切羽詰ったような大きな瞳が、戸惑いがちにこちらを見上げる。 きらきらしたそれは、 とっても綺麗で、そしていつでも残酷だった。 「楊ぜん、わしと付き合って欲しいのだ」 ハーフとダブルの相関図
<前編> 「…で、こっちがわしの友人で姫発と…その彼女の邑姜だ」 ざっくばらんそうな青年と、それに寄り添う小柄でしっかりした感のある女の子。 初対面の二人に楊ぜんは、にっこりと好感度の高い、爽やかな笑顔を作って見せた。 「はじめまして、楊ぜんです」 この笑顔に騙されるんだよな…とは、 今しがたその彼を紹介した、太公望の心の言葉。案の定、姫発は感心したように、 無遠慮な視線で、上から下までまじまじと楊ぜんを見つめる。 「こりゃまた、随分な男前だな、太公望よお」 へえー、ふーん、と感心しながらの言葉は、 嫌味と言う訳でもないらしい。どうやら彼は、思った事をそのまま口にするタイプであるようだ。 隣に立つ彼女と言えば、あまり表情を崩す事無く、聡明そうな目を瞬きさせるだけ。 どうやら彼のそんな所には、既に慣れているらしい。こうして並んでいると、 随分と持ち前の雰囲気が違うカップルだ。 「それじゃ、ま。出発するか」 四人は二手に分かれて車に乗り込むと、目的地へ向かって、エンジンをかけた。 「道は判るか?」 「彼の車を追いかければ良いんでしょう?」 後続する楊ぜんとしては、前を走る姫発の4WDを見失うことさえなければ良いのだが。 「それが曲者なのだ」 あやつ、結構方向音痴だからのう。 一度行った事がある場所だから大丈夫…とは言っていたが、万一という事もある。 しかめっ面でぶつぶつと呟く太公望に、楊ぜんは小さく笑った。 「大丈夫ですよ、カーナビもありますし」 それに、さっき渡された小冊子の地図を見る限り、 特別迷うルートでも無さそうだ。新しく出来たリゾートホテルのようだし、 途中でもしも戸惑うような個所があれば、看板ぐらいは立てているだろう。 「しかし今回、わしらはモニターみたいなものだからな」 逆に、どういうところが迷いやすそうだったか、後で聞かれるかもしれない。 「そうなんですか?」 「このリゾートホテル、姫発の親父の企業グループの新事業だそうだ」 へえ、と楊ぜんは目を丸くした。 「凄いですね」 「実は御曹司のお坊ちゃんなのだよ、あやつは」 全然そうは見えないがのう。 ふうん…と軽く頷く。そんな楊ぜんの横顔を、太公望はちらちらと垣間見ながら。 「その…今日はすまんな」 突然、こんな旅行に付き合わせてしまって。 申し訳無さそうなそれに、前を見たまま楊ぜんはにこりと笑った。 「そんな。 誘って下さって嬉しいですよ」 これぐらいお安い御用だ。むしろ、そんな風に気を使われると、 逆に恐縮してしまう。 「でもおぬし、こーゆーの苦手であろう」 幼馴染の太公望だからこそ知っているが、楊ぜんは本来、 人付き合いがあまり得意な方ではない。 周りの空気は読むので、人当たりは決して悪くないし、 それなりの協調性も持っているのだが、どうにも気疲れしてしまう質なのだ。折角の休日、 初対面の人間と旅行するぐらいなら、一人で部屋で本でも読んで時間を潰す方を選ぶだろう。 「まあ、たまには、こういうのも良いですよ」 丁度有給も溜まっていたし、 破格でリゾートホテルに泊まれるのだから、ちょっと得した気分です。 「…うむ…」 それでも心配そうに覗き込む太公望に、楊ぜんはむず痒く笑う。 「嫌だなあ、貴方らしくない」 普段なら、幼馴染の言う事ぐらい聞けとか何とか言って、 こちらの都合なんて考えもせず、相当強引にあちこち連れ回しているじゃないですか。 今回に限って、何をそんなに気を使っているのだか。 軽くそう言って見せるのだが、 所作なく太公望は俯いたまま。 いつもと違う不自然な恐縮振り。 それに空気がぎこちなくなるより早く、スィッチを切り替えようと楊ぜんは話題を振った。 「えーっと…彼とは、付き合いは長かったんですか」 さらりと投げかけられた、 何気のない質問。しかし太公望は、傍目で見ても判るほどに、ぎょっと肩を竦めた。 