ANGELIC TONE <14> 朝、一番にチャイムを鳴らす。 返事はない。 もう一度鳴らせるが、やはり同じ。 静かなままの扉の前。暫しの間を置き、 軽く溜息をつくと、感性の教官である楊ぜんは踵を返した。 「あーっ、感性の教官りっ☆」 元気のいい声に振り向く。 もう一人の女王候補である貴媚だ。 自室から出て来た彼女は、ぴこぴこと足音を鳴らせて走り寄ってきた。 小脇に抱える大きなスープーシャンのぬいぐるみは、どうやら彼女にとっての必需品らしい。 「やあ、おはよう」 「太公望に会いに来たり?」 くりくりと大きな目で見上げられ、 楊ぜんは苦笑した。そんな曖昧な表情に、貴媚は瞬きさせる。 「感性の教官と太公望、何かありっ?」 問われてどきりとする。 そりゃまあ。何かと言えば、何かかも知れないが。 「太公望、昨日何か元気無かったよ☆」 「昨日?」 この二人の女王候補同士が意外に仲が良い事は、聖地では良く知られている。 寮では部屋も隣同士であり、互いの部屋に行き来する事もよくあるらしい。 特に外出さえなければ、二人は一緒に食事を摂っているが、 しかし昨夜、いつまで待っても太公望は食堂に来なかった。 貴媚が部屋を覗きに行くと、太公望はうだうだとベットの上で寝転がっている。 貴媚の訪問にも、何だか疲れたみたいだから、と弱々しく笑って見せるだけ。 夕食も、食欲がないからと結局口にしなかった。 だから、もしかすると何かあったのかとは思っていたのだが。 「感性の教官、太公望と喧嘩☆」 「まさか」 喧嘩も何も。 第一、あの夜から一度も会っていないのだ。 「体調を壊されたのかな」 だが、それにしては、今朝は随分早めに寮を出ているようである。 まるで何かに追い立てられるように、いつもより早めに寮を出たのを、貴媚が見かけたらしい。 もし学芸館へ向かったのであれば、こちらに向かっていた楊ぜんと、途中で出会っていたはずだ。 恐らくは育成へ行ったのだろう。王宮へは、寮を挟んで学芸館と丁度反対方向にある。 少し考え、ありがとうと言い置くと、楊ぜんはそのまま寮を後にした。 執務室の扉の前。 ノックをしようとするが、躊躇し、一つ深呼吸する。息を吐ききると、 きっと扉を睨んで拳を強く握る。だが決意を込めてノックするために振りかけたそれは、 扉に当てられる寸前でぴたりと止まってしまい、全然目的を果たせない。 さっきからそれの繰り返しばかり。太公望は力なく項垂れた。 重い溜息。 この所、随分ご無沙汰になっていた緑の守護聖の執務室。 長く育成依頼を必要としなかったのは、他でもない、普賢が女王候補の依頼とは別に、 宇宙に力を送ってくれていたからだ。 ただ、太公望の力になれることだけを願って。 それを思うと、太公望の胸は、きりりと痛んだ。 それを振り切るようにぶんぶん首を振り、 改めて深呼吸をし直す。そして「よし」と自分に気合を入れ直し、 決意を込めて、握った拳を振り上げた時。 「おお、太公望」 背後からかけられた声に振り返る。 そこにいるのは、美しい水の守護聖、竜吉公主。 優雅な笑顔に、 一体いつからそこにいたのだろうと、太公望は気まずく視線を泳がせた。 「今日は緑の力の育成依頼に来たのか?」 「あー、うむ、まあ、のう」 「そうか、残念だったのう」 目当ての守護聖が今日は不在で。 「…はあ?」 ―――僕、望ちゃんが好きだよ 「…そう改めて言われると、その…照れくさいのう」 普賢の言葉に、 太公望ははにかんで笑顔を返した。 「駄目だよ、望ちゃん」 誤魔化さないで。 じっと見つめる視線に、ゆっくりと笑顔は消える。耐え切れず視線を落とし、 太公望は気まずく唇をかみ締めた。 「望ちゃんは判ってる筈だよ、僕がどんな意味で言ったのか」 諭すような声に、次の言葉が出なかい。痛いくらいに真剣な眼差しを感じ、動けない。 湖に流れ込む滝の音。ざわざわと木の葉が煽られる音。 でも、耳にはきいんと痛い沈黙があった。 「…わしは…」 何かを言わなくてはと思うのだが、 言葉にはならない。言葉を発そうと唇を開くが、果たしてこんな時、何と言えばいいのだろう。 妥当な台詞さえ思い浮かばず、結局黙り込んでしまう自分が情けなかった。 長い長い沈黙だけが、場を占める。永遠に続きそうなそれを破ったのは、緑の守護聖の方だった。 「…ごめんね」 ぽつりとした声に、太公望は顔を上げた。 「ごめんね、望ちゃんを 困らせちゃったね」 にこりと悲しそうに笑う普賢に、きゅうっと胸が締め付けられる。 でも、やっぱり言うべき言葉は見つからなくて。 だから、ただ太公望は首を横に振った。 そんな事しか出来なかった自分が、酷くずるいと思った。 時間があるなら、少し付き合わんか? そう誘われ、太公望は公主と二人、王宮内にある 庭園に来た。 少し奥まった場所ではあるが、面した廊下からは 見通しのよい位置にあるテーブル。そのわりに会話は、外に洩れにくいらしい。 それを教えてくれたのは、緑の守護聖、普賢だった。 「…美味いのう」 公主の入れてくれた香りの良いお茶に、ゆったりと太公望は瞼を伏せる。 「それは良かった」 にこりと笑い、窺うように太公望の面を覗き込んだ。 「寝不足のようじゃのう」 目が赤い。 