True Hearts
<中編>





「おはようございます、師叔」
朝一番、執務室へ向かう途中の廊下。 かけられた声に振り返ると、朝から爽やかさ一杯に溢れる、とびきり綺麗な笑顔が迎えた。
「おはよう、楊ぜん」
いつもは部屋まで太公望を起こしに来ていたのだが、 先日言われて以来、楊ぜんはそれを控えるようになった。その代わり、 こうして執務室へ向かう廊下で、毎朝迎えてくれるようになる。
しかし今朝はまた、 随分機嫌が良さそうじゃないか。
「おぬし、朝から元気だのう」
「そうですか?」
すっきりした顔を一瞥して足を進める太公望の横、 楊ぜんは並んで歩き出す。
そして。
(朝一番に、師叔に会えた)
頭の中に響く声に、太公望はぎょっとした。
(よかった、今朝は寝坊されなかった)
思わず隣を振り仰ぐ太公望に、楊ぜんは不思議そうににこりと笑う。
「どうかしましたか?」
「あー…いや、その」
何でもない。
そうか、今のは楊ぜんの心の言葉。 つけっぱなしにしていたのですっかり忘れていた。
自分の耳には、 普賢から貰った宝貝ピアスがついているのだ。
ちらり、と視線を向けると、 楊ぜんの耳にも赤い石のついたピアスが、小さく光を受けてきらめいている。 普段は長い髪に隠れ、耳など見えないはずなのだが、今日は青い髪を一つに束ねていた。
太公望としては、何だか悪戯を人目に見えるところに公開しているようで、 内心どうにも居たたまれない。
「あー、今日は、髪を結んでおるのだな」
「ええ、まあ」
昨日貴方が仕事をサボりましたからね。今日はその分も含めて、 しっかり気合を入れなくてはいけませんから。
(本当は、違うんだけど)
(だって、折角師叔がくれたピアスをしているから)
(師叔とおそろいのピアスだから)
(ちょっと見せ付けたい気持ちで…なんだけどね)

ストレートに頭に響く声に、訳も無く気恥ずかしさが沸き立つ。
こやつ、こんな事を考える男だったのか?せめて自分の悪戯の証拠だけでもと、 太公望は自分の耳にかかる髪を、ピアスを隠すように撫で付けた。





「あれー、楊ぜんさん、ピアスなんてしていたさ?」
最初に気がついたのは、天化だった。 今日は武王が溜め込んでいた仕事の手伝いに、珍しく執務室に同席している。
「ん、まあね」
どこか嬉しそうに笑顔を返し、楊ぜんは墨の乾いた書簡を束ねた。
ふうん、今まで全然知らなかったさー。天化は興味深々に、楊ぜんの耳元を覗き込んだ。
「俺っちが気付かなかっただけなのかな」
今日は髪をまとめているから、たまたま目に付いただけで。
「王サマ、知ってたさ?」
「俺はヤローの耳なんて、興味ねえの」
可愛いプリンちゃんの耳だったら、 バッチリ覚えているけどな。面倒臭げに顔を上げて楊ぜんへと視線を移し、 ふうんと軽く頷く。
「…ま、確かにこうやって見たら、結構目立つよな」
その赤いピアスは。
執務中に彼が髪を束ねる事は、別に珍しい事でも何でもない。 しかし改めてみると、今まで全く気付かなかったのは迂闊とも思えるぐらい、 小さなピアスは自己主張している。
二人のまじまじとした視線を受け、 楊ぜんは自らの耳朶に指を当てた。
「…初めてつけるピアスだから、かなあ」
何気ない風を装って、斜め向かいへと視線を送った。その席、ちょこんと座る太公望は、 話を全く聞いていないように、手元の書簡へ黙々と筆を走らせている。
「大体さあ。赤い石のピアスってのが、おかしいんだよ」
墨を含ませた筆の先をぶらぶらさせて、武王は片眉を吊り上げて変な顔をして見せた。
「赤がいけないのかい?」
いささかむっとした声で反論すると、 いやそうじゃなくて…と首を振る。
「目立つんだよ、単純に」
髪の色といい、瞳の色といい、服の色といい、何かとブルー系の色で統一された楊ぜんだ。 もしこれが青い石のピアスであったなら、他の配色に溶け込んで、 意識を引き付ける事は無かっただろう。
しかし、小さいとは言え際立った色が一つ加われば、 白い紙に落ちた墨の一点のように、無意識に視線が引き寄せられてしまう。
「珍しいよなあ、おめえが赤を身につけるなんて」
「楊ぜんさんなら、 青い方が似合いそうだかんねー」
何で、赤いピアスなんかしてんのさ。 率直な感想と疑問をぶつける天化に、悪意は露程も無い事は判るのだが。
「良いじゃないか、赤は好きな色なんだ」
(赤は嫌いじゃない)
(だって赤は、師叔の髪の色だし)