運転で前を向いたままの楊ぜんは、それを肌で感じる。 「あー…うむ、まあのう」 変な事、聞いたのかな。 「姫発くん…でしたっけ」 彼の名前は、何処かで聞き覚えがあった。 付き合いが長いらしいし、恐らく太公望の口から、何かの話題に上がった事でもあったのだろう。 そんな記憶をつらつらと思い巡らせながら、はたと楊ぜんは目を見開いた。 違う、覚えていないんじゃない。 覚えたくもなかったんだ。 この人の口から零れる、「恋人の名前」なんて。 「―――ああ…何だ、そうか」 そう言うことか。 それに気が付くと、 今まで胸に引っ掛かっていた諸々が、するすると解れてゆく。 ようやく全てを合点した。 何故、わざわざこんな「いかにも」なシュチュエーションで、 彼が僕を選んだのか。何故、彼が今までに無いほど、遠慮がちに誘ってきたのか。 やっと納得が出来た。 「…ま、そんな事だろうとは思っていましたけどね」 「…楊ぜん?」 ふうん、と軽く頷いてみせる。 「彼、随分可愛らしい彼女を作ったんですね」 貴方と別れてから。 太公望は眉尻を下げて、悲壮な顔でこちらを見た。 つまり、「恋人役」なのだ。自分は。 最初から、違和感は感じていた。 付き合ってくれないか…なんて言い回しも、 やたらと恐縮そうな様子も、 こんなダブルデートを含ませるシュチュエーションでのお誘いも、 今までに無かった事である。 勿論、この人からのお誘いは、いつでもどんな時でも大歓迎だ。 今回だって、顔にこそ出さなかったけれど、本当にものすごく嬉しかった。 二人っきりじゃないとは聞いていたけれど、でもこんななシュチュエーションに、 もしかするとそのニュアンスを受け取っても良いのかななんて。 実はこっそり、心密かに。 「…ちょっとだけ、期待していたんだけどな」 「ん?何か言ったか」 いいえ、と笑って首を振る。 「いつ…別れたんですか?」 結構長く続いているようだ、とは思っていたけれど。でも振り返ってみれば、 彼は自分の前で、恋人の事はあまり話さなかったような気がする。 それとも単純に、楊ぜんが知りたくも無かっただけなのだろうか。 「…半年前」 ぽつりとした声は、注意していなければ聞き逃していたであろう、随分小さく弱々しい。 そうか、半年も前に別れていたんだ。 で、あの別れた男は、さっさと「女」の恋人を作った訳か。その上で、 こんな旅行に元恋人を誘った訳か。 そう考えると、随分嫌味な奴じゃないか。 「判りました」 きっぱりとした声に、太公望は瞬きする。 「へっ?」 「見返してやりましょうよ」 貴方を振って、新しい恋人を作ったようなあの男に。 不敵な笑顔を浮かべる楊ぜんに、太公望は不安そうな顔をした。 「その…楊ぜん、わしはそんな、えっと…」 「大丈夫、判っていますって」 僕に任せてください。 「貴方の期待に添えるべく、完璧な恋人役を演じて見せますよ」 到着したのは、白を貴重とした外観が爽やかなホテルだった。どちらかと言えば、 女性客をターゲットにしているらしい。姫発の話では、エステやマッサージ、 スパ施設も、近々オープン予定しているようだ。 「やーっと到着したのう」 車から出て、うーんと伸びをする太公望の横。隣に駐車した車から、 苦い顔で姫発が降りてきた。 「それは、俺に対する嫌味かよ」 「そう聞こえたのなら、自覚はあるようだのう」 腕を組み、にやりと太公望は笑う。 予想通りと言おうか、案の定と言おうか。先導していた姫発は見事、 道を途中で間違えた。散々回り道をした挙句、予定を大幅に遅れての目的地到着である。 「おぬしのその方向音痴、全っ然治っておらんようだのう」 呆れた口調に。 「おめえだって人のこと言えんのかよ。何時かのスノボの件、忘れたとは言わさねえぞ」 地図を見ながら自信を持って、全く違う道へとナビゲートしたくせに。 「あれは、わしだけの所為ではなかっただろうがーっ」 どうやらこの二人、結構あちらこちらへアウトドアを楽しんでいたらしい。 やいやいと言い合う二人の様子を横目に、楊ぜんは車から荷物を出しながら。 「でもほら。