心配そうな公主に、曖昧な笑顔を返す。 「試験も順調に進んでおるのに、気になることがあるようだのう」 たおやかな声に、心の奥が解されるような心地がした。言葉の奥に込められた、 押し付けがましさのない問いかけに、彼女の優しい心遣いを感じ、太公望は小さく吐息を漏らした。 「…のう、公主」 「ん?」 少し言葉を選ぶのに間を作り。 「わしは…その、すごく大切な物が たくさんあって…でも、どれも選びきれなくて…」 でも、だからといって、どれも捨てることなんて出来なくて。 「傷つけると判っていても…ずっと傍にいて欲しいと…そう思っておるのだ」 独白のように、ぽつりぽつりと言葉をこぼす。そして溜息。 「あ、いや、すまぬ」 訳の判らない事を言ってしまったな。自嘲するように笑う太公望に、公主は目を細めた。 「そうだのう…我が侭かも知れぬな、おぬしは」 でもな。優しく、母性に満ちた笑顔。 「私は、おぬしのそんな我が侭な部分も、やっぱりおぬしらしくて好きだと思うぞ?」 我が侭で、一途で、一生懸命で、不器用な誠実さがあって。 「皆は、そんなおぬしだからこそ力になりたいのだと、私は思うがのう」 「あっ、いたいた公主ー」 柔らかく、透き通ったトーンの少年の声が、廊下の方から掛けられる。 耳慣れたその声に、太公望はびくんと体を震わせた。 どうやら公主の付きの者に、 ここにいることを教えられたらしい。声の主は言いながら両手に抱えた花束を抱え直し、 小走りでテーブルまでやってきて そして。 「…望ちゃん」 「普賢…」 二人は目を合わせた。 固まり、張り詰めた空気。だが、気まずい沈黙が訪れる前に。 「綺麗な花じゃのう」 さり気ない公主の言葉に、二人は我に返った。 「あ、うん。 私邸に咲いていたのを摘んできたんだ」 公主に渡そうと思って。両手に抱えた美しい花束を、 普賢は丁寧に手渡す。 「では、私はこれを活けてくるよ」 そう言うと、立ち上がり、 普賢と太公望を交互に見やる。そして意味ありげな笑顔を残すと、そのまま行ってしまった。 後には太公望と普賢の二人が残される。 「…私邸に帰っておったのだな」 先に言葉を発したのは太公望だった。 「あ、うん。今日は 母星から来客の予定があったんだ」 前々から。別に、太公望を避けたわけじゃない。 「…そうか」 再び沈黙。 さわさわと風が流れる。 「もしかして、執務室に 来てくれたの?」 少し間を空けて、こくんと太公望は頷いた。 「そっか…ごめんね、 留守しちゃってて」 何だったら、ここで依頼を聞くよ?どれぐらい宇宙に力を送れば良いかなあ。 笑顔で尋ねる緑の守護聖に。 「…わしが、おぬしを傷つけただけ」 ぽつりとした声で太公望は告げた。 「…えっ」 「わしはな、その…」 意を決したように、きっと太公望は、普賢を見つめた。 「わしは、ものすごくずるいのだ」 きょとん、と普賢は目を丸くした。 「おぬしは優しくて、ずっとわしを助けてくれていて…その、わしも本当におぬしが いてくれて嬉しかったのだ」 心細かった時、向けられた笑顔にどれほど救われたか。 「でも…でも…おぬしにとっては残酷だと思っておるのだが、でも…」 俯き、ぽつりと呟く。 「おぬしを…今までとおんなじまんまのおぬしを…失いたくはないのだ」 どうしても。 「…望ちゃん」 すまぬ。膝の上に乗せた手に、ぎゅっと力が込められる。 「…うん、判ってるよ」 そっと立ち上がると、普賢は太公望の傍らに立ち、 そっと頭巾に覆われた小さな頭を胸に抱きしめた。抵抗せず、太公望はそのまま 身を預ける。 「僕ね、判ってたんだ」 望ちゃんの気持ち。 ぴくりと太公望の、 細い肩が揺れた。 太公望が、どんな風に普賢を思い、接していたのか、それぐらいは ずっと前から判っていた。 でも。 判っていて、あえて普賢は太公望を困らせるであろう 言葉を紡いだのだ。無理な事だと判っていても、どうしてもこの思いを刻み付けたかった。 一方通行だと判っていたのに。 どうしようもないと判っていたのに。 「ずるいのはね、僕の方なんだよ」 きゅっと太公望を抱きしめる腕に、力を込めた。 「大丈夫だよ」 少しの間は、心が痛いけれど。 でも、でもきっと。 「僕達は、今までとおんなじ。ずっと一緒だよ」 頭を抱きこまれたまま、太公望は小さく頷いた。 「今回の育成依頼は受けられないや」 ごめんね。なでなでと丁寧に頭を撫でられる。 「…うむ」 頷き、おずおずと手を伸ばすと、普賢の腰に腕を回した。 すまぬ。 言葉には出来ず、太公望は何度も何度も胸の内で、その言葉を繰り返していた。 もう一人分追加のお茶を乗せたトレイを手に、公主は庭園へつながる廊下を歩いていた。 丁度角を曲がり、庭園に備え付けられているテーブルが見える位置。ここからは、 見通しこそいいのだが、庭園での会話はこちらまで届かない。 そこ立ち尽くす姿に気付き、 公主は笑顔を向けた。 「おお、楊ぜん」 「…公主」 こちらに向けられる、辛さを含んだ微苦笑。 「どうしたのじゃ?」 「失礼します」 丁寧に一礼すると。 顔を伏せ、急ぐようにして、楊ぜんはその場から立ち去った。 振る側だって、それなりに胸が痛むものなのです。 2002.05.05 |