ANGELIC TONE <16> 闇の守護聖の執務室は、居心地が良いと定評があった。 静かな室内、落ち着いた照明、 そして僅かに漂う香。それらが執務室の主の司る力と等しく、ゆったりとした落ち着きと安らぎを 生み出しているのだろう。 本日、日の曜日。闇の守護聖玉鼎は、 昨日いきなり入った執務を処理すべく、王宮の執務室にいた。 さほど急ぎというわけでもないのだが、真面目で 律儀な闇の守護聖としては、どうも気になってゆっくり休めないらしい。 ぱさり、と手にあった資料を執務机の上に置き、軽く息をつくと、 何気ない風で、そちらに有る来客用のソファーへと視線を送る。 さて、これで何日続いているのだろうか。 そこには愛弟子であり、感性の教官楊ぜんの姿があった。 最近楊ぜんは、用も無いのにこの闇の守護聖の執務室に 入り浸るようになっていた。理由を問い掛けても、曖昧にはぐらかすだけ。 執務に滞りの無いように、ちゃんと自分の仕事も持ち込んでくる。そして、来客用のソファーにて、 只黙々と己の執務をこなしているのだ。 それが今日のように日の曜日であっても。 「楊ぜん」 玉鼎は、弟子の名前を呼んだ。 「はい」 資料から目を離さず、 楊ぜんは何処か硬い返事を返す。 「日の曜日なのに、わざわざこの執務室で仕事をするのかい?」 「それは師匠もそうでしょう」 「ふむ…そうだが、な」 顎に長い指を当てて 少し考え、玉鼎はずっと思っていた疑問を口にする。 「女王候補と何かあったのか」 一瞬だけ。書類に走らせていた楊ぜんのペンが止まった。 だが、すぐにそれは再開される。 「いえ…何故です」 「会いたくないので、私のところに来ていると思ったのだが」 ペンの動きを止め、視線を俯かせたまま。 「…どうして、そう思われるんです?」 「いや…これと言って理由はないが…只、そう思っただけだよ」 おっとりとしているようで案外、この師匠は妙に鋭いところがある。 最も、恐らくは初めてこの執務室に通うようになった時の言葉を、覚えているのだろう。 楊ぜんは師匠に、女王候補が前日に依頼しに来た事を尋ね、是を確認したのだ。 周公旦の話でも、現在新宇宙に闇の力は、充分満たされているらしい。 あのバランス感覚に優れた女王候補の事だ、 当分はこの執務室に依頼に来ないであろう。そう踏んで、毎日ここに通っているのである。 しかし…依頼以外の訪問は、流石に予測できなかった。 どんどんと、少々乱暴なノックがした。玉鼎の返事と同時に扉が開かれる。 「失礼するぞ」 唐突に入室してきた 聞き覚えのあるその声に、楊ぜんはぎょっと顔を上げた。 開いた扉から覗く二週間ぶりの顔。少しばかり不機嫌にこちらに向けられるそれに、 楊ぜんは目を細め、嬉しいような苦しいような複雑な顔をした。 「…師叔…」 「やっぱりここにおったのか」 呆れたような半眼と声。ずんずん遠慮なく 執務室に入ってくると、この部屋の主人よりも先に、来客の楊ぜんの前に立った。 そして腰に手を当て、すくい上げるように、大きな藍色の目で見つめる。 「久しぶりだのう」 正面から見据えられ、紫の瞳が落ち着き無くさ迷う。 「…そうでしょうか」 ふうん、と太公望は軽く頷いた。 目が少々据わっている。 「随分忙しそうだのう、ここ数日、 ずっと執務室を留守にしておったようだが」 「ええ…まあ」 ほお、とワザとらしく、 太公望は肩を竦めた。 「感性の教官が、闇の守護聖の執務室に入り浸る理由はよく判らんがな」 「…闇の守護聖は、僕の師匠ですから」 「玉鼎が、師匠の権限をふりかざして、 おぬしをこき使うとは思えんが」 「いえ…その、僕が手伝って頂いていたのです」 「ならおぬしは、随分乳離れできてないと見受ける」 むっと楊ぜんは太公望を見た。 久しぶりに見合わせたお互いの顔は、双方とも何故か険しい。 ぴりぴりとした空気に。 「わざわざ日の曜日に、私に何か用か、太公望」 穏やかなテノールが、タイミングよく場を和らげた。 はた、と太公望も、玉鼎を振り返る。 「うむ、まあ…」 「では、僕は失礼します」 一礼すると、テーブルとソファーに広げていた 執務の資料を、手早くまとめた。 「帰るのかい、楊ぜん」 師匠の言葉に、ええ、と頷く。 「僕はお邪魔のようです」 その声も刺々しい。 「日の曜日に、わざわざ女王候補が守護聖の執務室にやってくるなんて、目的は一つでしょう」 執務室の主との親睦を深めに来たのだろう。