そのお陰で、いろいろ見てまわれましたからね」 あんなところに展望台があったのは、意外な発見だった。昼食休憩に入ったレストランだって、 全く期待していなかった分、びっくりするほど美味しくて満足できたし、 綺麗なガラス工芸の店で買ったペアグラスだって、いいお土産になった。 最初から時間には余裕を見て出発していたのだし、それを思えば、まあ結果オーライだろう。 「邑姜、大丈夫か?」 車から出てきた彼女は、少し顔色が良くなかった。 心配げに覗き込んでくる太公望に、にこりと笑う。 「少し、車に酔ったみたいです」 「姫発の運転は下手だからのう」 「やかまし」 ロビーに入ると、流石は御曹司サマだ、フロントはしたり顔で丁寧にキーを手渡してきた。 そして何か、二、三言葉を交わすと。 「ほい、太公望」 こっちがお前さん達の部屋だから。 「俺と邑姜は、ちっと部屋で休憩すっからさ」 何かあったら携帯に電話くれよ。 「おーう」 そのまま邑姜と姫発をロビーに残し、楊ぜんと太公望は、 宛がわれた部屋へと向かった。 「邑姜は、来月に手術を控えておるのだ」 日も暮れ、都会には無い星が瞬く時間。 ホテル内にあるレストランで食事を終え、 のんびりバーで甘いカクテルを飲みながら、太公望は説明した。 ちゃんと治る病気だし、命に危険があるものでも、手術の成功率が低い訳でもないらしい。 しかし体があまり丈夫な方ではない彼女を慮り、万全を踏まえて体調を整える為にも、 今月の終わりには入院を予定している。 今回のこの旅行は、その入院前の、 ちょっとした息抜きでもしないか…と、そんな話から発展したものであった。 「…そうだったんですか」 「まあ、深刻になるほどでは無いらしいがのう」 とは言え、姫発としてはやはり心配なのだろう。だから何かと彼女の体を気遣い、 長時間ドライブで疲れた彼女を部屋で休ませたのだ。 フロントと話をしていたのは、恐らく彼女の担当医に連絡をするか否かの相談だったのであろう。 「…そう言えば、邑姜くんって」 「うむ?」 「師叔と何となく似てますよね」 「…はあ?」 きょとんと太公望は目を真ん丸くさせた。 どうやら、相当意外な言葉であったらしい。 「全然似ておらんぞ」 あんなきりっとした顔立ちでもなければ、性格だってまるきり違う。 邑姜との付き合いはそれなりにあるが、そんな事を言われたのは初めてだ。 「うーん、何処…って言うのは言い難いんですが」 でも、何となく、そう思いました。 「そうかのう…?」 どうにも素直に頷けない楊ぜんの言葉に、眉間に皺を寄せて首を傾げていると。 「おっ、いたいたー」 邑姜と姫発が、バーに姿を見せた。 「もう大丈夫なのか?」 夕食も、部屋で二人で取ったらしい。少し休んですっきりしたらしい邑姜は、 先程よりも顔色も良く見えた。 「すいませんでした。太公望さん、楊ぜんさん」 少し乗り物酔いをしただけなのに、なんだか大袈裟に取られてしまって。 「なーに、気を使うでないよ」 「別々に食事して、 案外良かったかもしれませんからね」 下手に一緒にディナーを取ると、 デザートの桃のジェラード、師叔に取られていたかもしれませんよ。 からかいを含んだそれに、むうっと太公望は口を尖らせた。 「人聞きの悪い事を言う出ない」 おぬしが甘い物が苦手だと言うから、わしが食ってやったのだ。 「だからって、 全部食べてしまう事は無いでしょう」 一口ぐらい食べさせてくれたって良いじゃないですか。 あっという間に、人の分まで全部食べてしまったんですよ、この人は。 そんな二人の掛け合いに、邑姜はくすくす笑った。 「仲が良いんですね、太公望さんと楊ぜんさんは」 一瞬、間が空いて。 「そんなことないわい」 「やっぱりそう思いますか」 同時に返された言葉に、はたと二人は目を合わせた。 引きつった太公望と相対して、楊ぜんはやたらと嬉しそうな笑顔を浮かべる。ヤバい。 幼い時から知っているが、楊ぜんがこんな顔の時は、大抵ろくな事を考えていないのだ。 牽制するよりも早く、椅子ごと近づいてきた大きな手が、ゆったりと肩へと回される。 