不機嫌そうにきっぱりと言うと、そっと太公望を垣間見た。 無視を決め込んでいるのか、端から聞いていないのか、彼は黙って俯いて書簡を捲っている。
(師叔、気を悪くしないかな)
(でも、僕は本当に、 この赤いピアスがすごく気に入っているんだ)
(自分が身につけるには珍しい色だから)
(だからこそ余計に、特別な感じがするじゃないか)

「逆に目立って良いだろう?」
だからこそ、皆このピアスに気が付いたんじゃないか。 そう言われれば、まさにその通りなのだが。
(それに、師叔は青いのをつけてくれているし)
(僕と師叔、 お互いの髪の色をつけているみたいだから)
(二人で対になっているみたいだから)

「なあなあ。それさあ、誰かに貰ったんじゃねえの?」
もしかして…だけどさ。
にやりと笑って告げる武王の指摘に、天化が興味を示した。
「何でさ、王サマ」
「…もし楊ぜんが自分で選ぶんだったら、赤じゃなく青い石を選んでるような気がするんだよな」
俺様の王としての勘?みたいなヤツだけどな。
「それって、 誰かからのプレゼントっつー事かい?」
「恐らくな」
悪戯を考え付いた悪餓鬼のような笑みで頷く。
周城へ楊ぜんがやって来て以来、 城中の女官達の話題を掻っ攫った彼に、プレゼントを贈る女官は少なくは無かった。 しかし楊ぜんがそれらを受け取ったという話は、今まで聞いた事が無い。
つまり、つまりだ。
「もしかして、所謂本命からのプレゼントなんじゃねえの、そのピアスはさ」
だったら全て、納得がいくじゃないか。
「ええっ。楊ぜんさん、それ本当さ?」
「なあ、そう思わねーか、太公望ー…」
そちらに座る軍師に話を振って、武王ははた、 と固まった。
俯いて黙々と書簡と格闘している太公望から覗く、 微かに赤くなった小さな可愛い耳朶。そこには楊ぜんのピアスと同じ形で色違いの、 小さな青い石のピアスがきらめいた。
「…太公望、もしかしておめえ…」
そうだったのか?
顔を引きつらせる武王に、がばりと太公望は顔を上げた。
「ち、違うのだ、変な勘違いするでないっ」
そんな意味でピアスをつけている訳では、 決して決して無いのだから。
だからと言って本来の意味を、 楊ぜんのいるこの場で伝える事も出来ず、あわあわと慌てふためく太公望に。
「仙界で流行っているものなんだそうですよ、このピアスは」
ねえ、師叔。
「何でも、願い事が叶うピアスだそうです」
昨日師叔が仙界へ帰った時、 手に入れたものなんだ。だから元々形や色にバリエーションがあるものではないし、二人、 ペアを狙った訳では無い。
「へええー、仙人サマでも、そんなもんを信じるんだなあ」
楊ぜんの説明に、感心したように武王は声を上げた。
不老不死で不思議な力を持っている、 そんな雲の上のような人でもおまじないを信じるものなのか。
「あれー、でもそれってさ、 いつ頃から流行ってるさ?」
俺っちがこの前仙界に帰った時には、全然気がつかなかったけど。
きょとんと目を丸くする天化に、太公望はぎょっとする。
「じ、実はわしも昨日、 初めて知ったのだ」
もしかすると、つい最近流行りだした物なのかもしれんのう。 それにおぬしの師匠道徳は、こういった物にあまり興味を持つ方ではないからな。
その指摘には、妙な説得力がある。
「でもさ。いいなー、そのピアス」
俺っちもそのおまじないのピアス、欲しいかも知れないさー。
「師叔、俺っちにもおんなじピアス、貰ってきて欲しいさ」
「おぬしは、ピアスの穴なぞ開いてないであろうが」
「でもさ、 願いか叶うかもしれないさ?」
だったらものは試しである。わざわざ耳に穴を開けずとも、 服につけるだけでも効果はありそうだ。
「あ、俺も欲しいな、そのピアス」
仙人達が信じるくらいなら、それなりに信憑性がありそうだ。
「今度、仙界へ帰ったらさ、 俺の分も持って帰ってきてくれよ」
(引き受けないで、師叔)
(これは、僕にだけのプレゼントに留めて下さい)

