召しませイダーリン
<前編>





「へえ、燃燈様は、そんなこと言ってたんだ」
思わず笑い声を洩らす楊ぜんに、 張奎は憮然と頬を膨らませる。
「笑い事じゃないよ」
こっちは本当に大変だったんだから。その時の燃燈様の声が、聞こえてきそうだね。 そうだろ。で、あの後もまた、酷い有様でさあ…。そんな他愛もない話をしながら、 二人は長い廊下を並んで歩く。
あの仙界と人間界の命運をかけた戦いから、 こちらまで。蓬莱島は覚束無いながらも、ゆっくりと落ち着きを見せ始めていた。 当初予測されて居た混乱も、共に死線を潜り抜けた仲間達の協力の元、 拙いながらも秩序を形造り、以前存在していた仙界を彷彿とさせる穏やかさが見え始めている。
そしてそれと同じように、この新しい教主もまた、随分穏やかな空気を見せるようになっていた。
最初の頃は、頑なに思いつめた様子で、見ている側も痛々しく感じる時期もあった。 それが今はすっかり見えなくなり、寧ろ鷹揚な落ち着きさえ感じられる。
それは多分、 いつ頃からか時折彼が自分の執務室に持ち込むようになった、 仙桃と関係があるのだろう―――あえて口に出す事無く、誰もが暗黙にそんな推測をしていた。
「じゃあ。何かあったら、また連絡を頼むよ」
左右二手に分かたれる廊下に立ち、 互いに軽く手を上げる。
「判った。そっちもよろしくな」
頷き合い、背を向けると、 各々の執務室へと足を向けた。
教主である楊ぜんの執務室は、この廊下をまっすぐ抜けた正面、 建物の一番奥まった場所にある。豪奢な装飾のあるやや大きめの扉の前に立つと、 そのノブへと手を掛けた。
そこで、ぴたりと動作が止まる。
数秒の間を置き、 瞬いたその目がふわりと優しく綻んだ。
小さな音を立てて教主室の扉を開くと、 一度だけ背後を振り返り、人気が無い事を確認してそっと閉じる。 急く心を抑えた足取りで執務机に書類を置くと、そのまま足を止める事無く、奥へと向かった。
扉から見えないそこには、竹製の間仕切りを設置してベットを置いた、 簡易の仮眠室となっている。程良い広さを有し、簡素ながらも応接机や椅子もあり、 そしてその机の中央には、今日も仙桃が籐の籠に載せられていた。
室内に入った時から、ふわりと桃の香があった。籠に載せられているものの芳香とは違い、 瑞々しく剥きたての強い芳香。衝立の端からそっと、そちらへと身を滑らせると、 更にその薫りは強くなった。


「お帰りなさい、師叔」


広めの寝台の上。待たせておいた哮天犬に半身を預け、ゆるりと横たえた細身の体。 こちらに背を向けた姿勢で、だらしなく頬杖をつきながら、瑞々しい桃にかぶりつくその姿に、 どうしようもないほど頬が緩んだ。
心底嬉しそうな笑顔での言葉に、 黒衣の始祖は、もそりと肩越しに振り替える。
「おお、来たか」
忙しい教主様だのう。 黒いマント姿の彼は身を起こし、にやりと人を食ったように笑う。ぴす、 と鼻を鳴らせた宝貝が、主人の侵入にするりとベットから降りた。
「いつ来られたんですか」
「つい、さっきだ」
手に残った桃をぱくりと全て頬張り、 うん、と伸びをした。
「お待たせしてすいません」
ぎしりとベットの端に腰をかけ、 身を寄せる。
「待っておらんつーのに」
「でも、籠の桃が全部無くなる位には、 待っていてくれたんですよね」
ここで、僕が来るのを。
「…まあ、のう」
片手で体を支えながら、黒いマントの裾から、もう片方の細く白い腕がこちらに伸ばされる。 するりと首筋にからみつくその指先には、酷く艶めいたものが滲んでいた。
「僕に会いたかったですか?」
「おお、一刻も早くな」
想い人からの至極珍しいその言葉に、 楊ぜんは軽く瞠目する。しかし直ぐに破顔し、絡められた腕をそのままに引き寄せ、 両の腕でふんわりと囲い込んだ。包み込むようなその優しい動きに、腕の中、 くすくすと笑み零れる。
「のう…のう、楊ぜん」
潤んだ上目使いを間近に、 その奥にある誘いを読み取る。嬉しさと愛しさのままに、華奢な体を強く腕に更に力を込めた。