「照れているんですか?」 ねえ、師叔。やたらと接近する綺麗な顔を、 太公望はぐいっと押しのけた。 「だあほ、やめんか」 くっつきすぎだ、おぬしは。 小声で叱咤する彼に、楊ぜんはとびきり甘い笑顔でくすくす笑う。 「そんなに恥ずかしがることないでしょう」 嫌だなあ、今更。ねえ。 テーブル向かい側、 苦笑いを浮かべる姫発と違って、邑姜は二人の関係がよく判っていなかったらしい。 含みのある楊ぜんのニュアンスに、ようやく考えが至ったようだ。 瞬きをして二人を見比べ、ちらりと隣を伺うと、姫発は困ったように肩を竦めて見せた。 「え…あの、お二人って…」 続く言葉が容易に想像できて、太公望は慌てて顔を上げた。 「あー、あのな、邑姜。えっと…」 「あ、ねえねえ師叔?」 ちょっとちょっと、 と肩を叩いて急かされて。 ちっとおぬしは黙っておれ。 文句を言う為に顔を向けたその瞬間。 開きかけた唇に、柔らかいそれが重ねられた。 「あほか、おぬしはっ」 一体何を考えておるのだ。 ホテルのツインルーム。 太公望は腰に手を当て、ベットの上に座る楊ぜんを見下ろした。 「どうして?良いじゃないですか。僕達は恋人同士なんですよ」 偽りの…ではあるけれど。 「キスなんて、別に普通じゃないですか」 街中で堂々とキスをするカップルぐらい、今時珍しいものでもなし。 あんなキスだったら、コンパの余興ゲームで、皆やっているレベルだ。 「師叔だって、姫発くんとキスぐらいしてたでしょう」 ファーストキスでもあるまいし。 いまさらそんなに、恥かしがる事でも無いじゃないか。 自分で発したその言葉に、 僅かに苛つきながら、楊ぜんはぷいっとそっぽを向いた。 「だあほっ」 場所をわきまえんかい。只ですら、その無駄に整ったルックスのお陰で、必要以上に目立つのだ。 周りの視線が居たたまれない。 「だって…それが目的じゃないですか」 ついさっきまで、姫発や邑姜の前での落ち着いた態度と打って変わり、 楊ぜんは子供のように、むすうっと唇を尖らせる。怒っているのはこっちだっつーのに、 何でこの男が拗ねるのだ。 「師叔だって、それが目当てで僕を誘ったんでしょう」 自分が人目を引く容姿を持っている事ぐらい、 昔からそれなりに自覚しているし、「何処から見てもいい男」を、演出する事もできる。 だからこそ、「恋人役」として、相手を見返すには打ってつけの人材なのだろう。 たとえこんな形でだって、この人に頼られるのは嬉しい。 それに、仮初だって判っていても、この人と恋人同士になれるなら、 期間限定であっても役得だと思うから。 だからこそ、その期待に応えようと、 頑張っているのに。 「師叔だって、もっと僕に協力してくださいよ」 折角僕がこんなに恋人らしく演出しても、貴方がそんな調子じゃ、本末転倒じゃないですか。 「二人であの男を、見返してやりましょうよ」 ねえ?にこりと笑うそれに、太公望はぷいっと顔を背けた。 「…もういい」 冷ややかな声音に、楊ぜんは瞬きする。くるりと背を向けて離れる後姿に。 「何処行くんですか」 「シャワー」 おぬしもちっとは、そのふざけた頭を冷やせ。 素っ気無い物言いに、能天気な声。 「なら、一緒に入りましょうか?」 何と言っても、僕達「恋人同士」ですからね。 能天気な頭に、 シャワールームに備え付けられてあった、プラスチックの歯磨き用カップが投げつけられた。 同時に、力任せに扉が締め切られる。 「…何も知らんくせに」 だあほが。 小さな呟きと溜息は、狭いシャワールームに篭ったまま、外へ漏れる事は無かった。 太公望と交代に、楊ぜんもシャワーを浴びた。 備え付けのバスローブを羽織って戻ってくると、 太公望は一方のベットでくうくうと寝息を立てている。 その横をすり抜け、楊ぜんは付けっぱなしのテレビを消した。 寝台の上、不自然な姿勢で眠りこける彼を見下ろす。 惜しげもなく晒された、無防備な寝顔。見るからに寝苦しそうな体勢を直してやると、 小柄な彼には少々大きめの、バスローブの襟首が肌蹴た。 