なあなあ、他にどんな色があるさ?出来るだけ、いっぱい貰ってきてくれよー、 可愛いプリンちゃん達にも、配ってやんなきゃいけねえしな。だったら、 俺っちも兄弟達にあげたいさー。
(だってこれは、二人の揃いのもなんだから)
(僕と師叔、二人だけの)

「あーっ、もうっ。やかましいっ」
椅子をひっくり返して太公望は立ち上がり、 真っ赤な顔でびしっと武王を指差す。
「今日はおぬしの仕事を手伝う為に、 わざわざここに来ておるのだぞ」
本来ならば、自分の執務室で仕事をするのに。
「わ、わりい…」
「もう知らぬ。後は楊ぜんに手伝って貰えっ」
わしは自分の執務室で、 一人で仕事をする。ばさばさと机の上に置いてあった書簡を抱えると、 足音荒く、武王の執務室を出て行ってしまった。
後に残された三人は、 呆然とそれを見送る。
「…なあ、何で急に怒っちまったんだ?」
あんなに顔を真っ赤にしてさ。
「…さあ」





いかん。どうもいかん。
中庭を横切る見通しの良い廊下を歩きながら、太公望は溜息をついた。
なんなのだ、こっぱずかしいことばっかり考えおって、あれでも本当に天才か? 天才だと自分で言い切るなら、もっと天才らしい事だけを考えておれば良いのだ、だあほめ。
第三者が聞けば、理不尽極まりない思考に没頭する太公望に、四不象は複雑な顔をした。
「ご主人、機嫌が悪いっスか?」
「む?」
ふよふよと隣に並ぶ騎獣に、 太公望は眉間に皺を寄せたまま顔を向ける。
「…やっぱり、機嫌悪いっスね」
「そんな事無いぞ」
顔に手を当て、むにいっと自分で頬を引っ張って笑ってみせた。 間抜けなその顔に、四不象は重い溜息をつく。
「機嫌も、まあ悪くなるわ」
本来ならば次期王の教育も兼ねて、一日武王の部屋で執務をする予定だったのに、 結局自室に一人で籠もる事になってしまったのだ。
「でもどちらにしても、 ご主人の仕事っスからね」
「楊ぜんと天化に、わしの分を手伝わせようと思っておったのだ」
「勝手に出てきたのはご主人っスよ」
「…おぬしも小言が多くなったのう」
だから頑張って、今までしっかり仕事をこなしたではないか。昼休憩まで延期してのう。 全く、長時間のデスクワークは、老体には辛いわい。
午後の太陽を見上げ、 あーあ、と太公望は溜息をついた。
とんとんと自分の肩を拳で叩き、そしてふと、 向こうにある人だかりに気が付く。
「…なんじゃ、あれは」
「楊ぜんさんみたいっス」
どうやら、 休憩時間に楊ぜんは哮天犬のブラッシングをしていたらしい。
それを見かけた女官が一人、また一人と声をかけ、あっという間に膨れ上がったようだ。
「楊ぜんさん、人気あるっスからねー」
仙界でもそうだった。華のある彼の噂は、 そちら方面に興味の無かった太公望の耳まで、幾度となく届いてきた。
あの頃は、あまり洞府から出る事が少ない道士と聞いていたから、 単に皆珍しがられているんだろうと思っていたのだが。
「ま…やはり、顔か」
「そんな事無いっスよ」
楊ぜんさんは、とっても真面目で優しい人っス。
この間太公望がサボっていなかった時だって、ものすごく心配していたし、 不在の軍師に代わって仕事をこなしていたのだ。頭も良くて親切で、 真面目で仙道としての能力も抜きん出ている。これだけ条件が揃えば、 人気があるのは当然だろう。
「ご主人、ちょっとは楊ぜんさんを見習って欲しいっス」
ちろりと視線を向ける四不象に、しらばっくれた顔で遠くを見て。
「…ま、口に出さないだけで、 頭の中では何を考えているやら…」
「何スか、それは」
(あ、師叔…)
耳元に響いた声に、太公望はぎくりと身を竦ませた。
「ご主人?」
怪訝そうにこちらを覗きこむ四不象の向こう、女官達の輪の中央にあった楊ぜんは、 どうやらこちらに気がついたようだ。囲い込む女官達の会話の合間から、 ちらちらとこちらを気にする様子が伺える。
(やっと執務室から出てきたんだ)
(昼休憩にも出てこなかったから、心配してたけど)