―――が、そこで固まる。


「楊ぜん…早く」
突然生まれた奇妙な硬直に、誤魔化す様な甘い言葉を耳元で囁くが、 どうやら彼の意識はそれどころではないらしい。もう気付かれたのか? ちっと伏羲は内心舌打ちをする。自分としては、後戻りできない程度までには、 さっさとコトを進めておきたかったのだか。
そんな思案を知る術も無いが楊ぜんは、 がばりと顔を上げる。腕に抱いた愛しい人を、寸前までの濃厚さも何処へやら、 微塵も感じさせる事無く、やや乱暴に身を引き離した。どうやら驚きのあまり、 優しく扱う余裕などないらしい。
「ち…ちょっと待って下さい、えっ?」
しかし、ここで引いてなるものか。まじまじと見下ろす不躾な視線を打ち消すように、 やけに妖艶な笑みを浮かべ、距離を縮めようと身を乗り出す。しかしそれより早く、 楊ぜんはその細い腕をがっしと包み、厚みのある黒衣のマントを、勢い良く引き剥がした。
ばさりと波打ち、ベットの下へと落ちるマント。露わになる剥き出しになった肩と、 やややせ過ぎな体。
目の当たりにした途端、楊ぜんは驚きのあまり、 普段の冷静沈着な美形らしからぬ間の抜けた顔で、ぽかんと目の前の恋人を見つめた。
ごくりと息を飲む。
「…どういう事ですか、これ」
黄色と黒の長衣に包まれた体の、折れそうな細さは変らない。しかし、 どう考えたって今まで彼から感じた事の無い…否、感じる筈も無い大きな違いがそこにある。
胸で自己主張する、豊かな張りのある丸い二つの膨らみ。肉付きだけでは断じてなかろう、 腰から足にかけてのしなやかな曲線。華奢な骨格を包み込む、やたら柔らかな弾力。
これは、これはまるで…。
凝固したままの楊ぜんに、痺れを切らした様に、 がばりと伏羲は抱きついた。
「まあ、そう気にするでない。とっととやろうではないか」
さばけた声で宣言すると、そのまま後ろに押し倒して馬乗りに体を乗り上げ、 そのまま教主の衣服を寛げようと手を伸ばすが。
「ちょっと、まっ、待って下さいよっ。 えええっ?」
何とかその手を取って遮り、身を起こし、 改めて目の前にいるその人を全身を、上から下まで確認する。
「貴方、太公望師叔ですよね? 間違いなく」
「当たり前だ。何を言っておる」
お主はわしを間違えるのか。 むうっと唇を尖らせるその人の仙気は、今更間違える筈も無い唯一無二のもの。 こんな気を放つ存在など、この世に二人といる訳が無かろう。
しかし。だが、しかし。
楊ぜんは詰まった彼の襟元に手をかけ、ぐいとやや乱暴に寛げさせた。 そこから垣間見えるのは、なだらかでなまめかしい谷間。ついでに服の上から体の中心に手を当てるが、 いくら探せど求めるものが見当たらず、驚愕のままにまさぐる手をぴたりと止める。
「…なんだ、続きはせんのか?」
漸くヤる気になったと思ったのに。ほれほれ、 このまま進めても良いのだぞ。
ぐいぐいと楊ぜんの手首を引っぱる伏羲に、 呆然としたまま瞬きする。
「何で…」