覗く綺麗な鎖骨に、目の毒だよなあと呟きながら、それでも丁寧に整えてやる。 …本当は。 一番あの男を悔しがらせてやりたいのは、誰でもない、 間違いなく楊ぜん自身なのだ。 人懐っこい、気の良い男なのだろうとは判る。 でも、どうしても、太公望との過去を思うと「いけ好かない」という感情が先走るのだ。 太公望は何も言わない。 只、時々何かを言い難そうに、言葉を詰まらせる。 それが辛い。 もしかすると。 「まだ…好きなのかな?」 あんな男の事が。 僕にだけは、何でも話してくれたのに、何でも話して欲しいのに。でも、 それを躊躇させるのも、やはりあの男の存在なのだろうか。それを思うと、 胸を締め付けられるような苛立たしさが沸き立つ。 誰よりも、一番傍にいたはずなのに。 誰よりも、一番知っていたはずなのに。 でも。こんな寝顔も、さっき覗かせていた鎖骨も、 華奢で小さな体のラインも、甘い吐息も、柔らかな口付けも、妖艶な痴態も、 閨での癖も何もかも。 楊ぜんの知らない部分まで、きっとあの男は知っているのだ。 不意打ちのあんなキスなんかとは、比べ物にならないくらい。この人の、 甘くて切なくて苦しい部分まで、全て。 いっそこのまま勢いに任せて…。 そう思って柔らかな頬に触れてみるのだが、その先を実行に移すには、 今の楊ぜんにとって、太公望は余りにも大切すぎる。 「…何やってるんだろ、僕は」 馬鹿みたいだ。長い息を吐き、くしゃりと髪をかき上げて。 そしてふと。 思いついたささやかな悪戯に、小さくほくそえんだ。 「よっ、楊ぜんおぬしーっ」 朝、洗面台に向かっていた太公望が、 ユニットバスから勢いついて飛び出してきた。真っ赤な顔で睨みつける彼に、 楊ぜんは困った様子で眉を潜める。 「ほら、師叔。寝癖がまだ直っていませんよ」 昨夜はあれだけ早く眠ったくせに、どうして今朝も寝坊するかなあ。 溜息交じりの声には無視を決め込んで、太公望はぐいっとバスローブの襟首を寛げた。 「こっこれは、おぬしがやったのであろうっ」 昨日まではこんなもの無かったはずだ。 白くてすんなりした細い首。そのくっきりとした付け根には、 花びらを乗せたような赤い痣が生まれている。 ああ、と楊ぜんは笑った。 「なかなか目立って良いでしょう」 「目立ってって…お、おぬし…」 「やっぱり、恋人同士が一つの部屋に泊まるんですから」 それはね、まあ、 所謂お約束という奴ですよ。 「お、お約束って…」 耳まで真っ赤にして絶句する彼を、 ほらほら、と鏡台の前に座らせた。鞄の中からブラシを取り出すと、 寝癖で跳ね上がった髪を丁寧に梳かしてやる。 「い、いつの間に、おぬし、こんなものを…」 「昨日、貴方が寝入っている時に、ちょっと」 僕がシャワーから出てくると、 一人でさっさと眠っちゃってるんですから。 「眠っている時って…まっ、まさかっ」 もしや、人が寝ている隙に。 「いやだなあ。キスマークを作っただけですって」 それ以上の不埒な真似なんて、神に誓ってしていません。 「第一、 意識の無い相手なんて抱けませんよ」 僕はそんな趣味、持ち合わせていませんから。それよりも、 ほら。 鏡越しににこりと笑うと、何やら嬉しそうに、太公望の襟元を指先で撫でる。 「絶妙な場所でしょう」 さり気なく目立って、且つシャツやTシャツじゃ、 絶対に隠しきれない。我ながら、素晴らしく絶妙な位置じゃないか。 「何を考えて、こんなもの…」 「何言っているんですか」 好きな人と一晩同じ部屋にいて、何も無い方が不自然でしょう。 きっぱりと言い切る楊ぜんと、鏡越しに目が合う。そして少しだけ眉根を寄せると、 ぷいと太公望は俯いた。 「だあほめ…」 何を言っておるのだ、全く。いらぬ所にばかり、 妙な知恵を回しおって。 「何を。貴方の為じゃないですか」 にっこり笑い、そして並んで鏡を覗き込む。 「今日も一日、恋人のお役目、頑張りますね」 鏡を覗き込む二つの顔。 でもそれは、何故だろう、酷く傷ついて見えた。 某山下和美氏(だったかな?)の コミックスより、一部ネタを頂きました 2003.09.20 |