そう言えばこの中庭は、太公望の執務室の出入りが良く見える場所だ。 否、ここで彼がブラッシングしていたのは、単なる偶然かもしれないけれど。
(四不象と一緒か)
(何の話をしているんだろう)
(仕事の事なら、僕も聞いておいた方が良いんだろうけど)
(でも、もしそうなら、師叔の方から僕を呼ぶか)

結構な距離があるにもかかわらず、楊ぜんの心の声は、太公望の耳まではっきりと届く。
(参ったな、こんな所を見られるなんて)
(師叔にどう見られるかな)
(変に取られなきゃ良いけど)

矢継ぎ早に女官達に話し掛けられる中、苦笑を返しながら、 楊ぜんの心は全く別の事を考えているらしい。それを思うと、 嬉しそうに笑顔を浮かべている彼女達が、少々不憫にも思える。
(師叔はこっちに気付いているみたいだし)
(また嫌味な奴だって言われそうだ)
(それとも、少しは、やきもちを焼いてくれたりして)

「んな訳あるかっつーの」
「へっ?」
(そんな訳ないか)
「当然だ」
「何が当然なんっスか?」
(師叔の所へ行きたいけれど)
(どうしよう…切り抜けられない)
(ああ、もう。面倒臭いな)

「…ひっどい男だのう」
主人の呟きの意味が全く判らない四不象は、 頭の中を疑問詞でいっぱいにして首を捻る。
「…ご主人?」
さっきまで執務室に籠もりっきりだったし、ちょっと疲れているのだろうか。
「大丈夫っスか?」
「大丈夫だ」
何でもない。ぷい、と背を向けると、 そのまますたすたと歩いていった。
「ご主人?」
何を怒っているっスか。
慌てて後を追いかける声に混じって、もう一つの声が届く。
(行っちゃった…)
(傍に行きたかったのに)
(貴方の傍にいたいのに…)