「何で貴方…女性になっているんですか?」











「目が覚めたら、こうなっておったのだ」
久しぶりに良い霊穴を見つけて、 そこで一休みをしていたのだ。
「多分、あの女の仕業だ」
あれだけの霊穴だ、 あの星と意識の距離が近くなっても、おかしくなかったかも知れぬのう。 久しぶりに寛いだ心地でぐっすり眠っていたら、耳慣れた例の笑い声が聞こえてな。 はたと目が覚めれば、既に体はこうなっていた。全く、あの愉快犯め。油断も隙も、 あったもんじゃない。
腕を組んで、ぶつぶつと唇を尖らせる彼に、 はあ…とやや気の抜けた声を返す。
「そうだったんですか…」
まあ、そう言われれば、 納得できなくもない。グレートマザーになっても、所詮彼女は彼女。多分、 この悪戯に意味などは無い。単純に、面白そうだからやったに過ぎないのだろう。
「しっかし、この体も結構大変でのう」
男の時に比べて、体力は無いわ、 疲れやすいわ、その癖変に柔らかくて、扱い慣れずに持て余すわ。
「これも、 結構重くてのう」
むっちりと豊満な胸の膨らみを両手で下からすくい上げ、 たぷたぷと揺する太公望に、慌てて楊ぜんはその手を取る。
「ちょっと、 やめて下さいよ」
恥ずかしいですから。やや頬を染めて訴える楊ぜんに、 当の本人はきょとんと眼を丸くする。全く判っていないらしいその様子に、 思わずため息が漏れた。
「でもまあ、何だ。要するにヤれば、 元に戻ると言っておったしのう」
確かに夢現の狭間で聞いた甘い声は、 含み笑い交じりにそう告げていた。ならば、とっととやってしまおうではないか。
「それで、僕の所に来た訳ですか」
「うむ」
あっさり頷く彼に、 楊ぜんは込み上げるように顔をほころばせる。その判り易く嬉しそうな様子に、 むうと太公望は眉をひそめた。
「なんじゃ、気持ち悪いのう」
「だって…嬉しいです」
そっと手を取ると、ごつい手袋を丁寧に外した。現れた指は、しなやかで細い。 小さな丸い爪に唇を一つ落として。
「抱かれるパートナーを、 僕だと思ってくれているんですよね」
だから貴方は、真っ先にここに来てくれたんでしょう。 うっとりとした声と極上の笑顔を前に、思わず顔を赤くする。
確かに、 変化を悟り、その解決法に思い至った時、まず頭に浮かんだのはこの男だ。 この都合の悪い体でも、まあ奴がいるから直ぐ治るか…と、何の不安も迷いも無く、 実にあっさりここまでやって来た訳である。それ以外の誰かなど、こうしている今でも考えられない。
「それって、凄く嬉しいです。師叔」
こつんと額を突き合わせて覗き込む紫の瞳に、 今更ながら気恥かしさが沸き立ち、うう…と唇を噛締める。改めて告げられる言葉に、 居たたまれない心地で視線を泳がせながら。
「ま、まあ…そう言う事だから…」
だから、ほれ。のう?ぶっきらぼうに促す様子に、つい先ほどまでの妖艶さは窺えない。 可愛らしい素顔に、とろけるような笑顔のまま、軽く唇を重ねた。
そのまま啄みを繰り返しながら、ゆっくりと体を横に倒し、身を乗りあげ、 衣服に手をかけた―――までは良かったが。