ならば、客人である自分は邪魔以外の何者でもない。 「待ちなさい、楊ぜん」 「では、失礼します」 師匠の言葉も聞かずに、 そのまま去ろうと背中を向けたところ。思いっきり強い力で、下ろしていた髪を引っ張られた。 「痛っ」 振り返ると、怒った顔の太公望。 「待たぬか、だあほ」 「痛いじゃないですか」 「痛いようにやっておるのだ」 そして振り返りもせずに。 「玉鼎、このだあほを借りるぞ」 それだけを言い残すと、楊ぜんの腕を取って、そのまま引きずるように 執務室を後にした。 とりあえず。 人気が無くて、二人でゆっくり話が出来る場所になると、 思い出す場所がこの森の湖である。 案の定、日の曜日にも関わらず、誰も居ない。 それを確認すると、漸く太公望は、引っ張っていた楊ぜんの腕を解放した。 そうして改めて、向かい合う。 楊ぜんは、見上げてくる藍色の瞳に目を細め、 つい、と逸らせた。 「…何ですか、一体」 こんな所まで引っ張り出して来て。 さも迷惑そうな口振りに、太公望はむう、と唇を尖らせた。小さく深呼吸をして、 肩を下ろす。 「おぬし、この所、全然執務室に居らぬようであったのう」 「そうでしょうか」 さらりと反論する。ふてぶてしさすら感じる態度に、 太公望は腕を組んだ。 「新宇宙育成の、感性の学習の安定値が、双方下降しておる」 何より、それが明白な事実であろう。執務室に居たというのなら、少なくとも 喜媚は学習していたはずだ。だが、喜媚も太公望同様安定値が 落ちているという事は、不在の事実を何よりも明確に示している。 「…申し訳ありませんでした」 諦めたように溜息をつき、 丁寧にお辞儀をする。態度だけは愁傷なのだが、それに本音がついていかない様は、 しっかりと滲み出ていた。 「おぬしなあ…」 呆れる言葉を遮るように。 「女王候補の試験に対し、無責任な振る舞いは謝罪します。以後、気をつけますので、 どうぞお許しください」 すらすらと口にする「お約束」口上に、かちんと太公望は 眉を顰めた。 「こら、楊ぜん」 なんじゃい、その言い草は。 「これからは、 感性の教官として相応しく、女王候補のお二人を、サポートさせていただきます」 冷ややかにも見える紫の瞳を一度太公望に向け、軽く一礼すると、「それでは」と その場を立ち去ろうとした。 「またんかい、楊ぜんっ」 ぐいっと太公望は、楊ぜんの 手を握って引き止めた。 「…まだ、何か?」 「大有りじゃ」 自分の言いたい事だけさっさと言い切って、 そのまま立ち去るつもりか?太公望は上目遣いに睨み上げる。 一瞬、辛そうに形の良い男らしい眉根が寄せられる。しかしそれを認める前に、太公望は自分の視線を 足元に落とした。 「…おぬし、怒っておるのか」 ぽつりとした声は、急に頼りない響きを 含ませる。 怒っている? 「怒っているのは貴方の方でしょう?」 はあ?と太公望は 声を上げ、楊ぜんを見上げた。 「わしが?おぬしを?何故じゃ」 「だって―――」 言いかけた言葉は、喉の奥で詰まった。 脳裏に浮かぶのは、いつぞやの王宮の中庭での情景。 そこで、太公望と緑の守護聖普賢真人は、静かに二人、抱き合っていた。 人の通りがさほど多い場所ではない。しかし、誰に見られてもおかしくない場所だ。 そんなところで、あんなふうにしんみりと抱き合っていた。 つまりは、そうなのだろう。 それを思うと、今でも胸が締め付けられるように痛む。 「おぬし、何か勘違いしとらんか?」 太公望に、楊ぜんを怒る心当たりも怒られる心当たりも、 全く持って思い浮かばない。 「…そうですね、勘違いしていたのは、 僕の方です」 太公望の私室に、自分の子供の頃の写真が飾られてあったと知った時、 気恥ずかしくなるほど嬉しかった。それを自分に対する好意の表れだと、 呆れるほど単純に受け取ったのだから。 でも。 でもそれは、舞い上がった自分の思い上がりと勘違い。 あれは、そんな甘いものじゃない。邪推せず、 あの時の太公望の言葉の通りに、受け取ればよかったのだ。 「…何を言っておるのだ?」 ますます困惑した表情の太公望に、楊ぜんは苦々しく笑ってみせる。 「いえ…貴方が悪いんじゃないんです」 悪いのは、勝手に都合よく解釈した僕の方。 貴方が気にすることじゃない。 「本当に…すいません…」 弱々しく俯く様子に。 「だーっ、ええ加減にせんか。