「だあほが…」
何考えておるのだ、全く。





はっきり言って、恥ずかしいのだ、あやつの考えている事は。
太公望の結論はそれだった。
彼の根が素直な事は良く判った。高飛車に見えて、実は結構ナイーブな事も。 そこの辺りは納得しよう。
だが、しかし。
「何か…間違っておらぬか、あやつ…」
元々何を考えているか掴めない奴だった。おまけに、何か重要な秘密を隠している節があり、 その内容にある程度予測をしていたから。だから、彼が何を望んでいるのかきちんと理解し、 助けになってやれればと思ったのだ。
ちょっとした悪戯心も加担した事は認めるが、前提として、 彼の心の秘密を知りたかったからこそ、あのピアスを渡したのだ。
なのに、どうも違う意味での心の秘密を知ってしまったようである。
「本当は、 別のことが知りたかっただけなのにのう…」
とほほと肩を落とし、がっくりと脱力して、 執務机に体を伏せた。
幾らそちら方面に疎かろうと、朴念仁だろうと、鈍感だろうと、 流石にここまであからさまな心中を垣間見れば、それなりに察する事が出来る。
あの綺麗な目が、見つめている先にあるものに…。
「わしは、 あやつを失いたくなかっただけなのだ」
封神計画において、 彼の能力の高さは必要不可欠だから。だから彼の迷いや悩みや疑惑を、知っておかねばと思ったのだ。
そう、それだけなのだ。
「知りたかった事が、ちと外れただけなのだ」
ぽつりと呟き、はたと太公望は我に帰った。
執務机に預けていた半身を、むくりと起こす。
「そうだ…本来の目的を、とっとと果たせば良いのだ」
こんなどうでも良い事 (と切り捨てるのも、些か残酷かもしれないが)を聞くのではなく、要は核心を突けば良いのである。
本来の目的に関係するような会話を少し交わしてしまえば、根が素直なあの男の事だ、 すぐに判るだろう。そうすれば万事解決。必要なくなったピアスは、数日身につけた後は、 供養をしなくてはいけない、とか適当な事を言って取り返せば良い。
「なーにをぐるぐる考えていたんだ、わしは」
変な雑音ばかりが気になって、 肝心の目的を忘れてしまう所だった。
それによく考えてみろ。 あやつは確かに恋する少女のような事ばかり考えているようだが、 その気持ちを確定するような単語は、今まで何一つピアス越しに伝わっていない。 もし本当に太公望の察しが的外れでないのなら、あの気障ったらしい楊ぜんの事だ、 もっとはっきりとした決定的な言葉の一つぐらい、出てきてもおかしくはない。
逆にいえば楊ぜんは、心の中でさえそれを口にしていないのだから。
「…わしの勘違いっつー事だってあり得るのだ」
急にすっきりした気持ちになると、 とう、と、部屋の隅に置いてある休憩用の長椅子に、小さな体を横たえた。
「考えすぎて、ちと頭が疲れたわい」
わしも大概間抜けだのう。うーんと伸びをして、 全身の力を抜くと、気が抜けたのか睡魔が訪れる。それに抵抗する気も起きず、 そのまま惰眠を貪ろうと目を閉じた。
静かな執務室で、うとうととしかけた頃。
「師叔」
控えめなノックと共に、扉越しに声がかかった。
耳に馴染みのある声に、それが誰のものかを直ぐに悟った。 しかし夢と現を行ったり来たりする意識の中で、返事をするのも面倒臭く、 そのまま眠りに身を任せようと判断する。
きい、と扉の開く小さな音。
「眠ってらっしゃるんですか?」
(全く、本当に寝汚いんだから)
余計なお世話だっつーの。勝手に耳に入ってくる声に、無意識に心の中で反論しつつ、 それでも閉じた目を開けずに放置する。
大事な用があるなら起こすだろうし、 急ぎでなければメモでも残して去るのが楊ぜんの常だ。
「書類、置いておきますね」
眠る人間には聞こえないであろう、気を配られた小さな声。
どさりと机に重い何かが置かれた音、 そしてそっと近づく澄んだ仙気。
(周公旦がここに来る前に、また起こしに来なきゃ駄目だな)
(しょうがない人だ)

夢の中へと落ちる一歩手前、見下ろしてくる人の気配に、意識が僅かに引き止められる。
そして体の上に、ふんわりと何かがかけられる感触。毛布か、彼の肩布だろうか。
(眠っている時は、本当に子供みたいに無邪気な顔になる)
(…かわいいなあ)

宥めるように優しげな指先が、そっと髪をかき上げた。
そう言えば子供の頃、 眠る前に母が同じ事をしてくれたっけ。そんな懐かしい記憶に、何となく頬が緩んだ。
(あ、笑った)
(夢でも見ているのかな)

そうかもしれない。夢と現実の狭間で、楊ぜんの心の声に同意する。
(…師叔)
(もう少しだけ…こうして触れさせてくださいね)

指先で髪を梳き、優しく手の甲で頬を撫でる。感触を楽しむようなそれは、とても心地良かった。
(もっと…もっと貴方に触れたいけれど)
(でも、今はまだ、これが精一杯だから)
(ねえ師叔…)

柔らかい何かが、そっと額に当てられる。


(好きです)
(貴方を…愛しています)












音を出さないように、細心の注意を配られて、執務室の扉が閉じられた。
同時に、我慢しきれずぱちりと太公望は目を開く。かあっと赤くなる頬を自覚し、 動揺を押さえつけるように胸元を握り締める。
どうしよう、どうしよう、どうしよう…。
うるさいくらいに脈打つ心臓は、いつまでも治まらなかった。








時期設定が微妙にあやふやです…やべえ(汗)
2003.06.09







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