「…ちょっと…やっぱり、待って下さいよ」


柔らかい胸に当てた手を引っ込められて。
「む、何だ」
すいません。本当にごめんなさい。 赤らめる顔で視線を反らせ、楊ぜんは身を起して口ごもる。
「何だか…その、 違和感が拭えなくて…」
何か、どうも変な感じなんです。
「なーに言っておる。 気の小さい男だのう」
唇を尖らせて半眼する太公望に、むっとする。
「だって、 僕は今まで男性の貴方を抱いていたんですよ」
「わしはわしではないか」
「違いますって。御自身の姿を見てないんですか?」
豊かな胸の膨らみは、 恐らくは影響を与えた張本人の影響であろうか、華奢な体を裏切るような大きさがある。 肌の艶めかしさも、なだらかな曲線も、今までの成長期の途中で時を止めた様な儚げなものと違い、 肉感的で、官能的で、挑発的で。そして、実に判り易く、異性の特徴を主張していた。
「何だか、 恥ずかしいって言うか、浮気している様な気になるというか…」
律儀者ゆえの小心さからか。 それとも単に、今更照れが出てきたのか。
確かに彼と出会うまではそれなりの女性経験も嗜んでいたが、 実際彼と出会ってからは、そういった交流は一切なく、また必要が無いほどに彼を愛おしんでいた。 なので、今更こんな女性の体を目の当たりにすると、寧ろ妙な違和感が湧いてくる。
「何だ、おぬしは男しか駄目だったのか?」
「違いますっ」
人聞きの悪い事言わないで下さいよ。
「少し、心の準備をさせて下さい。急にそんな姿で現れて、 そんな風に言われても…」
大体、いきなりの再会早々にこうして二人でベットに入るのも、 まるでそれだけの関係みたいで、何だか寂しいじゃないですか。
「んな事言われても。 わしとてさっさと元に戻りたいのだ」
おぬしなら、変化で知ってるであろう。 女の体も結構大変なのだぞ。
「じゃあなんですか。貴方は僕に抱かれる為だけに、 今回姿を見せたって訳ですか?」
「まあ、はっきり言ってしまえばそうだのう」
だって、前に仙界にやって来てから、そんなにまだ間は立っていなかったし。 こんな体にさえなってなかったら、まだまだ人間界でぶらぶらしているつもりだったのだ。
「僕に会いたくて、来たかった訳ではなかったんですね?」
「そうは言っておらんだろう」
「でも、そうでしょう」
「しかし、この体を何とかせねばならぬだろうが」
「じゃあつまり、僕の体だけが目的だって事ですか」
「仕方なかろう。 それとも他で何とかしろと言うのか?」
「冗談じゃありませんよ、そんな事っ」
「おぬしだって、たまには変わった体を抱くのも良かろうが」
「変な事言わないで下さい」
ああだこうだと続く口論。気がつけば、喧嘩腰になっている不毛なやり取りに、 先に業を煮やしたのは太公望だった。
ぐぬぬ、と睨みつけ、すくっと目の前に立ちあがると、 腰に手を当てて見下ろす。
「ごちゃごちゃ言っとらんで…」
そのまま襲いかかるように、 ジャンピングタックルで飛び掛かる。
「とっととヤらんかーいっ」
「ちょっと、師叔ーっ」





派手なその音を聞きつけて、なんだなんだと走ってやって来たのは、補佐役の一人である張奎だった。
硝子の割れた音と、何やら取っ組み合いでもあった様な激しい騒音が、 こちらの執務室まで届いてきた。よもや、あの新教主に限って、 下手な輩に襲われる程ヤワな実力の持ち主ではない筈だが。それでも万一の事が無きにしも非ず。 上司に対する心配性は、人間界にて培われたものだ。
「どうした、楊ぜんっ」
教主の執務室の扉を、飛び込んできた勢いのままに全開にする。
びょうと吹きすさぶのは、窓から入る強い風。粉々に割れたその窓硝子の破片に、 先程の音はこれだったのかと納得する。
執務室自体には、大した乱れは見られない。 しかし、その奥に作られている仮眠室の衝立が乱暴に倒され、 見るも無残に壊れている。
「おい、楊ぜんっ」
慌ててそちらへと走り寄った。 乱闘はここで行われたのであろう、仮眠用の寝台はぐしゃぐしゃに乱れ、椅子や机も倒れている。 その乱雑さから、結構なやり取りがあったであろうと察するが。
「…あれ、これ…」
寝台の下に打ち捨てられたのは、目に覚えのある、特徴のあるごつい黒マント。 その持ち主を、彼にも直ぐに察する事が出来た。
「…何だよ、全く。人騒がせな痴話喧嘩だなあ」
もう、心配して損したよ。がっくりと肩を落とし、かしかしと頭を掻く。
これ以上は、犬も食わない何とやら。馬鹿馬鹿しさと、呆れと、諦めと、 仄かな安堵のため息を盛大について、張奎はとっとと自分の執務室へと帰って行った。








こちらは 「RELISH」 さまの絵板(現在は撤去)&コメントを原案に、
cottonが触発され、好き勝手、萌えのままに書き上げたものです。
尚、その元となった 麗しきイラストはこちらから どうぞ!
こなみ様、イラスト&掲載許可、本当に有難うございました!!
2010.01.04







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