この自己完結自責陶酔ナルシストがっ」 業を煮やした太公望が、 ぐいっと蒼い髪を引っ張った。 「一人で勝手に納得するでない」 もっと解りやすく 説明せんか。 「おぬしの言い方は、まわりくどくて解りにくいわ。 何時わしがおぬしを怒ったのだ?それともおぬしはそんなにわしに後ろめたいのか?」 「…今、怒っているじゃないですか」 「おぬしがはっきり説明せんからだ」 あげ足を取るでない。 拗ねたようにぷくっと頬を膨らませる。 子供のような可愛らしいそんな表情も、今の楊ぜんには返って辛い。 だから、つい声も荒くなってしまう。 「僕は知らなかったんですよっ」 「何をだ」 「貴方と普賢真人さまが、恋仲だったなんて」 「…………はあ?」 随分の間を空けて、気が抜けたように太公望は声を上げた。 「何でそうなるのだ」 「見たんです、王宮の中庭で」 お二人が抱き合っているところを。 そこまで言われ、 やっと誤解の種を思い出し、口の中で「あっ」と呟いた。 「あれは…」 「そんな事も知らずに、デートに誘ったり、些細な事に一喜一憂していたり」 振り返ってみれば、何だか自分が滑稽すぎて。 「貴方が誰にでも平等に優しいのは 知っています。でもそんな中に、僕が貴方に向けるように、 好きな人に対してだけの、特別なものを 見つけたくて。何でもないことを、勝手に都合よくこじつけて、思い込んで、 僕の気持ちと同じものを見出そうとしてっ」 はた、と目の前の太公望に気が付いて、 楊ぜんは言葉を止めた。 「…師叔?」 顔を真っ赤にして、硬直したように 突っ立ったままの太公望は、楊ぜんに名を呼ばれると、ああ、と頬に手を当てた。 「…おぬし…恥かしい奴だのう」 照れくさそうに俯き、はあ、と息を吐く。 はい?と不思議そうに声を上げる彼の様子からすると、頭に血が上っていて、 自分で何を言ったのか、あんまり判っていないらしい。 だって冷静に聞けば、この男の言ってる事はまるで、まるで…。 何なのだ、「好きな人」って。 はあーっ。脱力したように溜息をついて、太公望はへなへなとその場にしゃがみ込んだ。 「…あーあ」 「師叔?」 「あほだのう」 大きな手袋をはめた手で 両のほっぺたを覆い、半ば当て付けの様に繰り返す。 「あほだのう」 だあほだ、本当にこの男は。 「あーあ、何だか損した気分だわい」 あれやこれやと、必死に考え込んでいた自分が。 「あーあ…」 そのままの姿勢で、もそもそと懐を探る。そして取り出したのは、 素朴なラッピングの施された小さな箱。座り込んだまま、太公望は片手でそれを 楊ぜんに差し出す。 「ん」 「…え?」 「ん!」 つっけんどんに、視線はそっぽを向いたまま。 訳もわからず楊ぜんは、とりあえずそれを受け取った。 「悪いのは、おぬしだ」 そうだ、そうなのだ。そう決めた。 「勝手に解釈して、勝手に勘違いして、勝手に自己完結してるおぬしが悪いのだ」 すくっと立ち上がると、真っ赤な顔で睨み上げた。 「言っておくが、普賢は大事な親友同士で、それ以上でもそれ以下でもない」 「…えっ」 「親友、だ。わしと普賢は」 妙な勘繰りをするでない、だあほが。 ほんとに恥かしい奴だのう。 じろりと睨んだ太公望の頬は、まだ上気していた。 「よいか、明日、朝一におぬしの執務室に行くからな」 「おらんようなら、承知せぬぞ」 「今度は倒して袖を汚すなよ」 それだけ言い残すと、脱兎のように駆け出してしまった。 袖を汚す? 何の事を言っているのか判らず、至極不思議そうに楊ぜんは目を丸くし、呆然と見送った。 そして思い出したように、手にある包みを丁寧に開ける。 中に入っていたものは、 瓶が綺麗なインクのセット。深い濃紺色のインクは、陽を受けると鮮やかな群青色に光る。 ぼんやり記憶を巡らす事、数十秒。 「…あっ」 漸く悟った楊ぜんは、心底驚いたように瞬きした。 思い浮かんだのは、いつぞや、湖の森で出会ったときの、何ていうことない二人きりでの会話。 (確かあの時は、趙公明と喜媚に途中参加されたのだが)汚れた服の袖に手をかけて、 天才様も案外そそっかしいと笑われて。 「あんな事を…」 あんな、ほんの些細な会話を、太公望は覚えていたらしい。 インクの瓶を太陽に透かせて。 楊ぜんは、ゆっくりと幸せな笑みを深くした。 ちょっと長くなってしまいました 二つに分けようと思ったのですけどね 2002.08.20 |