普太寄りから入った人だったのです。 でもほんとに一番最初は、妲太でした。 2002.04.22 |